1.踏まれた薔薇
「こんなものいらないわ!」
食堂の一角で、二十代半ばの女性が甲高い声をあげて、花束を床に叩きつけた。
彼女の前にいた男は一瞬呆然としていたが、我に戻ると体を震わせ、顔を赤くしていった。そして机を叩いて立ち上がる。
「いい加減にしろ! 俺が何をしたって言うんだ!?」
「まさか気づいていないと思っているの? 前々から知っていたわ! 今朝も別の女と宿屋から出てきたわよね!?」
女が睨み上げると、男の表情が固まった。彼女は淡々と続ける。
「これが一回だけなら目をつぶったわ。でも貴方は毎週のようにその女と会っていた。私との約束をすっぽかして、そっちに行った日もあったわね? ……父の友人の息子さんということで黙っていたけど、もう……もう、我慢できない!」
女性はバッグを持って立ち上がり、吐き捨てるようにして言い放った。
「別れましょう。もう私の前には現れないで。――さようなら」
そして男を見ることなく、店から去っていった。
店のドアが閉まるなり、男は慌ててカバンを手にとり、机の上に適当な枚数の紙幣を置く。そして床に散らばった花束を踏みつけて、彼女の後を追った。
食堂にいた他の客たちは呆気にとられて一部始終を見ていた。亜麻色の髪を頭の半ばで結った少女、ヒールもそのうちの一人だった。
誰かが酒の追加を頼んだのを皮切りに、食堂内はもとの喧噪に戻っていく。ヒールは手元にあったグラスを空にすると、無残な姿で散らばった花束に近寄った。
美しい赤色の薔薇と可愛らしく小ぶりな白色のカスミソウ――。それらの茎や葉は折れ、花は散り散りになっていた。ヒールはしゃがみ込み、花束を包んでいた紙にそれらを集め始めた。
「この花、ヒールさんのところで包んだ花?」
皿を片づけている店員の男性が話しかけてきた。ヒールは苦笑しながら頷く。
「はい、そうですよ。夕方に男性の方が薔薇の花束を作ってくれと依頼してきたんです。血相を変えて店に飛び込んできたので、印象に残っていました」
ヒールはこの町にある花屋で働いている。昔から花には親しみがあり、少しでも花に接する機会が多い仕事に就きたいと思った結果の働き場所だった。
すべて集め終えると、紙を包んで立ち上がった。そして男性に向かって口を開く。
「こちらは回収していきますね。使えそうな花は部屋にでも飾りたいと思います」
ヒールは支払いを済ませて、食堂を出た。
暗がりの空を見上げて一息吐く。花に込める力が強くなる。
綺麗に花束を作ったが、このような結末を迎えてしまった。花は何も悪くないのに、人の勝手な都合で――。
唇を軽く噛みつつ、歩き出す。人気のない路地を見つけると、軽く周囲を確認した後に、そこに入り込んだ。
薄暗い中を黙々と進んでいく。路地の半ばあたりで立ち止まり、包み紙を広げた。目を閉じて、そっと触れる。冷えきっていた花が微かに熱を帯びてくる。熱は指先を通じて手のひら全体に広がった。
――花よ、一つとなれ。
心の中で念じると、光り出した。目を開ければ、花たちは光りながら浮き上がっている。バラバラになっていた茎や花びら、葉などが動き、本来繋がっていた位置に移動する。するとさらに強い光を放った。
やがてまばゆい光がやむと、無惨な姿だった花は、一輪の美しい花に戻っていた。ヒールはそれらを見ると、微笑みながら再び紙に包んだ。
その時、何かが倒れる音がした。緩んでいた唇を引き締めて、音のした方に体を向ける。
黒色の短髪の男が、倒れたごみ箱を立たせていた。ヒールは彼と視線が合うと、さらに眉をひそめた。
「誰ですか?」
男は慌てた様子を見せず、ふっと笑みを浮かべて、歩み寄ってきた。
「さっきの食堂で隣の席にいた人間だ。気づかなかったか?」
ヒールは花束を背中の後ろに回して、少し下がった。
「気づきませんでした。何かご用ですか」
警戒心をむき出しにして言葉を発すると、男は三歩ほど離れて立ち止まった。彼は花束に視線を向ける。
「いま、バラバラだった花を元に戻したよな?」
何も答えずに、彼の様子をじっと伺った。歳はヒールより少し上の二十歳くらいだろうか、動きやすそうな服を着ている。瞳の色は光の加減でよく見えないが、暗い中でもぼんやり見えることから明るい色のようだ。おそらくこの町の者ではない。
男を睨み付けていると、彼は両手を軽く上げた。
「怖い顔をするなよ。別に今見たことを言いふらしたりしないさ」
「その言葉を信じてもいい根拠は?」
男は上着のポケットに手を突っ込む。そこから取り出したものを、ヒールに向かって投げ上げた。思わずそれを両手で受けとる。受け取ったのは真っ赤な丸い林檎だった。
「それやるよ。うまいから食べてみろ」
「はい?」
困惑した表情で、男を見返す。彼はニンマリとした。
次の瞬間、林檎は小さな音をたてて破裂した。ヒールはとっさに目をつぶる。破裂が治まり、うっすら目を開けると、手のひらには林檎の種だけが残っていた。目を大きく見開いて、男を見返す。
「貴方、何が目的?」
「目的ねぇ。同士と会えて嬉しかったとか?」
飄々と言う男を探っていると、どこからか女性の悲鳴が聞こえてきた。二人は裏路地のさらに先にある、鬱蒼とした通りに体を向けた。
「だ、誰かーー!」
男性が助けを求める声も聞こえてくる。ヒールが躊躇していると、男が一瞥してきた。それから彼は何も言わずに、通りに向かって走り出した。
立ち尽くしていたヒールは、ぎゅっと手を握りしめる。怖いという思いはあるが、悲鳴をあげた女性はもっと恐ろしい状態に陥っているのではないだろうか。同性が行けば多少なりとも役に立つかもしれない。
怖さを抱きながらも、ヒールも走り出した。
路地を抜けると、一組の男女が道の端で倒れていた。怯えていたのか、体を丸めている。
ヒールは二人の前に視線を向けると、そこにいた黒い影を見て、息を飲んだ。
茎や蔓、葉、そして咲いた花など、植物で作られた人の形をしたものが立っていた。それはヒールの存在に気づくと、顔と思われる部分をこちらに向けてきた。ただし口や目、鼻などはない。
「――植物も動物と同様に生きている。それが意志を持ち、地に足をつけて動き出したのが、植物人と呼ばれるものさ」
先ほどの男が説明をしてくれる。彼は両手をズボンのポケットに突っ込んで、自分より顔一つ分背の高い植物人を見上げていた。
「こいつらは、さっき花束を乱雑に取り扱った。通りかかった植物人がそれに気づき、どんな奴らかと確認するために、現れただけだろう」
男は鼻で軽く笑う。ヒールは彼の様子を見て、眉をひそめた。
「この人たちは大丈夫なの? 怪我はしていないの?」
横たわっている男女、そして笑っている男と植物人を順番に見た。植物人はヒールに顔を向けたまま、ぴくりとも動かない。その様子が不気味で、心臓の鼓動が速くなる。
男は軽く肩をすくめた。
「ただ単に気を失っているだけさ。怖いものでも見たと思っているんだろう。まったくさ、馬鹿だよな、自業自得だっていうのに」
男の視線がヒールの手元に向けられる。
「お前は花を再生することができるんだな」
その声音は疑問符を帯びたものではなく、確信をもって出された言葉だった。
ヒールは視線を下げて、息を吐き出した。
「……だったら、どうなのよ。町の人に言いふらすつもり?」
苦い思い出がよみがえる。
小さい頃、踏みつぶされた草花を踏まれる前の状態に戻したことがあった。ヒールとしては何気ない行動であり、たまにこっそりとしていたことだった。
しかし、ある日、たまたま近所に住んでいる少年に、戻した瞬間を見られてしまった。少年はその時のことを、おもしろおかしく言いふらし、それを聞いた人たちは、ヒールのことを得体の知れない人間のように見るようになった。
見かねたヒールの両親は苦渋の決断をし、彼女を連れてその町から去っていった――。
この町に来てからは、力を使うときはけっして人に見られないように注意していた。
ただ、時々力を使わないと体調を崩してしまうため、力の発散も兼ねて、花屋で誰もいないときに、花たちがよりよく成長するよう願いながら、再生と成長の力を使っていたのだ。
今回、花を哀れに思い、たいして隠れもせず力を使ってしまったのは、完全にヒールの失態だった。この男の口から力の存在が広まり、また町を出て行く羽目になるのだろうか。
男は視線をそらし、植物人に手を触れた。すると見る見るうちにそれはバラバラになり、葉や花は地面に落ちてしまった。
ヒールはその光景を思わず二度見した。
「植物たちが怒るのもわかるが、植物人をただの人間が見たら、大騒ぎになっちまう。だから……ごめんな」
その時、突風が吹いた。ヒールは花束が風で飛ばされないよう、必死に抱える。ほどなくして風はおさまり、地面に落ちていた植物人を形作っていたものは、すべて風に乗って消えていた。
「――俺は植物を破壊する力を持っている」
ヒールは目を丸くする。男は憂いの表情を浮かべていた。
「植物は好きなんだけどな、皮肉なものさ。――お前を追いかけたのは、ただの興味。言いふらしはしない。ただ、再生の力を持っている人間がどういう行動をとっているのか、気になっただけさ」
男はヒールに近づき、右手を差し出してくる。
「俺はハインツ。最近この町に辿り着いた、旅人さ。変わった力を持っている者同士、仲良くしないか? お前、その様子だと植物人の存在も知らないんだろう? なら、お前が知らない植物を巡る力についても、俺が知っている範囲で話してやってもいいぞ」
知らない力の言及に、ヒールの心は傾いた。
自分が普段使っている、植物の生長を促進したり、花を再生する力などについては、詳細なことはまったく知らない。何かのきかっけで力を得てからは、力をどうにか理解しよう歳、付き合っているだけだった。独学で調べた時期もあったが、この町にある蔵書だけでは有益な情報は得られなかった。
この男から話を聞いてわかるのなら、聞いてみたい。仮にたいした成果はなくとも、男が余計なことを話さないよう、監視することもできる。
疑いの眼を向けながらも、ヒールはハインツの手を握り返した。