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夕食奮発戦

「今日は寿の復帰祝いで奮発したぞぉ! 高級スジ肉入りのカレーな! しかも米は魚沼産のコシヒカリだ! 一杯食べて早く怪我を治すんだぞ!」




 紋次郎がホクホク顔でカレー皿をテーブルの上に持ってきた。タオルで首元の汗を拭きながら、寿は静かに部屋の中を観察した。


 風呂場にも洗面所にも、女物の化粧品や自分以外の歯ブラシ、そして非常に特徴的な銀髪……などは落ちていなかった。どうやら、兄は隣の外国人美少女のことをこの部屋に連れ込んだ形跡はないらしい。


 まぁ、徹底的に掃除すれば証拠を消すことも出来るのかも知れないが……兄はそこまで几帳面でもないし、隣の部屋に住んでいる女をわざわざこっちに上げる必要はない。




 寿はホカホカと湯気を上げるカレー皿を前にしながら、あのことを言い出すタイミングを測っていた。




「ニンジン多すぎ。お兄ちょっと食べて」




 スプーンでニンジンを差し出すと、兄は断ることもなく自分の皿を差し出した。ふたつ、みっつ……と兄の皿にニンジンを移植すると、兄が少し遠慮がちに尋ねた。




「どうだ、『La☆La☆Age』の方は。平和か? さっきーやあむりんとは仲良くやってるか?」




 ハァ、と寿は内心ため息を吐いた。


 兄が近況を尋ねてくる時は必ずこの台詞からなのだ。おそらく、兄の頭の中では、アイドルと言えば兎角いがみ合い、隙あらばこそこそイジメなどをしているイメージがあるらしい。


 安心させるため、敢えて投げやりな口調で言ってみる。




「お互いにいがみ合ってる暇はないけど、お互いに仲良くやる暇ぐらいならちょっとある」

「そうか、喧嘩とかしてないならよかったよ」

「いい加減妹離れしろと。もう十六だぞと」




 寿はじろりと兄を睨んだ。




「お兄こそ星嶺高校では仲良くやれてんの? 凰凛学園のみんな、お兄に会いたがってたよ。連絡取ってないの?」

「今はもう凰凛の生徒じゃないよ。それに末はこの国の中枢に入っていくような奴らの貴重な時間を俺なんかが邪魔したくないしな」




 兄は苦笑しながらスプーンでカレーをかき混ぜた。




「お前こそ、凰凛学園で高等部に上がってから学業に費やす時間がないんじゃないか? ラジオのレギュラーも増えたろ?」

「そこら辺はなんとでもなるんでしょ。凰凛に必要なのは現役のアイドルが在籍しているという名声であって、生徒の学力じゃない。知ってるでしょ?」

「相変わらず、カネと名声がモノいう世界か。逃げ出せてよかったよ」




 兄は乾いた声で笑った。それは半分は本心なのだと、寿にもわかっていた。昔から兄は人と競り合うことを嫌うし、妙なところで謙虚なのだ。


 何よりも面子や体面を守りたがる凰凛の校風など、この兄には重荷でしかなかったのはわかっている。逃げ出せてよかった、と言える兄のことが、寿は少し羨ましいぐらいだった。




 そんな近況報告を終えて、兄弟は静かにカレーを食べ始めた。テレビでは気の抜けたバラエティー番組が流れていて、若手芸人が中堅の芸人にイジられている。


 若手がスベり、中堅が拾ったことで、テレビからまばらな笑い声が上がった。その笑い声が流れた辺りで、寿は静かに切り出した。




「お兄、彼女出来たんだね」




 敢えて断言する口調から切り出すと、兄の顔が「?」マークでいっぱいになった。


 おや、これは本当に虚を衝かれた時の表情だ。あの銀髪美少女は彼女――ではなかったらしい。




「え――カノジョって、あのカノジョってことか?」

「彼女にアレもコレもないでしょ。付き合ってる人。すごい美人じゃん」




 兄の顔に更に「?」が増加した。あの銀髪美少女とは本当になにもないのか? と寿は少し驚いた。




「あれ? 隣の203号室に住んでるあの外国人の女の人、彼女さんじゃないの? さっき外でモンジローがどうのこうのって一人で喋ってたよ?」




 そう言うと、兄の顔が数秒ごとに呆けた表情から硬直の表情へ変わっていった。


 なんだろうこの表情、まるで犬のフンを踏んづけたような……と思っていると、ハァ、と兄が大きな大きなため息を吐き、頭を抱えた。




「エレーナさん、本当に俺の妹の前で何してくれてんだよ……お陰で可愛い妹がとんでもない勘違いしてくれてんじゃないか……」

「ちょ、何その反応? あの人ってそんなヤバい人なの?」

「寿、お前にだけはハッキリと言っておく。あの人は我が船坂家の敵だ。宿敵なんだ」

「し――宿敵って何? あの人ウチに恨みでもあんの? 何したの、ウチの先祖?」

「あぁ、物凄く恨みがあるんだそうだ。しかも百二十年前の、積年の恨みだ。あの人は過ぎし日の日露戦争の亡霊なんだ。すごい美人だけど」

「ちょ、ちょ、本気で意味がわかんない。何よ日露戦争って? ちゃんと説明して」




 それから兄は十分近くも喋り倒した。あの銀髪のハーフ美少女がエレーナ・ポポロフというロシアンハーフであること、彼女の実家が元はロマノフ朝の伯爵家だったこと、百年前の日露戦争では、彼女の高祖父と船坂家の先祖が宿敵同士だったこと、そして今になって彼女ははるばる海を超えてその子孫を探しに来たこと、そして彼女と紋次郎の間では第二次日露戦争が絶賛継続中であること……。




 何をか言わんや、という言葉は、こんな時のためにある言葉なのではないかと寿は思った。


 百二十年前の恨み? 不死身の船坂? 作り話としか思えないその内容に、カレーを食べる寿の手が止まっていた。




「――お兄、いくら作り話でも面白くないよ。いつの間にそんなに面白くなくなったの?」

「これが作り話なら俺はとっくに小説家になってるよ。国語の成績3だけど」

「マジ? マジマジのマジ? 本当にあの人とそんなことしてんの?」

「そうだぜ。俺たちはまだたった二人ぼっちで日露戦争継続中なんだと。俺はやる気ないけどあっちはやる気らしいぞ。先祖の代わりにいつか俺をやっつけてやるって息巻いてる」

「その割にはなんだか滅茶苦茶お兄のことを気に入ってそうな感じだったけど」

「そうなんだよな……正直、あの人から敵意を感じることはあんまりない」




 兄はジャガイモを細かく割ってから口に入れた。




「というのも、最初あの人が例の強姦魔どもに乱暴されかかってたところを俺が助けたんだよね。ナイフ持ってたから遠慮なくぶっとばして集中治療室に叩き込んでやったよ」

「は?」

「それからだよ、ウザ絡みされるようになったの。でも、なんかよくわかんないんだよね、敵なのか友達なのか。あっちは敵同士だって繰り返し言ってるけど、パドルーガでもあるとかなんとかロシア語で言ってたし……」

「パドルーガ……!?」




 寿がそこで大声を上げたので、紋次郎がビクッと肩を揺らして寿を見た。




「お兄、そのエレーナさん、お兄のことをパドルーガって言ったの?」

「おっ、おう……なんかそんなこと言ってたな、ズナコームィじゃなくパドルーガとか……意味は調べてないけどさ」




 寿は愕然とした。寿自身、ロシア語には全く詳しくないが、いつぞやネット通販で買ったロシアンティーのブランド名、それが『パドルーガ』であったことを彼女は奇跡的に覚えていた。


 そう、紅茶についていた小冊子にはブランド名の由来が書かれていた。パドルーガとはロシア語で女友達、つまり男が女に対して口にした場合は、ガールフレンドであることを示すとか……。


 寿は信じられないという視線で兄を見つめた後、ハァ、とため息を吐いた。




「お兄」

「あん?」

「もしかしてそのエレーナさんと近日中に一緒に遊びに行く予定とか立ててんじゃない?」

「おっ、おお、鋭いな。今週の日曜、ワイシャツを買ってプレゼントしてくれるとかって……」

「よっしゃ、私もそれについていこ」

「は?」

「どうせ今月はあとオフだし。しばらく遊びに行ってないし。どっか連れてけよ兄者」

「い、いや、何を言ってんだ妹者(いもじゃ)よ」




 紋次郎は流石にそれは……というような口調で窘めた。




「あのな寿、お前ももう十六歳なんだからお兄ちゃん離れしような? お兄ちゃんと同級生が二人で遊びに行こうっていうのに妹がついてきていいはずがないだろ? 一応これは、その、そういうことなんだし……」

「兄離れとかどの口が言うんだ? ん? このカレーまみれの口か?」




 ずいっとスプーンの先で兄の口を指すと、紋次郎がうぐっと呻いた。まずひとつ、反論を潰した。妹離れが出来ないこの兄にとってはぐうの音も出まい。




「それにその人はお兄そのものじゃなくて、船坂家そのものに恨みがあんでしょ? だったら私だって立派に当事者じゃん。私だって『不死身の船坂』の子孫なんだし。お兄のお隣さんとして挨拶ぐらいはしときたいし」

「寿よ、妹よ。俺はそんな血まみれの宿命にお前を巻き込みたくはないんだ。お前だけでもこの酸鼻極まる戦場から……!」

「テイよく追っ払おうとしてんじゃねぇ。その手には乗るか」




 寿はひとつひとつ反論を潰し、理路整然と追い詰めていった。




「もしそのエレーナさんが本気で、お兄をある程度籠絡しておいて背後からブスリとやるつもりだったらどうすんのよ? 昔からお兄は根拠もなく人のことを頭から信用しすぎなんだって」

「い、いや、俺は後ろからブスリとやられたぐらいじゃ死なないと思うけどな……」

「心配するところが人と違いすぎるんだよアホお兄。じゃあブスリじゃなくてもいいや。いきなり首から上ふっとばされたらお兄は生きてられんの?」

「エレーナさんって何? 剣豪かなんかなの?」

「わかんないじゃない。あっちだって武闘派貴族の末裔なんでしょ? 何を隠し持ってるかわかんないじゃん。爆弾ぐらいは国内に持ち込んでるかもしれない」

「い、いやでも……なんと言ったらいいかわかんないけど、エレーナさんは敵意以上に俺への好意めいたものが……」

「ハァ、ということはもうハニートラップに引っかかってんのか。我がお兄ながら情けないぜ」




 ワザと聞こえるように嘆息してやると、そこで初めて兄はハッと気づいた表情になり、何かを懸念する皺を眉間に刻んだ。




「は、ハニートラップ……!?」

「あんな美少女だもん、やりたい放題でしょ。もしかして、あの人にもうなんかされたんじゃないの? それでメロメロになっちゃったとかしてない?」




 この塩対応な妹が紋次郎の昼間の出来事を知っていたはずはない。だが――妹の指摘はその通りだった。


 紋次郎が面白いぐらいに動揺を見せると、寿は顔をしかめた。




「お兄、フケツ」

「ちっ――違うッ! あの人とは誓ってなにもないんだ! な、なんだその顔!? それが兄貴を見る目か!?」

「これは変態を見る目ってんだ。もう手ェ出されたのか? それとも手ェ出したのか?」

「違う違う何もない! 本当になにもないんだって! 手を握ったこともない!」

「それだからハニートラップだってんでしょ。『まだ』手を握ったこともない、『だがゆくゆくは』を想像させるからハニートラップになるんでしょうが。お兄はもうドラム缶を二つ繋げた罠に前足の部分まで入ってるんだよ」




 兄の両目が左右方向に離れた。その隙に、寿は淡々と畳み掛けた。




「とにかく、何度も言うけどお兄は根拠もなく人を信じすぎなんだって。もうハチミツまみれにされてて満足に鼻も利かないでしょ。いっぺんでいいから私がエレーナさんという人の狙いや考えてることを観察してみないと安心できないじゃん。兄より先に妹の方を狙ってくるかもしれないしさ」




 多少強引な理屈かもと思ったが、それでも寿はあくまでついていくと言い張った。あまりに強情な妹の態度に、紋次郎が困ってしまったような表情を浮かべた。


 やはりこれでは煮えきらない、か。




 だが、諦めるわけには行かない。


 そのエレーナとかいうロシアン娘が何を考えているのか知らないが、兄にとって危険な存在であるならば、自分が前もって潰す。


 そう、それは何よりも、兄のために。


 数年前、妹である自分を溺愛するあまり、己の人生を己で破壊しかけた、このアホな兄のために――。




 寿は奥の手を出すことにした。




「無論、こんな無茶を言い出すんだから、私の方もタダで、とは言わない」




 タダでとは言わない。その言葉に、ふと紋次郎が目を見開いた。




「もし私を連れてってくれるなら、その時は『La☆La☆Age』全メンバーのサインが入った色紙貰ってきてあげる」




 瞬間、紋次郎の目がギラリと光った。何故なのか慌てたようにあぐらの状態から正座に直った紋次郎は「まっ、マジでか!?」と念押しするように問うてきた。




「マジマジのマジだよ。さっきぃやあむりんのサインほしくないの? いっぺんも貰ってきてあげたことないよね?」

「ま、マジで!? 本当に――!? ――アッ、そ、その手には乗るか! 初デートをそんなサインぐらいで――!」

「あ、それよりもアレか。みひろちゃんの汗が染み込んだタオルとかの方がいいか」

「うッ――!? ま、マジで!? マジでみひろちゃんのタオルもらってきてくれんのか!? 本当に、か!?」

「ジップロックに詰めて持ってきてやんよ。さぁ、答えを聞こうか。ついていっていいのか、悪いのか、聞かせてもらおうか」




 ニヤリ、と、この塩対応の妹は、この部屋に帰ってきてから初めて笑った。




 兄が、がっくりと項垂れた。その動作に、船坂寿はこの兄が「落ちた」ことを知った。




◆◆◆




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