Verse
師匠の肩越しにDAW(音楽制作ソフト)の再生ヘッドがBメロへ突入したのが見えた。
「Bメロはなにもできてないです」
ヘッドホン越しに言い訳したけど、師匠は微動だにしない。四つ打ちのキック(バスドラム)の音と仮のシンセパッド(曲のバックで鳴っている持続音)だけだから私の声が聞こえないはずはない。集中しているのだ。集中してくれているのだ。すぐそばで。音だけで古びた喫茶店を一流のライブ会場に変貌させた人が、私のヘッドホンをつけている。
再生ヘッドはそのままサビへ。キックはいなくなり、静けさの中でメロディーが流れているはずだ。そして、ビルドアップ(ダンスミュージックでよく使われる盛り上げ部分)へ突入。――とはいえ、ハウスとしては比較的おとなしい曲なので、決して盛り上がるわけではない。高揚感が頂点に達し、主旋律以外の音が消える。その空白を叩き割るインパクトからメインパートが始まる。リフレイン的なメロディーが八小節続き、曲は途切れた。
音符がなくなっても師匠は集中し続けていた。師匠はいつも曲を余韻まで楽しむ。たとえ未完成であっても、一ミリ秒の残響さえ聴き逃さない。
ピークメーターが消えてからヘッドホンを外して、言った。
「美しい曲になる予感がします」
「あ、ありがとうございますっ」
「佐野さんの曲をいくつも聞いてきましたが、電子音楽は初めてですね」
「はい。サブジャンルとかあんまり分からないですけど、調べながら頑張りました」
「素晴らしい心意気です」
その言葉に、とても救われた気持ちになる。
この曲を創るためにソフトシンセを買った。セール価格だったとはいえ高校生には痛い出費だった。
ほっと一息をつきながらも、弟子として満足するわけにはいかない。
もっと、師匠から知識知恵を吸収しないと。
「気になったところはありますか?」
「そうですね。まだまだ未完成なのでなんとも言えない箇所が多いですが」
師匠は優しい。どんな作品でも必ず褒めてくれる。しかし悪いところや改善すべきところも必ず教えてくれる。
「キックとベースが重ならないようにしているのは、よく研究ができている証拠だと思います」
「電子音楽以外ではまずあり得ない概念ですよね。初めはそんなバカな! ってびっくりしたけど、信じてよかったです」
「気持ちはとてもわかります。私もそうでした」
ドラマーがバスドラムを鳴らした瞬間だけベーシストがミュートするということは、実際のバンドではほとんどない。むしろ同時に鳴らして音圧を出すのがセオリーだ。しかし他のどのジャンルよりも低域が強調されるEDM(Electronic Dance Music。電子音楽)において、キックの低音とベースの低音が同時に鳴るとサウンド全体のバランスが崩れてしまうことがある。お互いがしっかりと本領を発揮するために、キックとベースには時間的な棲み分けを行わせる必要があるのだ。
「サブベース(体で感じさせることを目的とした低音)もちゃんといましたし、素直に感心しています」
「ありがとうございます」
「ですが、耳にしっかり聞こえるベースと、サブベースがぶつかっています。ベースは思い切って低域を削っても良いでしょう」
「ふむふむ」
私が机の上の手帳を手に取ると、師匠は席を立った。
「あ、私は立ったままメモ取りますので」
「いえ、お座りください。立ったままよりは書きやすいでしょう。喋るのは、どんな姿勢でもできます」
「すみません……」
席を代わり、机でペンを動かす。メモの手が止まってから師匠は続けた。
「帯域の棲み分けをしっかり行えば、キックも含めて低域をもっとガツンと上げられると思います。EDMにおいて低域はメロディーより重要と言っても過言ではありません。低域処理はしっかりと慎重に行いましょう」
「はい」
「あとは、メロディーの音色ですね。とても良い音ですが、全体の雰囲気の割にアタック感が強すぎる気がしました」
プリセットに少し手を加えただけの音だった。ボリュームエンベロープ(音量変化を表すパラメータ)のアタックは触ってなかった気がする。
「微調整します」
「かといってアタックにいい成分があるので、無理には削らないでください。その場合は10kHz以上の高域を少しカットしてみるとサウンドの馴染みが良くなるかもしれません」
「勉強になります」
ペンを走らせながら、あれ? と思う。
楽譜的な要素がない、と。
以前、師匠はこう言った。
――音楽で最も大事なのは楽譜です。サウンドメイキングやミックスの技術をいくら磨いても、楽譜が及第点以上でなければ意味がありません。
私がそれに気づいたことに、師匠は気づいた様子だった。意味ありげに口角を上げる。
「あえてミックス面のみ言ってみました」
「ですよね」
「それ以外のことを話す前に、聞かせてください」
眼鏡の奥の師匠の瞳に、私が写った。
「この曲のテーマは、なんですか?」
うまく言葉にできない。
この感情の正体は、あれだ。『痛いところを突かれた』。
なんとか言葉を振り絞る。
「師匠は、どう感じましたか?」
質問返しは卑怯だと自覚しながらも、それしか私にはできなかった。
「テーマなく始めていると、感じました」
心臓が縮こまる痛みがあった。思わず両手を胸に当ててしまう。
「図星です……。ちょっと切ない感じにしたいなと思って。切なくて哀しいけど前へ進み続ける、みたいな」
師匠は淡々と質問を続ける。
「それは起点ですか? それとも、なんとなく鍵盤を弾いていて、なんとなく切なげで良さげなメロディーができたから、それを形にしようとしたということでしょうか」
降参、とばかりに私は両手を上げて頭を下げる。
「後者です……。イメージに近い参考曲を見つけて、寄せながら創りました。すみません」
「いえ、責めているわけではないので、あまり落ち込まないでください。既存のものと比較しながら創るということは、芸術の基本です」
何とも比較せずに完璧なバランスを保てる音楽家など、世界のどこにもいません。
師匠は言い切った。
「少し言い方が厳しかったかもしれませんね。申し訳ありません」
「いえ、その、とても嬉しいです。つらいけど」
師匠は先ほどよりも朗らかな声色で尋ねた。
「曲の尺は考えていますか?」
「考えてません」
正直に白状すると、師匠はにっこりと笑った。
「では、二分前後にしましょう」
「え」
「私からの課題だと思ってください」
私が驚いたのは、こうして師匠が枷を与えることが初めてだったから。
「尺は二分。誤差は二十秒前後まで。少々余裕を持たせておきます。それでもなお、途中で意地悪な尺だと感じるかもしれません」
「どうしてですか?」
ゲーム音楽などはそのくらいのものが多い。比較的やりやすいイメージだった。
「やってみれば、おのずと分かると思います」
質問回答をぼかすのも珍しかった。
さらに師匠は続ける。
「電子音楽の基本はループです。一曲全体を通して同じコード進行で作ってみましょう。A-B-サビの展開であれば、Bは少しだけ変えてもいいかもしれませんね。しかし、一般的なポップスのように、転調などは行わないようお願いします。少なくともはっきりとコード進行が変わったと感じさせないようにしてください」
さらなる課題――に擬態させた提案。
なんとなく狙いが見えてきた。
私が気づいていない部分のジャンル性を口頭で教えるだけでなく、私自らがそれを実感できるように導いているのだ。
「サビのコード進行は6-7-1進行でしょうか。佐野さんはこのコード進行をよく使うイメージがあります」
ふふっ、と小さく吹き出してしまう。
「バレてましたか……」
「鍵盤があまり得意でない人は、左手がひとつずつ上昇するだけのこの進行は創りやすいのかもしれませんね。日本人が好む切なさや疾走感を出しやすいですし、非常に便利だと思います」
まさしくそれだった。
楽だし、なにより私自身が好きなコード進行なのだ。EDMとも相性がいい。
そこへ、師匠は槌を打つ。
「まずこれをやめてみましょう。Ⅰm(短調の曲において主となる和音)から始めてください」
「え」
変な声が出た。
そんな私を一笑するわけでもなく、師匠はにこやかに続ける。
「一セクションであれば逆循環進行(主となる和音以外から始めるコード進行)は効果的ですが、ずっとループさせると飽きますからね」
赤べこのように私は頷く。一通り同意してから、メモを忘れていたことを思い出した。『Ⅰmから始める』と簡潔に書き流す。
「このメロディーはⅠmから始めても、少しいじればハウスとして充分に活きるリフ(繰り返される短いフレーズ)やメロになると思います」
師匠は机上のキーボードに触れる。Ctrlキーを押しながらSを押してQを押す。すなわち保存してアプリケーションを終了したのだ。
「最後にテーマです。それは佐野さんが設定してください。時間はたっぷりかけて構いません。方針を定めてからDAWを開き直しましょう」