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抽象音  作者: 中條利昭
3/7

Pre Chorus

 テーマを決める。

 たった七音の言葉がこんなに難しいなんて。

 今日は土曜日。師匠の家に行くのは毎週日曜日。つまりあれから六日が経っていた。

 テーマは未だに決まっていない。

 授業中でも家でも、机に向かっているときはずっと考えていた。でも、固まらない。

 何も決めずに進めたり、あるいは与えられたり。物語をイメージしたり。

 ずっとそうしてきた。

 ジャンルや曲調が決まった状態でテーマを考えるのが、こんなに難しいなんて。

 私には、どうしてこんなに『自分』がないの?




 朝から悩んでいるうちにお昼が来ていた。ずっと握っていたペンはインクを全く消費せず、ルーズリーフは真っ白なままだ。


「……気分転換に出かけよう」


 私の足は自然と師匠の家の方角へ向かっていた。歩いて三十分くらいのところに小洒落たテラスカフェがあり、そこの角を右に曲がって道なりに三分のところに師匠宅がある。

 途中のカフェには一度行ってみたいと思っていた。

 できれば師匠と。

 お昼ならパスタ、おやつの時間ならケーキを。喫茶店のコンサートのときのようなスーツ姿でも、いつものビジネスカジュアルなファッションでも、ティーカップを持つ姿はきっと絵になる。私のような芋くさい女とは到底釣り合わないだろうけど。

 入り口の前で羨ましく店内を覗く。レジ前で六人ほど女性が並んでいた。レジで注文してから座席を決める形式らしい。お店の前にあるメニューを見る限り値段は安くない。高校生ひとりではハードルが高い。気分次第ではここでお昼を取ろうと思っていたけど、諦める。

 引き返して増田さんの喫茶店で食べようかな。師匠の昔話を聞いてみるのもいいかもしれない。

 テラス席をチラッと見てみると、男性が一人だけいるのが見えた。彼の隣には女性。後ろ姿で顔は見えない。たったいま注文を終えたばかりなのだろう。一緒にいる貴婦人を正面に座らせた。白のストローハットが似合う美しい淑女だった。紳士はブラウンのトリルビーハットを外し、席に着く。まったく黄ばんでいない白髪、天に引っ張られているかのような背筋。見覚えのある佇まい。

 師匠だ。


「ってことはあの女性……」


 奥さんだろう。

 プロの楽団でコンサートマスターを務めるバイオリニスト、と聞いていた。師匠宅を訪れる日曜日は朝から夕方まで練習のため、私は会ったことがない。いつかお会いしたいと思っていたし、師匠も会わせたいと言っていた。

 耳の奥でバイオリンのロングトーンとピアノの伴奏が聞こえる。

 G.S.バッハの『管弦楽組曲第三番ニ長調 BWV1068』第二曲「アリア」。通称『G線上のアリア』。穏やかで麗しい旋律が似合う二人組。彼らの談笑する様子は、まるで絵画から飛び出したかのようだった。貴族のお茶会。花園と神に見守られた、象徴たる時間。

 心を落ち着かせる和音とは裏腹に、私の胸はドキドキと鼓動している。思いがけないところで憧れの人を見かけてしまった驚き。綺麗な景色を前にする感動。そして――灰色の何か。

 あの輝きの裏には、どんな時間があったのだろう。

 そんなことを考えてしまう。

 音楽家同士であれば、きっとお互い譲れないものがあってぶつかることもあっただろう。それを乗り越えた二人の絆。二人の物語。あるいは、彼らを支えた大勢の人々を含む群像劇。そのフィナーレの延長上に、あの浮世離れした色彩があるに違いない。

 ポジティブなハッピーエンドのはずなのに、私は綺麗な涙を流せない。

 その物語に私なんて一コマも登場しないのだと、思い知らされたから。


「なんで……」


 私はこんなことを思っているの?

 師匠に何を期待していたの? 何を求めていたの?

 音楽だけじゃなかったの?


「……」


 私は、そんな自分が嫌いだ。

 とぼとぼと道を引き返す。

 向かう先は増田さんの喫茶店じゃない。家だ。

 お腹をすかせたまま、私は机に向かいに行く。

 テーマは、決まった。


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