夜を駆け、森に消えるだけのこと
雨あがりにけぶる夜道、寝静まった都、月明かり。
威龍に抱えられたまま馬で駆け抜ける、その道中には霞が立っていた。
湯気のように湧き立つ白い霞の先に希望が見えない。それは、自分のできそこないの人生のようだと淑華は思った。
十五歳の頃、帝の胸に抱えられて両親の屋敷にむかった時と同じ状況だが、異なるのは淑華はもうなにも知らない少女ではないということだ。
淑華が十五歳ではなく大人であって、この先の破滅を想像できることだ。
「威龍」
「黙って、もう少しです」
街外れまで駆けると、威龍は寂れた寺院の前で馬首を返した。そのまま坂になった参道を登り、門内に入る。
「どうどうどう」と、威龍は馬をたくみに御した。
そして、軽々と馬から降りると、彼女を下ろすために両手を差しだした。
「淑華」と、彼は息を切らしながら、彼女を見た。
「ここで、お別れだ」
「え?」
「なんの説明もなくて悪かった。あなたに相談する時間がなくて。それに、あなたは自分で思っている以上に考えていることが顔に出る。父は聡い。だから、黙っているしかなかった。怒っている?」
返事ができないでいると、彼は先をつづけた。
「もし不快なことがあったら、謝る。ただ、僕を信じて欲しい。あなたを匿うつもりだ」
「あなたは?」
次の言葉につかえた。彼の鎮痛な話し方で彼女は悟った。
「あなたは……、いっしょに来ないのね」
「今は王宮に戻るしかない。同時にふたりが消えるわけにはいかない。一ヶ月、いやもう少し待っていてくれないか。必ず迎えにいくから」
「……」
「これは、あなたを愛したときから準備してきた計画だ。しかし、もし、あなたが貴妃として生きたければ、戻ることも今ならできる。ここが、あなたの岐路だ。僕とともに厳しい人生を選ぶか、帝の庇護のもと贅沢な生活に戻るか。今、選んでくれないか」
「行くわ」
即答すると、威龍は幸せそうにほほ笑んだ。
「いいのかい。そんなふうに即答して、後悔はしないだろうか」
「威龍、ここまで連れてきて聞くのなら、秋の間で聞いて欲しかったわ」
「そうすれば、あなたは残ると言ったかもしれない」
淑華は吹き出しそうになった。
威龍も笑っている。その顔はいつにもまして美しい。いったい、いつになったら彼の美しい容貌に感動することがなくなるのだろう。
「では、馬車を呼ぶ」
威龍は親指と人差し指を口にあてて口笛を吹いた。鋭い音を合図に境内から馬車があらわれた。
中肉中背の男が御者をしている。
衣服は、わざとらしくボロボロだが知性を感じさせる男で、ふたりの前に馬車を止めると、軽い動作で御者台から降りてきた。
飄々《ひょうひょう》とした様子の年齢不詳の男だ。若いようにも年配のようにも見える。
「この人は宇空という名前で、僕の師匠。その上、帝の間諜でもあった人だ」
「いや、その紹介はダメでしょうが。《《もと》》間諜とはっきり伝えないと貴妃さまが面食らう。まったく、おまえという奴は、そういう風だから人に誤解されやすい。言葉足らずだよ。その上に師匠といいながら、こき使うとは」
皮肉に口をゆがめて話す様子は魅力的だった。宇空は、にやりと右頬をあげた特徴的な笑みを浮かべたまま、淑華に向き直った。
「はじめましてですな、貴妃さま。あなたの拉致した愚かものの、それに手を貸して後悔している師匠です。あ、それから間諜だったのは、昔の話で、今は彼の年上の友人ではあります」
「はじめまして」
初対面だが、すでに彼のことを信頼している自分に驚いた。元来、彼女は警戒心が強いのだが、それを蕩かす魅力が宇空にはある。
「それでは、師匠。頼みました」
「ああ、必ず無事に届けよう」
この逃避行は、おそらく時間が左右するにちがいないと淑華は気がついた。
彼女は、すぐに馬車に乗り込んだ。
そこには見慣れた包みが数個あって、楊楊が準備したものだとわかった。
──楊楊。
荷物に触れると、涙がこぼれそうになった。
威龍も乗り込んできて、「説明が必要だろうか」と聞いた。
「いいえ、あなたはこれから王宮に戻るのでしょう。そうでなければ、楊楊の命が危ない」
「そうです。これから後片付けをしてくるつもりだ」
「長くかかるでしょうね」
威龍は寂しげに笑うと、いきなり彼女を強く抱きしめた。
「必ず、必ず、あなたのもとへ戻ってくる。だから、待っていてほしい」
「ええ」
それが可能だろうか。これが最後の別れになるのかもしれない。不吉な予想に怯えながら、彼女はほほ笑んだ。優しく、残酷なほど優しさを込めた笑みは自分でも嘘っぽいと思った。
「待っているわ。だから、必ず生きて、わたくしのもとへ帰ってきて」
「ああ、必ず、それから」
威龍は抱きしめていた手をゆるめると、彼女の顔をのぞきこんだ。そして、ささやくように「愛している」と告げた。
そして、返事を待たず性急に馬車から飛びおりた。すぐに馬蹄の音がひびく。
淑華は馬車の窓から、その後姿を目で追った。
もう一度、会うことができるだろうか。その不安を彼女は強いてねじ伏せた。
御者台に宇空が乗ったのだろう、その反動で馬車が揺れた。開いた扉から、彼がのぞいている。
「あらためまして、貴妃さま」
「もう貴妃ではありません。淑華とお呼びください」
「わかりました、淑華。では、行きますよ。長旅になりますが、その間、あいつの失敗談を話していきましょう。きっと、百年の恋も冷めるでしょうがな。ハッ!」
宇空は馬車の扉を閉めると、手綱をムチ代わりにして馬を御した。
暗闇の街を抜け、勢いをつけて馬車は沿道を走る。
しばらくして、馬車の周囲で馬の蹄音がする。
窓にかけた布をはいで覗くと、人相の悪そうな、いかにも山賊といった男たちが五人ほど護衛するように馬で並走している。
目があうと、髭面の男がにっと笑った。
夜を馬車は駆けぬける。
車輪が砕け、転倒するのではないかと思うほどの速度で。
帝とともに都に来たときとは、まるで違う。あの時は凱旋行進でもあって沿道の人びとに歓声に応えながら、歩くように進む馬車にのっていた。
今はその逆の道を、誰にも送られず、逃げるように去っていく。
都を出たあと、馬車は田畑の広がる道を走り、人の気配のない山道に入り、別れ道で停止した。
「しばらくは、まだ急ぎます。あの皇子のせいで、わたしは拉致犯になりましたからね。ここで捕まっては命が危ない」と、御者台から宇空が叫んだ。
「わかりました」
「ここから、わたしたちだけになります。護衛の者たちは別の道を行く囮ですから、できるだけ蹄の跡を残すようにして、西に向かいます。大丈夫ですか?」
「ご心配はいりません」
「ほお、さすがに肝が据わっている。では、ここで降りてください」
並走してきた馬に乗った五人のうち、ひとりが馬車の御者台に飛び乗った。
宇空は馬車から数個の荷物をおろして肩にかけ、淑華もふたつ手伝った。
「じゃあ、おまえたち、頼むぞ」
「先生、では、ご無事を祈ってますぞ」
彼らは馬車ととにも、そのまま右の道を去っていく。宇空は松明に火をつけてから言った。
「さあ、歩きましょうか。もうすぐ夜が明ける。そろそろ、あなたの不在を知られることでしょう」
「威龍さまはお戻りになっていますね」
「あれは、ああ見えて、いろいろ鍛えられて育ってきました。その上、聡いやつでね。そこは祖父である張栄光大将軍と似ている。見かけとは違ってね。あの容姿にみな騙されるんですが、実は心のなかに龍を飼っている。まあ、用意周到な奴ですから心配なさらずに」
「心配はしておりません」
「それはよかった。さあ、歩いて、歩いて、フッフッハッハッって二度吐いて二度吸ってという息遣いで歩くと山道は楽ですぞ」
「フッフッハッハッ」
「そうそう、素直な方だ。ちょっと先に馬車を隠した場所まで、しばらく、歩きますからな」
山道は、馬車一台がようやく通れるような道で、左右は樹木に遮られている。
ちょっと先と宇空は言ったが、かなり歩いた。
足に血豆ができたが、淑華は何も言わなかった。この程度で泣くわけにはいかない。必死で宇空のあとについていく。
「まだ歩けますか?」
「はい、大丈夫です」
「水を」
「ありがとうございます」
どれだけ歩いただろう。
木々が切れ崖の突先に出ていた。そこは山の中腹なのだろうか。視界が開け地平線まで見渡せる。
うっすらと空が明けていた。
地平線には、橙色の線が見え、徐々に空の色が変化していく。
自然の雄大な景色に、淑華は目を見張った。二十年という歳月を、後宮のなかで息をひそめてきた。
たまに、行事などで、寺などに行くことはあっても、それも都内のことだ。
自然の山々や地平線など、こうして眺めたことはなかった。
疲れ切っているにもかかわらず涙がうかんだ。
朝の輝きが、突先に止まる馬車を照らしている。
「なんと、美しい。自然とは、かくも美しいものだったのですね」
「まったくだ。神々しい」
二十年という歳月が過ぎた。
息をしているだけの日々をやり過ごし、ただ死ぬことを待っていた。あの緩慢に死を待つだけの日々にくらべ、なんと、これは……、甘美な不安なのだろうか。
(つづく)




