全三部(前編・中編・後編)のうちの後編
7・縁ふしぎ
二〇一八年一月。年明けの大学はびっしりと試験週間だ。
同好会のミーティングに参加する部員も減っていた。そして、二月に入ると、大学は、長い春季休業に入る。帰省する部員も多い。
でも、その前に、ということで、試験日程が終わった日、渋谷の居酒屋で、冬合宿に続く天文同好会第二次四年生追い出しコンパが開かれた。
とはいえ、現役メンバーが郊外で開く観望会などに、OBとして参加するのは自由だ。厳冬期だったけれども、だからこそ星空が澄み渡るこの季節、一晩中カメラで星を追いかけたり、望遠鏡を覗きながら天体をスケッチしたり・・・・・・。帰省する学生の都合は尊重しながら、現役会員たちによる観望会は、毎日のように行われていた。
さらに二月下旬には、有志による第二次冬合宿も山梨のセミナーハウスで行われ、現役、OBとも、それぞれ半数以上の会員が参加した。
そして三月下旬には、他大学や高校の天文部、天文愛好会なども集まって、メシエマラソンも行われる。年度最後の、そして冬の終わりを告げる一大イベントだ。帰省していた会員たちも、これにあわせて東京へ戻ってくる。
星空が好きで好きでたまらない。そんな不治の病に冒された彼ら彼女たちの星空と宇宙を思う旅は、厳冬期にこそ遠く深く、何億光年先までも駆けていく。
愛は、追い出しコンパのあと、二回ほど観望会に参加したが、二月中旬には鹿児島へ帰省した。
祖父の耕太郎と父の政彦が「愛はまだか、まだもどっ(帰って)こなかとか。早よもどってくるようにように言え」と、めにっ(毎日)うるさくてかなわんから、あんた早めにもどっおいでと、祖母の法子と母の浩子から、これまたうるさいほど何度も電話があったため、十日以上も予定を早めて鹿児島へ帰って来たのだった。
鹿児島空港に降り立ったとき、東京よりは少しだけ暖かいかな。そう感じた。
(真冬の遠野はどんなだろう。やっぱり雪が深いのかな。でも、雪明かりの上に広がる星空を見に、思いきって行ってみればよかったかも・・・・・・。)
でも、鹿児島にまで戻ってきてしまうと、鹿児島県人にとって岩手は、やはりそう気軽に訪ねられる土地ではなくなっていた。
愛は、少しだけ後悔した。
三月上旬、五位野の自室で勉強をしていた愛のスマホに着信があった。思いがけず、川村小夜からの電話だった。
ピッ。
「やっほー。愛ちゃーん、ひっさしぶりー。元気してる?」
相変わらずのハイテンション。愛もつられて元気な声で答えた。
「小夜さん! こちらこそごぶさたしています、小夜さんこそお元気ですか」
「もちろん。ねえ愛ちゃんって、もしかして鹿児島に帰ってる?」
「はい。今、帰省中です」
「やっぱりー!」
愛は、スマホから耳を遠ざけた。小夜の声はそれほど大声だった。
「うふふ・・・・・・実はね、あたし今、鹿児島にいるの」
「えっ! そうなんですか?」
「串木野でちょっと用事があってさ。それでこれから鹿児島市内へ移動するんだけど、ほら、鹿児島といえば、愛ちゃんじゃない? 今夜は市内のホテルに泊まるんだけど、もしも時間があれば、今夜ご飯でも一緒にどうかなーって思って電話してみたの。愛ちゃん、急なんだけど、鹿児島市内まで出てこられない?」
愛が時計を見た。机の上のデジタル時計は午後三時五分を表示していた。
「小夜さん、私もお会いしたいです。これから家を出るのは大丈夫です」
「よかった。じゃあ、鹿児島中央駅北口近くの『アルビレオ』っていう喫茶店で待ってて。愛ちゃんの電車の時間は分からないけど、たぶん愛ちゃんの方が先に着くから」
小夜とは、一月中旬と二月の初めにも会って、とりとめないおしゃべりで時間を過ごした。まだ三度しか会っていないが、姉妹も同性の従姉妹もいない愛には、姉のように慕える相手になっていた。
ジーンズにセーター、高校時代にも着ていたベンチコートにスニーカーという、星を見に行くようないつものラフな服装。母の浩子に、東京で知り合った女性カメラマンさんに会ってくると言って家を飛び出した。
(そういえば串木野で用事があったって・・・・・・。撮影のお仕事じゃなかったのかな?)
小夜は、愛よりも十五分ほどあとに『アルビレオ』にやってきた。
愛は、その小夜の姿を見て少なからず驚いた。
小夜は、黒いタイトスカートとジャケット、真っ赤なハイヒールというセミフォーマル姿だった。それでいて、胸元が広くくつろいだカットソー、エスニックっぽいコーラルのネックレスとルビーのピアス。左手にベージュのコートを抱え、長い髪をなびかせて颯爽と歩く姿は、どこぞのブランドショップの女性店長といった華やかさで、店にいた男性客数人の目が、小夜に釘付けになるほどだった。
「愛ちゃん、ひさしぶりー」。声はいつもの小夜だった。
愛の目が丸くなっている。小夜がその視線に気付いた。
「愛ちゃん、予想通りの反応ありがとう」。
けらけら笑いながら、どっかとイスに腰をおろした。やっぱりいつもの小夜だった。
「小夜さん、どうしたんですか? その――」
恰好、と言いかけて、愛はあわてて口をつぐんだ。同時にラフ過ぎた自分の服装を恥じらった。
「ああ、この恰好? 『洋服の東山』で買った二着セールのスーツなんだけどね。実は今日、ちょっと、先様のご両親にごあいさつしに行ってきたの」
先様のご両親? ごあいさつ?――
「小夜さん、ご結婚されるのですか?」
愛が大声になってしまい、両隣の客が驚いた。
小夜はそれにかまわず、にこにこしながら言った。
「あたしじゃなくて、妹が串木野の方と結婚するの。あたしん家、両親は海外に住んでるから、今日のところはあたしが親代わりでごあいさつしてきたのよ」
まだあんぐりしている愛の顔を見ながら、小夜は、驚くのはまだ早いわよ、と言いたげに必死に笑いをこらえている。
次に話すことが愛をもっと驚かせることになることを小夜は知っている。それを聞いたときの愛の反応を想像して、小夜の口元がぷるぷる震えていた。
「あたしの妹のお相手さんって愛ちゃんも知ってる人よ」
「えっ?」
「・・・・・・愛ちゃんさぁ、家出少女に間違えられたんだってねー」
「えーっ? 永留聡せんせいーっ?!」
愛の叫び声と、小夜の爆笑が重なった。
ふたりは店を替え、天文館通りにあるインド料理店に入った。愛も小夜も、実はカレーが好きだということで話がまとまった。
いろんな種類を試そうよ、と小夜はベースカリー、サグカリー、コルマカリーなどの中から六種類を選び、さらに、タンドリーチキン、ナン、ダルスープなどをオーダーした。
運ばれてきた料理の香りと色彩の鮮やかさに、愛は胸が踊った。
(――全部食べたいっ)
「さあ、全部食べてね」。小夜は愛の目移りに気づいた。愛のお酌を受けて、シュピゲウラのグラスにキングフィッシャーが注がれた。
小夜は三歳年下の妹・川村詩乃が、永留聡と結婚することになった経緯を話してくれた。
詩乃は、東京の大学で聡のひとつ後輩だったという。同じ軽音楽部にいてバンドも組んでいた。ただし、学生時代のふたりの関係は恋愛にまでは発展せず、聡は鹿児島県の教員採用試験を受け、先に卒業して郷里へ帰っていった。
数年後、クラブのOB会で再会したとき、詩乃は久しぶりに会った聡の姿を空から落ちてきた男・ジェラルディン・マコックランかと見違え、聡もまた、空から落ちてきた娘・リュシータ・トエル・ウル・ラピュタではないのかと詩乃を見つめ、ふたりは突然、恋に落ちた。
そして、鹿児島と東京、陸路で約一三〇〇㎞、空路にして六〇〇マイル離れていたふたりの遠距離恋愛はついに結ばれることとなり、今秋には串木野市中籠の聡の自宅の大広間で結婚式と、披露宴という名目の大宴会が行われることになったという。
「詩乃さんはご一緒じゃなかったのですか? お会いしたかったです」
「今日はふたりで熊本へ遊びに行ったわ。あたしはお邪魔虫だから鹿児島に来たの」
「聡さん、そうだったんですね。詩乃さんもおめでとうございます。ふたりのお幸せを私からも祈らせてください」
「愛ちゃん、なに言ってんの!」
(えっ!)
突然の小夜の大きな声に愛は驚き、びくっとした右手からナンが落ちた。
「愛ちゃん、式にはあなたも出席することにもう決まってるんだからね」
「・・・・・・はい?」
小夜が大笑いしたあとに話してくれたことによると、聡と小夜が永留家の座敷で雑談をしていたとき、ひょんな拍子から、山科愛という共通の知人が話題に飛び出したのだという。小夜と聡の会話はそこから一気に盛り上がり過ぎるほど盛り上がって、詩乃を置き去りにした。
そして盛り上がる小夜と聡の会話を聞いていた聡の祖母のかなえが「式にはあの子も呼びなさい」と言い出して、結婚式の招待者リストに山科愛の名前が加えられたのだと言った。
「聡くんはあたしの弟になるのよね。そして愛ちゃん。あなたはね、私にとって二番目の妹なの」
「えっ?」
「詩乃が鹿児島に嫁いだら、あたし東京に妹がいなくなっちゃうもの。あたし、初めて愛ちゃんに会ったときから、この子ってあたしのツボ・・・・・・もとい、かわいい妹だって感じてた」
――ねえ愛ちゃん。
持ち上げたグラスを見つめるともなく見つめながら小夜が言った。
「人と人とが結ばれていく〝出会い〟〝縁〟って、とっても不思議だと思う。愛ちゃんは、たまたまひいおじいさまの絵を見つけて遠野までたどり着いた。その途中で聡くんにも会った。さらに、あんなに大きな書店で、たまたまあたしの写真集を手にとってくれた。そして今日、あたしは愛ちゃんと共通の知り合いだった聡くんと会った」
不思議――と、小夜が繰り返した。
「〝縁〟って、いつ、どこで、誰に突然コンタクトしてしまうか分からない。不思議だし、おもしろいよね?」
(縁――)
愛も思い出していた。
家出少女に間違えられて聡に声をかけられたこと。聡の家でかなえや美千子や仁兵衛に会えたこと。昨春、つぶやいてしまった独り言を通りがかった北条に聞かれてしまったこと。北条が同好会の勧誘ブースへ背中を押してくれたこと。そこで出会った麻美、里香、瑠衣、香織、みんな――。
「世界ってさ、こんなに広いのに、ときどきすごく狭いよね。愛ちゃんの絵の場所探しの旅でも、愛ちゃんはどんな人と出会って、どんな縁を結んでいくのかしらね」
愛は、北条の子どもっぽい笑顔を思い出した。
「愛ちゃん、絵の場所、きっと見つけようね。愛ちゃんと一緒に自転車で遠野を走ってくれたっていう〝センパイ〟も誘ってさ。そして、十月の結婚式のとき、串木野のかなえおばあちゃんや、ひいおじいさまのことをお話しくださった中籠のみんなに報告しよう」
8・八幡山の墓地で
【二〇一八年四月九日】
新学期がはじまり、愛も二年生になって、天文同好会の新人勧誘もスタートした。
愛は、香織と一緒に、勧誘ブースの前を通り過ぎていく新入生らしい学生にビラを配った。麻美は、新入生に年間の活動内容を案内する。
里香と瑠衣は、展示された天体望遠鏡の前で、天体を写した写真を見せながら、星空の美しさや魅力を語った。
昨春、北条に声を掛けられて、連れて行かれたのと同じ葉桜の下。あの日と同じように、四月の空は、連日、暑いほどよく晴れている。
花びらが散ってしまった桜の木を見上げる人はもういなかったけれど、愛は、一年前、入会希望カードを書いているとき、葉桜をぼんやりと仰いでいた北条の姿を思い出し、顔を上げて青葉の波を見晴らした。木漏れ日が春の風に揺れている。
愛は、試験期間だった一月に、学食で同級生たちと談笑する北条を見かけて以来、もう三ヵ月も北条の姿を見ていない。四月には、北条を同好会に復帰させると内記先輩は言っていたのに、北条は、まだ同好会の活動に顔を出していない。
「っていうかさ、三年生、なんでこんなに少ないの?」
里香が香織にグチった。
「ゼミの準備に忙しいのよ、きっと」
瑠衣がフォローする。
愛は、背の高い男子学生がブースの前を通り掛かるたび、北条が戻って来たのかと思い、一喜一憂して落ち着かなかった。
【二〇一八年四月二十七日】
「春になったらまた遠野へ行こう――」と考えていたゴールデンウィークが、明後日から始まろうとしていた。
でも、愛はふらりと旅立てるタイプではなく、それに北条との関係もまだ〝修復〟できていなかった。
このままの気持ちで、ひとり遠野へは行けない――。そんなふうに思っていた。
さらに、五月一日からは鹿児島へ帰省することにしていた。
祖父と父が「ゴールデンウィークに愛は、もどっこなかとか。もどってくるように言え」と、めにっ、うるさくてかなわんから、あんたいっぺん帰っておいでと、祖母と母から、これまたうるさいほど何度も電話があったのだ。
ぼんやりと小夜の写真集を眺めていた夜遅く、その小夜から電話があった。
「愛ちゃん? こんな時間にゴメンね・・・・・・起きてた?」
時計を見ると、午後十一時五十三分だった。
いつもなら炸裂するような小夜の声が、暗く、ひそやかだった。沈んでいるように感じられ、電話の奥もしんとしている。
愛は、小夜に何かあったのかと胸騒ぎを感じた。
「・・・・・・小夜さん、何かあったのですか?」
「えっ?」
「いつもの小夜さんの声じゃないように聞こえます」
「そう?」
愛は、どきどきした。
「いつもすごくお元気いっぱいの声なのに、今夜はちょっと沈んでいるっていうか・・・・・・」
「・・・・・・?」
「小夜さん、ご身辺に、その・・・・・・例えば何かご不幸とか・・・・・・」
次の瞬間、スマホが壊れそうな勢いで小夜の爆笑が聞こえてきた。
「?」
愛は、思わずスマホから耳を離す。スピーカーが、ずっと笑い続けた。
「あっあっあいちゃ・・・・・・ぶっ、ぶぁあっははははは。しっ、しんぺん?・・・・・・ぶっ、うううぅ、なにそれえぇ? だぁっははあ、はははははー。あーおかし・・・・・・げほげほ。あーもうダメ。あー死ぬ。あっはははは――。ほっ、ほんと、あっあっあっあいちゃんってさ、ひいー、どどどどうしよう。お、お腹いたぁーい、あー、あーっはははは――」
小夜は、そのまま二分近く笑い続けた。
愛は訳が分からなかった。でも小夜の大爆笑が、以前と変わらない声だったことに愛は安心した。そして、誰かがこんなに大笑いする声をずいぶん聞いたことがなかった気がした。
小夜の爆笑がやっと収まったらしい。しかし、なお必死に笑いをこらえているようなトーンで、ようやく小夜が話しはじめた。
「あー。もうこのまま死んじゃうかと思ったよ。ぶっ・・・・・・」
思い出し笑いが続いている。
「あのさぁ、夜こんな遅い時間に電話すればフツーは小声になるでしょう?」
「ごめんなさい。でも、だって・・・・・・」
「それにさ、身内に不幸があった夜に、何の用事で愛ちゃんに電話するってのさ? あーもう笑い過ぎて十年分ぐらいの疲れが抜けちゃった」
「すみませんでした」
愛はそう答えるしかなかった。そして、胸騒ぎがカラ騒ぎでよかったと思った。
「でも、やっと落ち着いたわ」
と言った小夜の声には、まだ笑いをこらえているニュアンスがあった。
「愛ちゃんって、あたしの〝今までに会った人史上〟で、紛れもない、天然キャラチャンピオンだわ」
天然という言葉で言い表される人物像がどのようなタイプであるのか、それは愛にも分かっていた。悪意ではなく、むしろ好意に寄った言葉なのだけれど、言われた側はあまり嬉しくはない。
「私、天然なんかじゃありません」
愛はちょっとムキになって小夜に反論した。
「ほら。それが天然だっての」
小夜がくすくす笑いながら言った。
「電話したのはね、愛ちゃん、ゴールデンウィークに遠野に来られないかなーって思って」
「えっ?」
愛は、スマホを握ったまま壁のカレンダーを振り向いた。カレンダーの隣には、あの絵が飾られている。
「実はね、今、遠野にいるのよ。今日までの青森取材が終わって東京まで高速で帰ろうと思ったんだけど、途中で遠野のことを思い出したの。ほら、遠野って言えば愛ちゃんじゃない?」
小夜さんが遠野にいる? おいでっ・・・・・・て?
「で、ほんとうに急なんだけど、愛ちゃん、連休のスケジュールが空いていたら遠野に来ない?」
行きたい! 小夜が撮影した遠野の景色が、愛の頭のなかをどっと駆けめぐった。
――小夜さんと一緒ならきっと見つけられる。
「行きます! 一日早いけれど、明日行きます!」
「OKね? じゃあ列車の時間とか決まったら、また連絡してね」
愛は、スマホで時刻表を検索し、列車の時刻を調べた。
ネットで座席指定の予約ができる時間はもう過ぎていた。でも連休前の明日なら、新幹線の席もまだ空いているかもしれない。早い時間に東京駅を出発する東北新幹線なら、自由席で新花巻駅まで座って行くこともできるかも?
東北新幹線の東京駅発下り始発便は午前六時〇四分。さらに新花巻で、いいタイミングで釜石線の下り快速列車に接続していた。遠野には十時〇一分に着く。
はっ、と北条のことを思った。
(北条先輩――)
電話しなくちゃ。
遠野へ行くことになったということは、北条にだけは伝えておかなければいけないと思った。スマホを握り直して、北条の連絡先を検索する。
(えっ? でも待って。この時間に電話することは、迷惑になるかもしれない・・・・・・)
愛らしい逡巡だった。
LINEなら大丈夫だろうか? 送信画面を開いて、愛は、北条に送る文章を打ち始めた。
『山科です。夜、遅くに申し訳ありません。実は急なことなのですが、明日二十八日から遠野へ行くことになりました。もしも北条先輩のご予定が空いて――」
そこまで打ったところで、愛は手を止めた。
(誘うの? いくらなんでも急すぎない・・・・・・? 厚かましすぎない? 失礼じゃない? )
これまた、いかにも愛らしい。
『せんぱーい、いきなりゴメンね。あたしさー、明日遠野に行くんだよね。でさぁ、さとっち先輩、ヒマだったら一緒に行かね?』
里香や瑠衣だったら、こんなふうに言えるのかもしれないけれど――。
『山科? なんだよこんな夜中に? 遠野? 明日? バカこくでねえだよ。急すぎんだろ。オラ寝る』
・・・・・・なんていう言い方をするような北条ではないということも分かっているけれど。
(断られるの、いやだ。怖い。だけど、もしも――)
愛が、はっと気付いた。
(あさちゃん、やっとわかった――。でも、もうちょっとだけ待って)
愛は後半の部分を消して、
「急なことですが、明日二十八日、東北新幹線の始発で遠野へ向かいます。先輩にはまた必ずご報告させていただきます」とだけ書いて送信した。
もしも、今夜のうちにメッセージに気付いてくれたら。
もしも、あとからでも遠野に来てくれたら――。
(あの絵の場所で、隣には北条先輩にいてほしい)
そう思った。
【二〇一八年四月二十八日】
地下鉄東西線の上り始発電車が行徳駅を発車するのは午前五時七分だった。愛のアパートから行徳駅までは徒歩約一〇分。
気持ちがはやり、朝食にトーストをかじったあと、四時半には部屋を出た。途中のコンビニでお茶を買い、地下鉄に乗る。
こんな時間に地下鉄に乗っている自分が不思議だった。
営団地下鉄東西線は西船橋から西葛西まで地上を走る。日が昇ってきて、背の高いビルに陽が当たった。
愛は、初めて見る湾岸エリアの朝の光彩が新鮮だった。空とビルが美しいコントラストを描きだす景色を眺めていた。
北条からの返信はなかった。
夜遅かったし、気付かないまま眠っていたのかもしれない。それに、今はまだ、きっと夢の中なんだろうな・・・・・・。
午前五時三〇分。愛は、大手町駅で下車し、長い地下道を通って、東京駅の東北新幹線乗り場まで走った。東西線大手町駅からは一〇分ちょっとだ。
自動券売機に駆け寄り、料金を確認。ボタンを押して出てきた切符を抜き取って振り返ったとき、
「あれ? 愛ちゃん?」。聞き慣れた麻美の声がした。
「あさちゃん? ・・・・・・と、北条先輩!?」
愛の目の前にふたりが並んで立っていた。
「えーっ! 愛ちゃん、どこ行くの?」
麻美の問いに、すぐには答えられなかった。
「あさちゃん、先輩、どうしてふたり一緒・・・・・・えっ? なんで?」
麻美がころころ笑って答える。
「すっごい偶然ね。ついさっき、さと先輩ともばったり会ったんだよー。さと先輩、親戚の方の田植えのお手伝いするんだってー。あたしは友だちの結婚式で盛岡。愛ちゃんは? どこ行くの?」
「・・・・・・遠野」
愛は短く答え、北条の顔を見た。北条が少し驚いた顔で愛を見つめ返す。
愛は、小夜から電話があって、これから遠野で会うのだ、と言った。
「あー。愛ちゃんが前に言っていたカメラマンさんね」
「――」
ふたりの会話を聞きながら、北条は、不機嫌そうな、ちょっと複雑な顔をしていたが、すぐ、いつもの昼行灯顔に戻って、
「そうか」とだけ言った。
「はい。・・・・・・北条先輩、車内で私に話しをさせてください!」
自由席の車輌は思ったよりも混んでいたが、席を確保するのは難しくはなかった。
三人掛けの席に並んで座った。麻美は、この列車の三十分あとに東京駅を出発する『こまち』の指定券を持っていたけれど、「お邪魔じゃなければ」と、愛たちと同じ列車の自由席に座った。
愛たちが乗った『やまびこ』は、『こまち』より三十分早く出発するが、『こまち』は古川駅で『やまびこ』を追い越し、盛岡への到着は逆に三十分早い。
それでも麻美は、あたしがいなければ、このふたりはきっと地蔵になったまま新花巻駅まで運ばれて行きそうだと思った。
愛も、麻美には全部聞いてほしいと思ったし、麻美にいてもらえることは心強かった。
発車と同時に麻美のおしゃべりが炸裂した。
「今日、盛岡で同級生の結婚式があるの」
麻美の中学時代の同級生が結婚式を挙げるのだという。同じ年ということは十九歳。
「どうきゅうせぇが?」
北条と愛の声がハモった。麻美が噴き出した。
「あの子さ、元ヤンなのよね。盛岡で大工さんの見習いをしている人のところへお嫁に行くんだって。しかもできちゃった婚。急いで式の日程を決めたから、ゴールデンウィーク前の平日しか空いてなかったんだって」
麻美が笑う。愛の気持ちが落ち着いてきた。
「――それにしても同じ列車に乗ることになるなんて。すごい偶然だったな」と北条。
「ゴールデンウィーク前日の一番列車の自由席。愛ちゃんもさと先輩も、ふたりとも同じ考えだったのね」
麻美が笑いながら、窓際の席に座っている愛に目で合図を送った。
麻美のおしゃべりが一段落したあと、愛は北条に話しはじめた。
北条はふたりに挟まれて真ん中の席に座っている。
「昨夜、北条先輩にLINEを送りました」
「LINE?」
北条がスマホを取り出した。
「あっ、ほんとだ。今、初めて見た。着信は・・・・・・〇時四十一分?」
「もう休んでいらしたのですか?」
「ああ。今日は四時に起きるつもりだったから八時には寝た。スマホはもうカバンに入れてたんだ」
北条が、今、その短いメッセージを読んでいる。
(相変わらず律儀だな。わざわざ連絡してくれたのか)
北条は、愛が遠野へ行くことを、いつものように丁寧に伝えようとしてくれたのだということを知った。
愛は、川村小夜さんというカメラマンに会ったこと。その後も親しくさせていただいているということ。昨夜、急なお誘いの電話があって、急遽遠野へ行くことを決めたのだということを話し、そして、北条先輩にもお電話をしようと思ったのです、と言った。
愛は、隣席の北条の顔を少し見上げるように、でも、喉元あたりに視線をおきながら、普段よりも少し早口になっていた。北条も、愛のその視線を受け止め、愛の話しをじっと聞いていた。
「北条先輩には遠野へ行くことになったことを、どうしてもお知らせしなくちゃって思って」
(一緒に――)
とまでは愛には言えない。
「山科、ありがとナ」
「えっ?」
「山科の〝絵の場所探し〟のこと、どうなっているのかって、実はずっと気になってたんだ」
昼行灯に、笑みが灯った。
愛が視線を上げた。北条の目の中に映った窓際席の愛の顔がシルエットになっている。
私、今、どんな顔をしているんだろう・・・・・・。
「お話しするのが遅くなって、すみませんでした」
「いや、遠野行きが決まったのって昨夜なんだろ? 遅いもなにも、そりゃまあ」
麻美が、口元をきゅっと結んだ笑顔を愛に向けた。愛も小さなうなずきを返した。
愛はバッグから小夜の写真集を取りだして、北条に表紙を見せた。
「これ――。あの絵の構図に近い写真ですよね」
愛と北条が、並んで写真を覗き込む。
通路側の席に座っている麻美が、ニヤニヤしているのに愛が気付いた。
愛は、地図も取り出して「ここです」と指した。愛の方に身体を傾けて覗き込む北条。愛も北条に身体を寄せる。
(ホント、このふたりって)。麻美の肩が小刻みに震えている。
麻美はワクワクするような〝予感〟に、脇腹のあたりをくすぐられていた。
「森になっていたあの山か。なるほど。冬から春までなら見晴らせるのか」
「私たちが行ったのは、このへんの――」と地図をなぞるふたりの指がぶつかった。
「あ、すみません・・・・・・」
「おう」
麻美が口元を手で押さえながら身をよじる。
「・・・・・・佐竹? なんだよお前、さっきから」
「なんでもないっす」
麻美は必死だった。笑いをこらえることに。
「その小夜さんって人とは遠野駅で会うのか?」
「はい」
「・・・・・・山科」
「はい?」
「オレがついていったら、ジャマかな?」
〝予感〟が、ついに麻美のみぞおちをえぐった。
車内アナウンスが新花巻駅到着間近を告げた。
愛と北条が、座席から立ち上がって降りる準備をはじめた。
「じゃあ愛ちゃん、ガンバってね」
盛岡まで行く麻美が、乗降口に向かって歩きはじめようとした愛に、いたずらっぽい笑顔を向けながら小さくガッツポーズした。
「おう」
北条が答えた。
「必ず見つけてやる」
爆笑する麻美の声に、他の乗客たちが驚いている。
新花巻駅で、ふたりは釜石線の下り快速列車に乗り換えた。
列車が走り出して間もなく、愛の目がとろんとしてきた。
「お前――」。北条が愛に声をかけた。
愛は、北条が初めて自分のことを「お前」と読んだことに気付いていない。
「眠そうだな」
「昨夜、始発で行こうって決めたのですが、でも寝ちゃったら、きっと起きられない気がして。実は徹夜なんです」
「遠野まで寝てていいぞ。オレが起こしてやる」
「それはすごく心配です」
釜石線が猿ヶ石川に沿いはじめた。車窓には萌えだしたばかりの新緑が、滴るような瑞々しさで、野に山に谷に、眩しい光を散乱させていた。
春淡治にして山笑うがごとし――。岩手の山野に、また、新しい季節が巡ってきた。
(あさちゃんも盛岡に着いたころかな?)
そう言えば私は、いつから彼女のことを〝あさちゃん〟って呼ぶようになったんだっけ?
(一年生で北条先輩のことを『さと先輩』って呼ばないのは愛ちゃんだけだよね)
愛は、冬合宿のとき、麻美に言われた言葉を思い出した。
人は、会ってからどれくらい経ったとき、愛称だったり、ちゃん付けだったり、呼び捨てだったり、お前とかって呼び合うようになるんだろう。
(麻美って呼んでね。あたしも愛ちゃんって呼ぶから)
(小夜って呼んでくれていいからね。あたしは愛ちゃんって呼ばせていただくわ)
そんなふうにはじまった関係もあった。
でも、多くの人は、いつの間に互いを愛称し合うようになったかなんて、そんなことをいちいち覚えてはいない。
「間もなく宮守、宮守駅に到着します。お出口は右側――」。アナウンスが聞こえてきた。
宮守駅のエスペラント語の愛称は、たしかガラクシーア・カーヨ。〝銀河のプラットホーム〟
「・・・・・・でしたよね。〝さと先輩〟」
「えっ?」
北条は、愛が初めて自分のことを「さと先輩」と呼んだということに気付いていない。
愛は膝の上でお行儀よく手を重ね、目を閉じた。
「あら? そちらが先輩さん?」
小夜が遠野駅の改札口で待っていてくれた。
新花巻駅で釜石線に乗り換えるとき、愛は、小夜に到着時刻を知らせる電話をかけた。そして「先輩が同行してくださることになりました。ひとり増えるのですが、よろしいでしょうか?」と、北条が一緒に行くことになったことを小夜に知らせていた。
愛が、小夜に北条を紹介した。
「大学の天文同好会の先輩で、北条さんです。釜石のご出身です」
「北条哲と申します。初めまして」
北条は、持っていたカバンを下に置き、両手を脇に揃え、まるであいさつの仕方を教わったばかりの小学生のように、きちっと頭を下げた。
いきなり押しかけてしまったような状況に、北条は遠慮して少し硬くなっていた。
小夜はちょっと驚いたが、その丁寧なあいさつに好感を持った。
(愛ちゃんと同じ匂いがする。古風な――)
例えば長屋の娘に「よいではないか、よいではないか」と迫る悪代官に「愛ちゃんになにするんだ!」と飛びかかって、逆に張り飛ばされる呉服屋の若旦那のような。
(いや、この子なら悪代官を張り飛ばすわ――)。
「こちらこそ初めまして。川村小夜です。小夜って呼んでくれていいからね。気楽に行きましょう」
「急に押しかけて申し訳ありません。ふたり乗れますか?」
「余裕よ」
駅前に停まっていた小夜の車はトヨタのランドクルーザー。
「仕事柄、ときどき野宿もするから、キャンプ道具なんかも積めるように大きな車にしたの。荷物いっぱい積んで、雪道や山道もがんがん走れるようにって」
走り出した車の中で、愛が改めて小夜にお礼を言った。
「愛ちゃん、あたしの方こそごめんね、急で。青森での撮影が終わって、新幹線の最終で帰る編集さんたちと新青森駅で別れたあと東北道に入ったんだけど、愛ちゃんのこと思い出して、遠野に着いてからダメ元で電話したんだ。愛ちゃんがダメなら、それはそれで遠野の春を撮ろうと思ったし」
「お電話、とても嬉しかったです」。愛が助手席でかしこまった。
「それで急遽、先輩を誘ったわけね?」
「あっ、いえ。これは偶然なんです。釜石へ帰省される北条先輩と、盛岡へ行く友だちに、東京駅でばったり会って」
「愛ちゃん、岩手県出身の先輩と一緒に、去年、遠野を自転車で回ったって言ってたけど、あなただったのね?」と、小夜がバックミラー越しに北条に声を掛けた。
北条が「はい。僕でした」と答えた。
僕っ? 先輩が一人称で僕なんて言うの、初めて聞いた。
愛が後部座敷を振り返ると、北条が神妙な顔をして座っていた。
「なんだよ、お前」
愛は、正面に向き直ってうつむいた。(おかしい――)
「あら、愛ちゃん、なに笑ってるの?」
「なんでもないです」
「ふーん。・・・・・・それで、おふたりはどういうご関係なの?」
「えっ? ・・・・・・っと」
愛と北条の声が一瞬重なった。そして短い沈黙のあと、
「同じサークルの先輩と後輩です」と、北条が答えた。
愛の横顔に、ふっと寂しそうな影が浮かんだ。
なにかを察したらしい小夜。
へーえ。
少し楽しそうに短くつぶやいた。
「この先が、あの表紙の写真を撮った場所よ」
小夜が、ふたりをヤブの中へ案内した。
ナラやクヌギの枝が天蓋を作る雑木林。芽吹きはまだ浅かったが、ここのどこから早池峰山が見えるのかと思わされるほど、林は深かった。
道もなかった。北条は、例えば今、ここからひとり引き返したら、車を停めた場所にはきっと正確に戻れないだろうなと思った。
「えっと・・・・・・確か、少し北向きに傾斜した小さな空き地があったんだけど」
小夜も、実は自分の記憶に自信がなかった。
「いやぁ、あたし、よくあの場所見つけられたもんだったわね」。今さら何を、という独り言をつぶやいた。
勾配が少し緩んだ。大地の高まりに近付いている。しかし、その先はいっそう深いヤブになっていた。
「いったん戻りましょう」。地図を見て、小夜が言った。
「今、東から登ってきたんだけど、南からの方が勾配が緩いわ。それにここ、お寺さんがある。こっちの墓地の方からもういちどアプローチし直しましょう。お寺に誰かいたら、行き方とか道とか教えてもらえるかもしれない」
三人は「西方山 長徳寺」と掲げられた山門の前に立った。
庭先の大きな桜の木が満開だった。桜の花の向こうに本堂と庫裡があり、隣には茅葺き屋根の家も見えた。がっしりとして、ちょっと年代を経た本堂のまわりをツバメが飛び回っていた。
「すんませーん。ごめんくださーい!」
と言いながら、小夜が庫裡の玄関で、インターホンにむかって声を掛けた。
返事はなかった。
もう一度声を掛ける。庫裡はなお静まりかえっている。
小夜が、戸に手をかけると、カラカラっと開いた。
「あら、なんて不用心な。カギもかけないで外出?」
「えっ?」と北条。
「えっ?」と小夜。
「オレの実家も、カギなんてかけてませんよ?」
それって、この辺じゃフツーですけど、なにか? という顔で北条が言った。
「ときどき冷蔵庫の中に、誰かが魚とかウニとかアワビとかホヤとかワカメとかを置いていきますけど、ほら、カギなんかしてたら、魚、腐るじゃないスか?」
――Any other questions? という表情の北条。
(そういう環境で育つと、こんな人になるのかな?)
愛が笑いをこらえた。小夜はちょっとあきれて苦笑いしている。
「まっ、まあいいわ」
小夜が左手のG-Shockを見た。
「あらっ? そろそろお昼ね。ちょっと腹ごしらえをして、午後にまた来てみましょうか?」
三人は、車で来た道を引き返し、土淵の旧道交差点を右折して「遠野伝承館」に入った。
「先輩、去年もここでしたね?」
「うん。お前とここで〝だご汁〟食べたよな。そのあとカッパ淵に行った。暑い日だったなヤ」
(また、このお店に一緒に入れるなんて・・・・・・)
愛は嬉しかった。
「愛ちゃんっていつまで遠野にいられるの?」
オーダーのあと、小夜が訊いた。
「五月一日から鹿児島に帰省するので、明後日までです」
「北条くんは? 田植えがあるんだっけ?」
「ほんとは今日の午後から苗床を運んだりっていう予定だったんですが、でも一日ぐらいは遅れても、まあなんとかなります。今日と明日は近所からの手伝いも多いって伯父が言ってました。だから、もしも今日、あの絵の場所が見つからなかったら明日も探しましょう」
言い方に力がこもっていた。愛が北条の顔を見上げた。
「オレも、あの絵の場所はゼッタイに見つけたいんです」
愛の顔が嬉しさを隠しきれない。
北条の修造魂(※松岡)に火が付いたらしい。その様子が、小夜にはおかしかった。
「二人目の弟だわ」
「はい?」
「なんでもないわ。――じゃあ、今日と明日はOKね。せっかくだもの、絵の場所が見つかったら観光もちょっとしましょうか? 山口の水車、五百羅漢、福泉寺、トオヌップの丘、早池峰神社・・・・・・。遠野郷は見どころいっぱいよ」
昼食後、三人は再び長徳寺を訪ねた。
小夜が庫裡の戸を開けようとしたら、鍵がかかっていた。
「あら? カギをかけて本格的にお出掛け?・・・・・・ちょっと、北条くん、さっき言ってたことと違うじゃない?」
「はあ。泊まりの用事で出掛けたのかもしれませんね。今日中に帰ってくるなら、たぶん、カギなんてかけねえべ」
(岩手県人って――)
「まあ、とりあえず、もう一度、自分たちで探しましょう」
小夜は、愛がスマホからプリントアウトして持ってきてくれた絵の写真を片手に、本堂の裏手にある墓地へと入って行った。
墓地は案外な急斜面だった。そして思ったよりも広かった。
愛は、勝手に墓地に立ち入るのはちょっと気が引けたけれど、小夜は写真を片手にずんずんと歩いていく。
「大丈夫よ。コイツらは、ここに誰かが来てくれるのを待ってるんだから」
(コイツら・・・・・・?)。
それぞれのお墓は、一つひとつの区画も大きく、どれも立派で、西向きの斜面に整然と並んでいた。
墓石が並ぶ急傾斜が、頂上付近でなだらかな稜となって東側に向かってゆっくり落ちていたところがあった。
頂上から、少しだけ右側へ下ったところに、多少の雑木の枝に遮られてはいたものの、早池峰山と真っ正面に向かい合える小さな「広場」があった。
「そうそう! ここだわ」。小夜が叫んだ。
三人がその場に並んだ。
雑木とカラマツ林の境界線。そこだけがぽっかりと小さな空き地になっていて、日溜まりの中に、数多くはなかったけれど、タンポポの花が咲いていた。
北条が早池峰山の方角を向き、風景に写真をかざした。
彼方にそびえる早池峰山の雪形、前衛峰のシルエットが、木梢の間から、絵と同じ角度でほぼ一致した。
「なぁんだ、南からアプローチすればラクラクコースだったじゃん」
絵に描かれていた右奥の桜の木や、眼下のタンポポ畑などはなかったが、角度や高度はだいたい同じで、そのわずかな角度のズレを修正するには、あともう少しだけ北西の方へ移動する必要がありそうだった。
「ここからは、またヤブになってますね」
「でも、だいぶ近付いていることは間違いないわ。いったん墓地に戻ってから、ちょっと北西の方に回り込んで行ってみようか?」
「山科、もうちょっとだ。きっと見つかるぞ」。北条が愛に声をかけて振り向いた。
愛はじっとして、うつむいていた。
「どうしたの? 愛ちゃん?」
「違う・・・・・・」
「え?」
愛の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「探していたのは場所じゃなかった・・・・・・。なにか違う」
「場所じゃない? 違う? ・・・・・・なに?」
「わからない。でもなにかを間違えてる――。ごめんなさい・・・・・・なにか違うんです」
愛の足もとがぐらりと揺れた。何かにおびえ、いきなり力が抜けてしまったように身体が沈みかけた。
「おい、山科――」。北条が、愛の肩を支えた。
愛は、北条の腕に身体を預けて震えはじめた。額には汗が滲んでいた。
三人は駐車場に戻った。小夜は、愛を後部座席に座らせた。
「今日は中止ね。少し早いけれど、愛ちゃん、お宿で休みなさい。・・・・・・って、どこに泊まるの?」
愛が小さな声で答えた
「・・・・・・飛びだしてきたので、まだ決めていませんでした」
北条があわてて藤田佐智代に電話した。
「さとくん? ごめんね。さすがに今日は満室だわ。山科さんと一緒だったの? 残念。あたしも会いたかったわ」と、佐智代は申し訳なさそうな声で答えた。
「そうよね。あたしが急に呼び出しちゃったんだもんね。あたしの責任だわ。・・・・・・でも大丈夫。テントと寝袋は積んであるから。今日は三人でキャンプしましょう」
「あ、いえ、オレは実家も近いし」
「ホントにそれでいいの?」
後部座席でうつむいている愛をちらっと見ながら小夜が言った。
「テントは一人用と二人用があるわ。寝袋も三つ。・・・・・・なんだか初めからそんな予定だったみたいね」小夜はむしろ楽しそうだった。
そして、ふと、なにかを思ったように、小夜の視線が、降りてきた墓地の上方へゆっくりと上っていった。
「とにかく明日また、もう一度、あの場所へ行ってみましょう。・・・・・・そして、ご住職がいらしたら、中屋敷家のことも訊ねてみよう。なにか分かるかもしれないわ」
9・星めぐりのうた
遠野の街で食料品などを買い込んで、小夜が向かったのは、昨年、愛たちが夏合宿で訪れた種山ヶ原だった。
四月二十八日。キャンプ場は今日がシーズンの初日。
合宿で使ったコテージもあったが、GW前夜とあってこちらは満室。オートキャンプサイトもほとんど埋まっていた。小夜たちは飛び込みだったけれど、なんとか区画を確保できた。
愛は、遠野の街を出るころにはだいぶ落ち着いて、小夜の冗談に笑いを返せるほどには元気が回復していた。
オートキャンプサイトに車を停めると、小夜は早速ビールを取り出して、ぐびっとあおった。時刻は午後五時。傾いた太陽の下、西方に連なる奥羽山脈が、夕空に蒼い影を並べていた。
小夜があっという間にビールを飲み干した。
「さあ、はじめましょうか?」。
三人は車からキャンプ用品を降ろし、テン場(テント設営場所)のセッティングに取りかかった。
「ところで小夜さんって、なんでキャンプ用品を三人分も積んでいるんですか?」
北条が思っていた疑問を口にした。
「ああ。さっきも言ったけど、編集さんとライターさんの分なの」
小夜が言うには、カメラマンは取材のとき、編集者とライターと行動を共にすることがある。自然風景や野生動物の写真を得意とする小夜の場合は、長期取材になることもしばしばで、人里から離れた場所で、朝日や夕日や星空や動物たちを狙うことも多いのだという。
「昨日までの青森取材もさ、男性の編集さんとライターさんと一緒で、二泊はテント泊だったのよ。四泊五日の予定だったんだけど、撮影がサクサク進んで一日早く終わって、編集さんたちは最終の新幹線で帰っちゃったの。あたしは東北道に乗ったんだけど、小腹が空いたんで岩手山SAのフードコートで盛岡じゃじゃ麺を食べてるときに、愛ちゃんと遠野のことを思い出して、花巻JCTを左に曲がって遠野にきたってワケよ」
そう言いながら、小夜はてきぱきと手を動かす。設営にムダな動きがなかった。
そっち持って。そう、そのループにポールをくぐらせて。四隅のハトメにペグ打ち込んで。フライシートはピンと張って――。北条への指示も適確だ。
愛はテーブルとイスのセッティング。テーブルの組み立てに手間取っていると、小夜がさっと駆け寄って、ぱっぱっぱっと作業を手伝った。ものの一〇分ほどで、三人の砦ができあがった。
「はい、じゃあ一〇分休憩しよ。そのあと夕食の支度をはじめるわよ」
小夜が二本目のビールを開けた。
隣のサイトから小さな拍手が届けられた。
家族連れらしい四人がテーブルに着いてお茶会を開いていた。お父さん、お母さん、そして中学生ほどの兄と小学生らしい妹。
「お手並みがあまりにも鮮やかで、見とれてしまいました」
お父さんが小夜の働きぶりを讃えた。
「いきなり失礼しました。小野寺と申します」
小夜が慌ててビールをテーブルに置いた。三人はそれぞれあいさつした。
小野寺父さんが座っているイスの向こうに、天体望遠鏡が二台スタンバイしていた。
一台は、もう製造が中止されてしまったペンタックス社の屈折式天体望遠鏡の名機・125SDP。そして、もう一台はセレストロン社の反射式シュミットカセグレン・Nexstar 8SE。
「星、お好きですか? よかったらあとで覗きにおいでください」
北条の視線に気付いたお父さんが気さくに声を掛けてくれた。
「ありがとうございます。ペンタのSDPですね。今でもオレの憧れなんです」
北条が小野寺一家のサイトに入れさせてもらった。
「お詳しいんですね」
「実は大学で天文同好会に所属しているんです」
小夜と愛も、お父さんにぺこりとあいさつし、小野寺一家のサイトにやってきた。
「みなさん、同じサークルで?」
「あっ、あたしは違うんです。大学なんて、もう何年だか前に卒業しました」
小夜がちょっと照れくさそうに答えた。
「そうなんですか? いやぁ、まだ大学生かなって思いましたよ」
「・・・・・・もう、なんていいお父さんなの!」
小夜が兄妹に駆け寄りながら叫んだ。少し引きつる兄妹。
「シュミカセは二〇三ミリですか? セレストロンのこのシリーズのオレンジ色、めんこいですよね。それにまだピカピカだ」。北条が8SEにそっと触れる。
「実は、この望遠鏡は今日がファーストライトなんですよ」
小野寺父さんが教えてくれた。
「えーっ? そうなんですね!」
北条の横にいた愛が、自分のことのように目を輝かせた。
ファーストライト。天体望遠鏡に初めて星の光を導入する、天文ファン感激の瞬間だ。
「初めての光。狙いはどこですか?」。北条が尋ねた。
「オリオンM42・・・・・・が本当はよかったけれど今日は厳しいかな。だいぶ西に傾いて、春の残照もあるし、それに月もあるから。だから今日はもう真っ直ぐに月面第二象限。雨の海へ飛び込もうかと」
「いいですね」。北条の声も、わくわくしていた。
「虹の入り江を出航し、雨の海を渡りながらアペニン山脈の麓をかすめ、エラトステネス、コペルニクスのクレーターを経て、嵐の大洋から湿りの海へ――。シュミカセくんも喜びますよ、きっと」
一方、小夜は、あっという間に兄妹と仲良くなっていた。もう笑い合っている。妹の首に抱きつくほどに。
小夜が、テーブルにヴァイオリンケースが置かれているのに気付いた。
「これ? あなたが弾くの?」。妹の首に腕を巻きつけたまま小夜が訊いた。
「ううん、お母さんのです」
妹がお母さんの方を見た。小野寺母さんがちょっとはにかんだ。
「いいなー、ヴァイオリン。あたしも小さいころ習ってたんだけど、挫折組です。あっ、でも、大学は、これでも声楽専攻だったんですよ」
えーっ? と驚いたのは愛と北条だった。
「小夜さんって、写真の学科とかじゃなかったんですか?」
小夜は、ヴァイオリンの道は挫折したけれど、人間には声がある、声こそが最高の楽器だ、と言って、大阪にある大学の芸術学部演奏学科に進み、声楽を選んだ。
芸術系の総合大学だった小夜の母校には、美術学科、デザイン学科、工芸学科、建築学科、舞台芸術学科、放送学科、文芸学科、映像学科、音楽学科など、十四もの多彩な学科があった。
小夜が初めてお付き合いした彼氏が写真学科の学生だったことから、小夜は写真にも興味を持ち、やがて声楽よりも写真の世界にのめり込んでいった。
「で、気が付いたらフォトグラファーって呼ばれるヒトになってたのよ」と、愉快そうに笑った。
「・・・・・・その大学って、大阪の南河内の山の中にある、あの大学かしら?」
ひょっとしたら、という顔で、お母さんが小夜に尋ねた。
「えっ? もしかしてお母さんも !?」
「そ! あたし、あすこのOGやねん」。お母さんが破顔した。小夜もびっくりした。
「えー? ホンマにー! なんでこんなトコに同窓生がおんねん?」
「こんなトコって言うな。あたし、岩手出身で同級生だったこの人に騙されて一関に嫁いで来てん」
「うわぁー。あたしの大センパイですやん!」
「〝大〟って言うなっ」
百年の知己のように、たちまち意気投合するふたり。少し引く、ほか五名。
「あたし、器楽のヴァイオリン専攻やってん」と、お母さん。
「それで、今日はここで演奏しはるんですか?」
「・・・・・・の、つもりやってんけど」
今日、もしも叶うなら、自分の大好きな曲、宮沢賢治の『星めぐりの歌』を、この種山ヶ原で演奏したいと思ってヴァイオリンも連れてきたのだという。
「でも、ほかのキャンパーさんもいたはるし、やっぱりちょっと勇気も要るわ」
「センパイ、弾きましょう!」
小夜がお母さんを励ました。
「あたしが歌います。大丈夫。種山ヶ原で『星めぐりの歌』を聞かされて怒る人やらいてませんって。うちらOGふたりでコイツら――」と言って小夜が周囲のサイトを見渡す。
(コイツら・・・・・・?)。北条の顔があきれている。
「びっくりさしたりましょう!」
「・・・・・・やる?」と、お母さん。
「やるっ!」と、小夜。
騙した男、お父さんが、頭を掻きながら北条に詫びた。
「すみません。うちのヤツがうるさくて」
「こちらこそすみません。うちのリーダーも」
「あんたら、なにこそこそ話しとんねん!」
小夜とお母さんが、同時に怒鳴った。
(カミさんが)(小夜さんが)
「ふたりになった・・・・・・」
小夜たちも夕食の支度に取りかかった。
センターハウスでレンタルしてきたコンロに炭を入れ、バーナーで着火し、早くも三本目のビールを飲みながら、小夜が炭火をうちわで仰ぐ。
「・・・・・・小夜さんって、大阪のご出身だったのですか?」
北条が小夜に恐る恐る尋ねた。早口でまくし立てられているような関西弁は、岩手県人には少し怖い。
「ううん、あたし東京」。小夜がキッパリ答えた。
(・・・・・・)
「あっ。そうだ。北条くん、車のうしろにハデハデ柄のスタッフバッグが積んであるから持ってきてくれない?」
「スタッフバッグ?」
「行けば分かるわよ」
北条が荷室のハッチを開けると、招き猫柄の大きな布製の袋が転がっていた。
小夜が中身を引っ張りだした。ダウンジャケットだった。
「まだまだ夜は冷えるからね。はい、こっちは北条くん。愛ちゃんはこっちね」
大きなジャケット。小柄な愛にはコートのようだった。袖丈も余っている。襟の中に小さな顔が埋もれそうだ。
「愛ちゃん、かわいい」
「あの、小夜さんの分は?」
愛がジャケットのファスナーを閉めながら小夜に聞いた。
「もう一着あるから心配しないで。あとで羽織るわ。今は火おこし中。火の粉が飛んだらヤだもんね」
コンロの横のテーブルに、あっという間に三本目のビールの空き缶が転がった。
「さあ、今夜はあたしのおごりよ。遠慮は、なしね」と、小夜がBBQを振る舞ってくれた。
カルビ、バラ、タン、遠野オリジナルウインナー、遠野名物のラム肉、トマトとマッシュルームとズッキーニのホイル焼き、ホタテのしょうゆバター焼き、たまねぎ、キャベツ、ピーマン、シイタケ、アスパラガスなど地元野菜、さらにパイナップル、マシュマロもあった。
「パイン、マシュマロ? ・・・・・・これも焼くんですか?」
「知らない? 焼きパイナップル、あぶりマシュマロ、おいしいわよ」
香ばしい匂いが流れてきた。
「うーん、でも、さすがにちょっと多すぎたかな?」と小夜。
「えっ、そうですか? ごはんは・・・・・・ないんですね」と北条。
北条の食べっぷりを知っている愛が噴きだした。
「飲めるよね? 大学三年生」。小夜が、ほいっと北条にビールをトスした。
「あざっす」
「愛ちゃんも飲む?」
「・・・・・・いただきます」
「おい、お前まだ十九歳じゃなかったっけ?」
「あら? 北条くん、硬いこと言うのね。愛ちゃん、誕生日はいつ?」
「来月、五月五日で二十歳になります」
「なんだ、来週じゃない」。小夜が笑った。
「じゃあ一週間早いお誕生会ということで。乾杯ね」
三人が、テーブルの真ん中に缶を寄せ合う。
「さぁ、肉、肉、野菜、肉、野菜のリズムで、どんどん食べてね」
愛はラム肉を初めて食べた。遠野ではジンギスカンでよく食べられているという。二歳までの子羊の肉で、洋食では高級食材として扱われることも多い。味わいは、少しだけ獣の匂いが感じられるけれど、牛肉よりも豚肉に近い。
(おいしい!)
思ってもいなかった展開だけれど、また種山ヶ原で夜が過ごせる。
小夜さんと、そして北条先輩と一緒に――。
「小夜さん、北条先輩、さっきはすみませんでした」。
食事のあと、愛はふたりに詫びた。
「気にすんナ」。いつもの北条の声がやさしい。
「私は、あの絵の風景が描かれた場所をずっと探していたはずなのに、でも、あの場所に立ったとき、私はなにかすごく大事なことを忘れていた気がしたんです」
「大事なこと?」と小夜。
「忘れてた?」と北条。
ランタンの照明に照らされた愛の顔がうつむく。
「忘れていた、というのとも少し違うかもしれません。記憶にあるはずのないなにかを必死に思い出しはじめたっていうか。・・・・・・それに、あのとき――」
「?」
「その・・・・・・、全然イヤな感覚じゃなかったんですけど・・・・・・」
愛がちょっと言いよどんだ。びくっと身体が小さく震えた。
「ムリに言わなくていいサ。いずれまた明日だ。・・・・・・また行くのは平気か?」
「はい。大丈夫です」
ランタンの灯が小さくなった。一昨日まで使っていたボンベだからそろそろ空っぽかしら、と言いながら立ち上がった小夜が「わーっ!」と声をあげた。
「世界、めっちゃ明るいよーっ!」。
「世界? ・・・・・・あっ、ホントだ。すげえ月明かり」
雲がひとつもない大きな夜空に、月齢十一.〇の月が皓々と光っていた。
「なのに、星もあんなにたくさん見えるのね」。空を見上げて、小夜が明るい星を数えはじめた。
「シリウスはもう沈みそうですね」。北条は、西の空に一等星を探した。
「でも今夜の主役は、やっぱりお月さんだな。Luna Nokto(ルーナ・ノクト:〝月夜〟)だ」
愛は北東に手を伸ばし、指をすうっと南東に滑らせた。
「北斗七星、アークトゥルス、スピカ。春の大曲線っ・・・・・・!」
「岩手に帰ってくると、二等星の北極星もやっぱり明るいな」。北条が、物見山の上空を見上げる。
種山ヶ原は北緯三十九度十分のところにある。鹿児島の愛の自宅は北緯三十一度二十八分付近。緯度とは北極星を見上げたときの地平線からの角度のことだから、種山ヶ原の北極星は、鹿児島よりも八度も高い角度で北の空に輝いている。
その輝きを、愛も見つけた。
北極星―――空のめぐりの目当て。
(旅の道しるべ、ポラリス。私はなにを探しているんだろう?)
「きゃーあ!」
小野寺一家のサイトから、女の子のかわいい歓声が上がった。
シュミカセのファーストライト。その初めての光を、いちばんに瞳に当てるという栄誉を獲得したのは、一家の末娘らしかった。
「月面を導入しましたよ。よかったら覗いて見ませんか?」。小野寺父さんが三人を誘ってくれた。
三人の中で、いちばん妹にあたる愛が、初めに覗かせてもらった。
「うわぁ――!」と叫んだ愛の、あどけなさ過ぎる声に、小野寺一家も嬉しそうだった。
「ファーストライトを覗かせていただけるなんて・・・・・・すごいです。嬉しいです。光栄です!」
「もう、ガマンでけへん」。小夜が叫んだ。
「あたし、歌う! センパイ、スタンバイしよ」
あー。あああああああああー。
小夜が声の調子を整える。
「センパイ! お願いします」。
小野寺母さんが、丁寧にヴァイオリンを抱き上げた。
ふたりは、あかーい、あかーい・・・・・・と、歌い出しの音を合わせた。
小野寺父さんと兄妹が少し心配そうな顔をしている。
北条と愛は、期待と不安でどきどきしていた。
小夜の右手が撓った。「・・・・・・さん、ハイ」
タン、タ、タタタタタタ――。
お母さんのヴァイオリンが、ピチッカート(爪弾き)のアルペジオでイントロを奏ではじめた。月の光の中に、宮沢賢治作詞・作曲の『星めぐりの歌』が流れ出した。
小夜が、すうっと息を吸い込む。
そして、次の瞬間、美しいソプラノが高原の夜空に響き渡った。
「あかーい めーだまの さーそりー
ひーろげたぁ 鷲の つーばさー」
方々から聞こえていたキャンパーたちの会話が一瞬にして静かになり、次の瞬間、どよめきがあがった。
北条は、腰を抜かさんばかりに驚いた。
(小夜さん、上手すぎる!)
愛は、自分の両腕を抱きしめた。鳥肌が立ったらしい。
「あおーい めーだまの 小いぬー
ひーかりーの へびの とぐろー」
伸びやかな張りのある高い声と滑らかなビブラートで、一語一語に情感を込めて夜空の美しさを歌い上げていく小夜。
初めはちょっと遠慮気味だったお母さんのヴァイオリンも、小夜の大きな声に励まされたのか、大きく鳴りはじめた。
ヴァイオリンは不思議な楽器である。例えば自宅などで練習するときは、小さく軽い音で鳴らすこともできるし、一方コンサートホールなど大きな場所で演奏するときは、マイクなどを使わなくても会場いっぱいに音を響かせることもできる。
不思議というか、すごい楽器なのだ。
歌声とヴァイオリンの音色は、月の光にもまして澄み、草原に冴え冴えと響き渡った。
周りからも次々に歌声が上がり、やがて大合唱になった。
「オーリオーンは 高ーく うーたいー
露と 霜とーを 落とすー」
星や星座に色や表情を与え、一小節ごとに童話絵本のページをめくっていくような、賢治ならではの幻想的で美しい歌詞。そして、やさしい主旋律。
この歌が大好きで、これが歌いたくて種山ヶ原にやって来るキャンパーも多い。
『おゝ、おれたちはこの夜一ばん、東から勇ましいオリオン星座がのぼるまで、このつめくさのあかりに照らされ、銀河の微光に洗はれながら、愉快に歌ひあかさうぢゃないか』
種山ヶ原に『ポランの広場』が現れた。
「アンドロメダの くもは
サカナの おくちの かたち
大ぐまの 足を 北に
五つ のばしたところ
小ぐまの ひたいの 上は
空のめぐりの 目当て」
愛は、合唱の渦の中で小さく歌いながら、北の空を見上げていた。
目の中でポラリスが滲んだ。
大合唱は、最後にもう一度、一番の歌詞が繰り返されて終わった。
わーっ! という大歓声。小野寺母さんが小夜の首に抱きついて泣き出した。
「すんごい気持ちよかった」
小夜が大満足といった表情でイスに戻って来た。
「小夜さん、すごくステキでした」
感動しました、と愛は少し涙声だった。
「愛ちゃん。ありがとう。ビールと爆笑で喉を鍛えてるからね」
愛に笑いかけながら、小夜は九本目のビールを開けた。
「〝種山ヶ原のローレライ〟って呼んでもいいですか?」
『漕ぎ行く船人 歌に憧れ』と北条。
「『波間に沈むる 人も 船も』ってかい?」と小夜。
北条と小夜が爆笑した。
「でも、やっぱり岩手。そして、さすが種山ヶ原のキャンパーさんたちよね。北条くんの同好会のみんなも歌えるの?」
「去年の夏合宿のとき、ここで、みんなで歌いました。それにこの歌は、岩手県人にとっては第二県民歌です」
「いいなー。天文同好会、楽しそう。まあ、あたしがいたワンダーフォーゲル部もかなりおもしろかったけど」
それでキャンプ慣れしているのか。北条は納得した。
「ねえ。種山ヶ原ってさ、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』のストーリーを思いついた場所じゃないかって言われてるんだよね?」
「それだけじゃなくて、『風の又三郎』もここで着想したと言われてますし、詩篇もたくさん残してます。ドヴォルザークの『新世界』の第二楽章のメロディに、賢治さんは自作の詩を載せて、ここで歌っていたそうですよ」
「第二楽章って『遠き山に日は落ちて』だよね。それに合わせた宮沢賢治の詩があるの? あの曲って『銀河鉄道の夜』にも出てくるよね。たしか、氷山に衝突して沈んだ船に乗っていた女の子と弟が、途中駅から列車に乗ってきて、そのあと、あの旋律が流れてくる。で、女の子が『新世界交響楽だわ』って言うのよね」
「オレも歌ってみます」
北条が、低い声で歌い出した。
「春は まだきの 朱け雲を
アルペン農の 汗に燃し
縄とマダカ(菩提樹皮)に うちよそひ
風と ひかりに ちかひせり
四月は 風の かぐはしく
雲かげ原を 超えくれば
雪融けの 草を わたる」
「すごいね。北条くんのバリトン、すてき」
小夜が、拍手してくれた。
「小夜さん。賢治さんには、とても仲のよかった妹さんがいたのって知ってます?」
「うん。トシさんだよね」
「『銀河鉄道の夜』の主人公であるジョバンニは、実は賢治さん自身で、カムパネルラはトシさんじゃないかっていう研究者の説もあるんですよね」
賢治の二歳年下の妹・宮沢トシは、賢治最愛の妹であり、賢治が篤く信仰していた法華経の信仰上の同士として同じ道を歩む仲間でもあった。賢治はトシに対して、のちの研究者たちに「異常」と評されるほどの強い思いとやさしさを抱いていた。
トシが結核を患い、二十四歳という若さで死んだとき、賢治は押入に頭を突っ込んでオイオイと泣いたり、トシの頭を膝にのせて、なんども髪をくしで梳ったりしたという。
しかし、賢治は、そんな深い悲しみの中から、美しさ溢れる一連の詩篇を生み出した。
『永訣の朝』『無声慟哭』『オホーツク挽歌』などである。
『永訣の朝』に、こんな一節がある。
「うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる」
最愛の我が妹であるトシが、もしも生まれ変わるなら、今度は悪いことばかりに苦しめられるような世界ではない、もっと違う世界にきっと生まれてくる。そう願う。
さらに、
「おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」
賢治は、死の間際にあった妹にために、みぞれを取ってあげた。
賢治は願った。このみぞれ雪が、やがて天上のアイスクリームとなり、トシのためばかりでなく、すべての人々に幸福をもたらす食べ物となることを、私のすべてをかけて心から願う、と詩に綴った。
「さとさんは『早く戦争が終わるなら、オレの身体なんかくれてやる』って、重太郎さんにそう言って特攻に飛び立って行ったんだって、コイツに聞かされました」
北条が隣に座っている愛を見た。愛は、膝掛けの上に置かれた自分の手をじっと見つめている。
コトっ。
小夜がビール缶をテーブルに置いて北条に問う。
「ねえ、北条くん、さとさんが言っていた『戦争を終わらせるためにオレは飛んでいくんだ』って・・・・・・どういう意味なんだろう?」
「小夜さん、人は死んだらどうなると思います?」
「えっ?」
北条は、小夜の問いかけに答えずに逆に聞いてきた。
「それは・・・・・・。宗教観はさまざまだけど、例えば天国へ行く、とかかしら?」
「そうですね。でも、亡くなった人が心の中に生き続けるっていう言い方もありますよね?」
「そうね。その人を思い出すことかな? 同時に、その人がなにを思い、なにを考えていたかを想像することよね」
北条がうなずいた。
「『魂』という言葉には、ふたつの意味があると思うんです。ひとつはどこか違う世界、例えば天国へ行ったという考え方。そしてもうひとつは――」
「その人の思いだね。スピリッツ。この世に残されるもの、かな?」
「そうです。亡くなった人の願い、希望、夢。生きている間にやりたかったこと。誰かに伝えたかったこと。そして生きている人は、それを受け止めたり、受け継いだり」
「うんうん」
「さらにいうなら、自分が選択に迷ったとき、あの人ならどうするかな? って思ったり、あの人ならこう言ってくれる、こうしなさいって励ましてくれる。そんなふうに会話するみたいなこと。それが『人は亡くなっても心の中に生きている』っていうことじゃないのかなと思うんです」
北条が夜空を仰ぐ。その視線を追いかけるように小夜も見上げる。
月の光が二人の瞳に写った。
「さとさんは、早く戦争が終われば、多くの人が生き延びられる。そうすれば新しい国や、新しい時代をつくることができる。もう戦争なんてない時代が来ればいい。重太郎さんに思いを繋いでいってほしいと願った。終わりにするのは、この戦争だけじゃなく、戦争そのものが、地球上から消えてほしいって。悲しみも苦しみももうたくさんだって」
「そうかもしれないね。そのためだったらって・・・・・・」
「そして、もうひとつ」
「もうひとつ?」
「さとさんは、やっぱり妹さんのそばへ行きたかったんじゃないかなって思います」
『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニは「僕はもうあのさそりのように、ほんとうにみんなの幸のためならば、僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない」そして「どこまでもどこまでも、僕たちいっしょに進んでいこう」とカムパネルラに言う。カムパネルラも「ああ、きっといくよ」と答えた。
しかし、その直後、カムパネルラの姿は消えてしまう。ジョバンニは、痛いほどの悲しみの中で目を覚ました。
天気輪の柱が立つ丘から街に戻ったジョバンニは、カムパネルラが川に落ちて行方が分からなくなったという現場に出遭い、カムパネルラと一緒に乗っていた列車の旅が、実はカムパネルラが死の世界に向かう旅の途中だったのだということを知る。
ジョンバニは幸福を探していた。カムパネルラも一緒に探そうと言った。
しかし、カムパネルラもトシも、そして中屋敷哲も、その妹も、ほんとうの幸と出会う前に「とほくへいってしまった」――。
「さとさんは、妹さんのことを『自分の半分だ』って言ってたそうです。その最愛の妹さんが、この世に生きていた証しとして肖像画を描いた。その絵はどこに行ったか分からないけれど、今日、山科が、〝風景じゃない〟〝記憶にあるはずのないもの〟って言って、同時に感じたもうひとつの〝なにか〟って、例えば、さとさんの、妹さんへの思いのようなものがあそこにあって、それを感じたんじゃ?」
「っていうことは?」
「あの墓地のどこかに、さとさんの妹さんが眠ってる・・・・・・とか?」
「それって――」
流星がひとつ、北斗七星を横切った。
あっ、流れた! という声が、キャンプ場のあちらこちらから聞こえてきた。
「あたしも思った。さっき、あのお寺さんで、なんだかそんな感じがしたの」
「風景画は、海軍に入るために遠野を出るときに描いたんですよね。だとしたら、ご両親や妹さんにお別れを伝えるためにお墓へ行って・・・・・・」
「うん。そこで描いたのよ、きっと。愛ちゃんが感じた〝なにか〟って、展開としては、ちょっとオカルトめくけど、でも、それなら確かに〝イヤな感じ〟っていうんじゃなさそうだよね。それに、あの絵の場所は、ほぼ間違いなくあの墓地だもの」
「――なあ、山科。思い出させてすまんが、今日、お前が感じたのって・・・・・・」
北条と小夜が、愛の顔を見た。
「・・・・・・って、寝てるしっ!」
愛は、イスに身体を預けて、すやすやと小さな寝息を立てていた。
「そう言えば、コイツ、昨夜は徹夜だったって言ってました」
「お酒も飲んじゃったしね」。小夜が、くすくす笑う。
「いいわ。とにかく明日、もう一度、あのお寺へ行ってみましょう。じゃあ、さっとお片付けして、あたしたちも休みましょうか」
といっても、皿やボウルなどは、いつの間にか愛が重ねて置いてくれていたし、残った食材や食べ残し、空き缶なども、すでにまとめられていた。
「さすが愛ちゃんね。北条くん、愛ちゃんを抱っこしてテントに入れてあげて」
「えっ?」
「えって言うな。あたしに運べるわけないでしょう?」
(いや、小夜さんなら、いけそうな)
小夜が北条の目を読んだ。
「なにか?」
「なにも」
「って、どう考えても、あなたのお役目でしょう?」
北条が、イスから愛を抱き上げた。
(軽っ――)
愛の身体は小さくて柔らかくてあたたかかった。北条は、今、自分はひどく大切なものを抱き上げているのだと感じた。
北条は、二人用のテントに愛を運び、延べられていたシュラフ(寝袋)の上にそっと寝かせた。ダウンジャケットのまま、静かにファスナーを閉めると、愛が、ううん・・・・・・と言って横に寝返った。
「おやすみー」。
一人用テントから小夜の声が聞こえた。
「えっ? 」
(オレが一人用じゃなかったの?)
北条がそう思う間もなく、
「明日は六時起床ね。んじゃ」と言った小夜の声が、あっという間に寝息に変わった。
「―――」
北条は仕方なく、愛の隣に用意されていたもうひとつのシュラフに入った。
高く昇った月が皓々と、若葉色のテント地の内側の隅々にまでその光を拡散させていた。
淡くやわらかな月の光に包まれた愛の寝顔が、すぐ隣にある。
少し長めのこけしカットのサイドが、目のところにかかっている。涙のあとも見えた。
カッパ淵の木漏れ日の中で微笑んでいた、夏の日の愛の笑顔を思い出した。
北条は、その髪をどかせようかと手を伸ばしたが、すぐそれを止め、愛の肩のあたりにそっと手を添えて、ゆっくりと四度ばかり、父親が子どもを寝かせつけるときのように指だけで軽く叩いた。
北条は、愛に背中を向けて転がった。一分もしないうちに、北条の寝息が小夜のテントにまで聞こえてきた。
小夜は、シュラフの上で胡座をかいていた。
タヌキ寝入りを止めて、
プシュッ。
この日、十二本目となる缶ビールのふたを開けた。
左手のG-shockを見る。午後九時四十三分だった。
(もうすぐ月が南中するわね。こんなにキレイな月夜だもの。撮影しない手はないわ)
小夜が、がさごそと撮影の準備をはじめた。一人用テントの気楽さだ。
10・遠野物語
【二〇一八年四月二十九日】
「どうして、先輩が、私と同じテントで寝ていたんですかっ !?」
翌朝、愛はぷりぷり怒っていた。
「いや、どうしてって・・・・・・それは」
昇ってきた太陽が、愛が寝ていた緑色のテントの中を眩しい光で満たした。
テント内の気温は一気に上昇し、その暑さと眩しさで、愛は目を覚ました。
(・・・・・・? あれ、私、イスに座っていて――)
いつテントに移動したんだっけ?
自分がシュラフで寝ていたことを、すぐには理解できなかった。
シュラフのファスナーを少し開けて左手を出し、腕時計を見た。もう六時半を過ぎている。
そのままファスナーを半分ほど引き下げ、上半身を起こして、右隣のシュラフで寝ていた〝小夜〟に声を掛けた。
「おはようございます・・・・・・」
だが、愛の寝ぼけた目に飛び込んできたのは、アルプスの草原でのびているセントバーナード犬のように、シュラフから片腕をでーんと放り出して転がっている北条の寝姿だった。
「・・・・・・えっ? えーっ!」
テントの外から小夜の爆笑が聞こえてきた。
「愛ちゃん、おはよう。起きた? 北条くんも起こして出ていらっしゃい」
(なにこれ? どういうこと?)
愛は、昨夜の記憶の映像を巻き戻した。
北条が歌っているシーンで、その動画はいったん終わり、次に背中と膝裏にふと蘇る、なんだかやさしい圧力っぽい感触。
(まさか、先輩が私を抱・・・・・・)
北条も暑くなってきたらしい。とうとう両腕をシュラフから出した。北条はTシャツ一枚だった。しかし、起きる気配はない。それどころか寝返りを打って愛に背中を向け、また軽くいびきをかきはじめた。
愛はだんだん腹が立ってきた。
少し考えてから、愛は、恐る恐る北条に右手を近づけ、そして次の瞬間、思い切って背中を「ばんっ!」と平手で叩き、すぐその手を身体ごと引っ込めた。
眠っている犬の鼻面にそーっと近付いて、パンチを繰り出した子猫のように―――。
「あぃでっ!」
飛び起きた北条の目の前に、シュラフの上で正座して、少し肩をすくめて下唇をかんで、真っ赤な顔で自分をにらみつけている愛がいた。
「・・・・・・?」
北条は一瞬きょとんとしたあと、両手で目をゴシゴシして、両肘をそのまま後ろに持っていきながら胸を張り、「んーっ」と伸びをしたあと、次に首を左右に振って軽くストレッチをはじめた。
その一連の動きを、愛はじっと見つめている。
もとの姿勢に戻り、ふぁっと息を吐いたあと、北条は愛の方を向いて、のどかすぎる顔で声をかけた。
「おう」
次の瞬間、北条がテントの中に脱ぎっぱなしにしていたダウンジャケットが、北条の顔めがけて飛んできた。
「?」
空中で、わっと広がり、北条の頭をばさりと覆った。
北条は、状況が理解できていない。ダウンジャケットを被せられたままの北条の頭が、起きてから数十秒の間のことをたどりはじめた。
被せられたダウンジャケットをめくると、逃げるようにテントからはい出て行く愛の後ろ姿があった。
小夜が用意してくれた朝食は、キャンプ用ガスストーブ専用の焼き網で焦がしたトースト、いちごジャム、バター、昨日スーパーのお総菜コーナーで買い込んでおいたサラダ、バナナ、カップスープ、オレンジジュース、パーコレーターで淹れたコーヒーなど。
朝食の席に着いても、愛はふくれたままだった。
北条がバターナイフを使いながら、愛の顔をちらっと見た。愛は、その視線から逃れるように北条に背中を向けて、あむっとトーストをかじった。
小夜はニヤニヤしているばかり。
「ちょっと、小夜さん。元はといえば小夜さんが謀ったことなんですから、なんとか言ってやってくださいよ」
北条が、小夜に助け船を求めた。
「北条くんにお姫様抱っこされた愛ちゃんの寝顔、かわいかったわ」
愛がオレンジジュースを噴いた。
小夜は、わざと表情を消した顔で、しかし、口元の笑いを隠しきれないまま、ゆっくりとスープをかき混ぜている。
シェラカップから立ち上る湯気が朝日にたゆたう。
三人が小野寺一家に別れのあいさつをしていたとき、末娘が、お姉ちゃんもう会えないの? といって小夜に抱きついて泣き出した。
小夜は、末娘の頬をやさしくなでながら、岩手はしょっちゅう来てるから大丈夫よ、きっとまた会おうね、と言って、バンダナで涙を拭いてあげた。
小夜は、小野寺父さんに改めて名刺を差し出し、お母さんとは、もう一度、がっつりと抱き合った。
小夜のランクルが走り出すと、小野寺一家はじめ、多くのキャンパーたちが手を振ってくれた。
キャンプ場を出てすぐ、道が右に大きくカーブしたところ、物見山の左側稜線から、残雪を真白に輝かせた早池峰山が頭を覗かせていた。
空は真っ青。今日もいい天気だ。
車内は、しばらく静かなままだったが、やがて小夜がくすくす笑い出した。
「愛ちゃん、まだ怒ってんの?」
「怒ってなんかいません」
後部座席では、昨日は神妙な顔をしていた北条が、今日はぶっきらぼうな横顔をルームミラーに向けていた。
(小夜さんのいたずらだったんだ・・・・・・)
「ごめんね。イヤだった?」
「イヤ? いえ・・・・・・ゃっていうか」
愛が顔を赤らめてうつむいた。
「小夜さんって、いつも私をからかってばっかり」
拗ねた子どものようなその声が、小夜のみぞおちにヒットした。
(この子って、ホントにあたしのツボだわ。どうしてこんなにおもしろいんだろう)
小夜のお尻に、先端が矢印の形をした幻の黒いシッポが揺れている。
「だいたい、オレと小夜さんが大事な話をしている途中で寝落ちするか、フツー」
北条がからかうように言った。北条も愛の拗ねた声がおかしかったのか、だんだん腹が立ってきたのか。
「先輩にだけは言われたくありません!」
愛が後部座席を振り向いて反撃に出た。
「定例に出てきても寝てばっかりじゃないですか!」
「大事なところはちゃんと起きてるサ」
「授業中も寝てるんでしょう? 単位落としても知りませんからね!」
「オレは授業料以上に勉強してるぞ」
愛は、照れくささをぶつける相手として、当の北条に照準を定めたらしい。
北条もまた負けていない。のらりくらりと、愛の〝口撃〟を交わしている。
(あらあら、このふたり・・・・・・)
どちらも、ぺらぺらとおしゃべりをするタイプじゃなかったのに、こんなにテンポのいい応酬ができるのね。小夜がちょっと感心した。
「あんなに暑くなってきたテントの中で、二度寝のいびきをかくなんて信じられません」
「あー。まだ痛ぇ、背中」
「棒とかあればよかったのに!」
愛と北条は、お互いの怒った顔を見つめあっている。これまで、お互いがお互いに見せたことのない顔。それが、怒った顔だった。
初めの腹立ちはもう消えている。軽口をピンポンしながら、愛は、昨秋から北条との間に引かれていた薄いカーテンのようなものが消えていくのを感じていた。
「だいたい持ち歩いているのが、なんでいつも手ぬぐいなんですか? 大学生なら普通はハンカチかバンダナでしょう?」
「農協や漁協からもらったヤツが実家に売るほどあるんだよ。今度、お前にもやるよ」
「コーヒーのシミが付いたシャツとか平気で着てるし!」
「お前もいつもデニムばっかりじゃねーか。たまにはスカート履いて女装しろ」
もはやどうでもいい内容に変わっている二人の口げんかは、国道に出てからもしばらく続いた。
合間に、小夜が絶妙なタイミングで茶々を入れて混ぜっ返す。それがまた燃料になった。
赤羽根峠のトンネルを抜けて、遠野盆地に入った。国道の正面に、早池峰山が雄々しい姿を立ち上げている。
長徳寺に着き、小夜は駐車場に車を止めた。
庫裡の玄関前に立った小夜は、小さく咳払いしたあと、
「ごめんくださぁい。突然に恐れ入ります・・・・・・」と、昨日とは打って変わって、やや緊張気味の声で、インターホンにあいさつした。
「はい」という返事があり、奥から、作務衣姿の住職らしい人が出てきた。
六十代半ばほど。丸っこい体に柔和な顔を据え置いた好々爺といった風情の、どこかタヌキっぽい印象を与える人だった。
「はいはい。・・・・・・あー。これはこれは。どうやら遠くからのお客様のようですナ。拙僧、当寺の住職で曄海と申します」
合掌しながら訪問者たちに会釈するタヌキ。三人も慌てて会釈と合掌を返した。
――ふと、住職が愛の顔を見て、おやっ? という表情をした。
「?」
愛は、その目に少し戸惑ったが、もう一度、丁寧にお辞儀を返した。
「突然、訪ねてまいりまして申し訳ございません。こちらに中屋敷さんという方のお墓はありませんか?」
小夜が住職に尋ねた。
(えっ? いきなりそこ?)
北条がちょっと驚いて小夜の顔を見た。
「中屋敷さんという檀家信徒さんは数軒おられますが、どちらの中屋敷さんでしょうか?」
「えーと、中屋敷 哲さんという方のご家族・・・・・・妹さんのお墓なのですが」
「皆さんも、その方のご親類で?」
「あっ、いえ、そうではないのですが」
小夜は、愛がスマホからプリントアウトしてくれた写真を示しながら、
「実は、この写真に写っている絵の場所を探しているんです。この絵の作者が中屋敷哲さんという方で、戦争時、特攻隊で亡くなった方なのですが」と尋ねた。
住職が、写真の絵を覗き込んだ。
「ふむ――?」。
写真をじっと見たあと、住職がにっこりと微笑んだ。
「なにかご事情がおありのようですナ。・・・・・・まあ、立ち話もナンですから、ささ、どうぞ中へ。よろしければ、ゆっくりお話しを聞かせてくださいナ」
住職が、三人を庫裡の中へ誘った。
まあまあ、さあさあ、いやいや、どうぞどうぞ、と、住職は、にこにこしながら十二畳ほどの広間へ案内した。
「いやいやぁ、よい時期に遠野へ来られましたナ」
住職が、どこか楽しそうにお茶を入れてくれた。
「私も、もう六十年以上も、ずっとここで暮らしておりますが、桜、菜の花、タンポポなどが咲く遠野の春は、何度巡ってきても、極楽浄土さながらに心が安らぎます」
住職はゆっくりとした手振りで湯飲みを茶托に載せ、三人に勧めてくれた。
「むさい坊主の手で入れた粗茶ですが、まあ、どうぞ。カミさんは今日、隣町の寺へケンカの手伝いに行ってましてナ」
「はあ?」
「あー。抑揚を間違えました。えー。献花の手伝いに行ってましてナ」
(大丈夫か? この寺)
北条と小夜が心の中で突っ込んだ。
愛がくすっと笑う。
何から言い出せばいいのか分からないほど緊張していた愛の気持ちがほぐれた。
「実は昨日、お昼前にも一度、このお寺を訪ねましたが、ご不在でした」
小夜が住職に言った。
「あー。お墓の北の端っこの方へ行ってました。身寄りなく当寺に埋葬された方にお念仏を上げて、そのあとは、ちょっと隣の家を訪ねて、お茶っコしてました。そのお宅のガンヅキとタクアンが、これまた、とてもおいしくてですナ」
お茶っコとは、ふらり立ち寄った先の家の縁側などで、一緒にお茶をいただきながら、とりとめのない会話を楽しむことを言う。
また、ガンヅキというのは、岩手や宮城でよく作られる蒸しパンのような郷土菓子で、農作業の合間などにおやつとして食べられる。
「午後にもまた伺ったのですが、カギがかかっていました」
小夜の声が少しイライラしている。
「はいはい。えー。お茶っコのあと、すぐ盛岡へまいりました。同級生の孫で、私が名付け親になった野郎っコの結婚披露宴がありましてナ。その孫ってのが大工の見習いをしておるのですが、ちょっとヤンチャなヤツでして。お嫁さんは秋田から来られた方で、いわゆる『できちゃった婚』というのだそうで」
愛と北条が、顔を見合わせた。
愛が、改めて住職に丁寧にお辞儀した。上座の方から、愛、小夜、北条の順番で座っている。
「私、山科愛と申します。こちらはカメラマンの川村小夜さんと、私の大学の先輩で北条哲さんです」。
小夜と北条も愛に倣ってお辞儀した。
「こちらこそ改めまして。当寺の住職で和尚の曄海です」と合掌した。
輝く海という意味です、と訊いていないことまで言った。
「実は私たちは、あることについて知りたく思い、遠野を訪ねてまいりました――」
そう言って話しはじめた愛の声は、これまでに聞いたことがないほど、しっかりしていた。小夜と北条が少し驚いたほどに。
住職は、正座していた膝を少しだけにじらせて、愛と向かい合った。
愛は、落ち着いた口調で、鹿児島から岩手へと至るまでのことがらを整然と、まるで物語を朗読するように話した。
住職は、愛の正面で目を閉じていた。時折「はい」「なるほど」「ほう」「ふむ」と、愛の話しを先導したり後押しするように、短い相づちや間投詞だけをつぶやく。
少しだけ、長い話になっていた。
「お話し、とてもよく分かりました」
愛の話が終わったあと、住職は、丹田のあたりで手を組んだまま、愛の顔をじっと見ながら言った。
「鹿児島県の山科重太郎さん――」
住職の頬に、穏やかな微笑が咲いた。
「ちょっと昔のことですが、当寺にお見えになられましたよ」
「えっ? えーっ?」
三人の声が重なった。
どっこらしょ。
立ち上がった住職は、ちょっとお待ちくださいね、と言って、左奥の部屋からノートを数冊持ち出してきた。
「えーと、確か世紀末近くだったような。あー。私が跡を継いだ年だったかな?」
これじゃないナ。こっちかナ、と言いながら住職はノートをめくった。
「えー。あー。んー。山科重太郎さん・・・・・・っと」
小夜がまたイライラしはじめた。北条は、ちらっと小夜の方を見て、少し身体を離した。
「あっ。あー。ありましたね。んーっと、平成九年、一九九七年ですナ。八月十七日。山科重太郎さん、遠路、鹿児島県より当寺を訪う――」
一九九七年八月。愛が生まれる前年の夏だった。
重太郎は、舞鶴で行われた海軍工機学校の同期会のあと、遠野を訪ねてきたのだという。
「重太郎さんは、こちらに〝中屋敷なる〟さんという方のお墓はありませんか? と訪ねて来られました」
「なる・・・・・・さん?」
愛が、はっと住職を見上げた。そして、「あっ」と小さな声を上げ、すぅっと息を飲み込んだ。
なにかを思い出したような声、息づかい。
北条と小夜が驚いて、愛の横顔を見た。
目を大きく見開いて、軽く合掌するように唇の前で両手を合わせて住職の顔をじっと見ている。
「中屋敷なるさん。中屋敷哲さんの妹さんです」
住職もまた、愛の顔をじっと見た。
庭先でなにかを探して遊んでいた子どもが、目当てのものを見つけて振り向いたとき、そこにいて頭をなでて一緒に喜んでくれる父親ように、
―――見つけましたね。
住職の目が、そう言っていた。
愛の目に、涙が溢れてきた。
「重太郎さんは、ハイヤーを使って、遠野のお寺を一軒ずつ訪ねていらっしゃるとのことでした。私も中屋敷なるさんという方は存じていなかったので、急ぎ過去帳を逆戻ってみました。すると、昭和十六年初冬、中屋敷なるさんという女性が、当山墓地の北の端に埋葬されていたということが分かったのです」
愛は、表情も身体もじっとして動かない。涙が頬をつたいはじめた。
「昨日、みなさんは、愛さんが先ほどお話しされた、絵が描かれた場所の近くへ行かれたとのことですが、どうも東側の方へ進まれたようですナ。墓園の頂上から少し北西の方へまいりますと、そちらにもちょっと開けた場所があり、その奥になるさんが眠っておられます。私は昨日、お昼前にお念仏を唱えていたと申しましたが、それは、なるさんのお墓でした。でも、みなさんとはちょっとすれ違ってしまったようで」
よっこらしょ。
また住職が立ち上がった
「えーと。ちょっと待っていてくださいね。重太郎さんが当寺に預けていかれたお品があります」
住職は、今度は右奥の部屋へ入っていった。
どうして愛は泣き出したのか。その訳がまだ分からないまま、北条が手ぬぐいを、小夜がバンダナを同時に愛に差し出した。愛は、小夜のバンダナを受け取って、顔を埋めた。
小夜が、愛の背中に手を添えながら、ちょっと怒ったような声で北条にささやいた。
「ねえ、なにが起きてんの?」
「いや、なにがなんだか、オレにも」
「それにさ、二十年も前に訪ねてきた人の曾孫が突然、しかも偶然にやって来たってんなら、フツー、住職さんだってびっくりだよね?」
「来客にいちいち驚いていては、寺でのお勤めは果たせません」
住職が、風呂敷に包まれた箱を持って戻って来た。
(聞こえていた)
うんこらしょ。
住職が座り直した。
「これは、ステキなご縁のお話しなのですよ」
と言って、住職は座卓の上で、箱を包んでいた紫色の風呂敷をほどきはじめた。そして箱を開けると、中からパラフィン紙に包まれた額が出て来た。
愛は、その額に見覚えがあった。あの風景画が入れられていたのと同じ、昭和も半ばごろのものかと思われる古い額。
住職がパラフィン紙を左右に開いた。額縁の中に、青年と少女が並んで立っているデッサン画があった。
住職は、手のひらを表にして、絵の中の人物を紹介するように指した。
「重太郎さんは、こちらが中屋敷哲さん、そしてこちらがなるさんだとおっしゃっていました」
絵を覗き込んだ小夜と北条が、同時に声をあげた。
「なるさんって・・・・・・」
「愛ちゃんに」「山科に」
「似てねっ!?」
住職がお茶をすすった。
「いやあ。私もさっき、愛さんのお顔を拝見したときは、口から心臓が飛び出るかと思いましたよ」
(この坊主・・・・・・)
小夜が住職をにらんだ
「重太郎さんは、哲さんが出撃される前夜、この肖像画と故郷の春を描いた風景画を〝預かってほしい〟と言われたのだそうです。そして、当寺を訪ねて来られた重太郎さんは、ここがなるさんの眠っている寺ならば、この肖像画を納めたいと申し出られたのでした」
「わざわざ遠野まで・・・・・・」。北条がつぶやいた。
「重太郎さんは、お身体の具合があまりよくなく、舞鶴での同期会も、もう今回が最後になるかも分からない。それで鹿児島よりかは、いくらかでも北に近付いたこの折に、思い切って岩手にやって来たのだとおっしゃっていました。・・・・・・まあ、鹿児島県の方が、そうそう何度も来られる場所ではありませんからナ」
「じゃあ風景画の方は? どうしてこの絵だけ?」。小夜が尋ねた。
「二枚とも、ご自身のそばからなくなってしまうことは、さすがに寂しいと思われたのでしょうナ。重太郎さんはあの日、おふたりが描かれたこの絵と一緒に、ハーモニカも持って来られました」
「ハーモニカ? ・・・・・・あっ!」
北条と小夜が顔を見合せた。
「そして『このハーモニカをなるさんのお墓へ埋めてください』とおっしゃいました。哲さんが『形見だ』と言って重太郎さんに差し上げたものだったそうです」
北条と小夜は、愛から聞かされた串木野の永留家でのお年寄りたちの回想のなかに、青年のハーモニカに合わせて重太郎が歌っていたという逸話があったことを思い出した。
「哲さんも重太郎さんも『椰子の実』という曲がお好きで、よく一緒に演奏して歌ったそうです」
愛の目に、また涙が溢れてきた。
「ハーモニカは、重太郎さんにとって、哲さんと自分を繋いでいた大切なお品です。きっと絵以上に思い入れがおありだったはずです。もともとは、哲さんがお父さんに買っていただいたものだそうで、哲さんとお父さんを繋いでいたものでもあります。
また、なるさんは盛岡の養家で、従姉妹に辛く当たられて泣き出すこともあったとか。そんなとき、哲さんは、ハーモニカを吹いて、なるさんをなぐさめたのだそうです。なるさんにとって、やさしいお兄さんと自分を繋ぐ音。心安らぐ〝おまじない〟をかけてくれた音色なのです」
北条も泣きそうになり、さっき一度しまった手ぬぐいをポケットから取り出した。
「なるさんの御霊をいちばんなぐさめてあげられるのは、きっと、そのハーモニカだったのでしょう。重太郎さんは『――よかった。やっとなるさんに、お兄さんのハーモニカを聞かせてあげられる』と言って、泣いておられました」
小夜が、北条の手ぬぐいを奪って泣き出した。
「哲さんのお骨が遠野に帰って来られることはありませんでしたが、でも、なるさんを思う哲さんのお心は、重太郎さんが遠野まで、大切に連れて来られたのですよ」
住職がお茶を入れ直した。
「みなさん、落ち着かれましたら、なるさんのお墓へまいりましょう」
袈裟に着替えた住職に案内されて、三人は『中屋敷なる』のお墓を訪ねた。
墓地の最上段から左のヤブに入り、少し行くと、やや北向きに傾斜が下がりはじめる場所があり、雑木の木梢の間からは早池峰山が望まれた。
三人は、昨日は絵の場所でなく、小夜が写真を撮影した場所を、つい探してしまっていたため、本当は左に行くべきだったところを右に進んだのだ。
昨日、たどり着いた場所と同じような林間の空き地。
たおやかに枝と若葉を揺らす一本の柳の木の下に、小さな墓石があった。
小夜が絵の写真を取り出し、風景と重ねる。雑木林の木梢の間から見える早池峰山と前衛峰の姿が写真と重なった。
七十余年前と、変わっていながら変わっていない遠野郷の春の景色が、三人の目の前にあった。
「哲さんは、遠野を離れるとき、なるさんのお墓の前で、その風景画を描かれたのですナ」
住職が、なるが眠っている場所を示しながら言った。
なるの墓石は花崗岩らしい灰白色で、ところどころに黒色や茶色の粗粒が浮かんでいた。基部が長方形に近く、上に向かって丸みを帯び、中程で少し膨らんだあと、そのまま円を描くように輪郭を閉じる。
少し大きめの花かごにシルバーレースをこんもりと飾ったようなそのシルエットに、芽吹きはじめた柳の若葉の淡影が、一枚の大きなサテンのように打ちかけられていた。
北条が、墓石の側面に刻まれた文字に気付いた。
「中屋敷・・・・・・あい?」
「あー。それは、重太郎さんと相談して、重太郎さんがお帰りになったあと、私が石屋さんにお願いして刻んでいただいたのです。過去帳にあった、なるさんのお名前ですよ」
「・・・・・・?」
「なるさんは〝愛〟と書いて〝なる〟とお読みするお名前なのです」
「思い出したんです。私」
北条の隣でずっと黙りこくっていた愛が、小さく叫んだ。
「私が小さいころ、縁側でひいじいちゃんのお膝にのせられていたとき、ひいじいちゃんが『あいはかわいかね』って言ってくれたのに、私は『あいってだあれ? あたしはなるだよ』って答えたんです」
愛の記憶の中に、遠い日の情景が蘇った。
ゆるゆると流れていた南風が止んだ。
「私に愛という名前をつけてくれたのもひいじいちゃんです。私は、山科家にとって待望の女の子だったそうです。私が生まれたことを、ひいじいちゃんはとても喜んでくれて、私をずっとかわいがってくれて・・・・・・。私も、いつもひいじいちゃんにくっついてばかりいたそうです」
愛は、なるの墓前に膝をついて両手を合わせた。
「幼すぎたころのことです。私は、あまり多くのことを思い出せない――。でも、私は自分の名前もまだ覚えきれていないうちに、なるさんというそのお名前を知っていたのかもしれません」
北条も片膝をついて、愛の隣に並んでしゃがんだ。愛の肩が、そっと北条にもたれた。
「昨日、私がここに来たとき、ひいじいちゃんのお膝の上にいた縁側の思い出が急に浮かんできたんです。そして同時に『気付いて――』っていう声が、自分の胸の中から聞こえました」
北条が息を呑んだ。
「その声で、私も〝そうだ、私は気付いていない〟って思った。でも、それが、自分でも分からなかったし、今の声はなにっ? 誰っ? って考える間もなく、縁側の映像がどんどん大きくなっていって、混乱してしまったんです」
愛の話しを聞きながら、今度は小夜と北条が混乱していた。
(えっ? ちょっと待って。愛ちゃんって、なるさんなの? なるさんは重太郎さんの曾孫になったの?)
(重太郎さんが、さとさんの〝思い〟を遠野に連れて帰ってきてくれたから? なるさんは重太郎さんのそばに生まれ変わった?)
(待望していた女の子の曾孫になって、晩年の重太郎さんのそばに寄り添っていたってこと?)
(ということは、今度は山科が、なるさんを遠野に連れて帰って来た? いや、なるさんが山科を連れて来た? っていうか、ここは、なるさんが眠っている場所だから・・・・・・えーと?)
(なるさんは、今〝ふるさと〟へ帰ってきた?)
(いや、しかし、そんな・・・・・・)
「遠野にはこんな言い伝えがあります」
柳の枝を見上げながら住職が言った。
「柳や枝垂れ桜といった、枝が垂れる種類の木がお墓に自然に生えたとき、そのお墓の主は、どこかに生れ変ったのだ、と――」
北条も小夜も声が出ない。
「『遠野物語捨遺』にも、二四五話として掲載されている逸話です」
愛は、柳の木をじっと見つめて、心の中で答え合わせをしていた。
そして、静かにつぶやきはじめた。
その小さな声に、北条と小夜が左右から耳を近づけた。
愛は、鹿児島から岩手へやってくるまでの自分の時間を、曾祖父が中屋敷哲と出会った七十余年前までの時間を、ゆっくりと逆戻った。
心の中に散らばったままになっていたいくつもの思いや言葉のピースを、短い詩を紡ぎ出すように、一節ずつ、静かに声にしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ずっと探し続けてきた風景。
きっと見つけたかった この場所。
でも それが答えじゃなかった。
なぜ 私はここに来たかったんだろう?
どうして こんなに この場所を 思い続けて来たんだろう?
気持ちはいつも 言葉を追い越して行った。
理由を言葉にできなくて ずっと道に迷っていた。
思いはいつも 私の身体を置き去りにして 先に行ってしまう。
遠くから 誰かが私を呼んでいるような感覚があった。
浮かんでは消える 不確かな映像。
手を伸ばす前に逃げて行く流れ星のように。
私は それでも 追いかけなければいけないと感じていた。
人はいつか姿を隠してしまう。
でも その人のことを思う心の中に その人は生き続けるの?
ううん。それだけじゃない。
その人への追慕だけじゃなく
消えてしまったその人も、ずっと自分のことを思い続けてくれているんだって
〝自分自身が そう信じること〟で、
お互いの〝思い〟は どんなに離れていても きっと繋がることができる。
ひいじいちゃん。
今もずっと 私のことを 大事に思っていてくれてるんだね。
ありがとう。
だから あの絵を見つけたことは きっと必然だったんだ。
この場所に来ることは 私が自分で選んだんだよ。
私も ひいじいちゃんを追いかけてきました。
私が ここにたどり着いたこと 喜んでくれてるよね。
なるさん。
ひいじいちゃんが さとさんの〝思い〟を遠野に連れてきたように、
私は なるさんの〝思い〟を いつかここに
さとさんのもとに お返ししなければいけなかった。
だから ずっと探していたのだと思います。
なるさん。
ひいじいちゃんのそばにいてくださったのですね。
ひいじいちゃんは なるさんに会えて とても嬉しかったと思います。
きっときっと すごく嬉しかったはずです。
私は 今 なるさんの 〝やさしい思い〟を さとさんにお返しします。
さとしさん・・・・・・さとさん。
もう なるさんのおそばに帰ってきていらっしゃるのですね。
私が探していたほんとうの答えは 風景でも 場所でもなく 私の中にありました。
――さとさん。
私も今 なるさんに会えました。
さとさん。なるさん。
ずっと 同じときを刻んでいってください。
この透き通った風の中で。
銀河が明るく冴え渡る 遠野の空の下で――。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうぞそのままで、と言いながら、住職は、数珠と鉦を取り出し、三人の横に立って墓石に合掌した。
「なるさんは、長い間、ずっとここでひとりぼっちでした。でも、こうして不思議な縁が繋がることもあります。世界はこんなに広いのに、なるさんは、重太郎さんと愛さんに見つけてもらえたことを、きっと喜んでいらっしゃいますよ。――そして、愛さんも」
「――はい」
「では、みなさん、この場にて合掌いたしたいと思います。故人を思い、合掌。拝礼――」
止んでいた風が、また、雑木林に吹き寄せてきた。
よく澄んだ鉦の音が響くのと同時に、さやさやと、柳の枝が揺れる気配があった。
(柳の木が笑っている)
目を閉じたまま、北条はそう感じていた。
お寺に戻ると、住職は、庫裡の隣に建つ自宅の方へ招じてくれた。
茅葺き屋根の古民家。築二〇〇年以上は経っていそうだった。
玄関をくぐると、足もとに広い三和土のスペースがあり、その先には二十畳以上もありそうな黒々とした板の間があった。その真ん中やや右手には囲炉裏が切られている。
見上げると、屋根に葺かれた茅の裏側まで吹き抜けになっていて、少し曲がったまま大らかに削り出された太い梁が何本も入り組み、それらが囲炉裏の煙に燻されて鈍色に押し黙っている。心が落ち着いてくる、重量感に満ちた空間。
囲炉裏には、もう一段下にも板が張られていて腰掛けられるようになっていて、三人は住職の勧めに従い、炉辺に足を降ろして座った。もうすぐ五月だったが、囲炉裏には小さな炭火が熾され、大きな南部鉄瓶が自在鉤にぶら下がっていた。
さあさあ、これもご縁ですから、と言って、住職は、いつの間にか取り寄せていた仕出し弁当を三人に勧めた。よろしかったらこちらをお使いくださいナ、と、年代物の朱塗りの膳もわざわざ運んできた。
そのあと、住職は、私はあちらでいただいてまいりますので、ごゆっくり、と言って、囲炉裏の下座側にあった黒い板戸の向こうへ消えた。
ちらりと北条に見えたところでは、どうやら台所らしかった。
朱塗りのお膳でお弁当を食べている。
囲炉裏では、鉄瓶が湯気を上げている。
三人は、長徳寺を訪ねて来てからのこの短い時間に起きていることが、なんだか不思議な世界の出来事のように感じられた。
「・・・・・・あたしたちってさ、タヌキにばかされてないよね?」
小夜が台所の方をにらんで言った。
ラジカルな感想だと思いながらも、北条は北条で、
(まさか『迷い家』じゃないよな?)
『遠野物語』にある伝承を思い出していた。
『迷い家(マヨイガ、マヨヒガ)』は、『遠野物語』第六三話、六四話として採録されている山中の幻の家の逸話だ。
遠野ばかりでなく、東北各地や関東地方にも広く伝わる。
『家の有様、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりこと。
同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。
座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのやうに見え、
どこか便所などの辺りに人が立ちてあるやうにも思われたり』
深い森に迷った村人が、突然、立派な屋敷の前庭に出た。飼われている家畜も多く、庭も丁寧に手入れされていた。
玄関の戸を開けると、部屋の中に、ちょうどこれから食事がはじまるかのように食膳が用意されていた。陸炉では鉄瓶も湯気を上げている。しかし屋敷内に人の気配はない。
伝承では、その屋敷を訪れたものは、そこにある物品をなにかひとつ持って帰っていいことになっている。持ち帰ることで、その者は富貴を授かることができるのだという。
第六三話では、迷い家に出逢い、怖くなって何も持たずに逃げ出した三浦某の妻が、後日、マヨイガがあった森の方から、川に浮かんで流れてきた椀を拾い、ケセネ(米やヒエなどの穀類)を量る器として使っていたところ、箱の中のケセネはいつまでも減らず、やがて三浦家は豪農として栄えたという話が紹介されている。
しかし、第六四話では、迷い家を見たという青年が、後日、村人を山中に案内したが、結局家を見つけることができず、なにも得られないまま、村人にからかわれながら里へ戻ることになってしまった・・・・・・という失敗談になっている。
食事が終わりかけたころ、住職が台所から急須と湯飲みを運んできた。
炉端に座り、自在鉤から鉄瓶をおろし、お湯をこぽこぽと湯冷ましに入れた。そのお湯をさらに湯飲みに注いでから、もう一度、湯冷ましに戻し、それから急須に茶葉を入れ、湯冷ましから静かにお湯を注いだ。
愛は、ゆったりとして丁寧なその所作を美しいと思った。
人は美しく振る舞うことで自らの名誉を守り、同時に相手の心を和ませる。
「ボコッ」
どこかでなにかが、濁った音で短く鳴った。
三人が音の聞こえてきた方角を見上げると、これまたいつの時代のものやら、古色蒼然たる柱時計が午後一時半を指していた。
住職が、湯飲みにお茶を注ぎながら言った。
「あー。あの柱時計。〝じゅうショック〟と申しましてナ」
小夜がエビフライを噴いた。
(この人流の和ませ方なのかしら?)
鉄瓶の湯で淹れられたお茶は、香りが際だつように爽やかで、味にまろみがあり、とてもおいしかった。
愛は、心が和らいで行くのが分かった。
住職は、お茶請けですといって、ガンヅキとタクアンを三人に勧めてくれた。
そして、炉端に腰掛けてお楽に聞いてくださいと、中屋敷家のこと、なるのことなどを語ってくれた。
しかし三人は、語られたその内容に、正座したまま黙ってしまうしかなかった。
一九九七年八月、重太郎が鹿児島へ帰ったあと、住職は、中屋敷家について少し調べた。
すると、哲が勤めていた材木店で哲の先輩だったという人がまだ存命で、話しを聞くことができ、中屋敷家のことや、なるの葬式の様子を知ったという。
ふたりの両親である中屋敷五七とミヨは、一九三三年(昭和八年)三月二日、子どもふたりを隣家に預け、遠野から笛吹峠を越えて、ミヨの実家がある吉里吉里村へ法事のために帰って行った。
今でこそ県道三十五号として舗装された道が通じているが、幅員は今なお狭く、冬期間には閉鎖される。昭和初期の春まだ浅い笛吹峠の道は、大人でも難路だった。
夜遅く、ふたりは吉里吉里村の実家に着き、軽く夕食を喫し、寝床についた。
ところが翌未明、三月三日午前二時三十分、巨人が空から落ちてきたのかと紛う『ズドン』という重い衝撃が、東北地方の大地を強く激しく揺さぶった。
さらに、それから約三十分後、闇に閉じこめられていた三陸地方の村々を大津波が襲った。
「昭和三陸大地震」と、それに伴い発生した「昭和三陸大津波」だった。
五七もミヨも目を覚ましていたが、真っ暗な中で避難が遅れ、怒濤から逃げ切れず、巨人がひっかく大きな手のような引き波にさらわれ、三月の夜の冷たい海に引きずり込まれて消えてしまった。
後日の集計によると、この津波による犠牲者は岩手県だけで一三一六人、行方不明者は一三九七人にも達した。ふたりの身体は、その後も見つからなかった。
(津波―――)
北条は、中学校一年生のとき、釜石で「東日本大震災」に際会した。
避難を呼びかける防災無線とサイレンが叫び続けていた二〇一一年(平成二十三年)三月十一日の、小雪が風に舞う、暗い午後のことだった。
釜石湾に押し寄せてきた津波を、北条は、兄と妹と一緒に、高台にあった自宅の庭先から見ていた。
港に浮かんでいた大型船さえ、到達した津波にもてあそばれて、まるで玩具のようだった。陸に乗り上げた小型の漁船や車が次々に流されはじめた。やがて家屋も建っていたままの形で押し流されて、違う家屋にぶつかって壊れる。流されていく家のベランダで猫が逃げまどっていた。さっきまで吠えていた犬の声が、途絶えた。
走って逃げる人がいた。大勢いた。孫に手を引かれて走るおばあちゃんがいた。お年寄りを背負っている人もいた。赤ちゃんを抱いて走っているお母さんもいた。すんでところで波から逃れられた人もいたが、逃げ遅れて波間に倒れ、そのまま見えなくなってしまった人もいた。北条自身、隣の地区に住んでいた祖母と伯母と、まだ五歳だった従兄弟を亡くした。
こんな光景、見たくない、見たくなかった。なのに北条は、目を閉じることも、そらすこともできなかった。そばの公園から街を見下ろしていた人たちの悲鳴が怒濤にかき消された。
「あれが、真っ暗な夜中に起きた。あれが――」
両膝の上で握りしめていた北条の拳に涙が落ちた。あとからあとから落ちていった。
住職は、五七とミヨの墓は、遠野にも吉里吉里にもないのですと言った。遠野には、なるの墓だけが作られ、そして丘上の雑木林の中で、長い間、誰からも忘れ去られていた。
なるの葬儀は、兄妹を気の毒に思った材木店のご主人が営んでくれたという。
参列者は、材木店の家族と従業員と、なるが勤めていた旅館の女将、なると仲よしだった従業員たちで、十数名だった。
葬儀は営まれたが、墓石代を出せるほどの余裕は材木店にもなかった。哲が材木店の先輩と一緒に、そばにあった石を埋葬地に運んで、なるの上に置いた。
そして翌年の春、哲は海軍兵学校へ入学するため、遠野をあとにして、二度と帰って来ることはなかった。
やがて戦後になり、時代はめまぐるしく移り変わっていき、なるの墓へお参りする者もいなくなった。
昭和が終わり、平成もふた桁になろうかというとき、重太郎が訪ねてきて、住職も初めて哲となるのことを知った。
肖像画とハーモニカが遠野へ帰って来た翌年の春、鹿児島の山科家に、重太郎にとって二人目の曾孫となる待望の女の子が生まれた。
重太郎は、その曾孫に〝愛〟という字を与え、読み方を〝あい〟とした。
愛が生まれた一九九八年の春、住職は、なるの墓石に「愛」という文字を刻んだ。
そして、そのとき、墓石のそばに、小さな柳の芽が出ていることに気が付いた。
「『愛』という字には、小さな意味と大きな意味があると考えます」。住職が言った
「仏教では『渇愛』などと言って、自己中心的な小さな愛は煩悩であり、煩悩は悟りの障碍とされ、煩悩があるから苦悩が生まれます。しかしながら、己れの苦悩を知ってこそ、誰かの苦悩を知ることもできるのです」
悟りとは、この世界の生きとし生けるものすべてを大切に思える大きな心に至ることだという。
「小さな愛は、大きな愛に至るための道しるべです。なにかしら見返りを求めるような小さな愛を意識しないで、すべてを包むことができる大きな愛。それを『慈悲』と言います」。
慈悲は、大きく深い愛であり、仏典には「恩愛」や「仁愛」や「和顔愛語」といった言葉もある。また、『愛』という音は『相』に通じ、相手の悲しみを慈しむやさしさこそが、すべての他者を幸せにできるのだという。
北条は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の『農民芸術概論』の一節を思い出していた。
「インド建国の父、マハトマ・ガンディーは、人間が最も尊ぶべきものとしてプレーマン(Preman)という『親愛』を表す言葉を用いて人々に愛の大切さを強く訴えたといいます。
『名は体を表す』と申します。おやさしい曾孫さんが、おやさしいまま成長されて、重太郎さんは、さぞお喜びでしょう」
なるの墓石に墓銘を入れた際の供養には、哲の先輩と、その人の奥さんで、なると同じ旅館に勤めていたというふたりが来てくれた。
しかし、このふたりも、つい先年、相次いで亡くなったという。なるのことを知る人物がとうとう住職だけになっていたところへ、愛たちが訪ねて来たのだった。
「愛さんは、重太郎さんがすでに遠野を訪ねて来られていたことをご存じなかった。つまり愛さんは、七十年以上の〝とき〟を超えて、ご自身の力でなるさんを見つけられたのですナ」
さらにこんな話もしてくれた。
「終戦間近の七月十四日、遠野から仙人峠を越えた向こう側の釜石の製鐵所に、米軍艦隊による艦砲射撃がありました。そして誰言うともなく〝次は遠野が空襲される〟という噂や流言が飛び交い、遠野の人たちは、上空に爆撃機の影が見えると、柳や枝垂れ桜の木の下へ走って隠れたそうです。柳という木は霊界に通じていて、ご先祖さまが守ってくれるのだと信じられています。
終戦の五日前には、花巻市や北上市、水沢市、一関市など内陸の主要都市も空襲を受けています。花巻では宮沢賢治の生家も焼失するなどしましたが、でも遠野は結局、一度も空襲されることはありませんでした。
なるさんの柳の木も、きっとこの世界の〝誰か〟を、これからもずっと見守って行かれるのでしょう」
お茶を入れ替えましょうかナ、と言った住職の声は、今日ずっと聞いていた、どの話のときの、どの声よりも、いちばんやさしくやわらかく響いた。
三人が長徳寺を辞するとき、住職は、自宅の外で見送ってくれた。
「必ずまた訪ねてまいります。さとさんとなるさんに、きっと会いに来ます」
愛は、住職の手を握って、何度も頭を下げた。
「いやいや。こちらこそ不思議なご縁の物語に触れることができました」
住職の自宅である古民家を振り返った小夜が、玄関横の柱に掲げられていた表札に気付いた。
ルビ付きで「太田 貫」とあった。
俗名「太田 貫」。僧名は「曄海」。
名は体を表すという――。
(ようかい大ダヌキかっ!)
ひとついいですか? と、北条が住職に質問した。
「はい」
「ご住職は、なぜ昨日、なるさんのお墓の前でお念仏をあげていたのですか? なるさんの立日(命日)でもなかったのに」
「あー」
住職は、右手を口元に添え、北条にささやくように、しかし、みんなに聞こえるように言った。
「実は『なるさんを訪ねてお客様が来られる』という夢をみたのですよ」
「えーっ!」
住職が笑い出した。
「ホントはお墓のそばに生えているタラポ(タラノメ)を摘みに行っていたのです」
(どうすればいいんだ、この人?)
「あっ。でも、お念仏を唱えたのは本当ですよ。〝なるさん、今年もタラポを分けてくださいねー〟って」
小夜がとうとう〝核心〟に触れた。
「こんなに不思議なエピソードなのに、ご住職はなんで、その・・・・・・。あまり驚かれないのですか?」
「あー」
住職が、遠野郷を囲む山並みを見晴らして言った。
「この〝まち〟では、こういうことがよくあるのですよ」
「・・・・・・はい?」
住職は、にこりと小夜に笑いかけて、すとんと答えた。
「だって、ここは遠野ですからナ」
11・ファーストライト
「Because,here is Tono・・・・・・ってかい」
帰路、車の中で、小夜がため息混じりにつぶやいた。
「負けたわ。あの坊主」
「はあ」。北条もうなずいた。
小夜は、自分の反応が、あの住職のツボだったのかと思うと悔しくて仕方がなかった。
(シッポは丸見えだったのにっ)
やがて、身体がぷるぷると震え出し、そして、半笑いにむりやり怒気を詰め込んだような声で、とうとう小夜が噴火した。
「あの大ダヌキーっ! いっちばん初めに気付いたクセにっ! あのもったいぶるような話し方と、あの計算したような話しの組み立てと間合いと、ときどき見せるドヤ顔と、『あっ、それ、今度、檀家さんたちの前でお話しするときのネタに使わせていただきまーす。かっこワラ ※(笑)』みたいなあの顔! ――すっげぇムカつくんだけどっ!」
北条が噴きだした。小夜はもう爆笑している。
愛も、両手で口を押さえ、笑いが止まらなくなっていた。
車は丘を下り、田んぼの中に飛び出した。
田植え間近の水張り田んぼのなかに、早池峰山の残雪の影が浮かんでいる。
土淵の交差点を左折して車が西を向いた。夕日の色を兆しつつある太陽が、三人の顔を真っ正面から照らした。
フロントガラスの奥で、三人はまだ笑っていた。
小夜も、北条も、愛も、目に涙を浮かべて爆笑していた。
愛は、小夜が東京まで自分の車に乗せて帰るという。
ふたりは、釜石の実家へ帰る北条を遠野駅で見送った。
三人が遠野駅のプラットホームに立っている。
遅い午後の光が降り散る空を、ツバメたちが忙しそうに飛び交っていた。
「常世の国」からやって来た、長寿や富貴や恋愛をもたらす春の神様、ツバメ――。
下り列車が近付いてきたとき、北条の右手が愛の頭を「ぽんっ」とたたいた。
「お前もこれから、何度も釜石線に乗ることになるナ」
愛の頭の上にのった手は、少しの間、そこにとどまり、そして、ちょっとだけ乱暴な、でも、やさしい力で愛の頭を揺さぶった。
愛は、初めて北条の手の大きさを知った気がした。
小夜は黙ってふたりを見ている。
「先輩、昨夜のことですけれど・・・・・・」
愛がうつむいたまま北条に話しかけた。
「ん? あっ、いや、だからなにもしてねえって」
「そうじゃなくて!」
愛が顔をあげ、北条の右腕を両手で掴んだ。
「ドヴォルザークの『新世界交響楽』に賢治さんが詞を付けたっていう歌・・・・・・。私、途中で寝ちゃいました。だから――」
愛の目が精一杯に放った光が、北条の瞳を貫いた。その光は、同じ強さで愛にはね返ってきて、愛の瞳に小さな星を宿した。――ファーストライトの光のように。
「さと先輩! きっとまた聞かせてくださいっ」
「おう」
愛が、心の中でつぶやいた。
(なるさん。私も〝さとさん〟に会えました)
――どんど晴れ




