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100人の電車  作者: どどんこ
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3

その中で、自らの世界を積極的に遮断している人物がいた。通路を挟んで数席離れた場所に座る、藤本拓海、まだあどけなさが残る学生服の少年だ。彼は、大きなヘッドホンを耳に当て、その顔はスマートフォンの画面に吸い寄せられている。電車のガタゴトという騒音も、他の乗客の気配も、彼の世界には一切届いていない。完璧に、自分の内側に閉じこもっている。


耳の奥深くで、轟音とメロディが、世界の全てを塗り潰す。それはただの音ではない。彼にとって、この激しい音楽は、現実という名の戦場から一時的に退避できる、唯一の安全地帯だった。学校の教室で感じるあの居心地の悪さ、皆の視線が自分に向けられているような錯覚、何か発言すれば笑われるのではないかという恐怖。全てがこの音の壁によって掻き消されていく。ヘッドホンは、彼と世界との間に引かれた、見えない防壁だ。


スマホの画面では、自分が操る英雄が、剣を振るい、強大な敵を次々と打ち倒していく。現実の彼は、人前でどもりがちで、いつも自分の意見を引っ込めてしまうような、冴えない高校生だ。だが、この仮想世界では、彼は誰よりも強く、誰よりも勇敢でいられる。敵を倒すたびに得られる達成感が、現実では決して味わえない満足感を与えてくれる。この世界にいる時だけ、彼は真に「彼」でいられる。


隣に座るカップルの楽しそうな会話も、窓の外を流れる街のネオンも、彼の意識には入ってこない。電車の揺れが、この音楽のビートと一体となり、体を深く沈み込ませる。時折、窓に映る自分の姿を見る。ヘッドホンをつけた、どこか冷たい目の自分。それは、彼が必死で外界から守っている、本当の自分を隠すための仮面なのだ。


藤本拓海の中にいる「君」、それは、現実の軋轢あつれきから逃れ、傷つきやすい心を必死に守ろうとする脆さであり、同時に、爆音のベールの中で、静かに、しかし確かな自信を育む、もう一人の自分だった。その「君」は、誰にも見せることのない、彼自身の王国に君臨していた。


藤本拓海の世界は、そのヘッドホンの奥で、完璧に守られていた。彼のすぐ隣を、日常の気配をまとった乗客たちが通り過ぎ、電車の揺れが単調なリズムを刻む。その無数の個別の世界の中で、また一つ、別の種類の情熱に満ちた内側が、静かに息づいていた。


少し離れた座席で、山口彩香は、両手でスマートフォンを抱え込むようにして見つめている。その目は、画面の小さな文字と画像を、食い入るように追っていた。彼女の表情は、真剣そのものだが、口元には、時折、隠しきれない喜びの笑みが微かに浮かぶ。


「やばい、今回のグッズ、神かよ…」


スマホの画面に表示されているのは、来月開催される「スターライト・セブン」のライブツアーグッズ情報だ。限定ペンライト、メンバーカラーのマフラータオル、そして何よりも、推しメンであるアキラのソロショットが満載の生写真セット!朝から仕事で散々嫌なことがあったが、この情報を見た瞬間、全てが吹き飛んだ。ああ、なんてことだ、アキラのこの笑顔は、宇宙一の輝きだ。


彼女は、スマホを握る指に、興奮のあまり力がこもるのを感じる。この電車に乗っている他の誰一人として、自分のこの熱狂を理解できないだろう。彼らは皆、それぞれの日常の中に埋もれている。だが、自分は違う。「スターライト・セブン」という、眩しく、そしてどこまでも広がる世界に繋がっている。ツイッターのタイムラインは、すでに喜びと悲鳴で溢れている。同じ気持ちを共有する仲間たちが、画面の向こうに、世界のあちこちにいる。その一体感が、彼女にとって何よりも大きな安心感だった。


仕事でどれだけ理不尽なことを言われても、満員電車で嫌な思いをしても、アキラの歌声と笑顔があれば、乗り越えられる。彼らの楽曲が、どんな時も自分を励ましてくれる。この電車が彼らの音楽で満たされたら、どんなに幸せだろう。しかし、それはできない。だから、イヤホンで耳を塞ぎ、自分だけの空間で彼らの歌を聴く。


窓の外を流れるビルの灯りが、まるでライブ会場のペンライトのように瞬く幻想を抱いた。電車の揺れは、ライブの興奮で体が揺れる感覚に似ている。彼女は、アキラのソロ写真をもう一度拡大し、その完璧な笑顔に見入った。


山口彩香の中にいる「君」、それは、日常の喧騒から心を解き放つ、熱狂的な情熱であり、そして、画面の向こうで輝く理想の存在と繋がる、確かな絆そのものだった。その「君」は、秘めた輝きを放ち、彼女の心を躍らせていた。

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