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100人の電車  作者: どどんこ
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通路を挟んだ反対側の、数席後ろ。そこに座る阿部恵子は、その口元に、誰にも気づかれない、小さな、しかし確かな微笑みを浮かべていた。彼女の目は、どこか遠くを見ているようだが、その瞳には希望の光が宿っている。手に持った、ごく普通の紙袋を、少しだけ大切そうに抱きしめている。


今日の午後、信じられないことが起こったのだ。ずっと待ち望んでいた、でも半ば諦めかけていた吉報。トイレの小さな空間で見た、二本の線。その瞬間、世界から音が消え、次に、心臓が激しく脈打つのを感じた。喜び、安堵、そして未来への畏れのようなものが、体中を駆け巡った。今、この電車に揺られていることが、夢ではない現実なのだと、体の内側から湧き上がる温かい感覚が教えてくれる。


電車の中の騒音も、他の乗客の無関心な視線も、今は全く気にならない。全てが遠く、ぼやけて見える。ただ、自分の内側に宿った、小さな、かけがえのない命。その存在だけが、世界の全てだ。窓の外を流れる夜景は、いつも見ているはずなのに、今夜はまるで祝福の光のように輝いて見える。電車の規則的な揺れは、まるでゆりかごの揺れのように心地よい。


家に帰って、夫(健太)にどう伝えようか。驚くだろうか、喜んでくれるだろうか。その想像をするだけで、また自然と笑みがこぼれる。この小さな秘密を、まだ誰にも言えないことが、彼女の喜びをさらに特別なものにしている。この電車の中で、ただ一人、宇宙で一番幸せな秘密を抱えているような気分だった。手に持った紙袋の中には、証拠の検査薬と、小さな赤ちゃんグッズのカタログが入っている。それを抱きしめる手に、自然と力が入る。


阿部恵子の中にいる「君」、それは、奇跡のように宿った新しい命であり、未来への無限の可能性であり、そして、今この瞬間、世界で一番満たされている、内なる幸福そのものだった。


阿部恵子の周りには、祝福のオーラのようなものが微かに漂っている。だが、そのオーラは彼女の内側だけに閉じ込められ、誰にも感知されることはない。電車は走り続ける。それぞれの人生の物語が、見えざる層となって車内に積み重なっていく。


数席離れた場所に、別の世界に没入している人物がいる。吉田哲也、学生だ。彼は、分厚い哲学書に顔を埋めている。その眉根には、理解しようとする集中力が宿り、他の乗客や電車の騒音は、彼の意識から完全に締め出されているようだ。


ニーチェ。彼の言葉は、時に冷たく、しかし鋭利な光で、世界の深淵を切り裂く。今読んでいるのは「ツァラトゥストラ」。「神は死んだ」。その衝撃的な言葉が、彼の思考の中で反響する。もし絶対的な価値基準がないのなら、人間は何を拠り所に生きるのか?この電車に乗り合わせた人々、彼らの日々の悩みや喜び、怒りや希望。それらは、結局のところ、彼らが自分自身で作り上げた幻想に過ぎないのではないか?


電車というこの密閉された空間は、ある意味で人間存在のメタファーのように思える。決められたレールの上を進む。限られた空間に閉じ込められる。他の乗客たちは、それぞれが独自の「意味」を信じて生きているように見える。仕事、家族、恋愛、夢。だが、彼らの内側にある「君」は、本当に彼ら自身のものなのか?それとも、社会や文化によって植え付けられた概念に過ぎないのか?


窓の外を流れる夜景は、彼にとって具体的な風景というより、無数の「存在」の光の粒に見える。それぞれの光の中に、それぞれの「意味」を生きる人々がいる。だが、その全ては、宇宙的な視点から見れば、取るに足らない点滅なのかもしれない。彼は、書物の中の哲学者たちの言葉と、電車の物理的な揺れ、そして他の乗客たちの生々しい気配との間で、思考を巡らせる。身体はここに固定されているが、彼の意識は、遥か遠い、抽象的な概念の世界を旅している。他の乗客たちが、彼には時々、哲学の講義で学ぶ様々な「人間観」の具体例のように見えてくる。


吉田哲也の中にいる「君」、それは、真理を探求する純粋な知性であり、世界と自己との間に引かれた、どこか孤独な境界線だった。


吉田哲也の内側の、抽象的な思索の静けさ。それは、車内の熱や喧騒、そして他の乗客の内面に渦巻く生々しい感情とは、隔絶された世界のように思えた。


そして、ほとんど誰の注意を引くこともなく、車両の後方、ドアの近くの優先席ではない普通の席に、川口静香は座っている。地味な茶色のコートを着て、背筋を少し丸めている。視線は常に下がり気味で、他の乗客と目を合わせることはない。まるで、自分という存在が占める空間を、最小限に抑えようとしているかのようだ。彼女はそこにいる。だが、その存在感は、車内の空気のように薄い。


また、今日も誰ともまともに話さなかった。コンビニのレジの人と、会社の同僚に挨拶をしただけ。自分の声が、誰かの耳に届いているのだろうか?そもそも、自分はここにいるのだろうか?


子供の頃から、そうだった。クラスにいても、なぜか皆の視線が自分を素通りしていく。意見を言っても、他の誰かが同じことを言い直した時に、初めて皆が納得する。まるで、自分は言葉を発する幽霊みたいだ、と思ったことがある。


この電車の中も同じだ。大勢の人がいるのに、自分は一人ぼっち。隣に誰かが座ってきても、すぐにスマホを見たり眠ったり。別に話しかけてほしいわけじゃない。ただ、そこに「いる」ということを、誰か一人でいいから、認識してほしい。自分がこの世界に、確かに存在しているのだと、感じさせてほしいだけなのに。


窓の外を流れる街の光。たくさんの人々の生活の灯り。あの明かりの一つ一つの中に、きっと誰かに見守られている、誰かに必要とされている人たちがいるのだろう。自分は、あの明かりの外側にいる。電車の揺れは、自分がこの世界の流れに乗れていないことを突きつけてくるように感じる。


手に持ったカバンは軽い。心の中も、いつも空虚だ。何かを強く願うほどのエネルギーもない。ただ、ぼんやりと、誰かに「ああ、川口さん」と名前を呼ばれる日を夢見る。自分が、確かに誰かの記憶に留まる存在になる日を。


川口静香の中にいる「君」、それは、誰かに見つけられることを切望する、傷つきやすい自己存在だった。その「君」は、暗闇の中を漂う小さな光のように、か弱く瞬いている。


川口静香の孤独な光は、他者の視線に触れることなく、ただ、静かに燃え続けている。電車の規則的な揺れは、その光を揺らすことはあっても、消し去ることはない。車内の空気は、それぞれの内なる宇宙の息吹で満たされ、それは見えない膜のように、乗客たち一人ひとりを包み込んでいる。

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