第103話 〈黒翼〉の敗北
〈黒翼〉本拠地──地下都市〈アブゼロス〉。
幹部たちが集う、冷たく沈んだ石の大広間に、不吉な報せが届いたのは、まさに儀式の再検討会議が開かれていた最中のことだった。
暗き炎に揺らめく会議室。老魔導士が、虚空に浮かぶ水鏡に視線を注いだ。
「……エリオットが、死んだだと?」
沈鬱な沈黙を破ったその声は低く、枯れた響きであったが、その言葉には底知れぬ怒りが宿っており、瞬間、空気に走った魔力のうねりはあまりにも重く、全員の肺を圧迫するかのようだった。
老魔導士の半面は仮面に隠され、露わになった皺だらけの口元は、微かに引き攣っている。
「奴は〈聖騎士〉としての素質を持つ故に、〈暗黒騎士〉へと転化させた。そして、我らの悲願の〈鍵〉となるはずだった……それを、レオンとやらが?」
床に跪く通信士の幻影──鉱山跡に忍ばせていた監視用の魔道具からの映像を中継するその男は、蒼白な顔で声を絞り出す。
「はっ、既に確認済みですが……鉱山内部に配置していた『監視眼』の最後の記録によれば、現場にはレオン・アルテイルが単独で突入。我らの儀式は何度試みてもすべて失敗。エリオットは〈暗黒騎士〉としての闇の負荷に耐え切れず、レオン・アルテイルとの戦闘により死亡が確認されました」
別の通信士も報告を続ける。
「それから……その場にいた幹部や儀式の術者たちは、儀式の反動で行動不能に、末端の構成員もほぼ全滅、あるいは捕縛された模様です」
幻影越しに流れる映像は、鉱山深部で燃え盛る魔力の残滓──そして、地に伏した幹部たちの姿。
その中心には、剣を手にしたレオンの影が、静かに立ち尽くしている。
会議室に、重苦しい沈黙が落ちた。
だが、次の瞬間──
「馬鹿なッ!」
老魔導士が激昂とともに魔杖を叩きつけ、黒炎の柱が空間を焼いた。
石床は裂け、天井の水晶灯が砕け散る。
幹部たちが次々に顔を引き攣らせ、身を縮める。
「……我ら〈黒翼〉が、たかが雑草に過ぎぬ小僧に、これほどまでに遅れを取るなど……あり得ん……!」
「落ち着け──」
老魔導士の呻きにも似た叫びを、冷ややかに遮ったのは、ただ一人の女だった。
その名は──黒羽ノ令嬢。
静かなる氷のような声音が、会議室の緊張を一変させる。
エリオットの母にして、幹部の中でも特異な地位にある存在。
レオンとは血の繋がりはないが、かつてアルテイル家に深く関わっていた女だった。
銀の髪、紅の瞳。その身にまとわりつく気配は、人ならざるもの。妖艶でありながら、どこか凍てつく死を思わせる。
彼女は崩れた床も、ざわつく幹部たちも一瞥すらせず、ただ淡々と命じた。
「全軍に通達。〈アブゼロス〉は現時刻をもって即時放棄。幹部が多数捕縛された以上、ここはもはや安全とは言えぬ」
「……それは……!」
幹部の一人が蒼白になり、声を上げた。
「ま、まだ早計です! 拠点移動となれば、我らの儀式設備は……! そして、捕縛された連中も、全員が情報を漏らすとは限らぬはず──」
「……甘い」
黒羽ノ令嬢の瞳が、ゆっくりとその幹部を捉えた瞬間、空気が凍りついた。
まるで心臓を直接握られたような、冷たい圧迫感。
「捕虜の数を見ていないのか? 尋問され、口を割る者は必ず出る。王国が黙って我らを見逃すと思うか?」
「し、しかし……」
「確実にここにやって来るであろう」
声は静か。だが、その裏に潜むのは異常なまでの冷徹な確信。
全てを見透かすかのような、底なしの冷たさだった。
「……新たな拠点は?」
「次の拠点は“南方の旧聖堂”。黒き楼閣〈アスフォデル〉へ。あそこは、限られた者しか知らぬ。王国も帝国も、聖教国ですら探知していない。〈冥主〉には私から話す。急げ、王国の連中に何も与えてはならぬ」
誰も逆らえなかった。
老魔導士ですら、歯噛みしながらも沈黙する。
「捕らえられた者たちを密かに監視せよ。可能であれば魔導士を優先して救出せよ。中には命惜しさに口を割る者もいよう。その際は速やかに処分せよ。情報は秘匿するのだ」
この上なく冷酷な指示。だが、組織を守るための適切ともいえる指示。
「し、しかし……」
「命令だ」
それ以上の抵抗は許されなかった。
黒羽ノ令嬢は、ふと虚空に視線を向ける。
まるで、鉱山跡にいるレオンを直接見据えているかのように。
「レオン……。貴様、神の器でもない癖に、我らの計画を崩すか」
その声に感情は乏しい。だが、だからこそ恐ろしい。
静かな水面に潜む深淵のような、底知れぬ怒りが滲む。
彼女の背後。
影の中から、じわりと滲み出るように現れる黒衣の集団──“影の使徒”たち。
言葉もなく、ただ命令を待つその姿は、まさに“死の軍勢”だった。
沈黙の中、彼らは次なる命を待つ。
「我らは退かぬ。儀式は繰り返される。次こそ──必ず“真なる神”をこの地に降ろすのだ」
その宣告は、闇の中に響き、やがて組織全体に広がる。
こうして〈黒翼〉は、敗北を受け入れつつも、執念深く動き出す。
より深き闇へ──新たなる災厄の胎動が、静かに始まっていた。




