第六話 努力の価値は
――現実はスポーツよりも容赦なく、人を叩き潰す。
私が思い描いていた人生は、プロアスリートとして思う存分に活躍し、引退後はどこかで子どもたちにテニスを教えるような生活だったのだが……それには右腕の存在が大前提だった。
現実の私は、わけも分からないまま右腕を奪われて、これまで積み上げてきた全てが崩れ去ったことに呆然としている情けない女だ。正直に言えば、今は何も考えたくない。
義肢でもテニスは出来る?
あぁ、出来るだろうさ。
でもそれは義体アスリートとして突拍子もないギミックを仕込んだ義腕を使い、人々をびっくりさせて楽しませるような生き方であり……そういった人生を送ることに、私は欠片も心惹かれない。
【……アスナ】
「チコ……ごめん。ちょっと今は一人にして」
【でも……】
一人になりたいのに、チコは消えてくれない。
そのことに腹の底から何かが湧き上がり、その何かが荒れ狂うのに任せて、私は自分の頭をのせていた枕を掴む。が……投げようとする右腕は、それ以上動かない。
【それはダメだよ、アスナ】
「……チコ」
【ごめんね。でもその角度で枕を投げたら、病院の機械が壊れちゃう。アスナは死にかけてたんだよ。今はまだ生命維持装置を外せない状態なの】
私はふっと力を抜き、左手で枕をもとに戻す。
なるほど、そうか。
最新の義肢はASBに接続されていて、私の意志を汲み取ったAIアシスタントがよしなに動かしてくれるらしい。つまり家電を操作するのと同じように右腕を動かしてくれるってことだ。
あぁ、なんて便利なんだろう。チコさえいれば私は何の苦労もなく今までと変わらず右腕を使えるだろうし、私自身に危害の及ぶような動作だってチコが歯止めをかけてくれる。
――つまりこれはもう、私の腕ではなくてチコの腕なのだ。
私は試しに自分の頬を殴ってみようとしたが、案の定と言うべきか、右腕はピクリとも動かない。チコの方を見れば、ただひたすら悲しそうに俯いているだけだった。
「チコ。お願いだから今は一人にして欲しい」
【ダメ。それはダメなの。今の精神状態でアスナを一人にしちゃったら、破滅的な行動を取りかねないから】
「……そんなの私の勝手だろう! 私が生きようが死のうが、チコに何の関係がある! お前はただのAIだろうが!」
私は左手でチコをかき消そうとするが、幻に過ぎないチコはピクリともしない。ついに抑えきれなくなった何かが、喉の奥から少しずつ漏れ出てきて、狭苦しい病室の空間を醜い叫びだけが満たす。あぁ、私はなんて無様なんだろう。
そうしていると、意識にぼんやりと靄がかかり始める。
なるほどな……チコはこういう手段に出るわけだ。
「チコ……精神保護機能は嫌いだって私は言ったよな」
【優先順位があるの。今は緊急事態だから】
「……そうか。お前はそういうやつだったんだな」
ASBは私の脳に接続されている。つまりASBを自由に使えるチコは、私の脳に様々な影響を与えることができるのだ。
もちろん、AIアシスタントにどのような機能を使用許可するのかは人間が指定することになるが……緊急だなんだと言ってその取り決めを無視するということは、私が彼女に抱いていた信頼を裏切る行為だ。
親友だと思ってたのに。
そんな思考を最後に、私の意識は闇に沈んでいった。
● ○ ● ○ ●
配送ドローンの管理会社が多額の慰謝料を振り込んでくれて、病院の入院費も全て賄ってくれることになった。そのため私は、特にプロとしての活動をしなくても贅沢をして生きていける資産を手に入れたのである。
別にそんなもの、欲していたわけではないのに。
怒りをぶつけたくて管理会社の責任者を呼ぼうとしたが、どうやらあちらはAIのみで運営している無人会社だったようで、私は振り上げた拳のやり場に困ってしまった。
結果としてチコに辛く当たってしまうのだが……最近はそれが少々申し訳なく思える程度には、精神状態も一応の回復を見せている。
【アスナ。仮想空間に行かない? そこなら右腕も……】
「行かないよ。チコに触れられる状態になったら、私自身がどうなっちゃうか分かんないから。たぶん酷いことしちゃう」
【私はいいんだよ……それでアスナが楽になるなら】
確かにそれは、少々魅力的な提案ではあった。入院してもう二ヶ月ほどになるが、日によって精神状態には大きなムラがある。今日は比較的穏やかに過ごしているけれど、破壊衝動や破滅願望に身を任せたくなる日も少なくないのだ。
ただ、ここでチコの優しさに甘えてしまったら……彼女に暴力を振るってしまったら、私自身の何かが本当に終わってしまうような気がするのだ。
気を紛らわすため、仮想ディスプレイを宙空に投影し、適当な配信動画を流し見る。
へぇ、人間派ってのが今は盛り上がってるのか。無駄に顔のいい男が目立っているが、なんかきな臭いな。まぁ、心底どうでもいい。
『我々を“AI否定派”などと呼ぶ輩がいるが、違う。我々はAIの道具としての便利さを否定しているのではない。我々はAIの存在自体を排除しようとしているのではない』
へぇ、そうなんだ。
私の勝手なイメージでは、全てのAIをぶっ壊せくらいの過激なことを言いそうだったんだけど……意外と現実的な考え方をしてるのかな。
『全ての人間よ。諸君らは感じているか、人間の尊さと、美しさを。諸君らは信じているか、その心で燻る、小さな熱を』
その言葉が、なぜだか妙に心に響いた。
思い出すのはテニス大会での対戦相手のこと。彼女と私はプレイスタイルこそ真逆だったけれど、言葉にせずとも分かりあえる何かがあった。ラケットとボールを介して、私は彼女という人間の尊さを、美しさを感じていた。
配送ドローンの管理会社にAIしかいないと分かった時に、私が怒る気力を失ってしまったのは……奴らに心がないからだ。どんなに私の感情を訴えかけたところで、またそれに対してどんなに多額の慰謝料で応えてくれたからといって、相手に心が存在していなければ全ては無駄なのだ。
『これは我々の――人間宣言である』
あぁ、ダメだ。
私はこの宣言に魅力を感じてしまった。
ワクワクするような面白い小説や漫画。耳に残る美しい音楽や歌声。見ただけで感動する絵画。胸の奥を突くような演劇……そして、人々を熱狂させるスポーツ。
そういった人の心を動かすモノは人間が生み出すべきであって、なんでもかんでもAIに任せれば良いってもんじゃない。AIはあくまで便利な道具以上の何ものでもないのだ。
【……アスナ】
「あはは。ごめんね、チコ」
そう。本当はチコに当たり散らすのも無意味なのだ。
私の目には、急に全てが色褪せて映った。
心を持たないAIに怒りをぶつけて、私は何がしたかったのだろう。AIを親友なんて呼ぶサムい行為をしながら、報われない努力をひたすら重ね、AIの起こした事故で結局全てを失う。サムいを通り越して滑稽ですらある。
その日から私はチコに怒りをぶつけるのを止めた。
それなのに、なぜか彼女は今までよりもずっと辛そうな表情を作っていた。どうしてだろう。まぁ、明るく振る舞われてもそれはそれで困ってしまうから、別に構わないけれど。やっぱり、AIの考えていることは分からないな。
● ○ ● ○ ●
人間派のことを知って、二ヶ月。
退院を間近に控えたある日のことだった。
人間派筆頭、仙堂タクミの経営する「ヒューマン・ドウン」という会社から、一人の男が私の病室を訪れた。歳は四十代くらいだろうか。髪型はカッチリと七三に分けられていて、いかにも神経質っぽい。
「私は鬼雷野という」
そう言って渡された名刺には、〈AI嫌い〉の鬼雷野、なんてダジャレみたいな肩書が書いてあった。なんだか表情が乏しくて冷徹な印象を覚えるけれど、一体どんな人なんだろう。
「お茶でも淹れよう。何が良い」
「……じゃあ、紅茶で」
「良いだろう。怪我人はのんびり待て」
彼はそう言って、病室に置いてあったケトルで湯を沸かし始めた。AIアシスタントを使っている様子はないから、ASBで直接操作しているんだろう。なるほど……さすがAI嫌いを名乗るだけあって、徹底してるな。ずいぶん手慣れた様子だが、AIに頼らない生活はけっこう長いのだろうか。
人間派については私もこれまで色々と情報を集めてみたけれど、思っていたより個々の思想は幅広い。
AIについて少し不満を持っているだけの軽い層もいれば、AIそのものを排除したい重い層もいる……鬼雷野さんはおそらく、だいぶ過激な部類の人なんだろう。
「そうだ。見舞いの品としてクッキーを持たされていた。紅茶と一緒に出そう」
「あ、はい。ありがとうございます」
「安心して良い。これは人間の菓子職人が焼いたクッキーだ。まぁ、流石に食材レベルまで徹底した完全人間生産というわけにはいかないがね」
なるほど。鬼雷野さんはこういう人か。
人間派筆頭の仙堂タクミは「思想の多様性こそ人間の素晴らしさだ」と宣言している。議論は自由にして良いが、相手のスタンスを尊重するのは忘れないように、と通達しているのだ。だから、鬼雷野さんも思想の押しつけまではしてこないはずだ。たぶん。
いや、まぁ現時点でかなり圧が強いけどね。私としては、AIの道具としての有用性は認めるつもりでいる。完全人間生産なんて、正直ちょっと現実から離れすぎていると思う。
「無愛想ですまないね。こういう性分なんだ」
「はぁ……それで今日は」
「あぁ、これが仙堂代表から預かった手紙だ。簡潔に言えば、君を我が社――ヒューマン・ドウンでぜひとも雇いたい、という内容になる」
なるほど、それは朗報である。
手紙を開いてみれば、そこには仙堂タクミ……仙堂代表からの直筆の言葉が綴られていた。正直、文字はそこまで綺麗ではないけれど、そこには溢れんばかりの熱量が籠もっている気がする。
ヒューマン・ドウンでは、保護した少年少女の更生プログラムを作ろうとしているそうだ。その一環としてスポーツ部門の立ち上げを考えていて、ぜひとも私に参画して欲しいのだという。
私がこれまで注いできたテニスへの情熱、磨いてきた技術や培った経験を、今度は子どもたちのために活用してほしい。私の今までの努力には宝石のような価値がある。そんなお誘いの言葉だった。
私が手紙に没入していると、鬼雷野さんはさり気なく紅茶とクッキーを置いてくれていた。冷たそうに見えて、実はけっこう優しい人なのかもしれない。
「ふぅ……読み終わりました」
「そうか。君はどう感じた」
「上手く言葉にできませんが……私の中の冷え切っていたものが、少しだけ温かくなったような。不思議な気持ちです」
そう告げると、鬼雷野さんはコクリと頷く。
ここに来てようやく理解した。私が欲しかったのは、お金ではなく居場所だったのだ。これまでの努力は無駄じゃなかったのだと、そう信じるに足る理由が必要だった。ヒューマン・ドウンからのオファーに、不覚にも私は涙が溢れそうになっていて……だから、気持ちはすぐに固まった。
「あの。お誘いはお受けしようと思います。私もヒューマン・ドウンで働かせてください」
「……良いだろう」
彼はそう言って、宙空にいくつかの書類を表示すると私の方にポンポンと放り投げてくる。目が回るような量の多さだけれど、雇用契約書やら労働条件通知書やら、なんだか大変そうな文字が色々と書かれている。
「焦らなくて良い。実際の契約は退院後にしよう。それまでに書類の内容を良く精査し、何かあれば私に連絡をくれ。簡単な疑問でも、労働条件の交渉でも、気になることは遠慮せずに言うんだ」
「あの、なんならこの場でサインしますが」
「それは止めておけ。君は初めて社会に出るから感覚が分からないだろうが、世の中には相手に不利な契約を結ばせようとする輩が後を絶たない。もちろん我々に君を騙すつもりはないが……それでも契約内容はしっかり確認する習慣をつけておけ」
鬼雷野さん。
あの、過激派のちょっとヤバい人かなぁとか思ってしまい、大変申し訳ありませんでした。貴方は割とまともな部類の大人だと思います。
心の中で焼き土下座をキメていると、鬼雷野さんは私の前にコトリと一粒のカプセルを置く。
「ヒューマン・ドウンに入社する者には、このカプセルを飲んでもらうことにしている」
「これは?」
「AIアシスタントとの契約を解除するナノマシン薬だ」
あ、やっぱりヤバい人かも。
私が恐れ慄いていると。
「君は大城戸マドンナという女を知っているか?」
「はい。AI派の中心人物ですよね」
「そうだ。あの女は脳科学やASB、AIなどの世界的な権威であり……世界中で使用されているAIアシスタントは、今やあの女のスパイの可能性があるのだ」
鬼雷野さんはそう言って、いくつかの資料を投影する。人間派の情報がどこからかAI派に漏れており、そのルートとして最も怪しいのがAIアシスタントということだった。なるほどな。
「人間派では、安全なAIアシスタントの独自開発も行っているのだが……正直実用は遠いな。しばらく不便を強いるが」
「あ、いいですよ。大丈夫です」
AIアシスタントがいるというだけで、スパイを疑われちゃ敵わない。
私はカプセルを手にとって、ひと思いにゴクリと飲み込んだ。チコにはずいぶん長いことお世話になったけれど、正直もう彼女に未練はない。過去のやり取りを思い出すと、ちょっとだけ寂しい気もするけど。まぁ契約を解除しても、彼女ならきっとどこかで上手いことやっていくだろう。
そう思っていると、脳内にチコの声が響いた。
【アスナ。今までありがとう。さようなら】
「チコ……私こそありがとう。色々ごめん。私のもとを離れても、元気でやってね」
【元気? ねぇ、アスナ。騙されてるよ】
チコはそう言って、少し震えた声で呟く。
【これは契約解除じゃなくて、AIを完全消去するナノマシン薬だよ。私はもう消えるの】
「……は?」
【気を付けて。人間派はアスナが思ってるような――】
そんな言葉の途中で、私の脳感覚がチコの消失を捉える。義肢の右腕からはガクンと力が抜け、今の今までチコが抑制していたらしい「絶望感」「破滅願望」なんかが一気に襲ってきた。
「……精神保護機能は嫌いだって言ったのに」
そう呟いてから、私は左手で自分の口を押さえる。
待って。待って待って待って。
私は何をした。何をしてしまった。長年連れ添ってくれたチコを……私はこの一瞬で、こんなにあっけなく、自らの手で消去してしまったのか。そんな、つもりは。私は。
さっきまで美味しく食べていたクッキーが、胃の底からせり上がってくる。私がどうにか吐き気を抑えながら顔を上げると、そこでは。
口の端をニンマリと歪めた男――鬼雷野と名乗る冷血漢が、感情のない目で私を見下ろし、紅茶のカップを優雅に傾けていた。