はじまり~月にとけた少女の夢~
――こんな夢を見た。
私は自宅の縁側で、見知らぬ少女と一緒に座って丸い月を見上げていた。
部屋の明かりは消されていて、ただ静かに照らす月の光と、しんしんと染み入るような星の瞬きだけが私と少女を闇の中に浮かび上がらせていた。いや、よく見ると不思議なことに、私の隣に居る少女は全身から仄かに蛍火のような青白い輝きを放っていて、その睫の一本づつすら見て取ることが出来た。
少女の見た目は、十代中ごろだろうか。まだ幼さは残るものの、我知らず見つめ続けてしまう整った顔立ち。その顔にまるで見覚えはないのに、よく見知っているような愛おしさを覚える。わずかに着崩した、和服のような着物。腰まで届きそうな長い髪は、束ねることなくさらりと肩に流され、月明かりではその色合いまでははっきりと解らないが、蒼の混じった銀のような、光の粒子が漂っていた。
私と少女は、月見でもしていたのだろうか。縁側に座る私と少女の間には、丸い団子が乗った小皿とススキを生けた小さな花瓶があり、そして私の手にはお猪口が握られていた。
少女は縁側に腰掛けて月を見上げながら、ただぶらぶらと足を揺らしていた。
何か会話をするでもなく、ただ二人並んで座って静かに月を見上げる。
――どれほどの時間、私と少女はそうしていたのだろう。
しゃらん、と不意にガラスで出来た鈴のような音が響いた。
「……そろそろ、行くね」
少女はこちらを見ることなく、月を見上げたままそう言った。
いってしまうのかい、さびしくなるねと私は言った。
「うん、だってわたしは、そのために生まれてきたんだから」
少女はそう言って、縁側から裸足のまま地面に足をついた。
しゃらん、とまたガラスで出来た鈴のような音が響いた。それはどうやら少女の方から聞こえてくるようで、目を細めてみるといつの間にか少女の背には細長く薄いガラスの板のようなものが生えていた。それが震えるたびに、しゃらん、しゃららん、と鈴のような音が響くのだった。
ああ、これは翅なのだな、と思ったとき。少女が土を蹴って、ふわりと宙に浮かび上がった。
「……行ってきます」
少女は空中でくるりとこちらを振り向いて、私に頬を寄せた。
「大好きだよ、パパ。今まで育ててくれてありがとう」
ちゅ、と小さな音がして、すぐに少女は私から離れた。
がんばっておいで、と声をかけると。少女は月を背にして空中ででんぐり返しをするように逆さまになり、ぱっかりと両足を開いた。着物の裾がおへその辺りまでずり下がって、少女らしい下着があらわになった。
こら、はしたない!と思わず声を上げると。
「あはっ!」
と少女は小さく舌をだし、悪戯が成功した顔で空中でくるくると何度も回転した。
「ずっと、見ていてね。わたしがんばるから」
ああ、がんばっておいでと答えると。
少女は次の瞬間、わずかな光の軌跡だけを残して消え失せていた。
まるで、月にとけてしまったかのように。
私はただ、月を見上げた。
ただ、見上げ続けた。
――ちりん、と軒先にぶら下がる季節はずれの風鈴が鳴った。
「……夢、か」
布団の中で目を覚ましてからも、しばらくは少女の姿が脳裏に焼きついていた。
「月に向かう少女……まるでかぐや姫だ」
この歳になるまで女性に縁がなく、結婚もしておらず当然子供もいない私が、まるで娘が家を出るような夢を見るとはなんとも気恥ずかしいものがあった。
いつもよりまだ少しばかり起きるのには早い時間だったが、二度寝するような時間でもなかった。まだ少しばかり冷える朝の空気に身体を震わせ、顔を洗って縁側に向かった。
髭剃りをあごに当てながら荒れ果てた庭を眺める。
ああいう夢を見たということは、あるいはそうと意識したことはなかったが、無意識に独り身が堪えているということなのかもしれない。
夢の中で少女を失ってしまって、強い寂寥感を感じたということもあるのだろうが。
ふむ。
庭をきれいにして、犬でも飼うか。それとも猫でも飼って膝に乗せるか。
いずれにせよ何かペットを飼う、という考えは悪くないかもしれない。
今日、仕事の帰りに職場近くの店にでも出かけてみるとしよう。
ちりん、と年中ぶら下げっぱなしの風鈴が、風に揺れて小さな音を立てた。