第86話 クマの気配
アンツァが立ち止まった足元には糞があった。
おいおい、アンツァ、こんなところで粗相してしょうがない奴だな。
ワン!
(おらじゃねぇよ)
「お、これはクマの糞だな。まだ新しいぞ」
高橋さんが小声で言った。
クマの糞だって?
「新しいということは、近くにいますね師匠」
猿橋さんも小声で返す。
「そういうことだ。これ以上進むのは危険だな。さがろう」
高橋さんの判断で俺たちは来た道を引き返した。
アンツァも俺たちと一緒に引き下がる。
「このワンコ、よく見つけたな。いつも狩に連れて来るのか?」
「初めてです」
「ほう、動物の勘ってやつかな。このワンコは猟犬の才能があるかもしれない。名前は?」
「アンツァです」
「あんつぁって、わたしが子供の頃、そう呼ばれていたマタギがいたなぁ。
あんつぁと山に入ると、必ず授かるとかいう伝説があった」
まさかこの犬の前世は、その伝説のマタギですだなんて言えない。
でも、アンツァの行動は、明らかにそれを証明していた。
「師匠、どうします? ここをやめて別の場所を忍くんと歩きます?」
「一旦、車に戻って別の場所を案内するか。ここは今度の土日に巻き狩りするべ」
高橋さんはそう言って、この林から離れた。
俺たちもその後に従い、林の中を抜けて小道まで戻った。
アンツァが心の中に語りかけてくる。
(クマ、さっきからずっとおらたちを見てるよ。次の土日に巻き狩りに来るというのも聞いていたかもしれない)
そんなことあるものか。クマだろ。ただの野生動物じゃん。
アンツァに言われて、来た道を振り向こうとしたら、
(バカ! 振り向くんじゃない。感づかれたとわかって追ってくるかもしれない。
クマっていうのは賢い。自分の縄張りにきた人間が次にどんな行動するのか、ちゃんと観察しているからな)
それが本当なら怖いな。
もしも、クマに追いかけられたら逃げ切れるのか?
(まず無理だな。クマは早いよ。まるで飛ぶように駆けてくるからな。目もいいし、鼻もいい)
でも、ツキノワグマは臆病だと聞いているぞ。
(基本的には臆病だから、人間が来たら逃げるか隠れるかするはずだけど、そうじゃない個体もいるからな。特に子供をつれた母グマは、神経質になっているから、襲ってくるぞ)
マジで、勘弁してくれ。
ここでクマと相撲をとりたくない。
金太郎じゃないんだから。
*
この日は山歩きを一通り体験して、宿に戻って来た。
宿の玄関口の横でアンツァの足を洗っていると、携帯が鳴った。
ブー、ブー、ブー、ブー、
狩野からの電話だった。
あいつのことだ、また俺をおちょくるつもりなんだろう。
「はい、はーい、俺でーす」
「最上、どうしよう……」
「何が」
「第5層界で畑仕事してたんだけどさ」
「そうだってな、トレスチャンから聞いているよ。ご苦労さん」
「帰ろうとして、ダンジョンの通路を途中まで来たら、いるんだけど」
「何が」
「ク、クマが……」
「なんで? ダンジョンの出入り口を笹で塞いでこなかったのか、お前」
「忘れちまったようで……」
「それで、今、お前どこにいるんだ。クマから離れたところにいるのか?」
「ああ、第5層界まで戻って来た。でも、洞窟にはクマがいて地上に戻れないんだよ」
ついに、田沢湖高原にある俺たちのダンジョンの近くまでクマは降りて来たのか。
今から対策を…なんて悠長なことは言っていられない。
とにかく、狩野の身の安全確保が第一だ。
「狩野、とりあえずダンジョンから出るな」
「そんなぁ…」
「どうしても地上に出たいなら、秋田八幡平ムーミン谷に出るか、仙台に出るか、だな」
「八幡平はヤバいだろ。別のクマがいるかもしれない。
それから、仙台って、学校から遠いじゃん。実家に帰れとでも?」
「実家に帰ればいいじゃん」
「えええー! 父ちゃんに叱られる。」
「じゃあ、最上の館にずっと滞在してろ」
「ええええええええええ! 女の子もテレビもないところにずっと居るなんて、僕は耐えられない」
「文句ばっかりだなぁ。じゃあ、ノマド達かジュリアさんに頼んで、ロサンゼルスにでも行ってしまえ!」
「それ、密入国にならない?」
「密入国だろな」
「捕まったら、強制送還とかってやつ?」
「わりといいアイディアかもよ。帰って来られるなら強制送還だっていいじゃん」
「よくない!」
「そうなの?」
「頼むよ、最上。真剣に助けてくれよ」
「ウーーーーン、とりあえずそこにいろよ。第5層界にいるのが一番安全だ」
「学校は、どうしよう」
「桜庭に連絡して、クマがいて帰れないと言えばいいじゃん?」
「桜庭にそんなこと言ったら、バカにされそうだよ」
「じゃあ、事情があって帰れないとだけ言うとか」
「お、いいね、それ。謎めいてかっこいいじゃん」
「やっと、納得したか」
「事情が何かは聞かないでくれ。男にはやらなきゃいけない戦いがあるんだ。
なーんてね。いいじゃん、いいじゃん。それ採用!」
「狩野のお好きなようにどうぞ」
「で? 助けに来てくれるんだよね、最上」
「ちょっと、こっちにも事情があって、すぐには行けない」
「ええええええええええ! それまで、ここで自給自足かよ」
「できるだけ早く行ってやりたいが、こっちもクマを狩らなきゃいけないんで」
「そっちもか!」
「生きて帰れたら、助けに行く」
「おいおいおい、生きて戻れ。死ぬな!」
できるだけそうする。
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