わたしの幸せを願いながら
大陸を統一したのち、帝は国に州制度を取り入れた。
おおまかに五つの州にわけ、それぞれ州知事を任命、ある程度の地方自治が認められている。
淑華たちが数日かけて馬車で向かったのは大陸の北端。馬楚成が強権を振るっていた、かつての魯国である。
現在は、宜州と名前を変えていた。
馬車は山を越え、人里離れた沿道をさらに北へ北へと走っていく。
見渡す限り平原が広がり、背の低い雑草しか生えていない寂しい場所だ。
その平原を一本道がつづく。
平原を抜けて吹く風がヒューヒューと鳴き、遠くには雪山が眺められる。なんとも殺伐たる風景だった。
「あの先の山のふもとで、威龍は育ちました」
七歳の頃、威龍はこの同じ道を通って流刑地に送られたのだという。
乾いた風が吹き荒ぶ平原に、幼い彼は怯えたのだろうか。都に比べると気温も低く、かなり寒い。
「ここは、まだ最北の地域ではないんですよ。驚くのは、まだまだです、姫さま。もう少し先では大河が流れ、その流域には、この地で最も栄える城下町があります。そこがこの宜州の中心地だが、まあ、なかなか栄えた町で、きっと気に入りますよ」
「そこに住むのですか?」
「いえ、街の中心部に住むには、やはり少し懸念がありますから。郊外の別宅に向かっています」
「お世話をおかけして、申し訳ありません」
「あなたはもう家族ですから、どんと構えてください」
そういうと、宇空は、それが癖なのかボサボサの頭をかいた。
数日、馬車で移動しながら時に休んで食事をし、焚き火で暖を取りながら仮眠をとる旅は、ふたりを近づけるにはちょうど良かった。
「今日から、あなたは出戻りの僕の従姉妹で、家族の困りものですからね。あ、ここは笑ってもらうところだから。出戻り困っりもの娘の宇美杏と名乗ってください。都の富豪に嫁いでいたのですが、子なしで離縁され実家には戻れず、それで隠れて宜州に住むことになったというわけですな」
「覚えます。もう一回」
宇空が同じことを三回ほど繰り返してから笑った。
「そんな難しい設定ですかね」
「物覚えが悪いんです」
「いや、差配をこなした貴妃さまが、それでは後宮は大変だったでしょうな」
「たぶん、無能な差配が消えて、ほっとしているわ」
そう、過去をすべて捨ててしまったと彼女は思った。そして、誰ひとり知人のいない見知らぬ場所へ行く……。
二十年前、帝の妃になったとき、愛着を持っていたものすべてを捨てた。両親も、優しかった兄たちも、可愛がっていた人形や気に入っていた衣装やおもちゃも、すべてを失った。
残ったのは楊楊しかいなかった。今は、その楊楊もいない。
『僕と厳しい人生を選ぶか』と、威龍に聞かれたとき、このことを覚悟していたのだろうか。
実際にその覚悟があったのかと言えば、嘘だろうと思う。まったく男とは呆れた生き物にちがいない。
帝といい、威龍といい。男たちの思考回路は似ている。
すべてを自分で決定し、それに従ってくれると無意識に考えているのだ。もし、あの夜、彼女が戻ると言えば、威龍は帰してくれただろうか。
「何を神秘的な顔をして、ほほ笑んでいるのですか?」
宇空に聞かれ、彼女は自分が笑っていることに驚いた。それで、少し目を回すような動作をしてから、口もとに手を置いた。
「威龍のことを思い出していたのです」
「それは、妬けますなぁ」
「そういう意味じゃなくて」と、彼女は軽くいなした。
宇空は、ときどき彼女を口説く。それで心が軽くなるのが不思議だった。
「威龍だけじゃなく。男性というのは、なぜか決定的なときに、女が必ず了承すると自信を持っているように思えて」
「いや、それは違います。きっと、びくびくだったはずだ。奴のことは息子みたいに思っていますから。こんなふうに女性を拉致するとは驚きでした。ともかく、あの容貌だから人は勝手に誤解しますがね、こんな美男子はやりたい放題だろうと。しかし、実は、すごく慎重な男です。……さて、あっちだ」
宇空は馬車の前方を人差し指でさした。
「あっちの方向、そう、雪山が見えるでしょう。その辺りですが、雪深い場所でね。夏でも、まだ雪が残るような、威龍はそこに幽閉されていました」
御者台に乗り出して、宇空が言う北の山を眺めた。冷たい風が顔を打つ。冷え冷えとしたこの地で、彼は生きてきたのだ。
「これから、わたくしが生きていく所ですね」
「いや、ちがいます。あそこよりは、かなり暖かい場所ですから」
それは、どこか現実味に欠けるような気がした。
自分のどこに、こんな大胆な計画にのる気概があったのか。
いや、見方を間違えている。
そもそも女は世に自分の家などないのだ。
そう思うと、いっそ清々しい気分になった。もともと生まれたときは、身ひとつだったのだ。
馬車は大河にかかると橋を渡り、左側に見える町の城壁からは逆方向へと進む。先に竹林があり、そこを抜けると小川が流れていた。
板をつないだだけの簡易な橋を車輪がカタカタと音を立てて渡る。その先に一軒の家があった。
別宅と聞いたが、かなり立派な屋敷だった。
「さあ、到着しましたよ。ひどい長旅をよく不満も口にせずに付き合ってくださった。その我慢強さには感嘆する。どうですか。威龍を捨てて、わたしの嫁になりませんか」
「まったく」
宇空は笑いながら馬車を降りる手助けしてくれる。身をやつしているが、別宅を見る限り、かなりの富豪だと想像できた。
「ここは宜州の中心部から離れており、人目につきにくい。ほら、わさわさと近づいてくる三人、あのバアバとジイジのふたりがここを管理しています。それから、用心棒にひとり若いのをつけましたから」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
「ジイ、バア。はよ、歩け。俺の従姉妹が疲れきってるぞ」
「あいや〜〜、待ちなされ。年寄りに無理をいわんと」
人の良い顔で返事する老夫婦に、淑華は心が癒される思いがした。
三人が近づいてくる、その時。ふいをついて一陣の風がひゅーっと通りすぎ、儒君の裾が揺れた。彼女は顔にかかる髪を手で押さえながら、無意識に「威龍?」と呼んだ。
(最終話につづく)




