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山口彩香の秘めた情熱が、小さな光となって彼女の心を照らしていた。しかし、この同じ電車の中には、また別の種類の灯を灯し、静かに、だが確かに自らをすり減らしている存在もいた。車両の中ほど、優先席のすぐ近くに座る木村美咲だ。彼女は、膝の上に置いた重そうなトートバッグを抱きしめるようにしている。スーツのジャケットはわずかに皺が寄り、その顔には、一日の疲れが色濃く滲んでいた。
疲労が、全身を蝕むように重い。朝からノンストップで働き、取引先との電話では理不尽な要求に頭を下げ、帰りの電車は連日満員。もう体が限界だ。駅に着いたら、まずは保育園に直行して、娘のひまわりを迎えに行かなければならない。今日のお迎えは、自分がギリギリ間に合う時間だ。ひまわりは、まだ保育園で待っているだろうか。
「ママ、今日ね、ねこちゃんの絵描いたの!」
耳の奥で、ひまわりの明るい声が聞こえる。毎日のように、保育園での出来事を瞳を輝かせながら話してくれる。その顔を思い出すだけで、体の奥から、温かい、しかし確かな力が湧いてくるのを感じる。スーパーに寄って、夕食の材料を買わないと。ひまわりは、今日はハンバーグが食べたいと言っていたっけ。疲れていても、手作りのものを食べさせてあげたい。それが、せめてもの罪滅ぼしのような気がした。
電車が揺れるたびに、眠気に襲われる。あと少し。あと少しで、自分の「君」が待つ場所へ。ひまわりが笑顔で抱きついてくる姿を想像するだけで、この鉛のような疲労も、少しだけ軽くなる。自分は、この小さな命のために生きている。その子の笑顔と、健やかな成長が、自分の全てだ。
木村美咲の中にいる「君」、それは、全てを捧げるべき愛しい娘であり、日々の疲労を乗り越える、確かな原動力そのものだった。その「君」は、彼女の心の中で、ひまわりのように明るく咲き誇っていた。
その時だった。これまで無機質に響いていた電車の走行音に、一瞬だけ明確な変化が生じた。僅かに速度が落ちたかと思うと、車内に澄んだ自動音声が響き渡った。
「まもなく、次の駅、新町、新町に到着いたします。お出口は左側です。お降りの際は、足元にご注意ください。」
アナウンスが流れると、車内には微かなざわめきが起こった。スマホから顔を上げた者、座席から立ち上がろうと身じろぎする者。そして、電車がゆっくりとホームへと滑り込み、停車すると、自動ドアがシュッと音を立てて開いた。ひんやりとした外気が車内に流れ込み、プラットホームの喧騒が耳に届く。
降りる人々の流れが途切れると、入れ替わるように数人の乗客が乗り込んできた。その中に、ひときわ小さく見える制服姿の少年がいた。藤田悠斗。線の細い体は、周囲の大人たちの間に埋もれてしまいそうだ。彼の目はうつむきがちで、大きなリュックを抱え込むようにしている。車内を見渡すと、空席はない。彼は、ドア付近の壁にもたれかかるように立っていた男、坂本竜司のすぐ隣の、わずかな隙間に、まるで身を隠すように立ち止まった。その存在は、この喧騒の中で、さらに小さく、縮こまっているように見えた。彼が抱えるリュックからは、今日学校で経験したばかりの、重い空気が漂っているかのようだった。
坂本竜司の視線が、無意識のうちにその少年へと向いた。細い肩、下を向いた顔。かつて、自分もああいう時期があった、と一瞬脳裏をよぎる。あの頃、自分を異物として扱う世間の目に、どうしようもない苛立ちと、同時に見えない恐怖を覚えていた。タトゥーを彫り、自らその「異物」となる道を選んだ今の自分とは、違う種類の痛み。彼は、ただ、誰にも気づかれずにいたいと願っているように見えた。
また、奇異な視線を感じる。特に、子供連れの母親が、慌てて子供の目を逸らすのが分かる。見慣れた光景だ。もう何年も、この「タトゥーの男」というレッテルを貼られて生きている。若い頃の勢いで彫り込んだ彫り物が、今では自分のアイデンティティの一部となり、同時に、社会との間に見えない壁を築いている。
この彫り物一つで、自分を判断する者たち。彼らは、自分がかつて、夜空の星の動きに魅了され、宇宙の神秘に心を奪われた、ごく普通の少年だったことを知らない。自分が、不器用ながらも愛する家族を支え、友のためなら身を削ることも厭わない人間であることを、彼らは知らない。彼らに見えるのは、皮膚の上に刻まれた色と線の羅列だけだ。
電車という空間は、ある意味で居心地がいい。皆が互いを気にしないフリをして、それぞれが個別の世界に沈んでいる。だからこそ、自分はここに「いる」ことが許されている。ホームで待つ人々の中には、自分を避けるように視線を逸らす者もいる。だが、それでいい。どうせ、俺の「君」は、あんたらに見えるもんじゃない。隣の少年も、似たような目をしてるな。自分だけの「君」を守ろうと、必死で。
このタトゥーは、過去の選択であり、同時に、自分を自分たらしめる記号だ。そこには後悔も、反骨精神も、そして誰にも理解されない孤独な美意識も含まれている。電車のドアが閉まり、再び発車のベルが鳴り始める。彼の心は、過去の残像と、現在を生きる自分自身との間で静かに揺れていた。
坂本竜司の中にいる「君」、それは、世間の目に縛られず、自身の過去と現在を静かに受け入れた、揺るぎない魂そのものだった。その「君」は、皮膚に刻まれた物語の奥で、深く息づいていた。