Intro
祈るようにノートパソコンをスリープさせる。モニターが暗転するより早く目を瞑り、私は正面のキーボードに倒れた。勢いでヘッドホンが外れる。
「おやおや、ふて寝ですか」
師匠の声は、長旅を終えたそよ風を思わせた。決して声量が大きいわけでも、特別聞き取りやすい声質でもない。しかしかすかな掠れを伴うそれは、人の耳を引き寄せる魅力があった。
ハードカバーの本に栞が挟まれ、師匠が立ち上がるのが聞こえる。革のソファに本をそっと置く音。スリッパの音。フローリングがカーペットに変わると、ほのかな柑橘系の香りがした。楽器用クリーナーの香りだ。
「師匠〜、曲ができませ〜ん」
「それは一大事ですね」
「いつものことですけど」
顔を上げる。紺のカジュアルシャツにはシワひとつない。第一ボタンが開いた襟の根元からは鎖骨が見えそうで見えなかった。ヒゲもなければ弛んだシワもない口元は、六十歳近い年齢を感じさせない。
師匠の部屋には書斎の趣がある。床から本棚、インテリアまで暗めの木目調で揃えられており、ライトは暖色の間接照明が主だった。本棚には文庫本よりハードカバーの単行本や洋書が多い。そんな本棚の上には、お孫さんが描いたというクレヨンの似顔絵が飾ってあった。この落ち着いた空間の中では照明よりも輝いて見える。
「どんな曲を創っているのですか」
「ハウスです」
「お聞かせいただけませんか」
「……お願いします」
曲を途中段階、しかも納得できていない時点で聞かせるのは、裸を見せるみたいに恥ずかしい。
それは、ひと月半前に初めて経験して学んだことだった。
師匠と出会ったのは喫茶店だった。『小洒落た』よりも『古びた』という表現の方がふさわしい近所の喫茶店。店内に漂うコーヒーの香りは決して苦すぎず、紅茶しか飲まない私にも居心地が良かった。
中学生のときからテストの時期になると私はいつもここに入り浸っている。客足がまばらなためか、怒られたことはない。むしろ主人と仲良くなり、他に客がいなければ奢ってくれることもあった。
看板メニューは何もない。老後の趣味を兼ねた穏やかなお店。
その日は珍しく客が多かった。二十ほどある席がほとんど埋まり、賑わっている。私以外、全員主人に歳が近そうだった。
「いらっしゃい、美希ちゃん。ごめんね、今日はちょっと人が多くて」
「なにかあったんですか?」
「古くからの友人のピアニストが演奏しに来てくれるんだ」
ここにいる大半は共通の友人。
主人の増田さんは誇らしげに胸を張る。落ち着いた内装のお店の店主にふさわしくない仕草は、どうせここにいるのは全員知り合いだからと開き直っているみたいだった。心なしか、白髪混じりのちょび髭も嬉しそうに見える。
奥のテーブルがどけられ、黒のキーボードが置かれていた。その後ろにElectro-Voice社のスピーカーが二発、風神雷神さながら立っている。高さは約七百ミリ。スタンドを合わせると私の身長くらい。そんな巨大な物体が音質のため背後の壁から少し離れて設置されているので、店内では圧迫感があった。
「あのスピーカーもその人――三鷹直人さんの自前なんだ。俺の店は広いぜ! ってホラ吹いたらあんな大きなスピーカー持ってきちゃって。お互い申し訳ない気持ちになったよ。この歳になって、こんな単純なことを学ぶとは思わなかった。人生は楽しいね」
この空間には同窓会のような趣があった。いつも難しい顔で新聞を読んでいるお爺さんも、朗らかで若々しく見える。まさかミュージシャンの知り合いがいたなんて、想像したこともなかった。
どこかバツが悪い気がしてしまう。
「美希ちゃん、音楽やってたよね」
この場に私を繋ぎ止めるように、増田さんはピアノを弾く手真似をする。
「いい機会だから来てくれると嬉しいと思ってたよ。もうすぐ試験?」
「はい」
確かに、私は音楽をやっている。音楽と聞いて多くの人が連想するのは、きっと演奏じゃないかと思う。でも、私が没頭しているものは少し違う。DTMだ。
DTM。DeskTop Music。パソコンを使った音楽制作。
増田さんにそのことを打ち明けたのは一年前だった。「パソコンで音楽か〜。時代は進んだね」と感心していたけど、ほぼ同じ反応を同級生からも聞いたことがあった。年齢問わず、八ギガバイト程度のメモリさえあれば、ノートパソコンでも音楽制作を完結させられるということは、あまり知られていないのかもしれない。
喫茶店にはテスト勉強をしに来たのだけれど。
賑やかな環境音に包まれながら、私は諦めた。
「今日は、音楽の勉強をすることにします」
私は入り口すぐそばのソファ席に腰掛け、ダッフルコートを膝の上に置く。
ホットのミルクティーを注文し、改めて店内を見回してみた。
スピーカーは相変わらず存在感を放っている。席につくと他のテーブルの老人たちでキーボードが見えなかった。ステージすら設置されていないため、座って演奏する奏者の顔が見えるかも怪しい。
キーボードは何を使っているのかな。
気になってしまう。
Rolandの文字がかろうじて見えたけど、それだけで機種が分かるほど私はキーボードに詳しくなかった。DTMの補助として鍵盤を触るくらいだった。両手を同時に動かすことなんて生涯かけてもできる気がしない。
マイクは設置されていなかった。この狭い店内であれば、地声でもMCくらいはできそうだ。
ウェイトレスさんによってミルクティーが運ばれてくると、カウンターの増田さんがパンパンと手を叩いた。
「さあ、まもなく三鷹直人氏のミニコンサートが始まります。お手数をおかけしますが、窓際の皆様にお願いがございます。カーテンをお閉めいただけないでしょうか」
まさしく窓際にいた私はカーテンに手をかける。ここに通い始めてずいぶん経つけど、カーテンに触れたのは初めてだった。滑らかながらも暖かい生地。ほんのりとコーヒーの香りが漂った気がした。
時刻は夜七時。すっかりと暗い冬空。向かいのパチンコ屋と居酒屋の間に、くっきりと満月が浮かんでいた。脳内でラ♭とファの和音を鳴らしながらカーテンを閉める。刺繍のハルシャギクが開くと、ファとレ♭が窓の向こうに吸い込まれていった。
「ありがとうございます。では、盛大な拍手の準備をしながら、しばしお待ちくださいませ」
拍手が響く中、増田さんは美しいお辞儀を見せた。その後店外へ出て、ドアにかけていた看板をひっくり返した。内側からガラス越しに見えていた「CLOSE」が「OPEN」に変わる。
再び彼はカウンターへ戻り、その奥の扉を開けた。そこは厨房であり、二階の自宅へ続く道でもある。
「ねえねえ、お嬢さん」
隣のテーブルにいた婦人の声に振り向く。
たぶん歳は五十以上。小太りで、眼鏡越しの目が肉に押されて細くなっているような印象を受ける。見たことのない人だった。
「はい」
「三鷹直人さん、知ってる?」
「恐れながら、先ほど初めてお名前を耳にしました」
「紳士的なお方よ」
口元を押さえてはにかむ仕草には愛嬌があった。
「私の、初恋の人なの。直人くんとは中学生の頃の同級生で」
「へえ」
「お人柄も演奏も素敵だから、楽しみにしててね。うふふ、彼の伴奏で歌った音楽会を思い出しちゃうわ」
婦人の笑顔は、乙女のそれだった。今は別々の道にいるけれど、こうして演者と客の関係で改めて人生が交わる。それを心から喜ぶ、春色の汽車のような、可憐な恋。
「なつかしい痛みだわ」
彼女がそう言った途端、カウンター奥の扉がひょっこりと開いた。笑顔の増田さんが現れ、執事のような所作で大きく扉を開く。
そこにいた人物を見た観客は一瞬息を飲み、手を叩いて歓迎した。
ブラウンのスーツベストを着こなした老紳士。ウェーブのかかった白髪を真ん中で分けている。縁の大きな眼鏡と気恥ずかしそうな笑みは初恋の気持ちを打ち明ける青年のようでもあった。年齢はおそらく五十代。体は細いけど、ワイシャツの向こうはきっと貧弱じゃない。
彼を中心に添えた風景は、ここが古びた喫茶店だと忘れている。若々しい歓声や拍手の中でさえ、英国紳士のような空気感は打ち消されない。たったひとりの人物の存在により、この空間がお洒落なレトロカフェに変貌していた。
観客席に手を振りながら三鷹直人氏はステージへ向かう。ステージ上の電気以外が消された。暖色の電灯に照らされる姿からは、一般人には出せない何かが醸し出されている。
椅子に座り、ピアノに手をかけると、拍手が夜闇に吸い込まれた。
完全五度の跳躍から始まる、三つの音符。たったそれだけで、彼はこの空間で楽器を鳴らすのにふさわしい響かせ方を決めた。私には、そう見えた。
三拍子系のメロディーが続き、再び最初の三つの音符が姿を現した。響きは切なげだけど、メロディーは明るい。ジャズらしく形を崩しつつも、耳覚えのあるモチーフが繰り返される。一旦アルペジオ(和音を一音ずつ鳴らすこと)で曲が終わったと思うと、本来のモチーフで曲は再スタートした。
『My Favorite Things』――邦題は『私のお気に入り』。ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の劇中歌として広く知られている楽曲だ。
怖いときや悲しいときは、楽しいことを考えるのよ――。
雷を怖がる子どもたちを安心させるために、先生が歌う曲。
オーケストラを背景にしたミュージカル楽曲にも関わらず、ジャズの定番曲としても知られている。
三鷹直人氏のアレンジは自由なパッセージでのびのびとしていた。子どもたちを安心させる歌というよりは、紳士の挨拶。
お久しぶりです、親愛なる友よ。今宵は楽しい時間を――。
視線の一粒一粒を感じながら演奏する微笑みは、そう語っている。
豊かなピアノに誰もが魅せられていた。つい目を瞑ってしまう心地よさ。いけない、と目を開いたときに気づかされる。この部屋には本物のピアノなど無いのだと。
電子ピアノとは思えぬナチュラルなパッセージ。フォルテ(強く)で叩けば煌びやかな透明感。ピアノ(弱く)で弾けば豊かな温もり。
ピアノの正式名称は『クラヴィ・チェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ』。直訳すると『強い音も弱い音も出せるチェンバロ』。バロック時代によく使われていた鍵盤楽器チェンバロは音量が弱く、構造上強弱が表現できなかった。そんなチェンバロをベースに、ハンマーで弦を叩くという構造を取り入れたのが、クラヴィ・チェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ。通称『ピアノ』。
ひとつの曲の中でこれほどまでに強弱を使い分けられるのか、と感嘆せざるを得ない演奏だった。ピアノという楽器を初めて目の当たりにした人々の感動は、このようなものだったんじゃないか。しかも、私の目の前にあるのは本物のピアノですらない。
休符を交えながらスタッカート(一音一音短く切るように)気味に曲が進み始めてしばらく経つと、背中が背もたれから浮いていることに気づいた。他の観客たちの多くも前のめりになっている。
すると、突如響きが柔らかくなった。左手は白玉(二分音符などの長い音符)を中心に、右手のレガート(滑らかに)の旋律が美しく、ゆったりと舞う。自然と上がっていた肩が降り、背もたれに背中を預ける人が増えた。
おそらく三鷹直人氏は観客の反応を見ながら弾いている。いまのフレーズは、きっとアドリブ。
右手の旋律が少しずつ下がっていく。そしてついに左手と交わる。右手と左手の役割が入れ替わり、旋律はさらに下がっていく。
ドラマチックな展開の後、メインモチーフが低音で鳴らされた。あまり形を崩さず、ストレートに。長い展開部を超えての主題再起に、腕の細胞が震えた。
いくら素人が曲に取り込もうと思っても上手くできない流れは、まるで触れない水のように正体が判らない。理論を極めた者のみぞ再現を許される非理論の領域。
そのような圧倒的手腕を、『私のお気に入り』というキャッチーで軽やかなサウンドに落とし込んでいる。そこに超絶技巧テクニックなど使われていない。
かすかなベロシティ(強弱)、デュレーション(長さ)、ロケーション(位置)。そして展開の魅せ方。
音楽の基礎的要素のみで、この震えを生み出している。その震えは、期待感を持続させるadd9コードが余韻まで消えてもなお止まらなかった。
歓声の中、私の心は揺さぶられていた。高校二年生の冬にもなり、具体的な目標もなく勉強を続けていた私への強打。
いや、目標はあった。夢物語から目を逸らしていただけだ。
三鷹直人氏の演奏は、奥底に隠していた私の思いを引き出した。
『My Favorite Things』――私の好きなものに、私はなりたい!
作曲家になりたい!
この人に演奏されるような曲を書きたい!
それが私と師匠の出会い。