表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
100人の電車  作者: どどんこ
2/16

1

車両の後方から、カチャ、カチャ、という控えめな音が聞こえてくる。その音に誘われるように、静かな存在感が浮かび上がる。窓際の一番端の席に、田中ヨシエは座っている。膝の上では、淡い水色の毛糸と竹製の編み針が、カチャ、カチャ、と規則正しい音を立てている。その音は、電車の走行音に溶け込みそうでいて、確かにそこに存在する、彼女だけの静かなリズムだ。白髪は綺麗にまとめられ、顔には穏やかな皺が刻まれている。外から見れば、ただ趣味の編み物を楽しんでいる、平和な高齢女性。だが、彼女の内側には、悠久ともいえる時間が積み重なっている。


編んでいるのは、小さな子供用のベスト。もうすぐ生まれる、初孫のためのものだ。男の子か女の子か、まだ性別は分かっていない。この水色なら、どちらでも似合うだろう。柔らかい毛糸の感触が、これから抱き上げるであろう赤ちゃんの肌を思わせ、胸が温かくなる。カチャ、カチャ、と編み針が進むたびに、夫(健一)と二人で生きてきた長い日々が、糸のように編み込まれていくようだ。


夫はもういない。三年前に、静かに眠るように逝ってしまった。この電車の窓から見える景色も、夫とよく一緒に見たものだ。二人で温泉旅行に行った帰り、夫はいつも私の隣で、満足そうに車窓を眺めていた。あの時の夫の横顔が、今でも瞼の裏に焼き付いている。あの頃の笑い声や、他愛もない会話が、電車の音の中に聞こえてくるような気がする。


一人暮らしは、初めは寂しかった。夫がいない家は、ひどく広く感じられた。しかし、編み物をしたり、友人とお茶をしたり、そしてこうして孫の誕生を心待ちにしたり。そうしているうちに、少しずつ、心の空白が埋まってきた。寂しさが全くなくなったわけではない。夜中にふと目が覚めたとき、隣に夫がいないことに改めて気づき、胸が締め付けられることもある。だが、それもまた、二人で共に生きた証なのだと思うようになった。


窓の外の景色は、さっきまで見えていた都会のビル群から、少しずつ住宅街へと変わってきている。あの明かり一つ一つの中に、それぞれの家族が、それぞれの人生を送っているのだろう。私にも、新しい家族が生まれる。小さな命が、この世界の明かりを見ることになる。カチャ、カチャ。編み針の音は続く。それは、終わりのない時の流れと、その中で確かに続いていく命の響きだ。


田中ヨシエの穏やかな表情の下で、過去と現在、そして未来への静かな愛情が、毛糸のように絡まり合い、美しい模様を織り成していた。彼女の中にいる「君」、それは、失われた愛しい人であり、これから生まれる希望であり、そして全てを受け入れて静かに生きる、揺るぎない自分自身なのだ。彼女は、指先に柔らかい毛糸の感触を確かめながら、静かに目を閉じた。


電車の揺れは変わらない。ガタンゴトンというリズムは、時間だけを等しく刻み、そして、この箱の中に詰め込まれた無数の時間を揺らしている。窓の外の光が流れ、車内の空気は緩やかに暖まっていく。


しかし、この穏やかな電車の揺れとは裏腹に、その少し前方で、まるで嵐のような感情を内側に秘めている人物がいた。通路側の席に座る、池田剛だ。彼は何もせず、ただ正面を見据えているように見える。だが、その顔はわずかに赤らみ、眉間には深い皺が刻まれている。手は膝の上で固く握りしめられ、指の関節が白くなっている。


体中の血が煮えたぎっているような感覚だ。今日の夕方の出来事が、頭の中で何度も何度も再生されている。会議での、あの後輩(山田)の顔!自分の企画を、あたかも自分が考え出したかのように得意げに話す姿。そして、それに何も言い返せなかった、情けない自分自身!怒り、屈辱、そして後悔が、内側で渦を巻いている。

「あの時、すぐに反論していれば!」「くだらないプライドなんか捨てて、言い争ってやるべきだった!」

思考がループするたびに、拳を握る手にさらに力が入る。呼吸が浅く速くなる。胃がキリキリと痛み、心臓がドンドンと不規則に脈打つ。このままでは、何かを破壊してしまいそうだ。目の前に後輩がいれば、掴みかかっていたかもしれない。


だが、ここは電車の中だ。周囲には、全く無関心な他の乗客たちがいる。スマホを見ている者、眠っている者、ただぼんやりと外を見ている者。彼らは、自分の内側で燃え盛る怒りの炎に、全く気づいていない。その無関心さが、さらに彼の苛立ちを募らせる。電車のガタンゴトンという規則的な音は、まるで彼の怒りのリズムに合わせて、燃料を注ぎ込んでいるかのようだ。


窓の外の景色を見ても、頭の中の怒りがそれを遮断する。見えるのは、後輩の憎たらしい笑顔と、何も言えなかった自分の情けない姿だけだ。体は電車に揺られているが、彼の意識は、あの会議室に囚われたまま、怒りの反芻を繰り返している。表面上は静かに座っている男。しかしその内側では、制御不能な嵐が吹き荒れている。


池田剛の中にいる「君」、それは、踏みにじられたプライドであり、報われなかった努力であり、そして、今にも暴発しそうな激しい怒りそのものだった。


池田剛の内側で荒れ狂う嵐は、しかし、その男の身体から外へは漏れ出さない。ただ、静かに電車は揺れ、時間は進む。様々な感情のエネルギーが、この密室の中に満ちている。怒り、希望、諦念、喜び、そして――。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ