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愛したことが罰ならば



 淑華は長いあいだ『秋の間』に引きこもって過ごしたが、差配を任されてからの半年間では、多くの人と関わるようになった。


 後宮の文書や帳簿の管理する『尚宮局』。

 儀礼を司る『尚儀局』。

 衣服や寝具など日々の生活をまかなう『尚衣局』。

 食事をまかなう『尚食局』。

 警備を担う『尚備局』。


 これら五局の長は、それぞれ局の名前で呼ばれる。例えば、尚宮局なら尚宮。尚儀局なら尚儀。彼女たちから月の終わりに報告を受け親しくもなった。

 だからといって、劇的に日々が変化したかといえば、それほどでもない。


 彼女は常にどこか冷めていた。

 ずっと人のいいなりに生きてきて、そこから、どう抜け出していいのか方法がわからず、心を閉したからだ。


 威龍との関係は彼女の退屈な人生に、ある種の狂気を加えた。それは熱狂的とでもいえるような変化をもたらした。


「まったく、たちが悪いわ」と、淑華は声にだした。

「なにがたちが悪いのだ」


 書斎にいた淑華は帝の声に驚いた。

 普段なら彼が来る前から気がついているはずなのに、まったく今日は不意打ちだった。


「帝」


 彼女は慌てて、その場で拝手はいしゅした。


「珍しいこともあるな。なにを、ぼんやりしていた」

「申し訳ございません。午前中の仕事が終わって、少し疲れたようです」

「そういう姿も悪くないが……。まあよい、まずは報告を聞こうか」


 それから、帝はいつものように淑華の報告を聞き、いくつかの指示を与え、また、気がついたことを命じた。ふたりは夫婦というより、有能な上司とよく気がつく部下のようだった。


「そなたは有能だが、それをひけらかす所もない。その上、人たらしな所さえある。自分では気づいてないようだが、この後宮で敵対する妃がいないとは稀有なことだ」


 帝は笑った。

 その顔を正面から見られない淑華は、強いて事務的になっていた。


「帝、わたくしは、いつまで差配をしなければなりませんか?」

「他に誰がおるというのだ。丞相の孫娘だからといって、若い紅花ホンファに任せたいのか。大変なことになるぞ」

「人の悪い方ね」

「そうだ、わかっておろう。そなた以外の妃に差配を任せれば、紅花が面倒を引き起こす。それに、東部地帯の日照りが続き、別の地では洪水で田畑が水浸しになっている」

「何をおっしゃりたいのですか」

「それぞれの地域を援助するには、財政が逼迫していると言いたいのだ。後宮も絞れるところは絞って欲しい。その上で、そちに頼みたいことがある」

「損な役割な気がします」

「そう言うな。第二皇子の威龍だが」


 帝の口から威龍の名前が出て、淑華は全身が凍りついた。

 冷たい汗が湧きあがる。そんな彼女にまったく気づきもしないのは、帝らしいとも思うが。


「あれも、もう二十五になったが、まだ妃がいない。差配として、そなたに威龍のことを頼みたい。尚儀局の者と相談して、妃として数人の候補者を選んでくれ。良い候補があれば、早々にめとらせよう」


 キリっと胃に痛みが走った。

 威龍から聞いてはいたが、本当とは思えなかったのだ。心のどこかで、威龍がわざとからかったのだと思いたかった。


 ──では、帝は本当に彼に妃をと考えている。わたくしって、心底からバカなんだわ。なぜ、彼がそう言ったとき真実だと思わなかったの。


 彼女の顔色が変わったことなど、まったく気づきもせず、帝は、「では、頼んだ」とだけ言って、片頬をあげて笑った。


 淑華は、ただ拝手はいしゅした。


「では、早々にな」


 要件だけ述べると帝は立ち去った。楊楊がぼうっとしている淑華に声をかけてくる。


「淑華さま、お顔から血の気が失せています」

「楊楊……、わたくしは……、困った状況に追い込まれたみたい」

「どうなされたいのでしょう」

「それは、いえ、あの。尚儀を呼んで、帝の意向をまず伝えるべきでしょうね。それとも、このことを第二皇子さまにご相談すべきかしら」


 楊楊は何も答えない。


『どうか後悔しないで、僕を信じてください』と、昨夜の彼は言った。

『すべては僕の罪ですから』


 十七歳の頃なら、その言葉に歓喜したかもしれない。しかし、今はただ恐ろしかった。

 自分の冒した罪で罰を受けることを彼女は覚悟した。

 たとえ処刑されたとしても後悔はないだろう。ただ、まだ若い皇子がどんな罰を受けるかと思うと身がちぢまる。


 以前、帝が淑華にもらした言葉がある。


『朝廷で生き延びるには二つの手段しかない。わたしが帝であったにしても同じことだ。ひとつは相手に黙って従うか、もうひとつは徹底的に相手の息の根を止めるかだ』


 淑華は書斎から回廊に出ると、外の空気を吸った。湿り気を帯びた空気は冬の気配がする。

 しばらくすると、空が急に暗くなった。

 厚い雲が垂れ込めている。

 今にもふりそうな雨は、まだ雲にとどまっているが、いずれ土砂降りになるだろう。

 楊楊は心配気な表情で淑華を見つめ、細い目がさらに細くなった。


「楊楊、わたくしは、どちらの手段を選ぶべきかしらね」

「淑華さま、なんのお話でしょう」

「帝が前におっしゃったことよ。朝廷で生き延びる手段はふたつしかないと。でも、どちらも選びたくない場合、どうしたらいいのかしら」


 夕暮れ前に雨が降りはじめる。

 最初は細い雨だったが、しばらくして土砂降りになった。


「淑華さま、濡れてしまいます。お部屋にお戻りください」

「いいのよ、楊楊。この冷たい雨に洗われていたいの」


 威龍とともに死ぬのなら、それもまたいいのかもしれない。その覚悟が彼にあるとしたら、自分こそ地獄からの使者にちがいない。


 淑華の顔に苦い笑みが浮かんだ。





(つづく)

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