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車両の後方から、カチャ、カチャ、という控えめな音が聞こえてくる。その音に誘われるように、静かな存在感が浮かび上がる。窓際の一番端の席に、田中ヨシエは座っている。膝の上では、淡い水色の毛糸と竹製の編み針が、カチャ、カチャ、と規則正しい音を立てている。その音は、電車の走行音に溶け込みそうでいて、確かにそこに存在する、彼女だけの静かなリズムだ。白髪は綺麗にまとめられ、顔には穏やかな皺が刻まれている。外から見れば、ただ趣味の編み物を楽しんでいる、平和な高齢女性。だが、彼女の内側には、悠久ともいえる時間が積み重なっている。
編んでいるのは、小さな子供用のベスト。もうすぐ生まれる、初孫のためのものだ。男の子か女の子か、まだ性別は分かっていない。この水色なら、どちらでも似合うだろう。柔らかい毛糸の感触が、これから抱き上げるであろう赤ちゃんの肌を思わせ、胸が温かくなる。カチャ、カチャ、と編み針が進むたびに、夫(健一)と二人で生きてきた長い日々が、糸のように編み込まれていくようだ。
夫はもういない。三年前に、静かに眠るように逝ってしまった。この電車の窓から見える景色も、夫とよく一緒に見たものだ。二人で温泉旅行に行った帰り、夫はいつも私の隣で、満足そうに車窓を眺めていた。あの時の夫の横顔が、今でも瞼の裏に焼き付いている。あの頃の笑い声や、他愛もない会話が、電車の音の中に聞こえてくるような気がする。
一人暮らしは、初めは寂しかった。夫がいない家は、ひどく広く感じられた。しかし、編み物をしたり、友人とお茶をしたり、そしてこうして孫の誕生を心待ちにしたり。そうしているうちに、少しずつ、心の空白が埋まってきた。寂しさが全くなくなったわけではない。夜中にふと目が覚めたとき、隣に夫がいないことに改めて気づき、胸が締め付けられることもある。だが、それもまた、二人で共に生きた証なのだと思うようになった。
窓の外の景色は、さっきまで見えていた都会のビル群から、少しずつ住宅街へと変わってきている。あの明かり一つ一つの中に、それぞれの家族が、それぞれの人生を送っているのだろう。私にも、新しい家族が生まれる。小さな命が、この世界の明かりを見ることになる。カチャ、カチャ。編み針の音は続く。それは、終わりのない時の流れと、その中で確かに続いていく命の響きだ。
田中ヨシエの穏やかな表情の下で、過去と現在、そして未来への静かな愛情が、毛糸のように絡まり合い、美しい模様を織り成していた。彼女の中にいる「君」、それは、失われた愛しい人であり、これから生まれる希望であり、そして全てを受け入れて静かに生きる、揺るぎない自分自身なのだ。彼女は、指先に柔らかい毛糸の感触を確かめながら、静かに目を閉じた。
電車の揺れは変わらない。ガタンゴトンというリズムは、時間だけを等しく刻み、そして、この箱の中に詰め込まれた無数の時間を揺らしている。窓の外の光が流れ、車内の空気は緩やかに暖まっていく。
しかし、この穏やかな電車の揺れとは裏腹に、その少し前方で、まるで嵐のような感情を内側に秘めている人物がいた。通路側の席に座る、池田剛だ。彼は何もせず、ただ正面を見据えているように見える。だが、その顔はわずかに赤らみ、眉間には深い皺が刻まれている。手は膝の上で固く握りしめられ、指の関節が白くなっている。
体中の血が煮えたぎっているような感覚だ。今日の夕方の出来事が、頭の中で何度も何度も再生されている。会議での、あの後輩(山田)の顔!自分の企画を、あたかも自分が考え出したかのように得意げに話す姿。そして、それに何も言い返せなかった、情けない自分自身!怒り、屈辱、そして後悔が、内側で渦を巻いている。
「あの時、すぐに反論していれば!」「くだらないプライドなんか捨てて、言い争ってやるべきだった!」
思考がループするたびに、拳を握る手にさらに力が入る。呼吸が浅く速くなる。胃がキリキリと痛み、心臓がドンドンと不規則に脈打つ。このままでは、何かを破壊してしまいそうだ。目の前に後輩がいれば、掴みかかっていたかもしれない。
だが、ここは電車の中だ。周囲には、全く無関心な他の乗客たちがいる。スマホを見ている者、眠っている者、ただぼんやりと外を見ている者。彼らは、自分の内側で燃え盛る怒りの炎に、全く気づいていない。その無関心さが、さらに彼の苛立ちを募らせる。電車のガタンゴトンという規則的な音は、まるで彼の怒りのリズムに合わせて、燃料を注ぎ込んでいるかのようだ。
窓の外の景色を見ても、頭の中の怒りがそれを遮断する。見えるのは、後輩の憎たらしい笑顔と、何も言えなかった自分の情けない姿だけだ。体は電車に揺られているが、彼の意識は、あの会議室に囚われたまま、怒りの反芻を繰り返している。表面上は静かに座っている男。しかしその内側では、制御不能な嵐が吹き荒れている。
池田剛の中にいる「君」、それは、踏みにじられたプライドであり、報われなかった努力であり、そして、今にも暴発しそうな激しい怒りそのものだった。
池田剛の内側で荒れ狂う嵐は、しかし、その男の身体から外へは漏れ出さない。ただ、静かに電車は揺れ、時間は進む。様々な感情のエネルギーが、この密室の中に満ちている。怒り、希望、諦念、喜び、そして――。