1、「妖精の棲むガラスの箱」(1)
――きっかけは些細なことだった。
昼休み。少しばかり歳の離れた職場の後輩であるところの美月心音が何やら熱心にスマートフォンを見つめているのに気付いた。特に何か画面を操作する風でもなく、ただ頬になんとも微笑ましげな笑みを時折浮かべながら、飽きもせずに画面を見つめている。普段なら特に気にすることもないのだが、その時はなぜか、妙に彼女の笑みが気にかかった。
何も操作していないところを見ると、動画の類だろうか。
歳の離れた彼女とはあまり共通の話題も無く、事務的な会話ばかりで少しばかり寂しい思いをしていた私は、会話のきっかけにでもなればいいと「美月くん、何をそう熱心に見ているんだい?」と尋ねてみた。
すると、きょとんとした顔で美月くんは顔を上げ、丸いめがねを人差し指でくいっ、と持ち上げた。何度か目をぱちくりとさせ、それからどこか幼さの残る顔に悪戯っぽい笑みを浮かべて私を見つめてきた。
「神代さん、フェアリウムってご存知ですか?」
「ふぇありうむ? なんだいそれは」
若い女性との会話が成立したことに少しばかり安堵を覚えながら、謎の言葉に内心で首を傾げる。聞いたことのない言葉だった。プラネタリウム、アクアリウム、といった言葉に似ているが、初めて耳にした言葉だった。
「それは、あれかね、君の好きなアニメとかゲームの何かのことなのかい?」
「んー、百聞は一見にしかずといいますし」
そう言いながら美月くんは私にスマートフォンを差し出してきた。
「わたしのイチオシはコレです」
「ふむ?」
差し出されたスマートフォンの画面を覗き込む。そこには、水槽のようなガラスで出来た箱が映し出されていた。ガラスの箱の上部には木製の蓋がついていて、なにやらごちゃごちゃとしたパイプやら機械やらがくっついているようだ。台座のような下部にも同様にいろいろとくっついているようで、台座に取り付けられた小さなディスプレイには数字がいくつも表示されていて、ちかちかと瞬くように目まぐるしく表示が変わっていた。
そして、ガラスの内部には床に土が敷かれ、何かの植物が植えられているようだ。苔や、シダのようなあまり見慣れない植物がバランスよく自然に配置されていて、まるでどこかの山の奥を再現したような雰囲気であった。朽ちかけた倒木のようなものまで配置されていて、小さな菌糸類までも見て取れる。箱の中にはうっすらともやがかかっていて、かなり湿度が高そうだ。シダ植物からは時折しずくが垂れていて、水槽の端の方の水溜りにまで小さな流れを作っている。植物の大きさの対比からしてかなり大きい水槽のようで、まるで水族館や動物園の展示品のようでもあった。
これが美月くんの言うフェアリウムというやつなのだろうか。ぱっと見では昆虫か爬虫類を飼育するための水槽に見えるのだが、こんなものを若い女性が好むとも思えなかった。むしろ盆栽を思わせる自然の再現は、私よりさらに年配の方に人気がありそうではある。
ふむ。こういったものはテラリウムと称するのだったろうか。
なんにしても、これを見て美月くんが微笑んでいた理由がわからない。ただ映し出されている謎の水槽に、どこに若い女性をひきつけるものがあるというのだろう?
首を傾げながら、美月くんにもう一度たずねようとしたときだった。
ひょこり、とシダ植物の陰から小さな何かが顔をのぞかせ、次の瞬間、カメラがズームになってその小さな何かを大きく映し出した。
「……む」
思わず、声が漏れた。
シダ植物の陰から顔を出したのは、その対比からしておそらく十センチ程度であると思われる、小さな少女の姿だったのだ。何かの花びらで作ったような、服とも言えない何かを身にまとっている。少女は湿った土の上を裸足でそろそろと歩き、こちらを向いて、にぃ、と微笑んだ。
これは、合成や特撮の類だろうか。あるいはCG?
スマートフォンの小さな画面では細かいところがよく見えず、実写かどうかの判断は付かなかった。しかし、作り物の人形が動いているとはとても思えない、自然な動きだった。
「ね、かわいいでしょう?」
美月くんの声がすぐそばで聞こえて、気が付くといつの間に背後に回ったのか、私の背中から覗き込むようにしていた。
「あ、ほらほら、目を離しちゃだめです」
言われてあわてて画面に視線を戻すと、水槽の中の少女が、土の上でくるりと回転して舞うように飛ぶところだった。
重力を知らないかのように、翼もなくふわり、と浮き上がった少女は。バレリーナのようにさらに空中でくるくると横に回転を続け、歌うように口を動かした。
「おっと、イヤホンを」
美月くんが、自らの耳につけていたイヤホンを片方はずして私の耳に押し付けてきた。学生の恋人同士じゃあるまいし。なんとも距離が近い。かなり気恥ずかしい。
「……美月くん、少し近くないかね」
「しー! ほら、歌いますよ」
ぴー、ぷー、と草笛を鳴らしたような音がイヤホンから聞こえてきた。
「……ほう」
小さな少女は、楽しげに微笑みながら歌っていた。正確には、歌と言うよりもただ音を口ずさんでいるだけの、意味のない音階だけのようなものなのだろう。ぴー、ぷー、と響く歌声はひどく素朴な、どこか懐かしさを覚えるかわいらしいもので、なんだかとても癒されるものだった。
しばらく歌いながら踊っていた小さな少女は、最後にカメラの方を向いて、ぺこり、と一礼して。さささっ、と恥ずかしげに、隠れるようにしてシダ植物の陰に引っ込んでしまった。
「……実に、かわいらしいねぇ」
思わずため息が漏れた。なるほど美月くんが飽きもせずに眺め続けていた理由がわかった気がする。ループ再生の設定をしていたのだろうか。そのまま見続けていると再びシダ植物の陰から小さな少女が現れてまた踊りと歌を披露し始めた。
………五回は繰り返しただろうか。
ふとスマートフォンの画面から顔を上げると、美月くんがこちらをからかうようなひどくにまにまとした笑顔で私を見つめていた。
「あは、ずいぶん気に入ったようですね、神代さん。……もしかしてロリコンだったりします?」
「……人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ」
多少名残惜しいものを感じながら、私はイヤホンを外しスマートフォンを美月くんに返した。
「ところで、これはいったい何の動画なんだい? 君の好きなゲームとかアニメなんだろうか」
私はあまり最近のアニメやゲームといったものに興味はなかったのだが、もしこれがそういった類のものであるならば、少しばかりお金を出してでも手に入れてみたいと思うだけの価値がこの動画にはあった。
「いえ、これ作り物じゃなくって普通に撮った映像らしいですよ?」
「ああいう小さな女の子が、実在するというのかい?」
「ええ。さっきもちょっと言いましたけど、この水槽のことをフェアリウムっていうんですヨ。ほら、水槽で熱帯魚とか育てるのをアクアリウムとかいうでしょう? だからー、」
「……まさか、妖精を育てるからフェアリウムっていうのかい?」
「正解です」
「なんとまぁ、信じがたいね」
実際動画を見せられても、あんな生き物が実在しているだなんて信じられなかった。大体、妖精だなんて架空の、想像上の生き物であって、実在するわけがない。
まさか、美月くんは私のことをからかっているのではないだろうか。
思わず眉をしかめると、美月くんはちょっと肩をすくめた。
「正確には、おとぎ話に出てくる妖精じゃなくって、それに似た姿をしたキノコの一種らしいですよ。きっと、妖精伝説の元になった生物なんでしょうね」
「キノコだって? キノコに手足が生えて、歩いているのがあのかわらしい少女だっていうのかい?」
「いえ、キノコに手足が生えるわけではなくて、キノコの傘の部分からあの妖精のような姿で生まれてくるらしいですよ。まさに妖精のように!」
美月くんが、胸の前で合わせた両手を膨らませ、双葉が開くようにぱかりと開いて見せる。
「ふむ、なるほど。花の妖精ならぬ、キノコの妖精といったところかね」
「ですねー」
ぱかり、ぱかりと両手を開いたり閉じたりしながら美月くんが微笑む。その笑みが、不意にどこか悪戯っぽいものに変わった。
「どうです、神代さん。興味がおありなら、フェアリウムをお始めになっては?」
「おや、まさかお店で買えるものなのかい? はは、それはお高いんだろうねぇ」
まさか、こんな摩訶不思議魔な生物がそこらの店で売っているとも思えなかったので、もちろん冗談のつもりだった。本当にこんな生き物が居るのだとしても、それは限られた研究機関か、設備の整った動物園などでしか扱えないようなものだろうと、そう思っていたのだが。
「そうなんですよー。まさにそのお値段がネックなんです。十年前に比べるとかなりお求めやすい値段にはなっているんですが、それでも最低限の初期費用に五十万はかかるそうなんですよ……。場合によっては部屋の改装とかも必要になって、それこそ云百万かかることも珍しくないとかで。ううー、賃貸マンション住まいのわたしにはどうしたって手が出せない趣味なんですよぅ」
美月くんはため息を吐きつつ、なにやら期待のこもった眼差しで私を見つめてくる。
「――というわけで、神代さんはどうかなーって。確か、一戸建てにお住まいでしたよね?」
「……本当に、お店で買えるものなのかい?」
まさか、私をからかっているのではないだろうか。
「まあ、普通のペットショップでは扱ってないでしょうけれど。専用のフェアリーショップで買えますよ? えーっと、ここからだと少し遠いですが、四駅先に一軒あります」
スマートフォンを操作して地図を表示し、こちらに差し出してくるので受け取った。
「ああ、うちの近くだねぇ。ふむ、一度、のぞいてみることにしようか」
帰りにペットショップをのぞいて帰るつもりだったが、もし買える様なら妖精の方が面白そうだと思う。なにより、大変にかわいらしい。
「うふふ、もし妖精さんを飼うことになったら、わたしにも見せてくださいね! 約束ですよ?」
美月くんが、うまくいったとばかりに拳を握った。
私自身も、美月くんと親しくなるきっかけが出来て、悪くない気分だった。
「さっそく今日帰りに寄ってみようと思うのでね。悪いけれど今日は定時で上がらせてもらうよ」
「え、えー? 行くならわたしも一緒に行きたいですよぅ。けど、まだお仕事が……」
美月くんに着いて来てもらえれば私としても心強い所だったけれど、いい年をした大人が一人で買い物も出来ないというのも恥ずかしい。
「なに、今日のところは下見のようなものだよ。お店でいろいろ詳しい話を聞いてこようと思ってね」
慌てる美月くんには悪かったが、私は手早く荷物をまとめて席を立った。
「ううー! 神代さーん」
唸る美月くんに小さく手を振り、職場を後にした。