第74話 玉川温泉
ペンション白鷺から一時間ほどで、目的地の玉川温泉に着いた。
山奥の温泉地で、周辺は玉川温泉施設以外何もない。
この温泉地から少し山側に入ったところが、魔物が出た事故現場だと警察官は言った。
敷地内は「玉川温泉自然研究路」という遊歩道がある。
箱根の大涌谷みたいな風景が広がっていた。
温泉の湯気と焼けた岩肌、硫黄の香り。
何よりも目を引いたのは、流れる温泉の黄緑色だ。
「自然研究路」の脇に寝袋に入って寝転んでいる人を何人か見た。
「あのぅ、ちらほら倒れている人がいますけど」
「あれは、天然の岩盤浴しているんです。このへんの岩場は温泉の熱で温かいですから」
「へぇ、そうなんだ」
感心している俺を見て、警察官は不思議そうな顔をして言った。
「忍君の犬は歩かないんですか?」
「ああ、これですか」
さっきからアンツァは俺におんぶされたままだ。
おい、警察官が不思議そうに見ているぞ。歩けよ。
クウン…
(今、毛皮に擬態している)
毛皮になってないって。
バレバレだぞ。
クウン…
(そんなはずはない。観光客に見つかると面倒くさいから、こうして毛皮になっているんだ)
だから、バレているから意味ないって。降りろよ。
*
ひときわ湯気が噴き出ているスポットに着いた。
ここは玉川温泉の源泉で、日本一の強酸性水がボコボコと大量に湧き出している。
水の色も、黄緑からエメラルドグリーンへ、そして透き通った青になっていた。
そこを過ぎると、岩肌にところどころ穴が開いていて、周囲が黄色くなっている。
これは噴気孔で、火山性ガスが噴き出ているのだと警察官が説明した。
「この一帯には、火山性ガスが噴き出ている噴気孔が100ヶ所以上あります。
ガスは100度以上の高熱で、しかも有毒なので近寄らないようにしてください」
噴気孔のまわりには、硫黄が固まって黄色い結晶を作っている。
ここは地球じゃなく、まるで他の惑星に来たみたいだ。
高台に来た地点で、警察官は立ち止まった。
「だいたいこの辺の山側の方から、獣のような遠吠えを聞いたという証言があります。
ここから遊歩道を外れますから、わたしの後ろに付いてきてください」
さあ、観光気分は終わりだ。
アンツァ降りろよ、ここからは探索に入るぞ。
Zzzzzzz
(ぐぅ)
狸寝入りするな。犬なんだから降りて歩け。
ウゥ…ワン
(ちっ、バレたらしょうがねぇ)
ここからは、道なき道を行く。茂った藪を警察官は進んで行った。
俺は、この話を小松先生から聞いたときからずっと、疑問に思っていたことを聞いてみた。
「ところで、姿が目に見えないのに、どうして魔物だとわかったんですか」
「この辺で、写真を撮ったり岩盤浴を楽しんでいたりした人が、
何者かにいきなり背後から殴られているんです。
何者かが通ったあとは、石ころがコロコロと転がったとか、
木々がなぎ倒されていったとか、足跡だけが残ったなど。
たくさんの証言があります。あとは、唸り声ですね」
「なるほど」
林の中に入ると、そこからは周りの雰囲気がガラッと変わった。
何か人間を寄せ付けないような、ここから先は踏み入るなと言われているような、そんな雰囲気だ。
登山と違って、ここには道がない。
一歩間違えると、山の中で迷ってしまうかもしれない。
どこを見ても、木々と笹藪だ。
目印になりそうな物はない。
「あの、すみません。
ここの山の地形をおまわりさんは、よく知っているんですか?」
「山ですからね。我々は滅多にこんなところ来ませんから」
「ご存じないと」
「マタギじゃないと無理ですね。
昔はここもマタギはいたらしいですよ。
玉川温泉は、マタギたちがよく利用していた温泉だったと。
こんなにきれいに整備される前の、大昔の話ですよ」
だってよ、アンツァ。
聞いたか? アンツァはこの辺知っているか?
クウン…
(玉川マタギなら知ってるけど、地形はなんとなく)
なんとなくかよ、頼りねえなぁ。
ウウウ……
警察官の足が止まった。
「今、犬が唸りました?」
「いえ」
「唸り声、聞こえませんでしたか?」
「聞こえました」
「犬ですよね」
「だから、うちの犬じゃないです。違いますって」
そんなことを警察官と押し問答していると、サー――っと風が吹き抜けていった。
向こうで笹藪が音をたてて揺れた。
カサカサ、カサカサ、
「出た! 逃げろ」
「え、逃げるんですか」
「いいから、逃げろ。うわぁぁぁぁぁぁぁ」
警察官は二人とも、来たルートを戻って走り去ってしまった。
結果、俺は山中に置いていかれた。
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