豆はコロンビア
喫茶店をオープンしました、是非いらして下さい、という手紙が西村満知子から届いた。裏には店の地図が描かれていた。僕はそこまでの道順を頭に浮かべた。バスに乗れば、滞りなくそこに行けそうだった。明日は溜まった洗濯物を洗いさえすれば、後はすることがなかった。ちょうどいい、と思い、そう思うと明日が待ち遠しいような気持ちになった。西村満知子とはもう何年も会っていなかった。明日の天気が晴れなことを確認して、眠った。
ポロシャツにジーパンという格好で、家を出た。バスは予定していた時間より五分程遅れてやってきた。僕は後ろから二番目の二人掛けの席に座った。バスがゆっくり動き出し、少し冷房の風が強くなった気がしたが、寒くはなかった。真っ直ぐ伸びる国道で、バスは小刻みに停車と発車を繰り返し、降りるつもりだった六つ目のバス停はすぐにやってきた。停車ボタンに手を伸ばす。次、止まります、と音が鳴り、少し背筋が伸びる。僕はバスが停車してから降りた。
手ぶらで行くのもなにかと思い、近くにあった花屋で小さな花束を作ってもらった。黄色い花が綺麗な色をしていて、名前を聞くとガーベラという品種だった。
通りから小道に入り、民家からこぼれるラジオの音を聞き、ふと目を上げて、ここか、と思った。店の前には木のベンチが置かれていて、その上にある窓からうっすらと店内の様子が見える。反射して映った花束が見すぼらしく見える。確かな足取りで来たはずなのに、自分の顔は不安そうだった。自転車が近づく気配を感じ、それを避けるように店のドアに手をやった。
コーヒーの匂いがした。こちらからも見える調理場で、西村満知子は作業をしていた。僕が入って来たことに気付くと、顔だけこちらに向けて、お久しぶりです、と言った。カウンター席に座ると、彼女がこちらにやって来たので、僕は持っていた花を渡した。ガーベラという花が含まれている、と伝えると、どれかしら? と聞かれて、僕は黄色い花を指さした。
「飾っておきます」
「枯れないといいけれど」
メニューを見て、アイスコーヒーを注文した。豆が二種類あるらしく、できれば酸っぱくない方で、と僕は頼んだ。角の席にお婆さんが座っていて、ゆっくりとコーヒーを飲んでいた。音を立てず、口の形をタコみたいにもせずに。
よく来てくれました、と西村満知子が言った。僕は出されたコーヒーを一口飲んで、うん、と答えた。
「今も小説を?」
「書いています。今はコーヒーについての小説を頼まれていて、まだ何も書いていないけれど」
「いつまでに書かなければならないの?」
「明日まで」
「明日までのものが、まだ書けていない」
「そう。だから今日ここに来たのは、小説を書くためでもあります」
「きっかけ」
「うん、きっかけ。僕はコーヒーについて、ほとんど何も知らない。今飲んでいるコーヒーは、何ていう豆が使われてる?」
「コロンビアです」
「コロンビアの豆が使われている喫茶店に、コーヒを飲みに行く小説」
「書けそう?」
「うん」
お婆さんがこちらを見ていて、目が合った。少しうるさかっただろうか。僕は小さく会釈をした。お婆さんも会釈をした。お婆さんがコーヒーを飲み終わり、店を出て行く。店には僕と西村満知子だけになった。
「結婚は?」と僕は聞いた。
「一度して今は一人。あなたは?」
「生まれてこのかた誰とも付き合ったことがないよ」
「哲学者みたいね」
「こじらせている」
アイスコーヒーの氷が、溶けて音を立てる。
「コーヒーの小説が書けたら、持って来ます」
「楽しみにしています」
僕は、今日のことをそのまま小説として書いてしまおうと思う。スーツを着た男が店に入って来る。僕と西村満知子の目が合う。