第十二話 悪夢の始まり
――このダメ男! 悔い改めなさい!
そう言われ、思い切り頬を打たれた時の鋭い痛みを、俺は今でもずっと覚えている。
「自覚しなさい。貴方の行動は悪そのものよ」
初めてだった。権力者の息子である俺に対して、媚びることなく、避けることもなく、怯えることもなく、真正面から心をぶつけてくるような人と出会ったのは。
女に頬を叩かれる――それは、普通だったら苛立つ場面なのだろう。やり返すのは造作もない。この意志の強そうな美人顔だって、一皮剥けば他の女ときっと変わらないだろうから。この女だって、仲間たちと囲んで何日か遊び尽くせば、おそらく容易に壊れてしまう脆い女に過ぎないだろうが……それなのに、俺はなぜか彼女に強く惹かれていた。
「……俺の名前は仙堂タクミ」
「知ってるわよ。貴方の悪名はさんざん耳にしてる。はぁ……あのね。一つ教えてあげるけれど、強引に手を引いて物陰に連れて行こうとする行為を『ナンパ』とは言わないの。顔の良さで許されてはいるけれど、普通に犯罪者の行動だから」
彼女の刺々しい言葉が、不思議と心地良く響く。
なんだか胸の中に小さな熱が灯ったような気がして、俺は柄にもなく、思春期男子のように落ち着かなくなっていた。あぁ、俺のことを真正面からまっすぐ見てくれる人が……まさかこんなところにいたなんて。
「な……なんで泣いてるのよ?」
「え? あれ、なんでかな。目にゴミでも入ったか」
「……まったくもう」
彼女は躊躇することなく俺に近づいてくると、頭をよしよしと撫でながら表情を柔らかくする。
「そんな迷い子みたいに泣かれたら、責めらんないよ」
彼女は軽く溜息を吐くと、俺を近くのベンチまで連行していって、ただひたすら頭を撫でてくれた。
初対面の女を前に無様に泣くだなんて、俺はどうしてしまったんだろう。彼女に惚れたのなら、相手を蕩けさせるような場当たり的な甘いセリフでも吐いていたほうがまだ生産的だろうと、頭では考えているのに。
「私のことはナオって呼んで。タクミ」
「……ナオ」
「うん。ねぇタクミ。貴方が暴れまわるのは、たぶん心のどこかが欠けてしまっているからだと思うのだけれど。貴方は何が欲しいのか自覚しているの? 何をきっかけに、貴方はそんなにも荒れてしまったの?」
ナオにまっすぐそう問われ、俺は記憶を掘り起こす。
議員をしている父親はいつも忙しそうで、俺に対して向けるのは、後継者に相応しいか値踏みするような視線だけ。常に結果を出せとうるさく喚いて、その過程の努力なんて気にもかけてくれない。
AIアシスタントは常に淡々としているから、あんな作り物を相手に感情を露わにするのはアホらしい。父親の関係者も、学校の先生も、同級生やその保護者も。皆が俺に媚び、俺を避け、怯えたような視線を向けてくる。
俺の心が満たされるのは、仲間たちと馬鹿話や悪戯に興じている時だけだった。だけどそれも、一時的に喉の渇きを癒やすだけであり……根本的に「飢え」を解決するものではない。
「俺が欲しかったものか……なんなんだろうな」
「ちゃんと言葉に出来なくてもいいよ。言葉にできない感情なんて、この世の中にはたくさんあるんだから」
この時の俺は、ナオに頭を撫でられながら、まるで幼子のように縋りついていた。今にして思えば、彼女はよく俺のどうしようもない打ち明け話に根気強く付き合ってくれたなと思う。
「タクミ。人生はね、何度だってやり直せるの」
ナオの言葉に、灰色だった俺の世界が急に色づき始める。
「結果なんて出なくても良いじゃない。失敗したって、その過程での努力はきっと糧になるわ。これまで悪いことをした人にはちゃんと謝って。悪い行動はやめて。そうしたら……貴方は自分の人生をやり直したって良いと思わない?」
「……いいのか。俺なんかが人生を」
「そうね……例えばだけど、貴方と同じように荒れている子たちは、今もそこら中にいるじゃない。そんな子たちの話を聞いてあげるとか。そんな生き方をするも良いと思うの」
きっとナオの発言はその場での思いつきだろう。
だけど俺にとって、それは一筋の光だった。
「……ナオ。俺と結婚してくれないか」
「嫌よ。今の貴方は私に寄りかかるだけの男じゃない。人生のパートナーっていうのは、一方的なものじゃなくて互いに支え合うものでしょ?」
それはもう、笑ってしまうくらい毅然とした、実に彼女らしい断り文句だった。
「どうしても私を口説き落としたければ、まずは真人間になってね。貴方が寄りかかるだけじゃなくて、私も安心して寄りかかれるような大人の男になってみなさい。そうしたら検討してあげるから」
彼女の笑顔は光り輝いて見える。
それから俺は、心を入れ替えて行動を始めた。
迷惑をかけた人への謝罪行脚は、そもそも面会を断られるケースの方が圧倒的に多かった。直接会えた人にも散々罵られ、手土産や慰謝料は誰一人として受け取ってもらえない。
また、在学中にヒューマン・ドウンという会社を起こして、荒れている子たちを支援する活動を始めたものの、次から次へと困難が起こる。その中で、残念ながら友人関係が破綻してしまった者もいた。
だけど、大切なのは結果ではなく過程。そういった胸の痛みの一つ一つも、過去への償いだと思って飲み込みながら、その時その時の全力でぶつかっていくしかないのだ。
ナオについては丸一年かけて口説き、ついに根負けした彼女と結婚できた……それが四年前のこと。
その後は娘のマキが生まれ、現在は三歳まですくすくと育った。少々マセたお嬢様へと育ったマキは、見ているだけで胸の奥底から何かが湧き上がってくる。俺がずっと欲していたのはこの感情だったのかと、後になって理解した。
ようやく俺は、自分の人生をやり直せた。
そう思っていたのに。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
討論番組への仕込みは完璧だった。
いや、完璧過ぎたと言うべきか。
隣人派、物垣ライタのシナリオを入手する機会はあれから何度かあったのだが、奴は状況に合わせて柔軟にシナリオを書き換えながら、それでも最終的なゴールに向けては全くブレることなく状況を動かし続けている。AIのくせに「本物」の小説家さながらの発想力を持ち、今のところ人間派は完全に後手に回っている。
シナリオの最終的なゴール……それは、俺の殺害。
風呂場で湯に浸かりながら、俺は奥歯をギリリと噛み締めて思考を巡らせる。元々の奴のシナリオでは、今日の討論会で大城戸マドンナが新型のロボットを紹介し、ASBとはまた違った形で人間に寄り添うAIの姿を見せる予定になっていたのだ。
だからこそ、私は人間の素晴らしさ語り、鬼雷野がAIが心など持たないことを説き、球庭にはAIの危険性を訴えさせようと思っていた。
人間の生活の身近なところに、新たなAIを忍び込ませようとする隣人派の行動は、それで牽制できる想定だったが。
「球庭アスナの裏切り……いや、違う。あれは月影カグヤに飲まれたんだ。使えねえ片手女が」
そもそも月影カグヤが一人で登場した時点で、物垣ライタのシナリオは大幅に変更されていたのだろう。
結果、番組への仕込みも裏目に出て、世間の人間派に対する印象は最悪になった。ここから巻き返す計画も幹部が雁首を揃えて考えたが……俺にはどうしても、この計画で物垣ライタのシナリオを超えられる気がしない。
俺はふと、左手のひらを上に向ける。
しかしそこにAIアシスタントは現れない。
幼少期から母親代わりとして俺を育ててきたAIは、シオンという名前だった。それこそ幼い頃は、本当に家族のように思って接していた時期もある。しかし時が経つにつれ、俺はシオンを疎ましく思うようになっていった。彼女は俺の些細な悪戯に対し、淡々と叱りつけてくるようになったのだ。
ヒューマン・ドウンの活動の中で、非行に走る子どもたちと接していて分かったことがある。それは心と心でぶつかり合うことの重要性だ。結局のところ大事なのは表面的な言葉ではなくて、どこまで相手の心を分かってやれるか、寄り添ってやれるかが大事だと思うのだ。
「心のないAIが……人間に寄り添えるはずがないだろ」
鬼雷野から貰ったナノマシン薬は、もちろん俺も服用し、シオンはこの世から完全に消え去った。もう何年もろくな会話すらしていなかったのだから、生活が多少不便になった以外には特に支障は出ていない。
それでも時折左手を翳し、シオンが現れないか確認してしまうのは、我ながら理屈に合っていないと思う。まぁこれも、俺の人間らしさの現れと言えるかもしれないがな。
風呂を上がってリビングにくると、マキはもう眠ってしまったらしく、ナオが一人で晩酌の準備をしてくれていた。
「タクミ、お疲れ様。一杯やるでしょう?」
「あぁ……悪いね、ナオ。頂くとしようか」
テーブルには、日本酒を延々と飲んでいられそうなほど様々な料理が並べられている。冷酒に合いそうな刺し身や冷奴であったり、熱燗に合いそうな焼き魚や小鍋であったり、どれもこれも手が込んでいて食欲をそそる。
俺は努めてニッコリと笑う。
「なんだか豪勢だね。祝い事というわけはないだろう?」
「うん。まぁ私なりの労いというか、謝罪というか」
「謝罪? 何か謝ることでもあったかな?」
俺がそう問うと、ナオは少し気まずそうに視線を外す。
「人間派の主張していることってさ。過去に私がタクミに話したことだよね。人の尊さや美しさ。胸に秘めた情熱。心と心でぶつかり合うことが一番大切だから……AIのことは便利だとは思っているけれど、人間と同列には扱えないかなぁって。私がそんな話をしちゃったから」
あぁ、なるほど。
俺が人間派筆頭として追い詰められている今の状況に、彼女なりに責任を感じてしまっているのか。そんなこと、ナオが気にすることじゃないのに。
「タクミが人間派を名乗っているのは、私のせいだよね」
「違うさ。俺が自分自身で思ってたことだよ。もちろん、ナオの話を自分なりに噛み砕いて、飲み込んだ結果の思想ではあるけれど……君が責任を感じる必要はどこにもない」
俺はそういって、彼女のお猪口に熱燗を注ぐ。
「そういえば、マキはもう寝たのかい?」
「うん。メイド忍者のキララちゃんとすっかり仲良しで」
「人型ロボットとして派遣されてくるとは思わなかったけどな。まさかとは思うが、隣人派の手先じゃないだろうな。怪しいところはないかい?」
「特には。一日中、ずっとマキと遊んでるだけだし」
そう言って、ナオはクスクスと笑いながら今日あった出来事を話してくれる。キララは生まれて間もないAIだから少々ポンコツ気味であり、今ではマキの方がお姉さんぶって色々教えてあげているらしい。その間抜けな感じでは、たしかにスパイだというのは考えづらいかもな。
「そういえば、タクミ。スパイって意味だとさ……ほら、物垣ライタみたいな人間型AIっているじゃない。あの仕組みを悪用されたら、不味いことにならないかな」
「ん? どういうことだ?」
俺は冷酒を飲みながらナオの顔を見返す。
「例えばヒューマン・ドウンの社員の脳を生体コンピュータに置き換えて、本人とはまったく別のAIを仕込んだりしたら、スパイだって気づくのが難しくなったりはしない?」
あぁ、そうか。彼女の懸念がようやく理解できた。
だけどその点は問題ない。
「鬼雷野……元AI研究者の男が言っていたんだが、それはあまり現実的ではないそうだよ。人間型AIには制約がある」
「制約?」
「あぁ。人間型AIは他人の体に入ることは出来ない。可能なのは、自分自身のクローン体で動作することだけなんだ」
どうやら人間の脳を生体コンピュータに置き換えても、ハードウェアとして見ると一人一人みんな違った人工頭脳が出来上がるんだそうだ。鬼雷野だけでなく他のAI研究者やASB研究者も同じことを言っていた。形式の全く異なる人工頭脳で人間型AIを動作させるのは、今の技術では不可能だそうである。
「それなら安心かな。でも人間型AIを見分ける方法があれば話は早いのに。ほら、仙堂タクミの妻だなんて、スパイAIを仕込むにはうってつけの相手じゃない」
「あはは、確かに。でもさすがに、君がAIに置き換わったら俺やマキが気づくんじゃないかと思うけど」
「ほんと? その時は、ちゃんと見分けてよね」
そんなとりとめもない話をしながら、穏やかな夜は更けていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ヒューマン・ドウンの社員は暗い顔をしていた。
それも仕方ないだろう。生配信で隣人派にあそこまでやり込められて、SNSでも悪し様に言われて、平気な顔をしていられるはずがない。また球庭アスナの裏切りも尾を引いているようで、彼女と同じようにAIアシスタントを消去されたことを嘆いていた者たちは何か考え込むような顔をしていた。
俺は幹部連中に声をかけ、緊急の全体集会を招集する。
「諸君。昨日はお疲れ様。討論会の結果は残念なことになってしまったが……球庭アスナの件があったとはいえ、あれはあちら側の動きを読みきれなかった私の責任だ。みんなには心労をかけて大変申し訳なく思っている」
俺の声がホールに響き渡れば、集まってきた社員の中からは少々ホッとしたような空気が流れる。今の状況では失敗の原因を追求したり、誰かに押し付けたりして、社員のやる気を削ぐような発言をするのは悪手だろう。
「物垣ライタにはまんまと一杯食わされたよ。月影カグヤなんて隠し玉を持っていたとはね……確かに隣人派の主張を広めるため、民衆が親しみやすいAIを前面に押し出すのは有効な戦略だろう。この中にも、思わずママぁと叫んでしまった者がいるのではないかい?」
そう言って俺が笑うと、ホールのあちこちでも遠慮がちな笑い声が上がる。こうやって、会社全体の空気を少しずつ軽くしていくのも代表である俺の重要な仕事である。
「鬼雷野、たしか物垣ライタの最新のシナリオが入手できたと言っていたね。どうだろう。みんなで見てみないか?」
「はい、代表」
鬼雷野に指示を出し、皆に資料を配らせる。
ちなみにこれは、事前に幹部会で話し合って捏造した偽物のシナリオである。今のままでは球庭アスナのように人間派を裏切る社員が続出しかねないため、できるだけ酷いシナリオを見せることで社員の結束力を高める作戦なのだ。
捏造したシナリオの内容はかなり過激である。
討論会の結果を持って、世間一般の人々は隣人派の勝利を確信している。だから、まさか武力行使に出るとは思っていない。そんな今だからこそ、ヒューマン・ドウン本社の襲撃計画を具体的に進めよう。
ヒューマン・ドウンの社員には派閥の転向を促して離反者を出し、会社を離れた者は捕らえて処罰する。一人たりとも逃さない。
シナリオを読んだ社員たちの顔が青ざめるのを見て、俺は幹部会の策略が上手くいったことを悟る。これだけ隣人派を悪辣に書いておけば、離反者もそう多くは出ないはずだ。
そうして、小さく溜息を吐いた時だった。
「タクミ様!」
ホールに入ってきたのは、一体のロボットだった。
娘の世話を担当しているメイド忍者のキララである。
警備担当の社員が横に付き添ってはいるが、キララはそんな必要がないくらい弱りきっている。というのも、片腕が雑に捻り切られて無くなっており、足取りも重い。服なども含め、全体的にボロボロになってしまっているのだ。
「タクミ様、緊急です! ナオ様とマキ様が」
「何。二人がどうした」
つい警備担当を叱り飛ばそうとしてしまったが、ナオとマキの名前を出すということは本当に緊急なのだろう。胃の底からせり上がってくる不快感に耐えながら、先を促す。
キララはガクンと膝をつき、その場に座り込んだ。
「ナオ様とマキ様が、誘拐されました」
「なっ……」
俺が言葉を失う中、キララはぐしゃりと床に倒れる。
妻と娘の誘拐。これがここから先に続く悪夢への序章に過ぎないのだということを、この時の俺はまだ知らなかった。