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抽象音  作者: 中條利昭
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Interlude

 師匠と出会った夜。『My Favorite Things』の感動冷めやまぬ拍手の中、三鷹直人氏が頭を下げた。彼の白髪は頭頂部まで美しかった。


「本日はご足労ありがとうございます」


 マイクを通さずとも、彼の声は充分に通った。


「古くからの友人であるマスターと、飲んだ勢いでイベントやろうってが言ってたのが、ちょうど七日前ですか」


 短いな。

 多くの観客たちも同じことを思ったのだろう。クスクスと笑い声が聞こえた。


「私からはほとんど宣伝していないので、こんなに人が集まってくださるとは思いませんでした。さすがはマスターのお人柄ですね。それに、どうも見知った顔が多くて不思議な気分です。生まれ育った地から離れなかったり、あるいは戻ってきたりという方が、たくさんいらっしゃるのですね」


 三鷹直人氏はこのあたりの出身なのかな。もし小学校や中学校が同じだとしたら、ちょっと嬉しいかもしれない。

 私はそう思った。今では学校は別だったと知っている。


「いつもはクラシックのコンサートではクラシック、ジャズバーではジャズばかりを演奏しますが、今日はただの趣味ですので。力を抜いて、気ままに演奏していこうかなと思います」


 パチパチ、とまばらな拍手が蝶のように舞うと、三鷹直人氏はごく自然に言った。


「今宵は、月が綺麗ですね」


 ――あ、これは私から皆様への、愛の告白ですよ。


 黄色い歓声が上がると、彼は後から恥ずかしくなったのか、はにかんだ。


「調子に乗ってしまいました。申し訳ありません」


 隣の席の婦人は顔を両手で押さえて赤面していた。キュンキュンと高鳴る心音が、いまにも聞こえてきそうだった。


「月といえば、昔から月の光をテーマにした曲は数多(あまた)生み出されています。作曲をする人間であれば、誰しも一度は書いてしまうと言っても、過言ではないでしょう。古いものだとベートーヴェンのピアノソナタ第十四番『月光』が代表的でしょうか。最近だと『ムーンライト伝説』なんかがありますね。最近と言っても、もう二十数年前ですね。一昨日くらいのことに思えてしまうのが怖いです」


 どっ、と笑いが起こる。二十年以上前のことを『一昨日』と思えるほど私は生きていないけど、共感できる人は多いらしい。

 彼が膝に置いた手を鍵盤に乗せると、再び静かになった。


「さまざまな音楽家を魅了して止まない月。それを題に据えた名曲のひとつを、どうぞ」


 ラ♭とファの和音が宙を飛び、ファとレ♭で静かに着地する。水面に落ちる雫のように。

 クロード・ドビュッシーの『月の光』。

 さっきカーテンを閉じたときに私の脳内に流れた夜想曲だ。

 湖畔に落ちる水滴。水面に拡がる波紋。逆さまに写る木々のゆらぎ。呼吸よりも静かな情景。

 展開が進むにつれて、情緒豊かに景色が広がっていく。おなかをすかせた動物が現れたと思ったら、狩りを済ませたのか、それとも何も見つからなかったのか、いなくなって。すぐさま脚の長い鳥が湖畔に現れ、水のステージを震わせながら舞い、去っていく。そしてまた、静けさが反響する。

 モチーフが繰り返されるたび、雫が空気に触れる時間が伸びていくように感じられるのは、どうしてだろう。宙に浮いている時間がもどかしくて。落ちてしまうと浮いていた一秒が恋しくなる。

 その心理の動きは、まるで恋のよう。

 結果が出るまでは、つらくとも楽しくて。

 結果が出ると、成功であれ失敗であれ、あの浮遊した時間が失われてしまう。

 しんとした夜の空気。曇りなく輝く満月。

 情景の中、ぽつぽつと落ちる滴だけが温かかった。


 ――これは私から皆様への、愛の告白ですよ。


 同窓会のようなこの場で。

 『皆様』の中に私はいない。

 頭の中で鳴る音を止めたい。コンサート会場から部屋に戻りたい。

 でも、演奏が耳の奥から離れない。鍵盤を撫でる指が、瞼の裏から消えない。

 私は布団の中に潜り込み、赤ん坊のように丸まっていた。


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