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100人の電車  作者: どどんこ
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5

電車のドアがシュッと音を立てて閉まり、再び発車のベルが鳴り始める。ゆるりと体を揺らしながら、電車は新町駅のホームを離れていった。車輪が再び線路の上を加速するリズミカルな音が高まる。座席に座る者、立つ者、それぞれの体が、新しい区間へと向かう電車の動きに順応する。


その時だった。車内を照らす蛍光灯の光が、一瞬、強くなったように感じられた。窓の外の景色が、突然、音を立てて消えたかのように、濃密な闇に塗り潰されたのだ。


ゴオオオオ……。


電車の走行音が、これまでとは異なる、低く響く唸り声に変わる。まるで、巨大な獣の喉を通っているかのようだ。トンネルに入ったのだ。外の街の明かりも、空の色も、電車の影さえも、全てがなくなった。窓ガラスは、深淵のような黒一色となり、かろうじて車内の光景を歪めて映し出す鏡と化す。彩や美しさは完全に失われ、そこにあるのは、ただ閉鎖された空間と、音と振動だけだ。


この突然の、外界との遮断。それは、乗客たちの内なる世界を、闇の中で、より純粋な形で浮かび上がらせた。


通路側の席に座る清水麗子は、一切表情を変えなかった。トンネルの闇も、窓に映る自分の顔も、彼女にとっては取るに足らない。彼女の視線は、手元のタブレットの明るい画面に固定されている。画面には、複雑な数字の羅列、グラフ、そして「買」「売」の文字が、冷たい光を放ちながら瞬いている。彼女の内側は、外部の闇とは無縁の、研ぎ澄まされた戦略と計算の光に満ちていた。


この一時的なブラックアウトは、彼女の思考を邪魔しない。むしろ、外界の余計な視覚情報を遮断し、内なる演算に集中するのを助けるかのようだ。明日の重要な契約、ライバル会社の動き、数時間後の海外市場の開始。彼女の思考は、常に先を読み、最善手を計算している。感情の揺れは、雑音でしかない。窓の外の闇に、自分の映る姿を見るふりをして、彼女は次の指示をタブレットに入力する。彼女にとって、「君」とは、常に最大化すべき利益であり、支配すべき市場だった。その内なる「君」の光は、トンネルの闇をものともしない。


同じ車両の少し離れた場所で、小林吾郎は座席に深く体を沈めていた。作業着は土埃で汚れ、顔には深い疲労が刻まれている。トンネルの闇?ああ、そうか、トンネルか。彼の意識は、外界の変化にほとんど反応しない。


彼にとって、闇は慣れたものだ。夜勤の現場、まだ日の昇らない早朝の移動。このトンネルの闇は、彼の肉体の疲労をさらに濃くするだけのように思える。腰が痛い。肩が重い。全身が軋むようだ。トンネルの中で響く電車の音は、彼の疲労した身体の内側で響く鈍い痛みのようだ。彼の心は、清水麗子のような複雑な思考や、池田剛のような激しい感情の波とは無縁だ。あるのは、家に帰って熱い風呂にゆっくり浸かりたいという切実な願望と、もうすぐ二歳になる娘の寝顔を見たいという静かな愛情、そして明日もまた朝早く起きて、この体で家族を支えなければならないという、素朴で重い現実だけだ。窓の外は真っ暗だが、彼の内側には、家族の笑顔という小さな、しかし確かな灯りがある。それは、闇に消えることのない、彼の人生そのもののような灯りだ。


小林吾郎の中にいる「君」、それは、疲労と責任を静かに引き受け、ただ家族のために生きる、素朴で揺るぎない愛情だった。その「君」は、トンネルの闇の中で、小さな灯りのように瞬いていた。


トンネルの闇の中で、二つの全く異なる内面世界が、それぞれ独自の色を放っていた。一方は研ぎ澄まされた知性と野心の光、もう一方は疲労と家族への愛という小さな灯り。同じ闇に包まれながら、彼らは全く異なる「君」と共に存在していた。

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