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あなたから離れることを許さず



 翌朝、楊楊が封緘ふうかんした書簡を盆にのせて持ってきた。


「これは?」

「今朝方、戸板窓から部屋の中へと差し込まれていました」


 書簡には『貴妃さま』へと表書きに書いてある。


「開けるべきかしら?」

「差出人にお心当たりがあるのですね」

「たぶん」


 豪逸でありながら、繊細さもある書体。これは威龍の字にまちがいない。以前、金木犀に縛った白絹で、彼の文字を見ている。


 封を開けると、かなり長文が書かれた文だった。


 冒頭は謝罪からはじまり、『先日は、ご不快な思いをされたことと存じます。都に戻れて気が緩んだための失態でした』と、書いてあった。


 では、気が緩んだから、宴で不躾にも肌に触れたと弁解しているのだろうか。この苦しい言い訳に、彼女は我知らずほほ笑んでいた。


 ──かわいい子ね。


 大人の女性が男をかわいいと思う場合、ふたつの意味がある。

 幼児に対する母性本能である場合と、もうひとつは、異性として心の琴線に触れた場合だ。そのことに、彼女はまったく無頓着で気づいてもいなかったのだが。


『辺境の地では、限られた数人の男たちとしか交流がなく。孤独な世界で育ったので、礼儀作法を忘れています。

 ここが後宮であること、あなたが父の妃であることを考えれば、あのような態度をすべきではありませんでした。まだ子どもの頃のあなたとの思い出が勝り、嬉しさのあまり、つい気安くしてしまったのです。

 さて、ご相談したことです。

 今でも母が皇太子に毒を盛るとか、祖父の謀反など、あり得ないと思っています。

 しかし、そのことにあなたを巻き込むべきではないとは思います。ただ、糸口がなく、当時のことをご存知だろうと思い、勝手なことを申しました。

 あの長く暗く凍えるような夜を、僕はもう一度、あなたに会えることだけを支えに生き延びてきたのです。

 そして、今、僕はとても不幸です』


『そして、今、僕はとても不幸です』

 

 この言葉に彼女は声を出して笑った。少女の頃、彼女が気まぐれに綴ったような文言だ。


 ──まったく、あの青年は。本当に、心から、まったく、困った子だわ。


「淑華さま、何を幸せそうに笑っていらっしゃるのですか?」

「秘密よ、楊楊ヤンヤン

「そのような笑う姿をずっと拝見したことがございませんでした。ですから、咎めるべきですのに、それができません」

「何を咎めると言うの」

「お顔を見ていると、咎めたくなるのです。なんだか、地獄に落ちそうな予感がして」

「まったく、あなたは」

「その、書簡は、あの皇子さまからですよね。あの、とんでもなく容姿端麗な、あの皇子さまですよね」

「そうね……、楊楊。あの皇子さまよ、だから、いっしょに地獄へいく?」

「お断りします」


 淑華は笑みを浮かべた。

 自分を見つめる彼のやわらかな視線を思い出したからだ。

 結局、彼に愛されているのだろうか。それとも、愛されていると誤解しているのだろうか。


 手にもった書簡をどうするか迷い、そのままろうそくの炎のなかに入れた。

 書簡はじりじりと音を立て、黒い灰になって、空中に飛んでいく。


 威龍ウェイロンのあけすけで無防備な文字が灰になる。もし、これを帝に見せれば、再び流刑地に送られ、悪くすれば処刑される可能性もあると考えなかったのだろうか。


「残しておくには不穏なものなんですね」

「これは上申書じょうしんしょで、わたくしは読まなかったことにしましたから」とだけ、彼女は言った。


 差配をする彼女のもとには、多くの上申書が届く。そのひとつとして扱うだけのことだが、それでも文を残せば、取り返しがつかないという思いを抱いた。


 読んだ内容に、淑華は危うさを感じる。同時に、彼がこの文を何度も何度も書き直したのではないかと想像した。


 何度も書いては墨を塗って消し、そして、迷いながら封緘して、使用人を使わず直接、楊楊が目にする場所に投函した。

 それだからこそ、計算も感じた。


 威龍ウェイロンは愚かな男には見えない。どちらかといえば知的であり、淑華が知る帝の二十代を彷彿させもする。


 彼の文は本心が書かれたものとは思えなかった。危険な内容をあえて書く意図はなんだろうか。


 帝には三人の息子が残っている。

 そのなかで、威龍ウェイロンは特殊な立場だ。彼は皇后以外の妃が産んだ唯一の皇子である上に、いろいろな意味で優れている。


 第三皇子、朱麗孝シュ・リュウホは病弱だった兄とは正反対で、身体は頑健で武芸に優れているが明晰さに欠け、乱暴なところがあって朝廷の評判は悪い。

 第四皇子、朱憂炎シュ・ユーエンは、まだ六歳で幼すぎる。


 第三皇子は自分が皇太子を継ぐと思っているようだが、彼の性格を懸念する大臣は多い。

 皇后が没したあと、入内した紅花は、朝廷で力をもつ丞相の孫娘、帝の寵愛を一身に受け、もし懐妊すれば、その子が皇太子になる可能性もある。


 この状態で、帝は威龍ウェイロンを都に戻した。


 身をつつしむべきときに、このような文を寄こすとは……、威龍ウェイロンが純粋だというわけではないと思う。それが良いことなのか悪いことなのか、判断がつきかねた。


「若いとは無謀と同じ意味があるのかしらね」

「淑華さま、何が書かれていたのですか」

「たいしたことではないわ」

「では、なぜ、燃やされたのでしょう」

「それは何も見なかったことにして」

「わたくしにとって、淑華さまさえ安全であれば、問題などありません」

楊楊ヤンヤン、だから、あなたが好きよ。知るべきではないことを、よく心得ているわ」

「それは、長い時間を共に過ごして来ましたから。それで、どうなさるおつもりですか?」

 

 淑華は窓の外を眺めた。何年も同じだった庭の様子が、今日は少し変化して見える。その理由を知るべきではない。


 生きていくうちに分岐点があるとすれば、今なのかもしれないと、彼女は鬱屈した思いを抱いた。あの日、帝の馬に乗ったときと同じように、この先の選択で大いに自分の将来は変化するにちがいない。


「後宮の差配である立場を悪用しようかしら」

「五部の権力でしょうか」

「皮肉な顔で笑わないで、こわいわよ、楊楊ヤンヤン

「いえいえ、喜んでおります。長いあいだ、気鬱な様子でらしたのが、少女の頃のようなお顔をなさるのを、ひさしぶりに拝見したのですから」


 淑華は袖で口もとを隠して笑った。それは、雲ひとつない秋晴れの良い日だったからか、それとも少女の頃という言葉が新鮮だったからか。


 楊楊は文の燃えカスを集めて、握り潰して捨てると、黒く汚れた手を手巾でぬぐった。





(つづく)

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