私が他の男に動じないことを求め
国を興して二十年、帝と朝廷は過去の王朝を研究しながら改革し、規律を整えている段階である。それは時に協力し、時に反発しながらという関係で常に緊張を強いられる。
他と比較すればという話だが、朱王朝の規律はゆるい。それは後宮で働く女性が夫を持つことが多いという点でもわかる。
とくに下っ端の宮女に夫を持つ者が多い。
一方で、名家出身の身分の高い女官は、結婚すれば女官の仕事を引退することが通例だ。彼女たちは、王宮に務めたという名誉を背景に名家に嫁ぐ。なかには結婚をせず、後宮で出世する女性もいる。
五局の長ともなれば、なまじな官吏よりも、はるかに俸禄は多い。
後宮の内規がゆるいのは、朱棣林の小事にこだわらない性格だからで、そのことに古くから働く女官は、あまりいい顔をしていない。
たとえば、尚宮局の長、黄思妍とかは、その筆頭だ。
彼女は皇后が育てた、いわば生粋の皇后派だった女性で、几帳面な性格は文書などを保管・管理する職に適してはいる。
都は整備され、皇宮が徐々に形を整えていく上で、皇后の役割も大きかった。
帝にとって、ともに戦乱の世を戦ってきた皇后は、妻というより戦友である。絶大な信頼をもち、後宮は完全に皇后の差配に任せた。
『後宮での役所は五官といたしましょう』と、決めたのも亡き皇后だ。
『尚宮局、尚儀局、尚衣局、尚食局、尚備局を設置して、後宮でそれぞれの役割を担ってもらいます』
皇后が他界して、その仕事を淑華が担当することを知ったとき、彼女は陰謀かもしれないと憶測した。
自分が帝に信頼されているとは、とうてい思えなかったのだ。
『わたくしには荷が重いことです』と、断ると帝は笑った。
『後宮での地位が一番高いのは誰だと考えている。そなたが妥当であろう。皇后より厳しくはなかろうから、皆も息がつける』
『帝、冗談ではすみません』
『では、玉風賢妃に頼めとでも言うのか』
玉風は帝よりかなり年上で、かつて彼の母親の侍女であった。もともと高貴な家の出で、帝がまだ少年であったころ彼を男にした。後宮の奥に住み、病がちで、めったに公に出てこない。
『それは……』
『ほらな。それに、たいした仕事ではない。ただ報告を受け監督するだけだ。そなた以外に誰がする。頼んだぞ』
豪快に笑うと、いたずらっ子のような顔を見せる帝は、ずるい男だと思う。嘆息をしながら、この人には勝てないと淑華は思うのだった。
そうして、不本意ながら差配は彼女の仕事になった。もともと聡明な彼女は、結果として難なくこなしている。
威龍が彼女に皇太子毒殺未遂の調査を頼んだのは、賢い選択だったといえよう。
また、淑華が先に調査の件を、帝の耳に入れたのは、あらぬ疑いを持たれたくない配慮からだ。
ともかく、また面倒を引き受けてしまったと、半分は嘆息しながら、一方では湧き立つ気持ちを隠して、彼女は『尚宮局』へ行くことに決めた。
『尚宮局』は後宮の人事や経理、書類の管理をつかさどっている。場所は後宮妃たちの住処からすると南側、外廷に接する所にあった。
それぞれの局は離れているが、もっとも外廷に近いところに位置するのが尚宮局である。
「さあ、良い天気だから、出かけましょう」
そう声をかけると、楊楊は口をすぼめ目を大きく見開いた。その姿は驚いたタコのようで、彼女の笑いをさそった。
「どちらにでしょうか」
「まずは、尚儀局に向かうわ」
「お供いたしますが……。でも、淑華さま、あまり表立って動いては、余計な憶測を招きかねません」
「わかっているわ」
「皇子さまのために、そのような危険をおかされるのでしょうか」
「皇子さまって? どなたのこと?」
「失言にございました」
にこやかな笑みを浮かべた淑華は、かつてないほど生きている実感があった。人を助けることは、おそらく自らを救う道なのかもしれない。
「わたくしは、彼を利用しているのかもね」
「どういう意味でしょう」
「何でもかんでも聞き耳を立てないのよ、楊楊。たまには、聞こえないふりをなさい」
「いつもしております」
「そう、はじめて知ったわ」
差配の仕事は、それぞれの局の長か上位女官が彼女のもとに来て、状況を報告するのが常だ。
それ故、淑華が局へ直々に足を運ぶことは、はじめてになる。
「最初は、尚儀局よ。いきなり行って、脅かしましょう」
「最初とは、全部の局を巡られるつもりなのですか」
「行きたいのは尚宮局の資料室だけど、そこに直接行けば、なにかと噂になるわ。それに、ひとつの局だけに行けば、他局のやっかみを受けるでしょう。全局に挨拶まわりをするつもりよ。表向きは、『十日夜の宴』のねぎらいよ」
「さすがにございます」
というわけで、後宮の差配権をもつ淑華は、それぞれの局を訪れ、一様にみなを驚かせた。ただ後半になるほど、驚きは減った。
おそらく淑華の来訪がひそかに局内で伝わったのだろう。
彼女は目当ての尚宮局を最後にした。
それぞれの局に挨拶をして『十日夜の宴』を労い、個人的な資産で賄いを与えることを約束した。
最後に尚宮局の建物に入ると、他と同じようにその場にいた全員が拝手してかしこまった。そこにはすでに局の長である尚宮も待っていた。
「先日の『十日夜の宴』が滞りなく終わったことに礼をしに参ったのです。挨拶に来ることが遅くなりました。ほとんどの方とはお会いしていないのですが、これを機に、差配のこと、これからよろしくお願いします」
「誠に恐れおおいことにございます」
尚宮が、深く拝手した。
四十歳を超えた貫禄のある女官で、生涯を独身として仕事を生きがいにしてきたようだ。
その生き方が淑華は少しうらやましくもあった。
貴妃として敬われてはいるが、その実態は虚しいものだと思う。反して、女官たちは仕事を生き甲斐としている。
これまで後宮で無為の時間を過ごすしかなかった……。幻でしかない帝の寵愛を待つだけの人生。
自覚さえ、否、自覚するのを拒否してきた感情が、今になってあふれる理由を考えたくなかった。
「楽になさい。それから、わたくしに構わず、仕事を続けなさい」
そう言葉をかけたが、誰も動こうとしない。
「今日は、こちらが最後です。ここを案内してくださるかしら」
「もちろんにございます。貴妃さま、どうぞこちらに」
「尚宮、あなたとは何度か顔を合わせているわね。だから、畏まらないくもいいのよ」
「御意」
尚宮は、彼女を案内して各所の説明をした。
一通り建物内を巡ったあと、淑華は目当ての場所をたずねた。
「尚宮、邪魔をしにきたわけではないのよ、ちょっと内密に頼みがあるのです。このことは帝も承知しております」
「なんなりと」
「では、お人払いをして。わたくしがここに残ることを秘密にできますか」
「おまかせくださいませ」
「古い資料が保管してある場所はどこかしら?」
淑華の命に、尚宮が「かしこまりました、貴妃さま」と、うやうやしく拱手した。
(つづく)