Pre Chorus
テーマを決める。
たった七音の言葉がこんなに難しいなんて。
今日は土曜日。師匠の家に行くのは毎週日曜日。つまりあれから六日が経っていた。
テーマは未だに決まっていない。
授業中でも家でも、机に向かっているときはずっと考えていた。でも、固まらない。
何も決めずに進めたり、あるいは与えられたり。物語をイメージしたり。
ずっとそうしてきた。
ジャンルや曲調が決まった状態でテーマを考えるのが、こんなに難しいなんて。
私には、どうしてこんなに『自分』がないの?
朝から悩んでいるうちにお昼が来ていた。ずっと握っていたペンはインクを全く消費せず、ルーズリーフは真っ白なままだ。
「……気分転換に出かけよう」
私の足は自然と師匠の家の方角へ向かっていた。歩いて三十分くらいのところに小洒落たテラスカフェがあり、そこの角を右に曲がって道なりに三分のところに師匠宅がある。
途中のカフェには一度行ってみたいと思っていた。
できれば師匠と。
お昼ならパスタ、おやつの時間ならケーキを。喫茶店のコンサートのときのようなスーツ姿でも、いつものビジネスカジュアルなファッションでも、ティーカップを持つ姿はきっと絵になる。私のような芋くさい女とは到底釣り合わないだろうけど。
入り口の前で羨ましく店内を覗く。レジ前で六人ほど女性が並んでいた。レジで注文してから座席を決める形式らしい。お店の前にあるメニューを見る限り値段は安くない。高校生ひとりではハードルが高い。気分次第ではここでお昼を取ろうと思っていたけど、諦める。
引き返して増田さんの喫茶店で食べようかな。師匠の昔話を聞いてみるのもいいかもしれない。
テラス席をチラッと見てみると、男性が一人だけいるのが見えた。彼の隣には女性。後ろ姿で顔は見えない。たったいま注文を終えたばかりなのだろう。一緒にいる貴婦人を正面に座らせた。白のストローハットが似合う美しい淑女だった。紳士はブラウンのトリルビーハットを外し、席に着く。まったく黄ばんでいない白髪、天に引っ張られているかのような背筋。見覚えのある佇まい。
師匠だ。
「ってことはあの女性……」
奥さんだろう。
プロの楽団でコンサートマスターを務めるバイオリニスト、と聞いていた。師匠宅を訪れる日曜日は朝から夕方まで練習のため、私は会ったことがない。いつかお会いしたいと思っていたし、師匠も会わせたいと言っていた。
耳の奥でバイオリンのロングトーンとピアノの伴奏が聞こえる。
G.S.バッハの『管弦楽組曲第三番ニ長調 BWV1068』第二曲「アリア」。通称『G線上のアリア』。穏やかで麗しい旋律が似合う二人組。彼らの談笑する様子は、まるで絵画から飛び出したかのようだった。貴族のお茶会。花園と神に見守られた、象徴たる時間。
心を落ち着かせる和音とは裏腹に、私の胸はドキドキと鼓動している。思いがけないところで憧れの人を見かけてしまった驚き。綺麗な景色を前にする感動。そして――灰色の何か。
あの輝きの裏には、どんな時間があったのだろう。
そんなことを考えてしまう。
音楽家同士であれば、きっとお互い譲れないものがあってぶつかることもあっただろう。それを乗り越えた二人の絆。二人の物語。あるいは、彼らを支えた大勢の人々を含む群像劇。そのフィナーレの延長上に、あの浮世離れした色彩があるに違いない。
ポジティブなハッピーエンドのはずなのに、私は綺麗な涙を流せない。
その物語に私なんて一コマも登場しないのだと、思い知らされたから。
「なんで……」
私はこんなことを思っているの?
師匠に何を期待していたの? 何を求めていたの?
音楽だけじゃなかったの?
「……」
私は、そんな自分が嫌いだ。
とぼとぼと道を引き返す。
向かう先は増田さんの喫茶店じゃない。家だ。
お腹をすかせたまま、私は机に向かいに行く。
テーマは、決まった。