君はどこにいるのだろうか。
その問いは、夜の帳が下りた都会の上空で、星を探すようなものだった。掴みどころがなく、しかし確かにそこに存在を予感させる、遠い光を探すような。世界の広がりの中に散り散りになった絆の断片を、一つずつ手繰り寄せようとするような、静かで、少しばかり切ない響きがあった。
だが、今いる場所は、星空の下ではなかった。鉄とガラスでできた、規則的な揺れと騒音が支配する箱の中だ。午後8時を少し回った時間。都市の鼓動がわずかに緩み始め、一日を終えた人々が家路を急ぐ、その流れの一部を担う電車の中。
オレンジ色の蛍光灯の光が、磨かれた床やプラスチックの座席に無機質に反射している。耳慣れたモーターの唸りと、車輪が線路の継ぎ目を刻むガタン、ゴトンという単調なリズム。外の景色は、もはや個々の建物を判別できない速度で後方へ流れ去り、色とりどりの光の線となって窓に貼り付いている。
この一つの車両に、今、正確に30人の人間が乗り合わせている。
座っている者、吊り革に掴まる者、鞄を膝に置く者、肘掛けに頭をもたせかける者。彼らは皆、静かだ。あるいは、静かなふりをしている。それぞれの間に会話はなく、視線が交わることも稀だ。皆、自分だけの空間の中に閉じこもっているように見える。スマホの小さな画面に顔を近づけ、ヘッドホンで耳を塞ぎ、あるいはただ目を閉じて揺られている。
外から見れば、彼らは「乗客」という一つの集合体だ。夜8時の電車に乗り合わせた、ただそれだけの人々。しかし、その一人ひとりの内側には、宇宙がある。外からは決して窺い知ることのできない、個人的な歴史、現在の葛藤、未来への淡い希望や、あるいは深い絶望。同じ時間の、同じ場所を共有しながら、彼らは全く異なる世界を見、全く異なる感情の中に沈んでいるのだ。
君はどこにいるのだろうか。
その問いかけは、まるで、この30の宇宙の一つ一つに投げかけられているかのようだ。彼らの、他者から隠された内なる核——その「君」は、一体どこにいるのだろう。
車両の中央付近に座る、疲れた様子のサラリーマン、佐藤健一を見やる。彼のスーツは肩口に白い埃がつき、ネクタイは大きく緩められている。目の下の深いクマが、過酷な現実を物語っていた。彼はスマホの画面を見つめているが、その目に映っているのは、アプリの情報ではなく、おそらく別の何かだろう。彼の内側には、一体どんな宇宙が広がっているのか。
彼の肩は重く、背中が丸まっている。全身から今日の仕事の疲れが鉛のように流れ出ているようだ。瞼を閉じると、無意味な会議の風景や、積み上げられた書類の山がちらつく。数日前から胃のあたりがキリキリと痛むのは、きっと気のせいではない。会社のコンプライアンス部に匿名で通報すべきか否か、その重苦しい問いが、この数日、彼の思考を占領していた。正義感と、家族を守りたいという現実的な恐怖。どちらを選んでも、何か大切なものを失う気がする。電車のガタンゴトンというリズムは、まるで彼が進むべき道を決めきれないまま、時間だけが過ぎていく現実を嘲笑っているかのようだ。
しかし、そんな彼の内側にも、別の世界がある。スマホの待ち受け画面に設定した、愛猫ミケの写真。丸くなって眠る、小さなオレンジ色の塊。あの柔らかい毛皮の手触りを思い出すだけで、張り詰めた心が少しだけ緩む。家に帰れば、ミケがドアの前で「おかえり」と鳴いてくれるだろう。その光景を想像すると、今日の全ての不快な出来事が、一瞬だけ遠のく。
遠い昔。高校時代、彼が本気でミュージシャンを目指していた頃のことだ。埃っぽいライブハウスの空気、アンプから流れ出る爆音、観客(といっても友達がほとんどだったが)の熱狂。あの頃の自分には、無限の可能性が見えていた。音楽こそが自分の全てだと信じて疑わなかった。今の自分は、あの頃の自分が最もなりたくなかった大人だ。あの頃の佐藤健一の中にいた「君」は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。電車の窓に映る、疲弊した自分の顔を見つめ、彼は静かに、しかし深くため息をついた。その音は、電車の騒音にかき消され、誰の耳にも届かない。
彼の視線が、窓の外の、あっという間に通り過ぎていく光の筋を追う。それは、彼自身の、掴みきれなかった夢の残骸のように見える。
その視線が、ふと、車両の少し前方に座る人物のところで止まる。大きなスーツケースを網棚に乗せるのに苦労したらしい、若い女性だ。彼女の傍らには、紙袋がいくつか置かれている。見慣れない土地に来たばかりなのか、その目は周囲を少し不安げに窺っている。彼女の持つ、新しい環境に対する緊張感と、かすかな期待。それは、佐藤健一の抱える疲弊や諦念とは、全く異なる種類の感情だ。
もしや、私が探している「君」は、この若い女性の中にいるのだろうか。希望に満ちた、しかし迷子になりそうな「君」が。
中村未来は、大きく息を吐いた。座席に座って数分経つが、まだ心臓がドキドキしている。新幹線を降りて、在来線に乗り換えるのも一苦労だった。この街の電車の乗り換えは、まるで迷路だ。手に汗を握る。慣れない土地の匂い、人の波、全てが自分には大きすぎて、呑み込まれてしまいそうだ。スーツケースを網棚に乗せた時の腕の痺れが、まだ残っている。あのスーツケースの中には、故郷での生活の全てが詰まっている。そして、これから始まる新しい人生の全てが。
故郷の小さな町を出てきたのは、今朝のことだ。駅で見送ってくれた両親の顔を思い出すと、今でも胸が締め付けられる。特に母親は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。「大丈夫、必ず成功するから」と精一杯の笑顔で言ったが、声が震えていたかもしれない。新しい仕事への期待はある。ずっと憧れていた分野の仕事だ。ここで頑張れば、新しい自分になれるはずだ。でも、もしダメだったら?頼る人もいないこの街で、一人で生きていけるのだろうか。
窓の外を流れる街の明かりは、宝石のように綺麗だが、どこか冷たく見える。それぞれの明かりの中に、誰かの生活があるのだろう。この大勢の人々の中で、自分はこれからどう生きていくのだろう。電車の揺れが、そのまま自分の心の揺れと重なる。故郷にいた頃は、電車の音など気にも留めなかったのに、今はその規則的な響きが、遠くまで来てしまった現実を突きつけてくるようだ。紙袋から、母親が持たせてくれた手作りのお守りを取り出し、そっと握りしめた。その温もりに、わずかな勇気をもらう。早く、今日契約したアパートに着きたい。自分だけの、小さな城へ。中村未来はその小さな御守りの硬さを指先に感じながら、遠ざかる故郷に思いを馳せていた。