全三部(前編・中編・後編)のうちの中編
5・雲の峰
【二〇一七年八月六日】
天文同好会の遠征合宿は、連日晴天に恵まれ、予備日を使うことなく八月六日で終了した。
合宿最終日、朝食兼昼食をすませたあと、同好会員たちはテントを撤収し、全員で管理人さんにあいさつをして、午後二時、迎えに来たバスで種山ヶ原を下った。
会員たちは、水沢江刺駅から東京駅へ戻ったあと、そこで解散式を行うことになっていたが、八人ほどが岩手に残った。
ここから日本海側に出て新潟の実家へ帰るという川上先輩、平泉に寄っていくという二年生グループ、南部鉄器に興味があるから奥州市の資料館へ行くという岩本先輩など、残留組は駅前の広場で小さな現地解散式を行った。
愛と北条は、函館の実家へ帰る佐藤有紀先輩と一緒に盛岡行きの『やまびこ』に乗り込んだ。有紀は、盛岡駅で『はやぶさ』に乗り換えるという。
「今日はひとつ乗り換えがあるけれど、新幹線が函館まで延びてくれて楽ちんだわ」。
終点まで寝て行けるのが嬉しいと笑った。
遠野を目指すふたりは、新花巻駅で有紀と別れ、釜石線に乗り換えた。
釜石線の新花巻駅は、高架駅である新幹線駅の下にある。新幹線駅の堂々とした風格に比べ、単線のレールに片側一本の短いプラットホームがあるだけの小さな駅だった。
愛は、そのプラットホームに掲げられた駅名表示板に描かれている星座の絵に気付いた。「新花巻」という駅名のほかに「Stelaro ステラーロ:星座」と書いてある。
「ステラーロ、星座・・・・・・? 先輩、これ、なんですか?」
「ああそれ? エスペラント語だサ」
「エスペラント語?」
「そう。宮沢賢治が詩や童話のなかでよく使ってたんダ。世界中の人たちが共通の言語で話せるようにってつくり出された、いわゆる人工言語ってやつだナ。実際は英語が世界共通語になってしまってるけれど」
「そういえば、賢治さんって花巻の人でしたよね」
そうサ、と答えたあと、北条は下り方向、遠野・釜石方面を指しながら言った。
「釜石線って『銀河鉄道の夜』のモデルになった路線なのサ」
「えっ!」
「覚えておきなよ、天文同好会一年生」
北条が胸を張って笑った。
「この路線が釜石線になる前、『岩手軽便鉄道』ってのがここを走っていた。正しくはそっちがモデルだって言われてる。今では路線にも愛称があって『銀河ドリームライン』っていうんだ」
「そうなんですね」
「で、賢治さんにちなんで、釜石線の駅には、本来の駅名のほかに、エスペラント語でそれぞれ愛称が付けられているのサ」
(・・・・・・その釜石線に乗れば寝ちゃう人なのに)
でも、星や賢治のことになると、北条は詳しかった。
「今日は遠野までは各駅停車だから、ひと駅ずつ見ていける。ちなみに遠野は『フォルクローロ』」
「『民話』?」
「あたりっ」
小山田駅「Luna Nokto ルーナ・ノクト:月夜」
土沢駅「Brila Rivero ブリーラ・リヴェーロ:光る川」
晴山駅「Ĉeriz-arboj チェリーズ・アルボイ:桜並木」
宮守駅「Galaksia Kajo ガラクシーア・カーヨ:銀河のプラットホーム」
鱒沢駅「Lakta Vojo ラクタ・ヴォーヨ:天の川」
愛は、駅に着くたびに駅名表示板を目で追いかけた。
今日は北条も眠っていなかった。向かい合った席で真剣な顔をして、エスペラント語の駅名を小さな声で復唱する愛の様子が、北条はおかしかった。
「楽しそうだな」
「はい!」
あまりにも素直すぎる愛の返事に北条も苦笑するしかなかった。北条もつられて嬉しくなった。
「よかった」
「えっ?」
「んっ? いや、山科を遠野に誘ってよかったってことサ」
愛は、改めて北条の横顔を見た。案外まつげが長いんだなと気付いた。
昼行灯とあだ名された北条は、対人接触も穏やかで、がっしりと大きな身体の上に懐っこい笑顔をのせている。やや骨張った頬にはいつも無精ひげがそり残されていたりして、あまり外見にこだわるところはなさそうだ。ばっさりと垂れた前髪を、ときどきうるさそうにかき上げる。
いつも遠くを見ながらにこにこしている感じの大きめな瞳。ちょっとおにいちゃんに似ているかも?
北条が愛の視線に気付いた。
「なに?」
「北条先輩・・・・・・って」
「ん?」
「下のお名前はなんて言うんでしたっけ?」
「はぁ?」。北条が、怒気のない目で愛をにらんだ。
「部員名簿ぐらい見ろよ。・・・・・・なんだ、ぼーっとしたヤツだなー。山科って」
「先輩にだけは言われたくありません」
愛がくすくす笑った。
「さとしだよ。哲学の哲って書いてさとし。山科の話に出てきた中屋敷哲さんって人と同じサ」
愛は、もちろん「北条哲」の名前を知っている。でも、今、岩手県生まれの〝さとしさん〟と一緒に岩手にいて、銀河鉄道のモデルになった鉄路に乗っていることがちょっと不思議に感じて、あえて北条の口から言わせてみたくなったのだ。
「先輩も〝さとさん〟って呼ばれたことはありますか?」
「ここらへんだと・・・・・・」
北条が窓の外を目で示す。北条が言う〝ここらへん〟とは、今にもトトロの猫バスが出てきそうな、森と田んぼと草原が広がる〝この地方〟のことを言っている。
「訛るから〝さどっすぁん〟だな」
さどっしゃん? さどっさん?
ちょっと難しいです、と言いながら、愛が小声で復唱している。
列車が遠野駅に着いた。時刻はちょうど午後五時だった。
遠野駅では愛だけが降りて、北条はこのまま釜石の実家へ帰り、翌日、遠野駅着九時五十八分の列車で、また来てくれることになった。
「藤田先輩に、北条がよろしく言ってたって伝えてくれ」。
愛は、駅に付設されたホテルにチェックインした。北条が卒業した高校時代の先輩が勤めているとのことで、北条が電話で予約してくれたのだった。
「お待ちしておりました。山科様。北条くんのお友だちの方ですね?」
レセプションで対応してくれたのは、大学を出たばかりかな? と思う、子馬のように澄んだ目が美しい大人の女性だった。
(この人が、先輩の先輩?)
「北条先輩の高校時代の先輩にあたられる方、藤田さんですか?」
左胸に「藤田佐智代」と刻字されたネームプレートを見つけた。
「高校時代?」。
佐智代が嬉しそうな笑顔で、くすっと笑う。
「たしかに釜石南陵高校の先輩っていう意味では間違いないけれど、家が隣同士の幼なじみなんですよ。〝さとくん〟は私の七歳年下のかわいい弟分なんです」
七歳違いということは、二十七歳! とてもそうは見えない。
「北条先輩が、藤田先輩によろしくとのことでした」
「山科様、ありがとうございます。って、アイツ、普段は『佐智ねえ』って呼ぶクセにサ」
北条先輩の〝お姉さん〟がいた。――ここは、岩手なんだ。
宿はB&B形式で、夕食は付いていない。空はまだ明るかった。愛は遠野の街を歩いてみることにした。
それほど遠くないところで、どこか街を見晴らせる場所へ行きたいのですが、とフロントの佐智代に尋ねると、鍋倉公園という場所を教えてくれた。
駅の少し南、歩いて二十分ほど。お城の跡だという。
坂道だから気をつけてね、と、佐智代が小さく手を振ってくれた。
一方、北条は、釜石線の列車の窓から早池峰山を探していた。
遠野駅から釜石方面へひとつ目の駅、「Kapao カパーオ:カッパ」と愛称された青笹駅付近で進行方向後ろを振り返ると、里山の連なりの向こうに、夕日と対峙する早池峰山の姿が確認できた。
(そうか。釜石線から見えんだサ、早池峰山)
釜石線を走る車輌は固定窓で開閉できない。北条は、窓ガラスに顔を押しつけて早池峰山が見えなくなるまでその姿を追っていた。
北条が列車の窓から振り返った早池峰山の残照を、愛も鍋倉公園の旧三の丸跡に建つ天守閣型の展望台から見ていた。
眼下に広がる遠野の街は、もう西郊の山の影に翳されていたけれど、街の背後に連なって見える東方や北方の山並みは、まだ夕日に照らされていた。
市街地の少し先、田んぼの中から山容を立ち上げた、ちょっととがった山の向こう側に、早池峰山が〝見つかっちゃった〟というふうに、山頂部分を小さく覗かせていた。
見つけちゃった―――。
愛は小さく手を振って、早池峰山にあいさつした。
【二〇一七年八月七日】
翌日、愛と北条は、遠野駅で合流した。
朝から気温がぐんぐん上昇している。北条を改札口で待つ間、愛が見上げた駅前の気温表示板は、午前十時少し前だというのに、もう三〇度を示していた。
北条は、駅のホールからすぐ入館できる付設ホテルのフロントで〝佐智ねえ〟にあいさつをしようと思っていたが、今日は遅番とのことで、フロントに佐智代はいなかった。
「――さて。ある程度の目算というか、だいたいの場所を想定しないとナ」
北条は、そう言って地図を広げた。
「昨日、下り列車の窓から確認したんだ。確かに釜石線から早池峰山は見えた。でも、あの距離感は少し違うかな?」
こっちの方へ行ってみよう――と、ふたりは、駅前で借りた黄色いレンタサイクルで、遠野郷の北東、土淵というエリアを目指して漕ぎ出した。
だが、この日、愛は朝から身体がだるかった。
前日までいた種山ヶ原は、夜は気温が二十度を下回るほど涼しかった。昼の間に寝るときも、テントのなかを吹き抜けていく風は涼しくて、長袖のシャツでシュラフの上に転がるだけで、高原の静けさとも相まって、気持ちいいほどよく眠れた。
しかし、昨夜の遠野は暑かった。冷房の風が苦手な愛は、部屋の窓を開けてガマンしていたが、夜になっても気温は下がらず、とうとう冷房のスイッチを入れ、そして、そのまま寝落ちしてしまった。
明け方になって寒さで目を覚ました。まずいと思ってすぐ冷房を切ったが、腕のあたりが冷えきっていて、ぞくぞくする感覚があった。
(風邪、引いちゃったかも・・・・・・)
窓を開けると、朝の大気は、昨日の暑さをそのまま今日に持ち越して、寒かった部屋の空気をどんどん外へ引っ張り出した。早朝だというのに盆地には熱気が溜まっていた。
見上げる空に雲はない。山の端から昇ってきた太陽が商店街の窓を照らしはじめた。
(今日も暑くなりそう)
・・・・・・と、愛が予想したとおり、自転車を漕ぎ出した瞬間、逃れようもない暑さと日射しが愛の身体を包み、たたいた。
早瀬川を渡り、バイパスを越えて、家並みの中を一五分も走れば、やがて左手に、出穂したばかりの稲の青波が風と太陽の光に踊る、のどか過ぎるほどのどかな景色が、遠い山の端まで広がりはじめた。
道はほぼ平坦だ。今日ほど暑くなければ、自然にとけ込んでいるような人々の暮らしの風景の中を、どこまでも、ずーっと自転車で走っていたくなっただろう。
土淵に近付いたとき、左手の見晴らしをさえぎっていた田んぼの先の山影が途切れ、風景の奥行きがぐっと深くなった。
北条は、路肩に自転車を止め、少し遅れてついてきた愛に、「ここ」と地面を指した。
そして愛と合わせた目線を、北西の空へ誘導した。
「なあ、ここ、あの絵の構図に近いんじゃないか?」
愛も気付いていた。北条に追いついて自転車を止め、稲田の沖を見晴らした。
残雪こそ消えていたが、永劫の風雪に洗われた早池峰山の荒々しい山肌が見える。
とくんっ。
愛は、胸が小さく鳴るのを感じた。
(そうだ、似ている。あの絵が描かれた場所・・・・・・)
緑色の明るい大地の広がりの彼方に、空の青とは一線を画した早池峰山の影が浮かぶ。
だが、その山容は、熱い大気に揺らされ、にじんで、空色に同化してしまいそうだった。
少し心もとないその姿が、愛に別の疲労感を誘った。
愛が、スマホを取り出して絵の写真と風景とを見比べた。
「絵は、もう少し、・・・・・・高いところから、田んぼを見晴らしていますね・・・・・・。それに、もう少し遠景・・・・・・」
愛は、呼吸の乱れを北条に知られないように息を懸命に整えながらゆっくりと話した。緩やかに寄せてくる風の中で、北条は愛の息づかいに気が付かない。
「高いところといったら――」
ふたりは走ってきた道の右側に盛り上がる丘を見上げた。
しかし、そこはカラマツの大木が生い茂り、自転車も人も登って行けそうになかった。見晴らしも利かなさそうだ。
北条がもう一度地図を見た。
「こっちはどうかな?」
北条が指したのは、土淵町のやや東南にある下山という山だった。現在地からは一㎞ほどだろうか。
でも、こんな地図では不十分だと北条は後悔した。地図は、駅の「ご自由にお取りくださいラック」に置かれていた観光マップだった。デフォルメされたイラストマップなどではなかったけれど、平面的すぎて土地の起伏が分かりにくかった。
もう少し立体的に俯瞰できる地図がほしい。北条が、スマホを取り出して、国土地理院の地図を検索しようとしたとき、北条は、愛の異変に気付いた。
「山科? 大丈夫か?」
愛は、道の数メートル先に視線を落とし、ハンドルに寄りかかるように呼吸を整えていた。じりじりと照りつける太陽。近くに日陰はない。
「・・・・・・大丈夫です」。ムリに明るい表情をつくって北条に向けた。
絵の場所探しなんて、他者にはきっと無意味な行為だ。見つけたとしても何か価値あるものが得られるわけでもない。ましてや探している本人でさえ理由は未だに曖昧なままなのだ。
そんなことに付き合ってもらっている北条に、迷惑はかけられない、と思った。
しかし、ペダルを踏む愛の足は重い。午前が深まるにつれて、遠野盆地の気温はさらに上昇しはじめていた。
「自転車、押して行くか?」
「いえ、乗っていた方が楽です」
駅から走り出して、まだ三十分ほどだったが、愛はひどくつらそうだった。
北条がディパックからスポーツドリンクを取り出して愛に手渡した。出発前に駅前の自販機で買い、保冷パックに包んでおいたものだ。
口に含むと、冷たくて、喉が心地いい。冷たさがそのままお腹の中に落ちていくのが分かった。
水分が補給できたことで、愛は少し落ち着くことができた。
「行きましょう」。今度は愛が先に漕ぎ出した。
北条は、愛の後ろ姿を見ていた。全身にムダな力が入り、ムリしている様子が分かった。
土淵の交差点を右に曲がり、早池峰山を背にして田んぼの中を東南に走る。逆光の中に稲田が遠く続いていた。太陽が正面から顔を叩く。
左側に山があった。これが下山らしい。しかし、こちらも森が深く、登って行けそうな場所は見あたらない。
振り返ると、早池峰山は下山の裾に隠され、見えなくなっている。
駅をスタートして、走った距離はおそらくまだ六㎞ほどだったが、愛の様子は、もうハッキリとおかしかった。
愛の自転車が止まった。サドルから降りて両足をつき、ハンドルにうつぶせて苦しそうに呼吸している。
「山科、ちょっと休もう」
北条は、脇道を少し入ったところにあった柿の木の下に自分の自転車を止めたあと、戻ってきて愛の自転車を押して運んでくれた。愛の足取りは重い。
柿の木の先は、深い雑木林になっていた。北条は、愛をその中へ誘導し、林に少し入ったところにあった丸太の上に座らせた。
雑木林の中には、信じられないほど涼しい風が流れていた。
(・・・・・・なにこれ? 涼しい――)
暑さに包まれて逃れる術もなかったアスファルトの路上とは、きっと三度から五度ぐらい気温が違っただろう。緑が繁れる林にはこんな不思議があったのかと、愛は感動さえ覚えた。
丸太に座り、青草の上に足を伸ばした。ハンカチを取り出して汗を拭い、自分のおでこに右手を当ててみた。熱かったけれど、風邪のときのような発熱の感覚はなかった。
「熱、あるのか?」。
北条は、愛と向かい合って下草の上に胡座をかいて座り、心配そうに愛の顔を見上げている。
「熱はありません。ホントです。ただ・・・・・・」
愛は、今朝起きたときに感じた違和感を北条に話した。
「合宿の疲れだナ。涼しい高原で昼夜逆転みたいな合宿したあと、こんな暑い盆地に来て朝から自転車漕いだら、そりゃ気分も悪くなるべナ」
昨日までの種山ヶ原と今日の遠野盆地では、きっと十五度以上の気温差だ。
「そう言えば、朝食もほとんど食べられませんでした」
「なんだ。ハンガーノックアウトもプラスだな」
北条は、愛の状態が深刻でないことにほっとした。しかし、この暑さの中、自転車を漕ぎ続けるのはもうムリだろうと思った。まだまだ暑くなる。熱中症や日射病のリスクもある。
「山科。今日は中止にしよう」
「え? でも」
(わざわざ遠野まで戻ってきてくれた先輩に申し訳ない――)
「ホントにぶっ倒れるぞ」
「・・・・・・」
確かに、もしも今、休憩していなかったら、あと数分で本当に倒れてしまっていたかもしれない。
「でも、鹿児島県人が、そうそう何度も来られる場所じゃないですから・・・・・・」
「なんだ。オレが言ったこと、気にしてたのか」
北条が笑った。
「今回の合宿で、だいたい岩手までの距離感が分かったべ? それほど東京から遠くなかったサ? 日帰りだってできる」
そうだった。思っていたほど遠くは感じられなかった。
東北新幹線に乗って三時間、釜石線に乗り換えて一時間。同じく新幹線で鹿児島まで帰ろうとしたら、まだ広島あたりだろうか。
「機会はまだあるサ。なんなら、あの絵が描かれたのと同じ、春にまた来ればいい」
愛は、それもいいなと思った。桜、たんぽぽ、残雪・・・・・・。星空だってきっときれい澄んでいるに違いない。
「そういえば、先輩は暑くないんですか?」
「暑いサ。実はオレも倒れそうだった」。
笑いながら、北条は深草の上に転がった。
北条の白いTシャツに、半月の形をした木漏れ日がたくさん降っている。
(そんな気配はちっともなかったのに)
自分に合わせてくれているのだ。そう思うと、愛はだいぶ気が楽になった。
「もう少し休んだら、ちょっと早いけど、昼飯を食べに行こう。山科の場合は朝食兼昼食だナ」
来た道を戻り、土淵の交差点で国道を横切って、茅葺き屋根の建物を移築保存している「遠野伝承園」という観光施設の食事処に入った。レジで注文して、先払いするシステム。
ここはオレがおごってやるから、好きなもの頼め、と北条が言ってくれた。
「そんな――。暑い中を付き合わせてしまった私にこそご馳走させてください」
「遠野に誘ったのはオレの方だから。気にすんナ」
押しつけだったり、いいところを見せようといった感じはない。北条は、いつもナチュラルだ。
メニューを見ていた愛が、そのなかのひと品を指して北条に尋ねた。
「先輩、〝ひっつみ〟ってなんですか?」
「〝すいとん〟って言えば分かる?」
「あっ、〝だご汁〟!」
愛の意外な大声に、北条が笑い出した。
「鹿児島ではそう言うのか?」
「母が熊本生まれで、ときどきつくってくれます。鹿児島よりも、もう少し北の方でよくつくられるって言ってました。大好きなんです」
「確かに〝だんご汁〟っぽいかもな」
温かい食事の方が、お腹にも身体にもやさしそうだと思った。だご汁との味の違いも知りたくなって、愛はひっつみを選んだ。
「じゃあ、それふたつ」
岩手の田舎料理だと思っていた北条は、愛の故郷でも食べるのだということを知って嬉しくなり、同じものにした。
小麦粉を耳たぶほどの柔らかさにこねて一時間ほど寝かせたものを、鶏肉や野菜、ごぼうなどが入った鍋にちぎって放り込む。「引きちぎる」ことを、岩手では「ひっつむ」という。とってなげ、はっとうなどともいい、農林水産省選定「農山漁村の郷土料理百選」にもなっている岩手県の郷土料理だ。
「あと、ざるそば大盛り。それから味噌おにぎりも」。北条はお腹が空いていたのか、さらにオーダーを追加した。
「そんなに !? 食べられますか?」
「カレーがあればそれも食べたかったナ」
愛が、少しあきれて北条の顔を見上げた。
愛は、運ばれてきたひっつみを、お玉ひしゃくですくい取り、お箸でつまみ上げて興味深そうに眺めたあと口に運んだ。
「どう?」。味噌おにぎりを頬張りながら北条が訊いた。
「母がつくってくれた味とはやっぱり少し違いますけれど、でも、とてもおいしいです」
身体も気持ちも癒されるような味と温かさ。愛は、ベストチョイスだったと思った。
「先輩、すみませんでした。こんな暑い日に・・・・・・」
愛は、食後のお茶を一口飲んだあと、北条に詫びた。
「気にすんナ」
北条は平然としている。ホットコーヒーもぐびっと飲み込んでいる。
(寒暖や冷熱に対する感覚が、ほかの人とは違うのかしら・・・・・・?)
結局、絵が描かれた場所がどこなのか。はっきりとは分からなかったが、短い時間で得られた情報をまとめると、①遠野で描かれたことはほぼ間違いない。②今いる土淵からは遠くない。③田んぼを見下ろす少し高い場所。
「――ということかナ?」
北条が、スマホで国土地理院の地図を検索して、見せてくれた。
「こっち・・・・・・。土淵飯豊ってところか、沢田、あるいは青笹町のやや東・・・・・・」
「今度来るときは、もう少し詳細な地図が必要ですね」
「あと考慮すべきは、八十年近く前と今とでは、山も野原も変わっているということだべナ」
そうかもしれない。雑木林が針葉樹の人工林になっていたり、野原が耕地になっていたり。
「それに雑木林は落葉すれば、案外遅い春まで芽吹かないから、冬や春なら視界が利くかもナ。カラマツ林もそう。だからさっきの小山もまだ候補のうちだ」
常緑樹が多い鹿児島と、落葉樹が多い岩手とでは、移ろう四季の色も違う。
北国では、樹葉は散り落ち、雪が降って、やがて芽吹きの春を迎えたら、新緑の森は次第に深緑へと陰を満たし、錦繍が大地を輝かせたあと、再び雪が舞い積もる。
(景色に対する観察眼も、南の人とは少し違うのかも)
ちょうど昼時の食事処は満席に近かったが、待ち時間が出るほどではなかった。愛は、ゆっくりと温かい食事を摂って身体を休ませることができたこと、また、場所についての大まかな目当てがつけられたことで、やっと元気になれた。
けれども、外はいよいよ暑そうだった。その熱気と日射しに張り合って、もう一度、自転車を漕ぎ出すためには、元気よりも勇気が要りそうだった。
時刻は午後一時を少し過ぎていた。
「近くに涼しそうな場所があったナ」
食事処に併設された売店を覗いていたとき、河童のストラップを見つけた北条が言った。
「カッパ淵サ行ってみよう」
歩いてでも行けるはずだ、と北条は言った。自転車を伝承園の駐輪スペースに止めおいたまま、ふたりは再び強烈な日射しのなかを歩きはじめた。旧国道を渡り、ホップ畑の中を横切って、道の先に見えている杉林に向かった。
ほどなく、常堅寺というお寺の、堂々とした山門に出合った。
うるさいほど降ってくるセミの声。黒々とした杉林。そこから漏れてくる光のコントラスト。境内に漂う寂寞とした空気に、愛はふと、芭蕉の句を思い浮かべた。
「あった、あった」
北条が足早に駆け寄った先に、頭のてっぺんが平らな狛犬が、木漏れ日の中にちょこんと座っていた。
「十年ぶりぐらいだな」。北条が狛犬の頭をなでた。
「先輩、ここを訪ねたことがあるんですか?」
「小学校の遠足以来だけどナ」
そばに「かっぱ狛犬」と大書された木柱があった。
「かっぱ狛犬?」
「そう。こんな話しがあるンだ」と、北条が教えてくれた。
常堅寺は、延徳二年(一四九〇)に開山された曹洞宗の古刹で、ある時、常堅寺が火災に遭ったとき、寺の裏を流れている小川から河童が現れて、消火活動を手伝ってくれた。住職はこれに感謝し、河童を模した一対の狛犬をつくって、お寺の守り神としたのだという。
「ステキなお話しですね」
愛も狛犬の頭をなでた。
しかし、柳田國男が『遠野物語』に記した遠野の河童伝承は、河童に見初められ、魔に捕らえられて河童の子どもを身ごもった女の話である。
『川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。
松崎村の川端の家にて、二代まで続けて河童の子を孕みたる者あり。
生まれし子は斬り刻みて、一升樽に入れ、土中に埋めたり。
其形極めて醜怪なるものなりき』
生まれてきた子どもの手には水かきがあった。その赤子は殺され、切り刻まれて樽に入れられ、地中深くほった穴に埋められたのだという。
遠野の河童にまつわるエピソードには、常堅寺のかっぱ狛犬のようなハートウォームな話もあれば、『遠野物語』のような、おどろおどろしい怪異譚もある。
愛が北条の先に立ち、カッパ淵へ続く小径を歩きはじめた。
北条は『遠野物語』に採録されている逸話を知っていたが、冒頭の一行だけを愛に教えた。
「そうかぁ。遠野にはたくさん棲んでいたんですね。河童くん」
愛は、遠野駅前の広場にあった河童の像を思い出した。遠野では、あちらこちらで河童の像やイラストを見かける。かわいらしく表現されているものが多いが、遠野駅前の小さな庭園に置かれていた像は、少し怖かった。
ボサボサ髪の上に皿をのせて、大きく鋭い目と、鼻から口のあたりがとがったように突き出してキバをむいている奇怪な顔。ガリガリに痩せた四匹の河童たちが甲羅を背負って岩の上でキュウリをかじっていた。
「『遠野物語』の河童の逸話って、本当は怖いお話しなんですよね」
「えっ? 山科、知ってたのか?」
「『遠野物語』を読んだわけじゃありませんけれど、以前、ラジオの深夜番組で怖い話の特集をしていたとき、遠野の河童の話を聞いたことがあります」
「・・・・・・」
「先輩、ご存じだったのに、怖いお話しだから、気を遣ってくださったんですね」
愛が歩きながらくるっと振り返り、北条の顔を下からのぞき込んだ。
「?」
木漏れ日の中で愛が笑っていた。北条は、その笑顔をかわいいと思った。
愛は、すぐに正面に向き直り、手を後ろに組んで、北条の少し前を軽いステップで歩いて行く。
ふと、北条の心の中に淡い光芒が浮かんだ。秋の空、星々が粒立つ夜空に、ぼんやりと光の渦を滲ませるM31・アンドロメダの雲のような。北条は、ズームレバーを動かしてその光に焦点を合わせようとした。しかし、セミが飛び立つ大きな鳴き声に、その小さな渦は弾けた。
(元気になってよかった)
愛の後ろ姿を見ながら、北条は両腕を広げて軽く背伸びした。
境内を抜け、裏手を流れる小川の畔に出た。小川にかけられた橋を対岸に渡り、小径を下流の方へ少し歩くと、岸辺に繁る深色の葉緑に包まれた、昼なお暗い淵がある。
流れの岸を青草が縁取り、木梢の合間に見える空の青色とともに、木漏れ日が、よく澄んだ川水の上に涼し気な光をやさしく散り降らせている。そこがカッパ淵だった。
河童ばかりでなく、草むらからウサギがひょっこりと顔をのぞかせそうな、リスが背中を駆け上って来そうな、小鳥が肩に止まってささやいてくれそうな、不思議な安らかさを満たした水と緑の素朴な空間――。
愛は、わぁ――と小さく叫んで、淵のそばへ駆け出し、河岸の大きな平石の上にしゃがんで左手を流れに浸した。
「河童に手ぇつかまれるぞ!」
北条がからかうと、愛はぱっと立ち上がって北条を振り返った。右手で左手をかばい、目が丸くなっている。ほんとうに怖かったらしい。
「だるさはもう平気か?」
もう一度、石の上にしゃがんで流れを見つめる愛の背中に声をかけた。
「大丈夫です。こんなにステキな場所に連れてきてくださって、嬉しいです」
空を見上げた。木梢の間から、青空と白い大きな雲が見えた。
観光シーズンの「カッパ淵」は、記念撮影待ちの列ができるほどだが、この日は、先にいたひと組のカップルがスマホの画面をのぞきながら、ちょうど帰路を歩きはじめたところだった。
ステキな場所を独占できた――。愛は平石の上に座った。
北条も少し離れた場所に腰を下ろした。小川の畔に座っている愛の姿が童話の挿絵のように思えて、景色ぐるみ眺めたくなった。
緑のトンネルの中を流れる小川は、さらさらというより、水量をたっぷりたたえて滔々と流れている。緑の中の水辺。暑さが遠のいていく。
愛が、空に向かって両手を広げた。降ってくる光をつかまえようとするみたいに、少し伸びをして涼しい空気を吸い込む。
この空気、東京まで持って帰りたい――。
そこへ、川下から、二羽のツバメが水面すれすれに飛んで来て、ふたりの前をあっという間に通り過ぎた。川面の羽虫を狙っていたらしい。
「先輩、今のツバメですよね? すごいスピード」
愛は、突然飛んできた、その小さな黒いものに驚いた。
「最速で時速二〇〇㎞も出せるらしいぞ。普段はまあ五〇㎞ぐらいだそうだけど」
ツバメは川上でターンして、またふたりに迫ってきたが、途中で急上昇して木梢の影に姿を消した。
「先輩って、ツバメにも詳しいんですね」
「釜石の実家に、毎年、つがいが来て巣をつくるんだ」
「えーっ? かわいい」
「ツバメがやって来る家は、火事にならないなんて言われてナ」
ツバメは、野生動物なのに人間のそばが大好きという不思議な鳥だ。
他の鳥とは違って、木の上や藪のなか、あるいは廃屋や電信柱などには営巣せず、民家の軒先や学校、駅といった人々が行き交う場所を好む。人間の暮らしのそばにいると、天敵であるカラスやヘビが近づきにくいということを知っているからだとも言われる。
そして人間たちも、ツバメが巣をつくる家や商店は「縁起がいい」「繁盛する」「火事にならない」などと言ってツバメを歓迎した。
特に農家にとっては、ツバメは農作物を食い荒らす昆虫などを捕らえてくれる益鳥でもある。農の守り神・福の神として、人間にもっとも大切にされてきた鳥かもしれない。
「先輩のご実家は、ツバメにとって居心地がいい場所なんですね」
「そうなのかナ?」
「居心地いい場所を選ぶのは、野生の本能ですよ」
ツバメはまた、一度つくった巣の場所を忘れずにいて、翌年には、再び同じ巣に戻ってくることもある。
震災以前の釜石の街には、平場にあった家々にも、毎年ツバメがたくさんやって来て巣をつくり、街の中をひゅんひゅん飛び交っていた。
しかし、二〇一一年の春、桜の花が咲くころ、かつて家々が立ち並んでいた場所では重機が動き回っていた。
そこに建っていた家は「ガレキ」と呼ばれるものになり、「撤去」という言葉を使われて、どこかへ運ばれていった。
北条の家のベランダの前にある電線には、三組のツバメが羽を休めていた。ツバメたちは街を見下ろし、かつて自分たちを迎えてくれていた人を、家を探していた。
その年、北条の家には二組のツバメが営巣した。でも、次の年にはまた一組になった。来なかったもう一組は、新しい家を見つけたのか、かつての〝家主〟に再会できたのか、あるいはもっと内陸の、例えば遠野にまでやって来たのか。
「・・・・・・津波のあとの海辺では、そんなこともあったんですね」
愛の右手が座っていた平石をそっとなでた。岩手の大地をなぐさめるように。
「ツバメが街を見下ろしてたのは、単に休んでいただけかもしれないけんド、オレには何かを探しているように見えた。んでも、また今年も釜石サ帰って来てくれたんだなって、すごく嬉しかった」
北条が空を見上げた。
「海の向こうには『常世の国』っていう楽園があって、ツバメは、その国からの使者だっていう話もある。長寿や富貴や、恋愛をもたらす春の神様サ」
「恋愛も?」
「らしいよ」
北条が立ち上がった。
「恋愛ってサ、言い方を変えれば〝縁〟だサ? 新しい縁、絆、繋がり――。震災のあとの春、たくさんの人たちが、全国から、釜石だけでなく東北に来てくれた。ツバメを見ると、あの年の春を思い出すんだ」
カッパ淵に揺れていた木漏れ日が消えた。
北条は、愛に歩み寄ると、愛の右手をつかんで、抱き寄せるように立ち上がらせた。
(――えっ?)
驚いている愛の顔を北条が見下ろした。
「そろそろ来る。そろそろ行こう」
同時に、ガラガラガラーッと、何かが崩れるような音が近くに聞こえた。
「この暑さだ。思ったよりも早く来た」
「えっ?」
「カミナリ様サ。へそとられねえうちに伝承園サ戻るぞ」
言ったとたんに、川下から、冷たい風が急にさぁーと吹き付けてふたりを追い越していった。北条が愛の手を取って川上に走り出した。
左岸から右岸へ、橋を渡りきると、空があっというまに真っ暗になった。稲光りが走り、さらにドドーンという音が、遠野盆地の空気を震わせた。
ふたりは常堅寺の本堂前を駆け過ぎて、山門をくぐってホップ畑の道へ出た。そこへ、ガラスのプールの底が割れたような大雨が、ざざあーっと落ちてきた。
伝承園まではもう間に合わない。ふたりは急いで引き返し、常堅寺の山門に駆け込んだ。
ところが、山門の屋根は大きかったけれど背の高い構造になっていて、ふたりが逃げ込んだ場所には、風とともに雨が吹き付けてきた。
ドーン! ガラガラガラ――。
愛が耳を塞いでしゃがみ込んだ。
「山科っ! 雷は苦手かぁ!」。雨の音は北条の声もかき消してしまいそうだ。
北条は愛を立ち上がらせて、壁際へ誘導した。
「普段はそんなに怖いと感じたことはありません。でも、今日のは――」
再び、空が破裂したかのような大音響。
「・・・・・・外にいて、こんなにすごい雷に囲まれたのは初めてです」。愛の身体が震えていた。
「山科、後ろ向け」
「えっ?」
「昔、妹にしてやった〝まじない〟をかけてやる」
北条は、愛の肩をつかんで、壁の方を向かせた。そして、立ったままの愛を、背中から包み込むようにして自分の両手を壁についた。
変形の〝壁ドン〟のような恰好だ。
「背中は守ってやっから、へそは自分で守ってろ」
「だっ、大丈夫です。それよりも、それだと先輩だけ濡れてしまいます!」
「濡れるのは、ひとりでいいべサ」
ガラガラ・・・・・・ドドーン!
愛は耳をふさぎ、目をつぶって、山門の壁におでこをもたせかけてうつむいた。
肩のあたりに北条の胸を感じた。塞いだ耳の奥で心臓の音が高まったのはカミナリのせいだけではなかったかもしれない。
少しだけためらったあと、愛は、おでこを壁から離して北条の胸に背中を預けた。北条も半歩分だけ胸を近づけて、愛の背中を包んだ。
雨がまた強くなった。風も吹き荒れている。稲光が走るときのピキッと空気を切り裂く音。
怖い。でも――。
(背中・・・・・・)
北条の〝まじない〟が効いてきたらしい。
ガソリンスタンドの車輌洗浄機のように吹き付けていた雨が、やがて小降りになり、一〇分ほどすると、まるでなかったことのようにピタリと止んだ。雨の音より、山門の屋根から落ちてくる雨だれの音の方が大きくなった。
遠くでは、まだ空がゴロゴロと鳴っていたけれど、どうやら嵐は去ったようだ。
「・・・・・・先輩、もう大丈夫です」
「おう」
北条が、愛から身体を離した。
愛は、もぐり込んでいた布団をはぎ取られたような、居心地のいい場所から追い出されたような寂しさを少し感じた。
本堂の上空、西の空はもう明るくなりはじめていた。なんだかキツネにばかされたような嵐の時間だった。
「先輩の背中、濡れませんでしたか?」
愛が北条の背中をのぞき込んだ。
「ああ。風向きがよかったらしい」
北条はそう言ったけれど、背中から腰、そしてふくらはぎのあたりがだいぶ濡れているようだった。
「まあ、これぐらいなら、また自転車に乗ればすぐに乾くべ。山科も、足もと、けっこうキテるナ」
「表面にちょっと浸みてるだけで、靴の中は平気です」
北条が腕時計を見た。午後二時半になろうとしていた。
天からの打ち水で、周辺は少し涼しくなっていた。止んでいたセミの声も響きはじめ、山門にも太陽の光が戻ってきた。
「先輩、さっきの〝おまじない〟って、妹さんに?」
「んっ? ああ。アイツももう高校二年生だけど、小学生のころはカミナリが大嫌いでナ。いっつも泣き出すもんだから、後ろから抱いてやったンダ」
(抱いて・・・・・・?)
愛の顔が赤くなった。
「背中ぁ守ってやっから、ヘソ守ってろってナ。そしたら、あとで『さとにいちゃん、ありがとう。すごく安心だった』ってナ」
愛の背中には、まだ、北条の胸の感触が残っていた。
「カミナリの音を聞くとアイツを思い出すんだ。だけんド、女子高生に、今、それをやったら、ひっぱたかれるべナ」
北条が振り返り、愛の顔を見下ろして笑った。
「山科も、アイツと同じぐらいの背格好だナ」
「――?」
戻ってきた日射しの中で北条が笑っている。雨の中、山門に駆け込んだときの怖そうな表情とは違って、いつものやさしい顔に戻っていた。
愛は、その笑顔を子どものようだと思った。
ふと、愛の心の中に、小枝のようにパチパチと、小さな火花を散らす線香花火のような光が浮かんだ。膨らんで、ぷるぷると震える光の球。しかし、次の瞬間、名残の雷鳴がどーんと空に響いて、その小さな火の玉は、胸のどこか深いところへ落ちて行って、消えた。
大地から立ち上る湿った空気のなかに夏の匂いがした。
伝承園に戻り、自転車を拾って、ふたりは遠野駅までの道を、肩を並べてゆっくりと自転車を押して歩いた。
途中、立ち止まって田んぼの沖を見晴らした。重なり合う里山の稜線の彼方の雨上がりの午後の空には、早池峰山と、そしてそれよりも高く大きな真っ白な雲の峰たちが、首座を競い合うように居並んでいた。
自転車を返却したあと、北条は、愛が前夜宿泊した駅併設のホテルの佐智代にあいさつした。
「いやぁーや。あづくてたまげだサ。倒れっかど思ったヤ」
「なしてこんな日に自転車サ乗さったの? おれぇさま(御雷様)は大丈夫だったの?」
懐っこい表情でのどかな会話を交わすふたり。愛は、このあと帰省する鹿児島の家族のこと、高校時代の親友・葉百合や柚香のことを思った。
愛はフロントで預かってもらっていた荷物を受け取り、佐智代にお礼を述べた。
「ぜひ、また遠野へおいでくださいね」
佐智代の笑顔に見送られ、愛は、北条と一緒に改札口をくぐった。東京までは四時間ちょっと。さらにアパートに着くのは午後一〇時近くになるだろう。
「オレは、残りの夏休みは地元のラーメン屋でバイト。それと自動車学校だナ」
鹿児島サも気ぃつけて帰れよ、と言って、北条は、跨線橋を渡って下り線ホームへ歩いて行った。
この日は、絵が描かれた場所を見つけることはできなかったけれど、愛は、遠野郷をたくさん楽しんだ。
蒼影の早池峰山、緑の森の風、青々と広がる田んぼ、温かくやさしいひっつみの味、光降るカッパ淵、眩しく透き通った雨上がりの空、そして今、車窓から見る猿ヶ石川の夕日。
(また来る。きっともう一度来よう――)
帰省した鹿児島では、串木野の永留家も訪ねた。
訪問することを伝えておいたところ、かなえは、あの日のメンバーに集合をかけて待っていてくれた。大広間の座卓には、たいへんなご馳走が並べられ、爺婆たちは芋焼酎を飲んで盛り上がった。
愛は、聡の甥っ子や姪っ子、近所の子どもたちと花火などで楽しく遊ぶうち、すすめられるまま、永留家に一泊した。
翌日、聡は、五位野にある愛の自宅まで車で送ってくれた。無理に引き留めて宿泊させたことを愛の両親に丁寧に説明してくれた。お詫びです、と言って聡が持参した発泡スチロールのトロ箱には、中籠漁協厳選の海の幸が詰め込まれていて、母の浩子が踊り出さんばかりに喜んだ。
葉百合も柚香も、相変わらず元気いっぱいだった。三人だけの同窓会は帰省中に五回も開かれた。地元の言葉、友だち、故郷の風と海と空。愛の自宅近くにある公園で、小さな観望会も行われ、三人は夜更けまで星を見上げ、語り合った。
穂高にも種山ヶ原や遠野で撮影した写真を見せた。合宿も遠野探訪も楽しかったと報告すると、自分よりも先に東北の写真を持ち帰った愛に嫉妬したのか、オレならもっといいアングルで撮ってみせると、スマホの写真を相手にちょっとムキになって、愛を笑わせた。
5・事件
九月二十一日、大学の後期日程がスタートした。
天文同好会では、合宿の報告会と反省会が開かれた。
遠征合宿は、連日好天に恵まれて、予備日を使うことなく四泊五日の日程が無事に終了し、大成功であったと総括された。
北条が、種山ヶ原で撮った星野写真でつくったという動画を、PCからプロジェクタでスクリーンに映し出してみんなに披露した。
手描きの銀河鉄道や流星を追いかけるフクロウのアニメーションが合成されていたり、タイムラプスで撮影された天の川が、宮沢賢治の『星めぐりの歌』にのせて、東から西へゆっくり夜空を渡っていく様子などが、美しい映像でまとめられていた。
誰もが種山ヶ原の夜空を思い出して感動した。合宿に参加できなかった麻美は、愛に抱きついて大泣きした。
一〇分ほどのこの動画は、十一月に行われる大学祭で、天文同好会の展示スペースで上映することが決まったほか、同時に行われる映画研究会が主催する映画祭にも出品されることになった。
大学で再会した北条は、以前と変わらないマイペースぶりだったが、愛は、北条と目が合うと、なぜかちょっとうつむいてしまう自分を気にしていた。
里香や瑠衣や香織たち一年生の仲間からは、ふたりで過ごした夏休みはどうだったの? なんてからかわれたりもしたけれど、愛が絵の場所を探しているということは、みんなの知るところになっていたし、上級生たちにも「何しろ相手は北条だから」という、ある意味「ない、ない」という空気があって、誰もそれ以上は突っ込まなかった。
北条はなにも言わない。でも北条は北条で、このごろ愛が自分と目を合わせないことに気付いていた。
(オレ、アイツになにか言ったか、なにかしたっけかナ?)
〝したこと〟を言うなら、十分すぎるほどのことを遠野でしでかしていたのだけれど、本人は分かっていない。
愛の心の中で、何かがぐるぐるしはじめていた。
十月初旬のある日、愛は、天文同行会四年生の世久原可長から、突然LINEで呼び出された。
「十三日、金曜日、午後六時、二三号館のF-3教室までひとりで来い」
乱暴な文面。愛は、世久原先輩が苦手だった。
天文同好会では、大学祭の出し物のひとつとして、毎年、エアドームを設置して、その中でプラネタリウムを上映することになっている。他にはおでん屋の出店、星野写真の展示などもあるのだが、その各班を編制したとき、愛は、世久原と同じプラネタリウム班に入っていた。
夏休みの少し前から、世久原は、愛にベタベタしてくることがあった。髪の毛を触ったり、いきなり肩を揉んできたり。プラネタリウムのエアドームをテスト設置したときは、ドームの中で、ぱーんとおしりをたたかれたこともあった。
自己主張が強く、厚かましくてしつこくて言葉づかいも乱暴。できればあまり近付きたくないタイプだった。他の女子会員たちの間でも、世久原の評判は芳しくない。
世久原は、今夏の遠征合宿には参加しなかった。上級生たちの間では、元カノを妊娠させて揉めていたらしい、なんていうウワサもあった。
――その世久原先輩からの呼び出し。
愛は、怖くなって、同好会の同じ一年生仲間である麻美、里香、瑠衣、香織の四人に相談した。
大学の正門近くにある大手コーヒーチェーン店の一階奥の禁煙フロア。二人用のテーブルを寄せ集めて、四人が愛を囲んだ。
愛は、世久原から呼び出されたことに不安を感じていると話し、用件も分からないし、なにを言われて、なにをされるのかが怖いと言った。
「あの人、愛ちゃんのこと狙ってるんだよね」と麻美。
「実はあたしも一度、迫られたの。でもきっぱり言ってやった。『あなたとは、お話しをするつもりは、ありません』って」
「あさちゃんって意外とキツいんだねー」
瑠衣がちょっと驚いた。
「だって、そう言わないと話しが終わらなさそうな人だったから。心臓ドキドキだったよ。世久原先輩のあだ名、知ってるよね?」
「あだ名っていうか、『名は体を表す』っていうか」と香織。
「愛ちん、シカトしよ」。里香の眉間にタテじわが浮かんだ。
「でも、無視したら、あの先輩のことだから逆ギレするかも?」。瑠衣が指でテーブルをとんとんたたいた。
「きっとコクるっ、ていうか迫る気だよ。だけど断るのも、愛ちゃんにはちょっと怖いよね」。香織がほおづえをついて吐息した。
「二三号館って、経済学部の辺境やん。しかも夕方六時って・・・・・・。もう誰もおらんよ」と里香。
「毎年、一年生に手を出してるっていうウワサもあるよ。それで同好会を辞めていった女の子もいるとかって」。瑠衣はちょっと怒ったような声。
「で、今年は愛ちんに目をつけたの?」
きもっ、と言って里香が自分の腕をさすった。
「一年女子の中じゃ、いちばんおとなしいもん。愛ちゃん」
麻美は、ずっとうつむいている愛がかわいそうだった。
「SMの趣味があるって聞いたこともある」。瑠衣が余計な、そしておだやかでないことを言う。
「SMって、葬式まんじゅう?」
「山田くーん。里香ちゃんに座布団・・・・・・って、いや違うから」
世久原の用件は定かではなかったが、おそらく、愛に交際を迫るのだろうというのが四人の一致した見解だった。
四人とも、愛が世久原と付き合うことなど望んでいない。すっぱりと、あとくされなく、この〝災難〟から愛を助け出したかった。それほど世久原は、女子会員たちの間で人望がなかった。
愛も、世久原が「オレと付き合え」というふうなことを言ってくるのだろうと思っていた。もちろん世久原と付き合うつもりなど、ない。
「でもさぁ、あの人、こっちが下手に出るとチョーシぶっコくよ」と瑠衣。
「――愛ちんを泣かすヤツは、あたしがコロす」。里香がおっかないことを言いだした。
「断る以外の選択肢はない」。香織がテーブルを軽く拳でたたいた。
「どうしよう? 愛ちゃん」
なんとかしなくちゃ、と思いながらも、麻美にはいい案が浮かばない。
愛が、顔を上げた。
「とにかく、一度会ってくる。会わなければ、きっと何度も呼び出されると思うから」
うーん・・・・・・。四人がまた考え込んだ。
「分かった。こうしよう」。香織が、またテーブルをたたいた。
「あたしたち、こっそり教室の外から愛ちゃんのこと見守る。そしてなにかあったら教室に飛び込んで行くから」
香織の提案に、ほかの三人も同意した。
里香が身を乗り出した。
「いつもみたいにやさしく相手しなくていいからね、ああいうタイプには」
「そうそう、こう言うのよ」。
麻美が愛に、言い方を伝授する。
「いい? 表情を変えないで、冷静に、感情を含めない言い方で一度だけハッキリと言うのよ。『今後、あなたと、お話をするつもりは、一切、ありません』って。」
「いや、それってストーカーへの対処法じゃなかったっけ? ・・・・・・まあ、確かにそんな感じの人だけどさぁ」
やれやれという感じで瑠衣がため息をついた。
麻美が続ける。
「とにかく、はっきりお断りを伝える。そこは大事なところよ。それでもしつこいようなら、そのときはもう警察ね」
香織が段取りを決めた。
「世久原先輩が先に教室に入ってから、愛ちゃんはあたしたちと一緒に教室の前まで行こう。そのあと、あたしたち外から様子を伺ってるから」
とにかく、あたしたちが愛ちゃんを守る――。みんなにそう言ってもらえて、愛は泣きそうになった。
膝の上に手を揃え、四人に律儀にお礼した。
「みんな・・・・・・。いつも、ありがとう」
(愛ちゃん、そこが心配だっての)
四人が心の中で同時にツッこんだ。
そして決戦の十三日の金曜日がやって来た。
同日午後五時五十六分。二十三号館のF-3教室に世久原が入って行くのを確認したあと、麻美たち四人は教室の前で、不安そうな愛を取り囲み、小さなガッツポーズで励ました。
愛が静かにドアを開けて教室に入った。麻美たちはすぐドアに張り付いた。
F-3教室は、八段ほどの小さな階段教室だ。ドアは最上段後方にある。
世久原は、いちばん下にある演壇の近くに腕組みをして立っていた。
「山科っ! 先輩を待たせて二分も遅刻かぁ?」
世久原の居丈高な声が階段教室に響いた。
(――オドレはミーティングに遅刻するくせこきゃあがって、何をエラソにヌカしとんねんっ?)
しゃがんでドアに耳を当てていた和泉里香(大阪府岸和田市出身・北辰館道場天王寺支部所属・中目録・別名「ナニワの鬼斬りリカちゃん」)が、モップの柄をつかんで、すぅっと立ち上がった。
麻美も瑠衣も香織も、世久原の言い方にはカチンときたけれど、まだダメだよ、と里香の勢いをあわてて押さえた。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
愛がドアのところから、世久原に頭を下げて謝った。
「何だぁ? 先輩よりも高いところから詫びるのかよ?」
(――こんガキぁ。いっぺんしごうせな分からんようじゃの――)
佐伯瑠衣(広島市安佐南区出身・少林寺拳法四段・中国四国大会高校生部門三連覇・別名「地獄の月野うさぎ」)が、サツに代わってお仕置きじゃぁとつぶやいて、ゆらぁっと立ち上がった。
麻美も香織も世久原の言いぐさには腹が立ったが、ふたりは、里香と瑠衣を必死に止めた。
「山科、こっちに来い」
世久原は、愛をアゴで呼び寄せた。愛は階段を下りて、演壇のそばに近付いた。
「お前、北条と付き合ってんのか?」
世久原は腕組みをしたままだ。見下すような態度と言葉。愛は屈辱すら感じた。
「・・・・・・いいえ。お付き合いはしていません」
「夏休みに一緒に旅行したらしいじゃん?」
「それは・・・・・・」
愛は、常堅寺の山門で、北条が後ろから包んでくれたことを思い出した。
今ここに、北条に駆けつけてきてほしいと思った。
「付き合ってもいない男と旅行に行ったのか? はぁー。やるもんだな」
(――なんしか、きさん、ええ加減せんと、ぼてくりまわすけんの)
小倉香織(北九州市八幡東区出身・女子レスリング五十㎏級インターハイ準優勝・元日本代表候補・別名「マットの通り魔」)がアップを開始した。
麻美もブチキレ寸前だったが、三人を懸命に押しとどめた。
四人は、そーっとドアを開けて隙間から教室の中を覗いた。
アゴを突き出してふんぞり返る世久原の前で、愛が今にも泣き出しそうに、肩をすくめて震えていた。
「おい山科、オレと付き合えよ」
世久原が、愛の方に踏み出した。用件はやっぱりそれだった。
(それが女性に交際を申し込む態度かぁ?)
「今、フリーなんだろ? なぁ愛?」
(あいぃ? おどれ、うちらの愛ちゃん呼び捨てにしくさったか)
世久原が、ずかずかと愛に歩み寄って、愛の右手をつかんだ。
「・・・・・・!?」
世久原と目が合った。川面から顔を半分だけ出して、引きずり込む人間を捜している河童のようなギラギラした目。こんな男に顔を見られていることに、愛は嫌悪と恐怖を感じた。
世久原は、声が出せずにいる愛の手を引っ張って、そのまま自分の方に引き寄せ、強引にキスしようとした。
「――やめてください!」
やっと声を絞り出して、愛は世久原の手を思い切り振り払って飛び退いた。
「こんなことをする方と、お付き合いなんてできません!」
「・・・・・・この!」
世久原がもう一度、愛の腕をつかまえようとしたとき、とうとう瑠衣が教室のドアを蹴飛ばした。
げしっ!
鈍い音が教室に響いた。
驚いた世久原が教室の後方を振り返ると、瑠衣を先頭に、里香と香織が、ゆらりと教室に入ってきた。
「よーぅ言うたでぇ、愛ちゃん」
「なっ、何だ、おまえらっ!」
世久原の動きが一瞬止まった。そのすきに、愛が逃げ出した。
愛は、階段通路を駆け上がり、教室を飛びだして、外にいた麻美に抱きついて、わっと泣き出した。
「おっ・・・・・・おまえら、こそこそ聞いてたのかっ?」
「こそこそ――やとぉ?」
里香が、瑠衣の一歩前に出て、ついにファンファーレを鳴らした。
「おい、ワレぇ、今なんちゅうたぁっ? もっぺんヌカしてみいっ!」
世久原の顔から血の気が引いた。
「聞いとったんかぁやないっちゅうねん。ワレぇ、うちらの大事なツレになにさらしてけつかんねん! ナメとったら承知せんどゴルァ! ドタマかちわって脳みそちゅうちゅう吸うたろかぁ?」
〝鬼斬りリカちゃん〟がモップを星眼に構えた。
――大阪南港の水は冷たいでぇ。
「いっ・・・・・・いや、オレはなにも」
「ほおかぁ? センパイ、言ぅといたるがのぉ、こら犯罪じゃけぇ。いややっちゅうとる愛ちゃんの手ぇ、ムリヤリ引っ張りよるん、うちら、しっかと見とりましたけぇの」
〝地獄の月野うさぎ〟がコキッと首を鳴らした。
――太田川にゃあフタないけぇ。
「なっ・・・・・・」
「学生課に通報しますわぁ。前にもこげなこつしよって退学なったぁ学生いたっち聞いたことありますぁ」
〝マットの通り魔〟がメガネを外して、ふっとレンズのホコリを吹いた。
――玄界灘にゃぁムクリ(元寇の蒙古軍)も沈んどるちゃ。
「おまえら・・・・・・」
三人は、最大級の軽蔑の目を、教室の最上段から世久原に浴びせた。
・・・・・・ちっ!
世久原が足もとのバッグをつかんで階段を大股で上りはじめた。三人はずっと世久原をにらんでいる。
教室を出たところで、泣いている愛の両肩を抱きしめた麻美が、瞬きもせず、真っ赤な目をして世久原をにらみ返した。全身が怒りに震えている。
麻美が泣きながら叫んだ。
「このホンズナスヤロ! ガッチメガすてやりでぇ!」
世久原は、くるっと向きを変え、足早に立ち去っていった。
「あー。ごーたいくそが煮えるわ」
「あーん、瑠衣ちゃんの広島弁、こわぁーい」。里香が香織の腕に抱きついた。
「はいはい、新喜劇のお約束ね」
こんなときでも大阪人はボケを忘れないらしい。里香と瑠衣が笑い出して、空気が少し緩んだ。
しかし、このあとの香織のひと言で、空気は再び凍り付いた。
「なぁ瑠衣、ドアふたつに割れとるちゃ」
大学祭に出展する天文同好会の各企画の準備のため、会員たちも忙しくなっていた。
週一で開いていたミーティングも週二回行われるようになり、授業の合間を縫って空き教室を確保。展示物の作成やポスター、チラシ作り、おでん屋台の組み立てなどが行われた。また、大学に近いアパートを借りている学生は、臨時の作業部屋として自室を開放するなどした。
麻美たちは、世久原の所業を、会長の浜野にだけは報告した。
『厳重注意 F-3教室のドアを破壊した者がいます』と貼り出された学生課の掲示板の前で、浜野は四人から、その出来事を聞かされた。
「・・・・・・あの問題児」。浜野が頭を抱えた。
「山科にケガはなかったんだな? ・・・・・・分かった。世久原にはオレからも厳しく言っておく。今度なにかやらかしたら強制退会させる。お前たちの怒りはもっともだが、アイツももう半年で卒業だし、就職も決まっているから、学生課への通報は待ってくれ」
四人は腹の虫が治まらなかったが、浜野が「オレの監督不行届きだ。山科にも、佐竹にも、和泉にも、佐伯にも、小倉にもイヤな思いをさせてしまった。オレから謝らせてくれ。ホントにすまん」と言ってくれたことで、ここは浜野の顔を立てることにした。
大学祭へ向けた各企画の班編制も改められた。愛と麻美は、北条がいる写真班に移り、プラネタリウム班には里香と瑠衣と香織が入った。世久原はプラネタリウム操作のエキスパートでもあり、同班に残ることになった。
里香たち三人は、どこで買ってきたのやら『喧嘩上等』とプリントされたTシャツを着て世久原を見張った。
世久原は居心地が悪そうだったが、黙ってプラネタリウムの準備を進めた。
写真班の北条は、この異例の〝人事異動〟を特に気にすることもなく、現在の進行状況をふたりに説明し、写真のパネル貼り、キャプション用のテキスト作成、必要資材の調達、教室や学校備品の使用に関する実行委員会との渉外といった役割を振った。
「すまんけンど、山科には、もひとつ頼みがある」と北条が言ったのは、種山ヶ原の動画のナレーションだった。
山科は声がやさしく、発音がきれいで、一語一語のキレもいいというのがフィーチャーの理由だった。
「シナリオはオレが考えていた分が、だいたいできている。それに山科なりの味付けをくわえてもらえたらありがたい」
愛は、北条に頼まれたことが嬉しかった。でも、
(北条先輩の目、どうして見られないんだろう?)
夏合宿でも、釜石線の車内でも、カッパ淵でも、常堅寺でも、ちゃんと目を見て話せていたのに。
怖い? キライ? ウザい? つらい? 違う、どれでもない。
世久原先輩に迫られたときも北条のことを思った。北条先輩が背中を守ってくれていたら、何も怖くないと思っていた。
(なのに――)
いつの間にか、愛は、向かいの席でPCを覗き込んでいる北条の顔を見つめていた。北条は、愛の視線に気付かない。気付いたのは、北条の隣にいた麻美だった。
「・・・・・・愛ちゃん?」
麻美の声で、北条も顔を上げた。愛と目が合った。
「・・・・・・ごめんなさい。台本のアドリブ考えていました」。愛の目が伏せた。
「すまんな山科、面倒かける」
北条は、すぐPC画面に戻った。
大学祭での天文同好会の出し物――おでん、プラネタリウム、写真展示、動画は、いずれも大好評だった。
おでんは、前年の売り上げを大きく超え、浜野会長は「新しい反射式望遠鏡を卒業の置きみやげにできる」といって泣いた。
プラネタリウムは、特に子どもたちに大人気で、ドームの前には三〇分待ちの列もできた。機材、照明、音響を操作する世久原の手さばきも、有紀先輩の解説も鮮やかで、里香と瑠衣と香織は、世久原がやらかしたことは別にして、ちょっと感動していた。
愛のナレーションを加えた動画は、映画研究会主催の映画祭で、ドキュメント部門のグランプリを獲得した。さらに愛の声は「落ち着きあるナチュラルな演技と、美しくかわいらしい声が聞く人の心をやさしく癒す」と講評されて、審査員特別賞に輝いた。
天文同好会の大学祭は大団円――となるはずだった。
しかし〝事件〟が起きた。それは、大学祭終了後の打ち上げの席でのことだった。
そして、その〝事件〟のあと、北条は、天文同好会を退会する――。
天文同好会の打ち上げは、新宿の居酒屋の大部屋を借り切って行われた。
浜野は会員たちの活躍を労い、そして北条の動画のグランプリ受賞と、愛のナレーションの審査員特別賞受賞をみんなの前で称えた。
北条は「種山ヶ原の星空の勝利です。そして、山科のナレーションのおかげです」と短くあいさつした。
愛は「北条先輩の映像と台本がステキだったからです。私は読んだだけです」と謙遜した。
そして浜野は、おでんの売上金を振り込んだ銀行の預金通帳を、天文同行会の新会長である三年生の内記航に渡し、これで新しい望遠鏡を買ってくれと言った。
さあ、今日は無礼講でいくぞーぉ。
内記が乾杯の音頭を執り、酒宴がはじまった。
愛は、一年女子のグループで寄り合い、ウーロン茶を飲んでいた。
「愛ちん、飲まないの?」。里香が大ジョッキを片手に、愛に尋ねる。
「だって未成年だし・・・・・・」
「相変わらず真面目ね。じゃあ、あたしたちの立場は?」
瑠衣は『賀茂鶴』の、麻美は『刈穂』の四合瓶をそれぞれ抱いていた。
「ポン酒っておいしいの?」。グラスに『黒霧島』を注ぎながら香織が訊いた。
「ポン酒って言うな。日本酒って言ってよ」。麻美が香織に抗議した。
「ねえ、誰がいちばん強いの?」。愛がみんなに質問すると、里香と瑠衣と香織が同時に麻美を指した。
「あさちゃん?」
「麻美はね、強いなんてもんじゃないわ。うわばみよ、うわばみ。っていうか、もうザルね。いや、ワク?」。香織が苦笑した。
「お酒が強い弱いっていうのには酒豪遺伝子ってのが関わっていて、その出現率は、秋田県民だと七十六%なんだって。つまり下戸は四人にひとりしかいないの」
経済学部でマーケティング専攻志望の香織は物識りだ。数字にも強い。
「秋田じゃ、水道の蛇口をひねるとお酒が出てきて、それでご飯を炊いて味噌汁も作るんだって。逆にいちばん弱いのは三重県だったかな。確か三十九%」
「広島は?」。アタリメを食いちぎりながら瑠衣が尋ねた。
「細かいランキングは覚えてないわ。でも上位三県は、確か秋田、岩手、鹿児島だったはずよ」。香織の歯がゲソを引き裂いた。
「なら愛ちんも、きっとイケるんちゃう?」。里香がつくねにかぶりつく。
里香は、すらりとして姿勢もよく、長い髪を後ろで束ねると、いかにも美人剣士という感じで、きりっとかっこいい。
瑠衣は、目がくりっとした可憐な印象で、整った顔立ちを、ボブヘアがふわりとした輪郭で囲んでいた。
香織は、口角がきゅんと上がって、笑うと両頬にえくぼが浮かび、メガネもよく似合っている。落ち着いていて、一年女子のリーダー格でもある。
今年の天文同好会一年女子は、みんなかわいくて粒ぞろいだ、というのが男子会員たちの一致した印象だった。
〝※ ただし、もう少しガラがよければ〟という「※印」付きだったが。
「じゃあ、あたしと、さと先輩と、愛ちゃんでトップスリーだね」
麻美が四合瓶を大事そうにかかえ、コップに注いだ。しかし、半分も満たさずに瓶が空になった。
「あれっ? なんだ、もう空っぽ?」。麻美は顔色さえ変わっていない。
「あさちゃん、どれぐらいまで飲めるの?」。愛は、ちょっと怖くなった。
「わかんない。だって未成年だし、二升までしか試したことないもん」
「もうええ。それ以上試さんでええ」。瑠衣も怖くなったらしい。
(北条先輩もきっと強いのかな?)
愛が会場の中に北条の姿を探した。二つ隣の座卓の壁際で、北条は世久原と会話していた。
愛がテーブルに向き直り、ウーロン茶のグラスを唇に近づけたそのとき――。
「ほおじょおーっ」
世久原の大声が会場に響いた。
「おおおおまえ、グリャンプルとっとっとったって、いいいい気んなんにゃよ!」
だいぶ酔っぱらっているらしい世久原が、向かい合って正座している北条に、おしぼりを投げつけた。会場が静まりかえった。
北条は、歓談の輪に加わらずにひとり会場の隅で杯を重ねていた世久原に、瓶ビールを持って行って、声を掛けたのだった。
世久原はすでにしたたか酔っていた。初めは、北条、お前はいいやつだなぁ、などと言って北条の酌を受け、笑っていた。
ところが、世久原は、この酒宴がはじまってから、ちらちらと愛の姿を追い続けていた。その愛が、会場に誰かを捜しはじめ、その目線が北条に止まったことに気付いて、〝あの日〟から抱いていた身勝手な憤懣と鬱屈が爆発した。
「北条、おまえ・・・・・・」
世久原が、よろよろと、危なっかしく立ち上がった。
「おまえ、山科とは何回寝たんだ?」
――私? どうして私の名前がでてくるの?
愛が驚いて、世久原と北条を見た。
北条は、きっ、と世久原をにらんでいる。
「どうだった。え?」
(また、あんカバチタレがぁ――)
立ちかけた瑠衣を、香織が制する。
「あの女ぁな、誰とでもすぐに寝る女だぞぉ」
世久原が愛を指した。それにつられてみんなの目が愛に集まった。
反射的に目を向けてしまっただけの反応だったが、愛は、みんなのその視線と、世久原の汚い言葉に、全身の血が凍り付くようなおぞましさを感じた。
世久原は、愛にフラられたことを根に持っていた。その愛が、北条の動画を手伝い、グリャンプルもといグランプリを獲得したこともおもしろくなかった。
「おい、世久原! やめろ!」
浜野が、世久原の手首をつかんで座らせようとしたが、世久原は浜野の手を振り払った。
「んなぁ、何回ヤったんだぁ?」
トロンとした目。口元がにやついている。
北条が立ち上がって、世久原を見下ろした。
「世久原先輩――」
北条は、世久原よりもずっと背が高い。世久原は一瞬たじろいだ。
「オレのことは女たらしでも好色漢でもスケベでも、どう呼んでもらってもいいです。だけんド、山科のことをそんなふうに言うのだけは、なんぼ先輩でも許せません」
愛は、動くことも声を出すこともできなかった。
今いったいなにが起きているのか、どうして自分があんなにひどい言われ方をされなければいけないのか、どうして北条先輩が私のことで世久原先輩にからまれているのか――。
〝あの日〟の世久原の目が、頭の中で愛に迫ってきた。愛の視界がだんだん白くなっていった。
「――愛ちゃん?」
麻美が声をかけるのと同時に、愛が倒れた。
北条が、麻美の声に反応した。崩れていく愛の姿が見えた。
北条が拳を握った。
「昼行灯」とあだ名された北条が怒るところなど、誰も見たことがない。
北条の全身から怒気が放たれていた。それを世久原は真っ正面で受けている。
「・・・・・・おまえ、オレを、なぐ――」
世久原が北条の拳を見て、後ずさりしたそのとき、世久原の足がもつれた。
ガチャーンという音とともに、世久原が右側の座卓にひっくり返った。
北条は、とっさに世久原の身体を支えようと、左手を世久原に差し出した。しかし、支えきる前に世久原が倒れ、北条の左手は、世久原の身体の下敷きになり、その手がコップと皿を割った。
破片が世久原の肩と側頭部に刺さった。北条の左手からも血が滴った。
会場は大騒ぎになった。店員が駆けつけ、すぐ救急車が呼ばれた。世久原は頭を打っていたが、意識はあり、うーんと唸っている。
一年生の座では、麻美が愛を抱いておろおろしていた。里香と瑠衣は立ったまま、倒れた世久原の身体をにらみつけて全身を振るわせていた。
麻美と一緒に愛を支えていた香織が、北条の顔を見た。北条は、左手を押さえながら、さっきまで世久原が立っていたところを見下ろして動かない。
「どうしてこんな――」
香織の視線に、北条が気付いた
傷におしぼりを当てて、ポケットから引っ張り出した手ぬぐいをぐるぐると左手に巻き付けてから、香織たち一年生の方へ歩いてきた。
北条は、愛の前に膝をついた。目に涙が浮かんでいた。
(さと先輩――?)。麻美が北条の目を見て驚いた。
北条は麻美の腕の中で介抱されている愛の手を取って、手ぬぐいに血が滲んでいるのにもかまわず、両手でそっと、その小さな手を包んだ。
「山科、すまね。オレのせいで――」。
里香と瑠衣も座りこんだ。
北条は、一年女子たちに頭を下げながら言った。
「すまねえが、山科のこと頼むナ。オレは今から世久原先輩に付き添って病院サ行ってくる」
「さと先輩、なんで先輩が付き添わなアカンのですか?」
行く必要なんてないじゃないですか、と、里香が泣きながら北条のシャツの袖を掴んだ。
「ケガをさせたのはオレだ」
「あんアホが勝手に転んだんです。さと先輩は悪くない」。瑠衣も泣き出した。
「いや。オラぁあのとき先輩をぶん殴ろうとしたんダ。その素振りに先輩は驚いて倒れたんだ。オレのせいだ」
「そんなこと――」。香織も納得がいかない。
「それに、オレもこの通りだしナ」。左手を持ち上げた北条の顔が一瞬歪んだ。
「佐竹、小倉、頼んだぞ。和泉、佐伯、ありがとうナ」
北条は、里香と瑠衣の頭をぽんっとたたき、立ち上がったあと、到着した救急隊員に担架に乗せられ運ばれていく世久原と、やはり世久原に付き添うという浜野と内記と一緒に店を出ていった。
愛は、眠っているように、麻美の腕の中で目を閉じていた。
翌日、北条は、浜野と内記に会い、退会届を出した。
「北条、悪いのはお前じゃない。世久原が勝手に暴れて、勝手に転んだんだ」。浜野は留意した。
「そうだ。お前が背負い込むことじゃない。お前はオレの次の会長候補だ。辞めるな」。内記も北条に去られることは寂しかった。
だが、北条は、自分が世久原先輩に礼を失した態度をとったから、世久原先輩は驚いて転んだんです。無礼講だったとはいえ、オレのせいです、と上下関係にこだわる。
「いや、しかし――」。浜野が説得を続ける。
病院で酔いが覚めた世久原は、お前のせいでケガをした、責任を取れと言って北条を責めた。
そのあまりの態度に、ついに浜野賀津也(横浜市南区出身・山手ボクシングジム練習生・ウェルター級一四四パウンド・別名〝ハマのカヅヤ〟)の怒りが爆発した。
キュッキュッと軽くステップを踏んだあと、浜野は世久原の顔面に右ストレートをぶち込んだ。世久原が鼻血を吹き上げた。
浜野は、今のは山科の分だと言い、続いて左ボディフックをレバーに、右ボディアッパーをストマックにワン・ツーでたたき込んだ。げぼっと胃液を吐いた世久原に、今のは北条とオレの分だと言った。
そして、お前がまだこれ以上ガタガタ言うなら、一年女子たちと一緒に学生課に行って、お前が山科にはたらいた〝狼藉〟を訴えると言った。
何なら警察でもいいぞ? ――午前二時の本牧埠頭には誰もいなかったなぁ。
北条と内記は、浜野から、世久原の〝狼藉〟を初めて聞かされた。
北条は、怒りよりも、世久原のことが心配になった。
この先、この人はどんな人生を過ごして行くのだろう――。
「一応分かった――」。浜野は、退会ではなく休会扱いにすると言った。
「世久原はもう強制退会させた。三月にはもう大学からもいなくなる。強制退会処分だからもうOB会にも出られん。だから遅くとも四月には復帰して、内記を支えてやってくれ」
「オレからも頼む」。内記が北条に頭を下げた。
先輩に頭を下げられて、北条もうなずいた。
内記が、包帯をぐるぐる巻きにされた北条の左手を見た。「何針縫った?」
「七針と九針。だったっけかナ?」
「まだ、だいぶ痛むか?」
「痛いッス。――いろんな意味で」
愛は、北条たちが店を出ていって間もなく目を覚ました。有紀や小泉も愛を囲んで泣いていた。
愛は、その状況をすぐ理解した。そして世久原の言葉を思い出して、再び嫌悪がこみ上げ、その場で嘔吐した。
男性の中には、あんなふうに女性を見る人もいるのか――。悔しくて、悲しかった。
その日は、阿佐ヶ谷の香織のアパートに泊まり、一年女子全員が愛に付き添った。
翌日には、一年男子会員三名も、愛を心配して、香織のアパートにやって来た。
そこへ、内記から、同好会のグループLINEで一斉送信されたメッセージが届いた。
北条が退会届を出したが、しばらくは休会扱いにする。近日、緊急ミーティング行う――。
北条を慕っていた男子たちは憤ったが、拳を握りしめてぐっとこらえた。北条の日々の立ち居振る舞いが、彼らに与えた薫陶だろうか。
――どうしてこんなことになっちゃんたんだろう。
愛は、北条に会いたくてたまらなかった。
緊急ミーティングは三日後に行われた。
浜野賀津也前会長が、セクハラ課長、もとい、世久原可長を病院のベッドに沈めた、という話を聞かされた武闘派の一年女子たちは快哉を叫んだ。
内記新会長は、北条はしばらく休会するけれど、四月までには復帰させると言った。
「冬合宿には、北条にも来てもらいます。アイツがいないと四年生の先輩方も、もちろんオレたちも寂しいからね」。一年男子が沸いた。
続いて浜野は、世久原が、北条と山科を侮辱する言動と行動をとったことから強制退会処分にしたと話した。
「世久原の山科に対する暴言は、北条のグランプリ受賞に嫉妬した酔漢のたわごとである。・・・・・・なあ、オレたちはみんな、山科がどんな女の子であるか、もちろんよぉーく知ってるよな?」。全員が拍手した。
「山科を泣かせたヤツはオレがコロした」と言って喝采を浴びたあと「さぁ、次は冬合宿だ。四年生にとってはいよいよ最後。最高の合宿にしたい。みんな、よろしく頼むぞ」と、同好会の団結を確かめるように言った。
「山科――」
「はい?」
「お前が元気を出さないと、北条も帰って来づらい。北条のこと、頼んだぞ」
「――はい!」
浜野のスピーチは、全員の共有するところとなり、何よりも愛をひどく励ました。
「ハマのカヅ先輩、めっちゃ、かっこいいー!」
里香と瑠衣と香織が浜野に抱きついた。
里香のフライングボディアタックと、瑠衣のスリーパーホールドと、香織のベアハッグがキマって、浜野は教室の床に沈んだ。
6・〝好き〟の意味
【二〇一七年十二月七日】
緊急ミーティングのあと、愛は北条にLINEメッセージを送った。
「私のせいで、ご迷惑をおかけしました。ケガまでさせてしまい申し訳ありません。お加減、大丈夫ですか?」
以前なら、すぐ返信してくれていた北条だったのに、このメールに対する返事があったのは一週間近く過ぎてからだった。
その文章に、愛はショックを受けた。
「山科のせいじゃない。どうして山科が謝るんだ。意味が分からない」
北条は、絵文字などを使うようなタイプではなく、いつも文字だけを送ってくる。しかし、この冷たい文章はどうだろう。
確かに私がケガを負わせたわけじゃない。でも、北条先輩は、世久原先輩の中傷から私をかばってくれて、あんなことになってしまった。だから、私は無関係じゃない。
――それなのに
(どうしてこんなに冷たいんですか?)
麻美が、向かいの席で、くすくす笑いながら言った。
「テレよ、これ」
「えっ?」
「さと先輩、きっとテレてるんだと思う」
北条から返信があった翌日、愛は、キャンパスのカフェで、その悲しい気持ちを麻美に打ち明けた。
十二月上旬の都心のキャンパス。東京も、だいぶ大気が冷え込む日が多くなってきた。
愛にしては珍しくスカートをはいて大学にやって来たのだけれど、足もとを渡る風は冷たく、ブーツにすればよかったかな、と少し後悔していた。
愛が、少しだけおしゃれをしてきたのは、もしもキャンパスで北条に会えたなら、LINEでなにか北条の気に触るようなことを書いてしまったらしいことをお詫びして、できればそのまま食事などに一緒に行くことができて、以前のようにお話しができたら――と、女の子として北条に会いたいという気持ちがあったからだった。
でも、キャンパスで会えた同好会の仲間は麻美だけだった。麻美は、少し沈んでいる様子の愛が気になって、お茶しようよと誘ってくれた。
そして愛は、北条から届いたLINEを麻美に見せて、麻美の解釈を求めた。麻美は、それは北条のテレだと言う。
――どういうこと?
「愛ちゃん、夏休みが終わってから、さと先輩とあまりお話しできてないでしょ?」
「うん・・・・・・」
ミーティングや大学祭の準備などで北条に会える日は、本当に楽しみだったのに、でも、いざ会うと、なぜだか以前のようには話せなかった。
夏合宿や遠野では、目的を共有していて、それについて尋ねたり、尋ねられたりしながら会話はどんどん広がって、どんどん進んでいった。それが楽しかった。
でも、東京に戻ってからは、なにを話せばいいのか、なにを話題にすればいいのか、と、愛は北条と一緒にいるとき、それまでに感じたことのない妙な緊張感とぎこちなさにとらわれ、話題を探すことで思考の中身がいっぱいになってしまった。
星のこと、神話のこと、宮沢賢治のこと・・・・・・。テレビのことでも、お天気のことでも話題なんて、本当は目の前にいっぱいあるのに。
「あたしね、こんな言い方したら悪いんだけど、ふたりを見ていて、なんだか少し笑えてきちゃってたのよ」
「えっ?」
「愛ちゃんも、さと先輩も、実はお互いのことが好きなのに、お互いが自分の気持ちに気付いてないんだなぁって」
麻美がふふっと笑った。
愛は、きょとんとしている。
――私が、北条先輩のことが好きで、そして北条先輩も、私のことが好き?
唐突な指摘だった。愛は戸惑った。
愛の目がテーブルの上のシュガーポッドやペーパーナプキンの周辺を見つめながら、ゆらゆらしている。麻美はセットで注文したシフォンケーキを一口食べて、愛の反応をじっと見ていた。
「でも、その・・・・・・〝好きな人〟に、こんなメッセージは送らないわ」。愛が、やっと言葉を放った。
「それは、そこに書いてあるとおりに受け取ればいいんじゃない?」と麻美。
「えっ?」
「さと先輩は、あのとき、世久原先輩にケガをさせたことも、愛ちゃんが中傷されてショックを受けてたことも、全部ひとりで背負い込んでた。だから愛ちゃんに〝謝られる理由が分からない〟んだよ」
麻美が言うことも何となく分かる気がしたけれど、でも、もしも私が、その人のことが好きだったなら、もう少しやさしいメッセージを送る。
愛は、まだLINEの文面の素っ気なさを気にしている。
「愛ちゃんが倒れたとき、さと先輩、病院へ行く前に、愛ちゃんに『山科、すまね、オレのせいで』って言って泣いてたよ」
「北条先輩がっ?」
愛が驚いたのは、ひとつは北条が言ったという「オレのせいで」と言葉。もうひとつは北条が泣いていたということ。
「さと先輩、愛ちゃんがあんなひどい言い方をされたのは、自分が愛ちゃんと一緒に遠野へ行ったことが原因で、みんなにも誤解を与えたんだって考えたんだね。愛ちゃんのこと、あんなふうに言われたことが、すごく悔しかったんだと思う」。
「オレのせいで・・・・・・って? どうして北条先輩が私に謝るの?」
「ほら、愛ちゃんだって〝意味が分からない〟でしょ?」
麻美は、ふたりの関係の謎解きしているような気持ちになって、おかしかった。
「愛ちゃん、さと先輩のあだ名は?」
「昼行灯?」
「そう。『昼行灯』ってさ、昼間に灯りが点いていても役に立たないし、目立たないでしょう? だから、ヌボーっとしてて役立たずで間抜けで存在感が薄い人っていう意味になるんだけど。――でも、映画や小説に登場する昼行灯キャラって、実は計算してそのキャラを演じていたりするんだよね。例えば『忠臣蔵』の大石内蔵助、『必殺仕事人』の中村主水。ちょっと違うかもしれないけれど『水戸黄門』」
討ち入りを計画していながら、公儀の密偵をあざむくため、夜な夜な酒宴を開いては、周囲にダメな男と印象づけて油断させつつその日を待ち、ついに〝こと〟を成し遂げた赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助。
ダメ役人で、ダメ亭主で、ダメな婿殿でありながら、午後一〇時五十分には、ばっさりと悪を斬る中村主水。
越後の縮緬問屋のご隠居を装いながらも、ときには自ら杖を振り回して悪代官を打ち倒し、午後八時五十一分には、かっかっかと高笑いして悪を懲らしめる水戸光圀。
麻美は、実は時代劇好きだった。特に大好きなのが『鬼平犯科帖』で、その主人公である「鬼平」こと長谷川平蔵こそが理想の男性のタイプだと言っていた。
火付盗賊改方という、殺伐として荒々しい役職にありながらも義理と人情に厚く、犯罪者の更正施設として人足寄場を作って職業訓練を行うなどした鬼平。情け深い裁きには、ときに罪人も涙し、やがてまっとうな人の道を歩きはじめた元罪人と再会するなど感動的なシーンもある。
人としてのやさしさの、そのスケールの大きさに麻美はしびれた。
テレビで平蔵を演じた中村吉右衛門も好きだけど、麻美にとっての王子様は、あくまでも長谷川平蔵その人なのだという。
香織がそれを間違えて「麻美の理想のタイプって竹中平蔵(※某経済学者)なんだってー」と周囲に言いふらし、麻美が激怒したことがあった。
「さと先輩も、昼は寝てばっかりだけど、ほら、星空の下ではかっこいいじゃない?」
そうだった。星座、神話、メシエ天体、天体望遠鏡、星野写真、遠野物語、宮沢賢治・・・・・・。北条はなんでも知っている。
「うん。確かに夜の北条先輩はすごい」
「――その言い方はやめなさいっ」
麻美が慌てて唇の前に人差し指を立てた。
店内を見渡す。気付いた学生はいなかったらしい。
天文同好会の会員たちの会話は、しばしば周囲に誤解と邪推を与えていた。
「戸澤くん、昨夜(の流星群)はスゴかったね」「ああ、オレも興奮してあのあと眠れなかったぜ」とか、
「おい、梨衣、今夜も徹夜で(天体観測)ヤろうぜ」「いいわね、じゃあ、あたし薬局でアレ(虫除けスプレー)買っとくね」とか、
「ヒロ先輩、あたし、もう(観測場所への)イキ方、覚えました。今夜は(懐中電灯は)ツケなくてOKです」とか、
「先輩、オレ、昨夜の先輩のイレ方(望遠鏡への天体導入)がスムースで(見ていて)気持ちよかったっス」「そうか、お前初めてだったよな。(望遠鏡に頭ぶつけて)痛くなかったか?」とか。
昨夜はスゴかっただの、今夜も眠れないだの、どこでヤるとかヤらないとか、いったいあいつらは毎晩ナニをやっている連中なんだと思われそうな会話を、学食や喫茶店で大きな声で交わして、ときに周囲をドン引きさせたりした。
「まあ、でも、さと先輩は、そもそも計算して昼間寝ているワケじゃないけどね。あの人の行動や振る舞いって、愛ちゃんと同じで超ナチュラル」
麻美が笑った。
愛は、麻美の話術に絡め取られていた。何も言えずにうなずくばかりだった。
「さと先輩って、ときどき女の子がドキッとすることを、さらっとしてきたりするよね。すっごく自然に」
(ドキッとすること――)
愛は、常堅寺の山門でのことを思い出し、鼓動が早まるのを感じた。
「里香ちゃん、図書館で、書架に探していた本があったのに手が届かなくて困っていたら、さと先輩が後ろから里香ちゃんの肩を抱くみたいにして、左手を肩に置きながら、軽くジャンプして取ってくれたって、感激してたよ」
愛は、その場面を想像し、北条らしいと思った
「瑠衣ちゃんは、さと先輩と同じ電車に乗り合わせたとき、突然、電車が急ブレーキかけて、つり革を掴んでいた手が離れて転びそうになったんだって。でも、さと先輩が瑠衣ちゃんの背中にさっと手を回して、ぐいっと身体を腕の中に引き寄せて、胸でずっしりと支えてくれて心臓がバクバクだったって言ってたし、香織ちゃんは、観望会で経緯台の設置がうまくいかなくて、望遠鏡が自分の方に倒れてきそうになったとき、さと先輩が左手で望遠鏡をぱっと受け止めながら、右手で香織ちゃんの頭を抱いて守ってくれたのが胸キュンだったって言ってたし――」
(みんな、北条先輩のことが〝好き〟なの?)
「あたしは、大学祭の準備で夜遅くなったとき、さと先輩と一緒に教室を出たんだけど、正門が閉まってたの。じゃあ六号館の裏の低い塀を乗り越えようかってことになったんだけど、でも、あたしスカートだったから、乗り越えられなくて困ってた。そうしたら、さと先輩が、いきなりあたしをお姫様抱っこして――」
愛の心のなかに言語化できない感情が浮かんできた。いつの間にか麻美に操られている。それに気付かない。
「そして、あたしをいったん塀の上にちょこんと座らせてから、ちょっと待っとけナって言って、先に自分が塀を飛び越えたあと、もういちどあたしを抱き上げて降ろしてくれたんだよ。あたし泣きそうだった」
――北条先輩は、遠野で、涼しい風が流れる雑木林の入り口まで肩を抱いて誘導してくれた。カッパ淵で夕立が近付いてきたとき、手を取って立ち上がらせてくれた。常堅寺の山門で背中を守ってくれた――。
「・・・・・・」
愛は、北条が誰にでも分け隔てなくやさしいのだということを知ったのだけれど、それがなぜだか少し寂しい。ちょっと暗い表情でうつむいいた。
麻美は、いちいち素直な愛の反応がおもしろ過ぎてたまらない。
(愛ちゃんって――)
麻美のお尻に、先端が矢印の形をした、幻の黒いしっぽが生えてきた。
「――あたし、さと先輩に告白しちゃおうかなぁ?」
愛が、はっ、と顔を上げた。
麻美の爆笑がカフェに轟いた。
店内にいた学生たちがびっくりして、窓際席にいたふたりをにらんだ。
麻美は、驚いている学生たちに手を振りながらお辞儀した。みんなは、やれやれといった顔で、それぞれの会話や作業に戻っていった。
「うそ、うそー」。麻美は、まだ笑っている。
「さと先輩にとって〝好き〟を意識しない相手は、家族か友だちなんだよね。あたしや里香ちゃんたちは妹みたいなものなの」
午後三時を過ぎたキャンパスには、もう暮色が漂っていた。
十二月の日は短い。イチョウの葉の照り返しが、カフェの窓辺をハチミツ色に染めている。
「さと先輩が、愛ちゃんのことを〝妹以上〟って意識しはじめたのは、愛ちゃんが大学祭の準備のとき、写真班に来たころかな? さと先輩、急に愛ちゃんに対してぶっきらぼうになったよ。それまで、ふたりは普通の友だちみたいにお話しできてたよね?」
確かに北条の反応は、そんなふうだったような気がする。
「でも、愛ちゃんのほうが、先に、さと先輩を〝おにいちゃん以上〟って意識したんだよね?」
麻美は、あたしはそのころから、ふたりの間に流れている空気を観察していたのよ、と言って笑った。
麻美は教育学部の学生だ。将来、教師になったとき、学校の現場で出合うであろう思春期の生徒たちの恋愛問題について、何か傾向や対処方法のようなものでも学ぶのだろうか。
「〝好き〟が少し浮かんできたときって、相手の反応が怖くなるんだよね。〝嫌われたらどうしよう〟とか〝一緒にいる時間を楽しんでもらえなかったらどうしよう〟とか〝会話が途切れたらどうしよう〟とかって、相手を大切に思いすぎて不安になっちゃう」
「でも――」
愛は、まだ自分の気持ちが分からなかった。
「やさしくしたらしたで、厚かましいって思われたらどうしよう、下心ありそうって思われたらどうしよう。そして、なによりも、いざ思いを伝えたとき、〝ふられたらどうしよう〟って、怖くなるよね」
「――」
「さと先輩は、〝お前のことなんか、ちっとも意識してないからな〟っていう態度で、実はずっとカッコつけてた。ナチュラルじゃなくなってた。愛ちゃんは、楽しく会話したいという気持ちを空回りさせてた。男性も女性も、自分を今の自分以上によく見せたいって思うのが〝好き〟のはじまりなのよ」
愛は、今日の自分のスカート姿のことを言われている気がして、ドキッとした。
「とにかく、さと先輩からのそのLINEは、お前が気にする必要は全くない、お前の分までオレが責任取るからって言ってるよ。・・・・・・別にいいのにね。責任なんてないんだから。そこがあの人流の、けじめと〝テレ〟とカッコつけなんじゃないのかなぁ」
麻美の「謎解き」は、愛にとって、分かるところもあったけれど、分からないところもあった。
麻美のお尻では、まだ幻のシッポが揺れていた。
「愛ちゃん、大丈夫。さと先輩に横恋慕なんてしないから」
愛がまた、はっとして麻美の顔を見上げた。
麻美がくすっと笑った。
「さと先輩にとって、あたしは〝妹〟でしかないのよね。でも、それはそれでちょっと寂しいかなぁ」
愛は、麻美のひと言ひと言を真に受けてしまう。
麻美と別れたあと、愛は、レポートを作成するための参考書を探しに、新宿の大型書店へ向かった。
さまざまな色のコートやジャケットが織り混ざるように溢れている新宿駅東口から靖国通りへ。交差点では信号待ちをしていた車がアクセルをふかして走り出すたびに、エンジンの唸りがジングルベルの音をかき消して、ビルの谷間を震わせていた。
鹿児島も大きな街だったけれど、こんなふうに耳を塞ぎたくなるほどの喧噪はなかった。どこへ行っても、どの街角を曲がっても、東京には、必ず人や車がいる。お互いの姿は確認しても知り合うことのない人たち。接近し、すれ違い、何事もなく離れていく。
愛は少し足早になり、書店が入居するビルに飛び込んだ
店内に静かに流れるインストゥルメンタルの聖歌と、暖房のあたたかさに、愛はほっとした。
『英文ライティングのフォーマット方法』『日本人が誤訳しやすい英文』『英訳技術論』といった本を数冊購入したあと、通りかかった二階の写真集のコーナーで、「遠野――」という文字が愛の視界をかすめた。
(遠野――?)
立ち止まり、今見た文字のありかを探した。目に飛び込んでくるすべての文字列をひとつずつ確認していくと『遠野・四季彩の物語』という吊り広告を見つけた。
広告の下に行くと、春の水張り田んぼを撮影した、透明感いっぱいの写真が表紙を飾る写真集が平積みにされていた。
(この表紙の写真―――)
愛が探している、あの絵の構図に酷似していた。
表紙写真は、遠野郷の四季それぞれの、四枚の写真が組み合わされたレイアウトだった。
そのなかの春の写真が〝さとさん〟の絵によく似たフレームで切り取られていた。
手にとってページをめくる。
遠野駅前、鍋倉城址、カッパ淵、土淵の田んぼ、常堅寺など、愛が知っている遠野の景色のほか、山口の水車、立丸峠、五百羅漢、卯子酉様、トオヌップの丘、デンデラ野、笛吹峠、猿ヶ石川の桜並木、千葉家住宅、夕暮れの綾織駅、早池峰神社、荒川高原、仙人峠、月夜の福泉寺、ススキの野辺、草原に草を喰む子馬――。ページを繰るたび、遠野郷の四季の美しい風景が目に飛び込んできて、愛の心を震わせた。
(遠野だ――)
あの街に〝帰りたい〟――。そう思った。
愛は迷わず、その写真集を購入した。地下鉄の中でも、自室に帰ってからも、何度も何度も本の中を往き来した。
不思議な感覚が浮かんできた。
行ったことのない場所がたくさんあったのに、愛の心の地図に、写真集の中の一つひとつの風景が、パズルのピースのようにぱちんぱちんと組み合わされて行き、やがてひとつの大きな空間像として膨らんでいくのを感じていた。
(この場所も、この場所も・・・・・・、私、見たことがある?)
奥付を探すと「撮影/川村小夜」とあり、HPのアドレスが記載されていた。
愛は、スマホを取り出し、そのアドレスを検索し、コンタクト欄にメッセージを打ち込んだ。
「遠野郷が大好きなので、川村様の写真集を購入させていただきました。これから出合う過去のような、出合ったことがある未来のような、素敵なお写真に感激しました。表紙のお写真の〝春〟を撮影された場所を知りたいと思ったのですが、教えていただくことはできますか?」
数時間後、さっそく川村小夜から返信が届いた。
「私の写真集を手にとっていただいて嬉しいです。そして、添えてくださった丁寧なメッセージを読ませてもらいました。不思議な感想を抱かれたのですね。よろしければ、一度お会いいたしませんか?」
【二〇一七年十二月十七日】
愛は、川村小夜に待ち合わせの場所として指定された表参道のカフェにいた。
小夜には「当日の服装は、紺色のケーブルニットに赤いチェック柄スカート、ベージュのピーコート、白いストールで行きます。髪の毛は肩に届かないほどのこけしカット。たぶん人待ち顔でキョロキョロしていると思います」とメッセージを送った。
現れた小夜は、メッセージの通りよね、人待ち顔でキョロキョロって、ホントにその通りだったわ、と言って笑った。
「川村さん。初めまして。山科愛と申します。先日は、ぶしつけなメッセージを送ってしまいましたことをお詫びいたします。本日お会いしていただけることになり、ほんとうにありがとうございます」
面接試験に臨む学生のような、愛の丁寧すぎるあいさつに、小夜はちょっと驚いた。
(今どきの子じゃないみたい。古風な――)
例えばおとっつぁんに薬を飲ませてあげながら「それは言わない約束でしょう」とやさしく背中をさする長屋の娘のような。
向かい合った席で、愛の目線が、少し恥ずかしそうにテーブルの上をうろうろしていた。
この子が初めて誰かとデートした日も、こんな感じだったのかしら――?
(かわいいっ。気に入ったわ、この子)
「こちらこそ初めまして。川村小夜よ。小夜って呼んでくれていいからね。あたしは愛ちゃんって呼ばせていただくわ」
明るい声、砕けたトーンのなつっこいしゃべり方。愛の緊張していた心が溶けた。
小夜は、髪が長い細面の美人だった。すらりとしていてジーンズがとてもよく似合っているところはどこか里香に似た雰囲気。くりっとした大きな目は瑠衣っぽくもあり、少し笑うと左の口元に片えくぼが浮かぶところは香織にも感じが少し似ている。つば付きのふわりと大きな黒いニット帽がかわいらしさと精悍さを同時に印象づける。
「えーっと。あの写真集の表紙を撮影した場所が知りたかったんだっけ?」
小夜がバッグの中から国土地理院の二万五〇〇〇分の一の地図を取り出した。
撮影した場所は必ず地図にプロットしておくの、と言いながら「ここよ」と小夜の細い指が、地図の一点を指した。
「八幡山?」
「――のてっぺんの東側に、ちょっと小高く突き出している場所があるの。そこよ」
愛は、夏にたどった自分たちのルートを思い出していた。いちばんはじめに早池峰山を見つけて自転車を止めたとき、もっと高い場所、と探して振り返ったあの山だった。
雑木や針葉樹がみっしりと生えていて、とても登って行けそうにないと感じた山だった。
「この山は、私たちも見つけました。でも、木が生い茂っていて、とても見晴らしは利かないだろうなと思いました」
「あら、愛ちゃん、近くまで行ったことあるの? いつ?」
「今年の夏です」
「〝私たち〟って、友だちと旅行だったの?」
「・・・・・・そんなところです」
愛が少し言いよどみ、目を伏せた。小夜がそれに気付いた。
「この場所が知りたいって、それはどうして?」
「それは――」
「あらやだ、ごめんね。取り調べしてるみたいに質問ばっかりしちゃった。でも、なんだかいろいろとワケがありそうね。よかったらお姉さんに話してみない?」
「・・・・・・」
(初めから説明したらすごく長い話になっちゃう)
「それとも言えないワケでもあるの?」。小夜が、くすくす笑っている。
「いえ、少し長い話になってしまいそうなので、聞いていただくのが申し訳なく思って」
「私の時間なら気にしないで。今日はこのあと飲み会がひとつあるだけだから大丈夫よ。お話し、聞いてあげる。それに、愛ちゃんがメッセージに書いていた『これから出合う過去のような、出合ったことがある未来のような』っていう不思議な言葉の意味も知りたいし」
「ありがとうございます。では、聞いてくださいますか?――」
小夜にやさしく促されて、愛が話しはじめた。
祖父の遺品の中にあった絵、特攻隊員、写真から描いたもう一枚の絵、曾祖父との思い出、早池峰山、そして遠野でのこと・・・・・・。
そして、小夜の写真に感じた奇妙な感覚。
「私は、私がその絵が描かれた場所を訪ねることで、曾祖父が喜んでくれる気がすると思って、その場所を探しはじめました。でも、小夜さんのお写真を拝見したとき、あの場所もこの場所も、いつか見たことがあったんじゃないかって思うほど、遠野というあの〝まち〟の広がりが、自分の中に、まるでプラネタリウムのエアドームのように膨らんでいく感じがしたのです。行ったことがない場所を懐かしく感じたり、実は知っていた場所にいつか初めて出合えるんじゃないかって。その場所に、その・・・・・・。帰って行く、みたいな――。
だから私はずっと、その絵が描かれた場所にこだわって来たのかなって、お写真を拝見して思ったんです」
クリスマス間近の表参道は、人でごった返していた。いつの間にか日はもう沈み、通りのケヤキ並木には、年末恒例のイルミネーションの光が点されていた。
粒だつようなシャンパンゴールドの光が、散りきらぬケヤキの樹葉の陰に揺れている。光の渦の下を、カップルやグループ、家族連れなど、大勢の人たちが楽しそうに歩いていた。
そんな東京のど真ん中のカフェで、小夜は「The」という定冠詞付きで呼びたくなるような日本の田舎・遠野郷を独特の感受性で見つめ、思い、戸惑っている少女から、不思議な話を聞かされている。
遠野はそろそろ雪が積もっただろうか――。小夜は、青白いビロードを敷き詰めて広がる土淵の田んぼの雪明かりと、その上空に光るカシオペアを思い出した。
「愛ちゃん、ありがとう。ちょっと悲しいエピソードもあったけど、でも不思議でステキなお話だったわ」
小夜は、もう一杯いただきましょうね、といって、愛には紅茶を、自分はビールを注文した。
「すみませんでした。自分勝手な思いばかりをいっぱいしゃべってしまって――」
愛は、ハンカチを取り出して額にあてた。なんだか熱く語ってしまったらしい。
そんな様子を、小夜がにこにこ見ている。
「そんなことないわよ。あの写真集を見て、ここに行きたいって思ってもらって、いつかその場所で、初めて来たのに久しぶり――みたいに感じてもらえたら嬉しいもの。でも、愛ちゃんの感覚は、もっと自分の心の深いところで、自分に関わる遠野のなにかに気付いている? 気付こうとしている? そんな感じなのかなって聞いていて思ったわ」
(気付く? ・・・・・・なにか自分に関わること?)
ふと、曾祖父のことを思った。あの縁側の風景がまた浮かんできた。
「あたしも、あっちこっちで写真を撮っているけど、ときどき出合うの。デ・ジャヴ。だけど、愛ちゃんのは、そんなよくあるデ・ジャヴとはちょっと違うみたい。地図のような広がりや、エアドームのような膨らみで写真を組み合わせられるなんて、なにかもっと強い力がないとできないわ」
「強い力――ですか?」
「そうね。あなたはこの風景と、なにかで繋がっているのよ」
(強い力? 気付く? 繋がっている・・・・・・?)
考え込んでしまった愛に、小夜が思いがけないことを言ってくれた。
「こんど、一緒に行ってみましょうか? この場所に」
「えっ!」
愛は飛び上がるほど嬉しかった。
「あの写真、木々が葉っぱを出す前、四月に撮ったの。七十年前はきっと木がなかったのかもね。でも、冬や春なら枝があってもちょっとは見通しが利くわ。あたしも興味が湧いて来ちゃった」
「いいんですか? ――すごく嬉しいです」
こんなとりとめもない自分の話しをちゃんと聞いてくれて、応援してくれる人がここにもいた。おにいちゃん、串木野のおじいちゃんやおばあちゃんたち、聡さん、あさちゃん、小夜さん、そして――。
小夜は、ホームページの連絡先ではない、自分の携帯の番号とLINEのアドレスを教えてくれた。
「いつでも連絡してきてね。あたしもまた連絡するわ。ときどき会ってお茶しようよ」
応援してるからね――。そう言って、小夜の後ろ姿が表参道の人混みに中に消えていった。
愛は、空を見上げて、金色のイルミネーションの向こうに星を探した。ぼんやりと濁った闇があるだけだった。けれども、心の中に、星空を隠していた雲が少しずつ隙間を空けて広がっていくような気がしていた。
私の周りには、私を助けてくれる人がたくさんいる。応援してくれる人がいっぱいいる。そして――。
(守ってくれる人・・・・・・)。
【二〇一七年十二月二十二日】
天文同好会の冬合宿は、八ヶ岳山麓の標高一二〇〇mの高原にある、大学のセミナーハウスで行われた。
日没が早く、高層の塵が残照の影響を受けにくい冬の夜空は四季で最も暗く、空気も乾燥して透明度が上がる。
そんな真っ暗な冬の夜空には、一等星が七個も輝く。二等星も多い。
天文同好会の冬合宿は、お堅いテーマは設定せず、天体望遠鏡や双眼鏡を使って、見たい夜空を見たいように眺めながら、みんなでワイワイしようという趣向だ。そして「一年間お疲れさまでした」という納会的な意味合いと、四年生の追い出しコンパも兼ねている。
寒空の下で行われるため、屋内での宴会がメインになってしまわないように、午後七時から十時までは、全員が必ず屋外で観望することと決められていた。
そして、天文同好会の〝伝統食〟である「山形芋煮汁」の鍋を全員で囲む。
第一回冬合宿『遠征』が、山形県の朝日村(現在の鶴岡市朝日町)で行われたとき、山形市出身の四年生がこれを作ってくれて、そのあまりのおいしさに全員が感激した。
以後、その彼が残していったレシピを忠実に守りながら、天文同好会の毎年の冬合宿では、芋煮汁が作られる習わしとなり、それを作るのは、これが最後の合宿参加となる四年生と決まっていた。
「あーあ。芋煮汁もこれで最後か」。卒業後、高知県に帰るのだという小林がつぶやいた。
「OB参加で食べに来れば?」。東京に就職が決まった有紀が、サトイモを箸に突き刺しながら言った。
「十二月の社会人は、芋煮汁を食べに来るヒマはないだろうな」。浜野は横浜の自宅から都内の商社に通うという。九人の四年生は、春から新しい道へと進む。
「寒いねー、愛ちゃん」
麻美が愛の左腕に抱きついてきた。
「知ってる? 秋田県民って日本でいちばん寒さに弱い県民なんだって」
「そうなの? 北国の人はみんな寒さに強いんだろうなーなんて思ってたわ」
なんでも、ある気象情報会社が、冬の間に各県民が着ている服の枚数や身につけている防寒アイテムの数を調査して、その調査日の気温との相関を分析したところ、秋田県民は、全国平均よりも一.一六個ほど多かったのだという。
「あたし、今日はヒートテックにスキニー重ねてジーンズの上にスキー用サロペットだよ。それでも寒いわ。・・・・・・っていうか、ここは角館より確実に寒いっ!」
「じゃあ、いちばん寒さに強い県民は?」
「それが岩手県民らしいのよ」
岩手県民の肌着や防寒グッズの装着数は、全国平均よりも〇.九四個少ないのだとか。だいたい一枚分ほど薄着らしい。秋田県民と比べたときは二枚ほども違う。
寒さに最も弱い県と、最も強い県が、東北地方で隣り合っている。愛はちょっとおかしかった。
「ほら、さと先輩なんて、都内にいるときの恰好のまんまだよ」
麻美が、一年男子たちと一緒に赤道儀に載せたカメラを操作している北条の姿を指した。長靴こそ履いていたが、いつものジーンズにダッフルコート。マフラーさえしていない。
(やっぱり暑さ寒さににぶい人なのかな?)
北条は、自ら願い出て休会中ではあったが、浜野や内記をはじめ、他の会員たちも合宿には出てこいと誘った。北条の参加を、一年男子たちがいちばん喜んでいた。
「愛ちゃんてさ、言葉遣いが丁寧だよね」
「そうかな?」
「『あたし』じゃなくて『わたし』。『すいません』じゃなくて『すみません』。真面目っていうか奥ゆかしいって言うか。それに、あたしも、里香ちゃんも、瑠衣ちゃんも、かおりんも、たけるくんも、よしくんも、すばるくんも、一年生はみんな北条先輩のこと〝さと先輩〟って呼ぶのに、愛ちゃんは『北条先輩』だもんね。さと先輩、愛ちゃんに〝さと〟って呼んでほしいって思ってるかもね」
麻美がからかう。未だ進展する気配がないふたりの間柄を、麻美は麻美なりに心配していた。
麻美が自分を応戦してくれているのだということは、愛も十分に分かっていた。
でも、本当に、私は北条先輩のことが好きで、北条先輩も私のことが好きなんだろうか。
(そもそも〝好き〟って、どういうことなんだろう?)
愛にはまだ分からなかった。
「真っ直ぐすぎるよ、愛ちゃん。今、あたしが言ったことも真に受けて考え過ぎちゃってるよ」
麻美がもう一度、愛の腕をぎゅっと抱きしめた。
観望の場所は、セミナーハウスの前庭だ。館内の照明は落とされ、庭の数カ所にはバケツに雪を入れてひっくり返して作った小さなかまくらにローソクが灯される。明るすぎないようにとの配慮だが、それらが小さな地上の星となり、幻想的な空間を作り出す。
外の気温はマイナス五度。ほのかな雪明りの頭上、きーんと冷えた大気の向こうに、冬の一等星たちが輝きを競い合っている。
牡牛に向かって棍棒を振り上げるオリオン。その背中と足もとには、彼に従う小いぬと大いぬ。
オリオンの右肩・ベテルギウスと、小いぬの心臓・プロキオンと、大いぬの鼻・シリウスを結ぶと冬の大三角形になり、さらにシリウスからオリオンの左足・リゲル、牡牛の目玉・アルデバラン、ぎょしゃ座のカペラ、双子の弟・ポルックス、そしてプロキオンを経てシリウスに戻ると、冬の大六角形、別名・冬のダイヤモンドが結ばれる。
天頂にはすばるが浮かび、早い時間なら北西には夏の大三角形もまだ残り、南西には秋の一つ星・フォーマルハウトも見える。さらに夜が深まっていくにつれ、しし座のレグルスや北斗七星も昇ってくる。
箱の中から宝石を無造作につかみ取り、空に向かって放り投げたような、それでいて実は周到に配したようなたくさんの一等星や二等星と、それらの隙間を埋め尽くす無数の光の粒。
白々と凍り付いた星の巻雲に満たされた天蓋は、まるで真夜中の青空のように明るい。
「あさちゃん、ホント、冬の夜空ってキレイだよね・・・・・・」
愛の目の中で、オリオンが高く歌っている。
愛が、ふと、北条の姿を探しはじめた。北条は、セミナーハウスの前、ひとつだけ置かれたランタンを囲む四年生たちの輪の中にいた。
愛は、北条の横顔をしばらく見つめたあと、うつむいて、ふぅっ・・・・・・と、小さな白い吐息の花を咲かせた。
愛の視線の行き先に麻美が気付いた。そして、愛の肩に自分の頭をのせてきた。
「ごめんね。愛ちゃん」
「えっ?」
「抱きついているのがオラでサ」
にんまり、といった顔で麻美が愛を見た。
「愛ちゃん。今、さと先輩のこと、探してたべ?」
「―――」
「キレイななにかを見つけたり、ステキななにかに出合ったとき、一緒に見たい、今、隣にいてほしいって誰かのことを思う。それってサ、その人のことが〝好き〟なんだべ? オラ、そう思うナ」
愛の肩にもたれたまま、麻美も夜空を見上げた。