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加藤誠の中にいる「君」、それは、外界から身を隠し、自らの過ちと向き合う(あるいは背を向ける)孤独な自己だった。その「君」は、トンネルの闇の中に、静かに息づいていた。
電車はトンネルの奥深くをゴオオオと唸りながら進む。外の景色は完全に遮断され、あるのは車内の人工的な光と、閉鎖された空間に反響する音だけだ。空気は少し湿っぽく、タイヤがレールを掴む振動が、直接体に伝わってくるように感じられた。
通路に立つ乗客たちの体が、電車の揺れに合わせて微かにバランスをとる。その中に、一人、少しぎこちない動きの若者がいた。浅野拓哉。大学生だろうか、肩から斜め掛けにした大きな布製バッグが、彼の体の細さを強調している。夜遅くまでのアルバイト帰りなのか、その顔には疲労の色が滲んでいた。彼は、バッグが他の乗客に当たらないように気をつけながら、揺れに耐えて立っていた。
その時、電車がトンネル内のカーブに差し掛かり、一瞬、予想外の大きな揺れが生じた。
浅野拓哉の体が大きく傾ぎ、バッグが隣の座席に座る人物に当たりそうになる。咄嗟にバッグを庇い、さらに体がぐらつき――彼は、通路側の座席に座る人物の肩に、軽く、しかし確かにぶつかった。
ぶつかられたのは、少し前に内なる怒りを抱えていた池田剛だ。彼の顔は、先ほどまでの怒りの熱が、まだ微かに残っているように見える。不意の衝撃に、彼の体がピクリと反応した。
「あ…すみません!」
浅野拓哉は、声にならないほどの小さな声でそう呟き、慌てて一歩下がる。そして、恐縮したように、頭を下げた。制服姿ではないが、まだ学生らしい、どこか頼りない会釈だった。彼の目は、相手の反応を恐れるように、チラリと池田剛の顔を見た。
池田剛は、何も言わなかった。トンネルの闇、電車の騒音、そして内側にくすぶる怒り。その全ての中で、この不意の接触と、目の前の少年の萎縮した様子が、一瞬、新たな苛立ちの火花を散らす。舌打ちしたい衝動を、寸前で飲み込む。彼の目は、一瞬だけ少年の顔を捉え、すぐに逸らされた。その視線には、何の感情も乗っていないように見える。ただ、硬い、無言の会釈を返した。それは、許容でも、赦しでもなく、ただその場をやり過ごすための、最小限の社交辞令だった。彼の内側にある嵐は、こんな小さな出来事では、決して鎮まることはない。
浅野拓哉は、その無言の反応に、さらに体が縮こまるのを感じた。相手の顔は、疲れているのか、不機嫌なのか、よく分からなかった。ただでさえ疲れているのに、こんな些細なことで相手を不快にさせてしまったかもしれない。心の中で再び謝罪しながら、彼はバッグを抱え直し、電車の揺れに耐えて立ち続けた。トンネルの闇が、自分の小さな存在をさらに押し潰すように感じられた。
池田剛は、ぶつけられた肩に微かな不快感を感じながら、再び正面に視線を戻した。あの少年の中に、自分の抱えるような激しい怒りはないだろう。あるのは、きっと自分とは違う種類の、弱さや恐れ。それは、ある意味で羨ましいことなのかもしれない。
トンネルの闇の中、二つの異なる世界の住人が、一瞬だけ、物理的に触れ合った。一方は内なる嵐を抱え、一方は内なる怯えを抱え。交わされたのは、無言の会釈一つ。しかし、その僅かな触れ合いの後、彼らは再び、それぞれの内なる宇宙へと深く沈んでいった。電車の揺れは続く。