第1話 日常
レオンの朝は早い。
屋敷の裏手、使用人小屋の脇を抜けると、訓練場が広がっている。粗末な木人と、土の削れた地面。貴族の名を持つ家の訓練場とは思えないほど、設備は古びていた。だが、レオンにとっては、彼が思う存分剣を振るえる唯一の場所だった。
朝霧の中、レオンは一人、木人の前に立つ。
古びた剣を構え、息を整える。
踏み込み、斬り下ろし、引き、また構える。
一つ、二つ、三つ──
誰にも見られず、誰にも評価されないまま、彼は何度も動きを繰り返した。そうして自分の中に刻み込んでいく。正しい姿勢、重心の移動、間合い。
剣なんて誰にも教えてはもらえなかった。兄の訓練を遠巻きに見て、兵士たちの稽古を陰から覗き、真似をして、試して、失敗して、また繰り返した。それが彼の剣だった。
やがて、背後から砂を踏む音がした。
「チッ、また先に始めてんのかよ。この̇卑怯者め」
兄、エリオットの声だった。
一年違いの兄は、正妻の子であり、家督を継ぐ立場にある。顔立ちはそこそこだが、体型は肥満体型。ここだけの話、太っている兄を、豚、オーク君などと、心の中で呼んでいるのはレオンだけの秘密だ。
対してレオンは妾腹の子。それも平民出身の母だった。父が火遊びの果てに手を出した相手で、後に妾として引き取られた。その母親も、レオンが四歳の時に病で亡くなった。今となっては記憶もほとんどない。当然、庶子であり、家督どころか何一つ得られないことは理解していた。
兄に比べて瘦せ型ではあるが、毎日欠かさず剣の訓練をしているせいか、それなりに筋力はある。誰に言われたわけでもなく、それでも剣を取るのは、自分の存在を確かに刻みつけるためだった。
エリオットの剣は新調された上質なもので、金の装飾が施され、鞘にはアルテイル家の紋章が刻まれていた。だいぶ前にあつらえたものなのに、まともに使いもしないせいで、いつまでも新品のように綺麗なまま。
一方、レオンの剣は兵士の使い古し。革巻きはほどけかけ、鍔も歪んでいる。たまに森で狩った獲物を代金に、領内の鍛冶屋で簡単な手入れをしてもらう。もちろん日々自分でも手入れを欠かさない。
レオンは兄の言葉を無視し、剣を止めず、木人に向けたまま考える。
(……何が卑怯なんだよ、自分がいつも寝坊してくるくせにさ)
まだ誰も来ない時間に、ただ剣を振っていただけ。兄のように補助を受けているわけでもない。特別な稽古も与えられていない。自分の力だけで、少しでも前へ進もうとしているだけなのに。
「そんなボロ剣でどれだけ振ったところで無駄さ。“スキル”がもらえなきゃ、意味ないからな」
エリオットが鼻で笑い、剣を軽く振る。彼の訓練はいつも形だけだ。型を数度なぞったあと、すぐに欠伸を噛み殺して腰を下ろす。まともに訓練をやりもしないくせに、人を卑怯呼ばわりするとか、馬鹿なんじゃないのか。
だが、それを咎める者は誰もいない。
父も、騎士も、使用人も。
“次期当主”には、初めからふさわしい場所が与えられていた。
(……全く、うるさいオーク君だ。大きなお世話だっての。やらないなら来るなよ、気が散るし、邪魔なだけだから)
レオンは心の中で毒づいた。だが、言葉には出さない。
ただ静かに剣を構え直す。構え、踏み込み、斬り下ろす。
(……まだだ。もっと深く。もっと速く)
すり減った足裏で地面を蹴り、重心を滑らせ、腕を伸ばす。
別に誰にも認められなくてもいい。
そもそも認められるためにやっているわけではないのだ。
この一振りが、自分の道を切り拓くための礎になる──
その思いだけが、彼を動かしていた。
◆
訓練を終えた兄弟は、屋敷の食堂へと向かった。
天井が高く、石造りの壁に古びた絵画が掛かる広い部屋だが、冷たさばかりが目立つ。
父と正妻、執事は既に席に着いていた。
エリオットは父の隣、上座に近い席へ当然のように腰掛ける。
レオンは一段下がった末席。使用人が椅子を引いてくれることもない。
やがて、朝食が運ばれた。
兄の皿には分厚い焼きベーコンに黄身の濃い目玉焼き、温かなスープ、ふかふかのパンが二つ。
一方、レオンの皿には乾いたパンが一つと、水のように薄い野菜スープ。肉の欠片すら入っていないのはいつものことだ。また森に狩りにでも行ってみよう。
兄がパンをちぎりながら、わざとらしくこちらを見る。
兄の皿からは、焼きベーコンが香ばしい匂いを放っていた。
その脂を口元に垂らしながら、エリオットが満足げにしゃぶりつく。いつものことながら食べ方が非常に汚い。テーブルにも脂が跳ね、パン屑が落ちている。
(……もう少し上品に食べられないのかね? これでも貴族のくせに。あ、オークだったか)
父は無表情のまま食事をし、正妻はレオンなど見えていないかのように振る舞う。これまた何も言わない。当然レオンも反応しない。ただ黙ってスプーンを口に運んだ。ぬるい。
(……こんなこと、今に始まったことじゃない)
味気のないスープを啜りながら、レオンは心の中でだけ、呟いた。
(鍛錬を怠らないのも、無駄だと笑われるのも、こうして冷遇されるのも──)
だけど、耐えるのは悔しさを飲み込むためではない。「今に見ていろ」という炎を、内に灯し続けるためだった。
パンの端を噛みちぎりながら、レオンはふと思い出す。
この国では十歳になると、教会の儀式で“スキル”を授かるとされている。神がその者の素質を見極め、ふさわしい力を与える。それが、この世界の理だった。
あと二年で、彼も“神の審判”を受ける年齢になる。
農民には耕す力を。商人には計算の才を。
戦士には武技のスキルを。魔導士には魔法の適性を。
それが“神意”であり、抗うことはできない。スキルの有無、そして種類。それだけで人生のほとんどが決まってしまう。貴族であろうが、平民であろうが、そこに例外はなかった。
(……僕にも、何か授かるだろうか)
不安が、ふと胸をよぎる。けれどすぐに、レオンは首を小さく振った。今、考えても仕方のないことだ。今は目の前の剣を磨くしかない。
「十歳になれば、スキルの授与か……」
と、肉を片手に、汁を飛ばしながらエリオットは言う。そしていつもの、中身のない会話が繰り返される。何度目かはわからない。よくも飽きないものだと感心すらする。
「俺はきっと、将来、上級職になれるスキルだろうな。なあ父上?」
「お前にはその資格がある」
父は目を向けず、ただ小さく頷いた。
父の言葉に、兄は満足げに鼻を鳴らした。ますますオークに見えてくる。
そこへ母親も参戦する。
「当然でしょう、どこぞの平民の子とは血筋が違いますからね」
(うるせぇよ、クソババア)
レオンはこの女が嫌いだった。貴族であることを鼻にかけ、事あるごとにレオンと、その母親に嫌がらせをしてきた。
頻繁に王都に出かけており、姿が見えない時が多い。遊びにでも行っているのか。どうせろくなことはしていないだろう。エリオットは不思議がっていたが、父親は何も言わなかった。おそらく怖くて何も言えないのだろうとレオンは推察している。
正妻の言う通り、確かに高位のスキルというのは貴族に多い。平民から出ないこともないが、圧倒的に少なかったから、皆がそう思うのも無理はない。
(……資格、か)
レオンはスープを啜りながら、父の言葉を心の中で反芻する。
(……スキルって、そんな風に決まるものなのだろうか)
生まれ、地位、家への期待。それらで結果が約束されるなら、努力など無意味だ。
けれど、レオンは信じている。誰にも見られなくても、認められなくても、積み重ねた日々は自分を裏切らないと。
神が与えるとされる“スキル”。人はそれを絶対のものとして受け入れ、それによってすべてを決める。職も、生き方も、尊厳までも。
(……でも、どうして神が決めるのだろう?)
レオンは自分でも戸惑う。そんな疑問を抱くこと自体、この世界では“不敬”にあたることは知っていた。それでも心の奥底では、小さな違和感がいつも燻っていた。
(努力も、意志も、何の意味もないのか……?)
その答えは、まだわからない。
だが 、だからこそ、レオンは今日も剣を振る。神に見捨てられても、自分で進む道を切り拓けると信じて。
この国には厳然たる身分制度がある。
レオンたちの家、アルテイル男爵家は、辺境を治める最下級の貴族。王都の上級貴族から見れば、半ば農民に毛が生えた程度の地位でしかない。だが、もし上級職につけるスキルを授かれば、話は別だ。
スキルは血筋を超え、身分の壁を越える唯一の希望。その力を得た者は、王の近衛となり、中央の宮廷へも昇ることができる。父が兄に期待するのは、そういう夢があるからだ。家名のため、己の名誉のため。スキルは、それほどまでに重い意味を持つ。
その父もかつて、教会でスキルを授かった。それは〈剣士〉のスキル。戦うためのスキルではあったが、特別なものではなかった。どこにでもいる、凡庸な戦士のための職。だが〈剣士〉では中央での出世は望めず、父はそのまま辺境の地に封じられた。
それでも与えられないよりは、ずっとましだ。だからこそ、父は長男に期待している。自分が果たせなかった夢を、息子に背負わせているのだ。上級職を得て王都へ。それは、一族の名誉であり、埋まらぬ過去への執着でもある。
(……家のことなんて、僕には関係ないことだね)
レオンは残りのパンをゆっくりと齧りながら、そっと目を伏せた。