特殊夜間課 出動
第1話 スッチィー
赤い月。風の無い夜。
都23区外南部。
「おっすーし、おっすーしっ」
子供の声が響く。と同時に、男と女の、ヒュー、それーという合いの手が続く。
緩やかな坂を3人が登ってゆく。何のことはない。両脇から手を片方づつ持たれて、昔見た捕われの宇宙人の様に、男女の間に挟まって男の子が歩いている。
おっすーし、おっすーしっ、の掛け声に続く様に、両親はヒューとかそれーと言いながら、男の子の手を持ち上げる。空中に男の子の身体は浮き、3人が笑顔になる。
その坂は、街灯が規則正しく並び、夜を感じさせない程に明るい。
「太一、今夜は何食べたい」
父親らしき男が尋ねた。まだ小学生低学年という感じの男の子が、元気よく答えた。
「おすしーっ!」
「そうだよなぁ、やっぱ寿司だよな〜。ママは?」
「私もおすしーっ」
母親らしき女も、子を見習い大声で叫んだ。
「ネタは何がいい?」
亭主が妻に尋ねた。
「そうねえ、あ、この前食べた、本マグロのトロが食べたいわー。アレホントにとろけるほど美味しかったから。スーパーで買ったけど、アレが俗に言う大間のマグロじゃなかったのかしら」
子供がうつむき加減でボソッと言った。
「アレは近年販売されている養殖マグロだね、大間の奴はそんなお安くはないし、ブランドだから、簡単にその辺のスーパーには出回らないよ」
「えっ、何か言った太一?」
「ううん、何も。ねぇ、それより早く持ち上げてよ」
「あ、う、うん、それじゃ」
亭主に目配せして、それーっ、と子供が
宙に舞う。あはははっ、と笑う子供。
「パパは何食べたい?」
父親は少し考えて、
「うーん、そうだなぁ、あ!あのヒラメのエンガワが美味かったなあ。やっぱ、国産のヒラメは、歯応えもよかったし、脂の乗りも最高だったからなあ」
子供がうつむき加減で、ボソッと言った。
「あれは、カラスガレイのエンガワだね。アメリカ産の。そもそも、百円均一の回転寿司にそこまで高級品を求めるのはどうかな?まぁ僕は大洗の寒平目が一番だと思ってるけど」
「何だって?」
「何も。あー早く食べたいなぁ」
「そうだよなぁ、早く行こう」
3人は、歩みを早め、やがて坂の上に辿り着いた。
「ここを下れば、あの!あの!あの!…」
父親が、勿体ぶった後に芝居がかって、
「このチンピラ、とうとう光もの出しやがったな!もうただじゃすまねえぞぅ」
声色変えて、
「おう上等だ。イワシもアジもマグロも皆百円だぜ」
一拍置いて、
「…でお馴染みのつちのこ寿司でーす」
やったー、と子供の歓声。
その時、彼らの耳には届かなかったが、背後でバイクが止まった。
丘の上から、一方は、美しい街の夜景がみえた。
「まあ、綺麗」
母親が独身時代のロマンスを回顧するかの様に、少しうっとりとした表情でそれを眺めた。
「そして、こっちは…」
もう一方は、坂の下にビルが建っているだけである。
そのビルの上方には、旭日章が付いている。
「ああ、こっちは警察署だなぁ」
絶景の一方と打って変わって、地味な雰囲気を漂わせている。気を取り直すように、父親が言った。
「太一、あの建物は警察署なんだ。最後の3文字はけいさつしょって読むんだけど、始めの2文字は何て読むか分かるかい?」
建物には、旭日章の下に[門星警察署]と書かれている。
「も、もん?それからー星かなぁ?あ、分かった!もんぼし、もんぼし警察署だね!」
子供が嬉しそうに声をあげた。父親は、少し辛そうな顔で、
「うーん、残念。字の読み方は間違いではないんだけど、あれで[かどぼし]って読むんだよ」
「ふーん、そうなんだ」
子供は納得した様に頷いた。母親は真顔で、
「あら、私はあれで[ものほし]って読むんだと思ってたわ」
「おいおい、ママそんな洗濯物みたいなこと言うなよ」
ハハハと、父親と子供が笑った。
「天然出ちゃった。てへ。」
そう言って、母親は自分の頭を小突いて舌をペロリと出した。
「わー、てへぺろだー、ママがてへぺろしたー!」
父親が、楽しそうに母親を指差して言った。子供が、うつむきながら、呟いた。
「四十女のてへぺろは、どうかなぁ」
二人同時に、
「何か言った、太一?」
「ううん、別に」
母親が、
「でも、うちの近くのつちのこ寿司が潰れたから、こっちに来たけど、この街って、近い割には来たことなかったわね」
「まあ、仕方ないさ。ここはカジノ特区だからね。余り家族で訪れる事は無いからな」
父の言葉に子供が、
「カジノとっく?」
「ああ、まあ、ギャンブル出来る所だよ、それ以外にも、大人の遊びが色々、24時間一年中。ぐひ、ひひひ」
「パパーっ(怒)」
母親が大きな声で叫んだ。我にかえった父親が、
「と、とにかく、太一が大人になったら来るかもな」
「パパっ」
母親が少し睨んで言った。
「ま、まあ、とにかく今は、寿司だ、寿司」
「そうね、確かに人はこの街をかどぼしと呼ぶわね」
3人が再び歩き出そうとした時、背後から声がした。
それは、先程止まったバイクの主のものだった。
歳は二十代半ばといったところか。その主は、黒いレザージャケットに、レザーパンツ、そしてレザーブーツという出で立ち。セミロングの髪に、僅かにウェーブがかかっている。細く長い脚に、小さな臀部。その小ささを補うかの様な、巨大な胸部。その巨大さ故に、ジャケットが弾けんばかりに膨らんでいた。
実際、その女のジャケットは、ファスナーが締まらないのか、胸の下で溜まっている。ジャケットの下には黒のTシャツが着られているが、その胸の谷間には、深い溝が出来ている。
「ここは眠らない街。そうギャンブル、酒、女、無論男もここでは商品になる。娯楽を極めた街。それも一年、365日、不眠不休の所謂不夜城。当たり前だけど、犯罪率もズバ抜けて高い。ある者は罪の街と呼び、ある者は悪の街と呼び、そしてある者は魑魅魍魎の街と呼ぶ。そのせいなのか、どうなのか。誰が付けたかこの街を、門星ならぬ、モンスター」
女はそう言いながら、警察署を見つめている。その涼しげな瞳は美しく、その肢体に相応しい輝きを放っていた。
父と母は、呆気に取られていた。が、太一の中では何かが壊れたのか、ツカツカと女の正面へと歩を進め、大きな声で言った。
「このお姉さん、オッパイデカ過ぎ!」
女は、太一を覗き込む様に、姿勢を低くした。太一の前に、その胸部が最大限に近づいた。
「何だい、坊や。随分とおませな口を叩くじゃないか」
太一は、完全に壊れた。
「パパーっ、ママーっ、このお姉さん、胸にお尻が付いてるーっ!」
「生意気なガキだね、石にしてやろうか」
女は、その美しい顔を太一に近づけた。吸い込まれる様なその美貌に、太一はまさに硬直し石の様になった。
ヒェーッと、両親は太一の腕を掴み、引き摺る様にその場から駆け出した。太一が女から離れながら、アデューとウインクしながら言った。
女は、ふっ、と微笑んで、坂を駆け下りながら、警察署へと向かって行った。
紺のスーツ、四角いレンズの黒縁メガネに、七三分け。ホームベースの様な五角形の顔は蒼白く、細い身体。健康とは真逆に見える。歳は三十代後半。千野虎蔵である。
虎蔵は、未だに悩んでいた。執事の桜井が声を掛けた。
「旦那様、お急ぎになりませんと、もうお時間が」
「ああ分かってる。やっぱり今日もこいつで行くか」
「それがよろしゅうございますね」
「燃費も良いし、小回りも効くしな」
「左様でございますとも」
地下の駐車場には、所狭しと高級外車が並んでいる。展示会の様なそのおびただしい高級車の中から、虎蔵は、フェフーリとランボルニーギの間に停めてある、軽トラに乗り込み、エンジンを掛けた。車は勢いよく地下の駐車場から飛び出した。桜井が優しい笑顔でそれを見送った。駐車場を出ると、虎蔵の家の全景が見えてくる。家の前には噴水があり、花を咲かせる様に水を迸らせている。家はレンガ造りで歴史を感じさせ、その色の深みが、一層味わいを演出している。。完全な左右対称で4階建。ベッドルーム12それに加えて、巨大なダイニング、ホームシアター、用途の判らない部屋が幾つもある。建物の中央部には、チャペルの様な鐘がある。いつ鳴らすのかは定かではない。最早、家ではなく、屋敷、いやホテル否、城と言った方が正確であろう。整備された庭を回る様に走ると、やがて直線となり、其の先の正門へと誘われる。測ったかの様に、軽トラがそこへ辿り着くと、自動で門が開放された。
門星署に若い男が、息も絶え絶えに、駆け込んで来た。
「す、すいません、あ、あのぅ、と、特殊夜間課はどちらでしょうか?」
丁度、入口を出ようとしていた男達2人に、若いのが尋ねた。
「何の用だい?」
男達は怪訝そうに、若いのを見ながら言った。
「き、今日、い、いえ、今夜からこちらでお世話になります、大神です。いや、あの、道がわからなくなっちゃって、遅れそうになって。す、すいません。こ、こんなに息切らして」
「へー、お前さん新人か」
ゴツい見た目の男が言った。
「ち、ちょっと待て。お前、名前何てった」
細くて目付きの悪い男が尋ねた。
「あ、大神です。大神だん。だんは男って書きます」
一拍あって、2人の男はあひゃひゃと笑い出した。
目付きの悪いのが、大神の肩を思い切り叩いて、
「最高だよー、お前。まさに怪物課にうってつけだ」
「怪物課、オオカミ男、完璧」
ゴツいのが復唱した。
「まあ、オオカミ男ってのは、学生時代から言われてますから慣れっこですけど…」
大神は早くその場から離れたかった。冗談に付き合っている隙は無い。遅れそうなのだ。
「あのーそれで、特殊夜間課は…」
「おお、ここ真っ直ぐ行って、地下に降りろ。そこだ」
「そこが特殊夜間課なんですね」
「おう、そこが怪物課だ」
「ありがとうございます」
怪物課とは何か聞く余裕がある筈も無く、大神は言われた方へ走って向かった。再び男達2人の大笑いが背後で聞こえた。
地下に降りると、突然通路は薄暗くなり、その両側は倉庫なのか、明かりもなくひっそりとしていた。奥の突き当たりの部屋だけが、僅かな明かりを溢している。大神は、そこに向かって走っていった。そこに特殊夜間課の札が掛けられていた。
焦りからか、扉を少し乱暴に開け、中に飛び込む。
「本日より、こちらに配属になりました。大神です」
部屋には幾つもデスクがあったが、座っているのは1人だけだった。その1人は、腕を組み、静かに目を閉じて物思いにふけっている様子だ。
目を閉じているのは、セミロングの髪に、レザージャケットを着ている巨乳。美人である。
「あのー…」
大神がその女に声をかけた時、背後からいい香りがした。花や香水の匂いでは無く、所謂美味そうな臭いだ。ふと、振り返ると、それは部屋の端から漂ってきているのが分かった。デスクが並ぶその奥には、独立したデスクが一つ。本来、其の先には、ガラス窓があるところなのだろうが、地下なので白い壁だ。大方、そこが課長席というのは察しがつく。そこを真中として、部屋の一方の端にはホワイトボードがある。これは捜査等の為の仕事用だろう。ただ、そのもう一方の端が何故かキッチンになっている。目を疑い、確認したがやはりキッチンだった。どういう事か訳がわからず、絶句する大神をよそに、そのキッチンで調理をしていた小柄な男が振り向いて言った。優しい丸い目をしている。エプロンは花柄だった。
「もうちょっと待っててね。今すぐ出来るから」
「はい?」
大神は、その場に立ったまま、状況を理解しようとした。
「あのぅ、ここ特殊夜間課で宜しいでしょうか?」
「いいんだよ。君、大神君でしょ。話は課長から聞いてる」
自分が正しい場所にいるのは間違いなさそうだが、ではこれはどういうことか。やはり理解し難い。
小男の額にはギザギザの波打った傷があった。話し方や見た目とは違い、様々な修羅場をくぐってきたのだろうか。
「とにかく、その辺に座っててよ。もうすぐみんな来るから」
小男は、菜箸でデスクの椅子を適当に指して言った。
「はぁ」
大神は、瞑想している女の向かいに座った。目を開けたら、何か言ってくれるかも知れない。そう考えたのだが、その前に、扉が開いて誰かが入って来た。三十前後の、サラサラのロングヘアーに、ロングスカート。小顔でパッチリした目元。向かいの美女とは異なるが、清楚な感じのするやはり美人だった。
「あーん、いい匂い。ケンちゃん今夜も期待しちゃうわ」
入ってくるなり、その美人は小男に向かって言った。
へへへ、とその小男は微笑みながら、料理と格闘している。
大神は立ち上がり、
「この度、こちらに…」
言いかけたが、その美人が制した。
「はい、大神君でしょ。私、綾小路薫です。宜しく」
「あ、あやのこうじ、か、かおるさんですか。素敵な名前ですね」
「うふ、ありがと」
そう言って、薫は大神にウインクした。
薫が席につくと、大神に自分の横に座るよう促した。言われるがままに、席に着いた大神に、薫が言った。
「ここには、今貴方を含めて7人が配属されてるの。私、貴方、そしてあの瞑想してるのが、久米優紗ちゃん」
「く、くめ、ゆうざさん」
「そ。皆はメデューサって呼んでる。彼女は、それでいいみたいだけど、あたしは可愛く無い気がして不二子ちゃんて呼んでる。解る、意味?」
大神は、振り返って、瞑想する優紗の容姿をじっと見た。
「解ります。あの大泥棒の愛人みたいな…」
「そう、そう、雰囲気あるでしょ」
薫は微笑んだ。
「それから、あの料理してるのが、府良健ちゃん」
「ふらけんさん」
「うん、皆んな健とか、健ちゃんて呼んでる」
「あのぅ、府良さんのあの額の傷って、何かの犯人と格闘して出来たヤツですか?」
「あれは、確か。あれ何だったかな。ロボットに噛まれたんだっけな。忘れちゃった」
「ロ、ロボット?か、噛まれたって?」
驚いて、どういう事なのか問いただそうとした時、扉が再び開いて、男達がゾロゾロと入って来た。
1人はメガネに七三分け、蒼白い顔色をした細身の男。1人はそれより小柄で、青いポロシャツに、ジーパン姿。右腕に三角巾を着けている。そしてもう1人は大柄で迷彩服を着たオカッパ頭のテッペンハゲ。皆、三十半ばから四十前後といったところ。
「皆んな揃ったみたいよ」
薫がメガネの方へ歩み寄り、時折、大神の方を振り返っては、何かを話している。
「おい、大神」
メガネが大神を呼んだ。
「お前、嫌いな物あるか?」
「き、嫌いな物?」
「あったら健に言っとけよ」
「は、はぁ」
「何、気のない返事してんだよ。食べられない物作ったら無駄になるだろ。食材の無駄だし、何より、農家の方々や漁師さんに申し訳ないからな」
「はぁ」
「できたよ〜」
府良健の声が、部屋に響いた。
よしよしと、皆がキッチンへと向かっていく。
「今日は、ツナサラダのココアパウダーがけにビーフシチュー、それとラタトゥイユでーす。バゲットはスライスしてから、少しトーストして、付けて食べると一層美味しいよ」
皆んなが四角いプレートに料理を盛り、席に着いて食べ始めた。大神もプレートを持って、薫の横に座った。
「あーん、やっぱり健ちゃんの料理は最高だわ。ここまでの味は、私には無理。うふ、美味しい」
「あのー、未だ、僕、挨拶が…」
「まあ、食べてからでいいんじゃない」
課長席と思しき正面奥の席に、迷彩服が座って食事をし始めた。
意を決して、大神はその席に駆け寄り、
「課長、この度、こちらに配属と…」
「俺課長じゃないよ」
迷彩服は、そう言ってメガネを見た。
「虎さーん、何か用事あるみたいよー」
メガネが食事にガッつきながら言った。
「後だ、後。、今は食べる事に集中しろ!」
ね、と、薫が大神に微笑みかけた。
食事が終わると、次々に、キッチンシンクに食器が放り込まれ、大神もそれにならう様に続いた。健が早速と言わんばかりに洗い物を始めた。
薫が、
「美味しかった?大神君」
「え、ええ。最高でした。てゆうか、それよりあの、挨拶が…」
メガネが課長席から何かを取り出した。長さ二十センチ程の長方形のネームプレートである。
そこには、課長 千野 虎蔵 と、書かれている。
「ジャーン、どうも課長です」
そう言ってメガネの方から大神に歩み寄って来た。
大神は直立し、
「この度、こちらに配属となりました…」
「これ何て読むでしょうか?」
「はあ、せ、せんの課長でらっしゃいますか」
「ちっがーう。これでちのと読みます」
「失礼いたしました。千野課長!」
「では、この下の名前は?」
「と、とらぞうさんですか」
「はい、駄目ー」
「し、失礼しました。どの様にお呼びすればいいのでしょうか」
「お前は、名前を呼ぶセンスが無い。これでとらぞうと読む奴はごまんといるだろ。それ駄目ー失格ー」
「ですからどうすれば…」
「健なんて、これを魚無しシャチぞうと呼んだ。何度も言い直しした訳じゃない。一発目でだぞ。それより凄いのがマミーだ。これを一発でネコキチと読んだ。俺は、感動したね」
「こ、これでねこきちと読むんですか」
「ンな訳ねーだろ」
「は、おっしゃっている意味が解りませんが…」
「はいダメー、センスよセンス」
「では、何とお呼びすれば…」
「明日までの宿題とします。センスのある答えを待ってるよ」
そう言って、メガネは大神の肩を叩いた。
「ちょっと、虎ちゃん。駄目よ、新人君虐めちゃ。ただでさえ定着率低いんだからうちの課」
「薫、お前も真面目が過ぎて、たまにつまらん事言うよなー」
「新人君には優しくしてあげなさい」
ちぇっ、と小さくメガネは舌打ちをした。
「この課の課長の千野虎蔵と書いて、ちのとらくらさん」
薫がメガネに手を向けた。
「とらくらさんとお読みするんですか。結構、そのまんまですね」
「あーつまんね。言っとくが、お前が、とらくらと当てても大正解じゃねーからな」
虎蔵が少しふてくされた。
「そして、さっき教えた、不二子ちゃん」
「久米優紗さんですね」
「そう、そして最高のシェフの健ちゃん」
「府良健さんですね」
「そう、そして、このひとが間宮雷太さん。皆んなマミーって呼んでるわ」
薫が三角巾を指した。
「まみやらいたさん。どうも、大神です。その腕は、もしかして犯人と格闘の末の勲章ですか?」
「ああ、これ。これね、うちでレーシングゲームしてたら凄いハイスコアが出たの。それでよっしゃって、腕振り下ろしたら、テーブルにぶつけちゃって。折っちゃった。あるあるだよね。テレビゲームあるある」
首を傾げている大神をよそに、虎蔵は、大きく頷いている。
「感動もんだよな。非現実の世界が現実世界に影響及ぼすんだからな」
「そして、この人が佐賀錠さん。皆んなは、六ちゃんとかロクって呼んでるわ」
薫が、迷彩テッペンハゲを指した。
「ども、佐賀です」
「どうも大神です。さがじょうさんですね。宜しくお願いします」
虎蔵が言った。
「こいつガタイでかいだろ。だから何でも破壊しちゃうの。チョー破壊するんだよ」
「はぁ」
「だからさ、こいつガタイでかいから、チョー破壊しちゃうんだよ」
何かを求める様に、虎蔵が大神を見詰めながら繰り返す。
大神は、少し考えて、ハッと閃いた顔になった。
人差し指を挙げて、
「沙悟浄なのに猪八戒」
してやったりという大神に、虎蔵が絶望の眼差しで、
「そこは、一緒に天竺目指しましょう。だろ」
呆れ顔で、煙草吸ってくる、と虎蔵は部屋を出た。
大神は、崩れ落ちる様に座り、薫に言った。
「僕、課長のさじ加減が分かりません」
薫はそっと大神の足に手を置き、
「大丈夫、貴方は出来る人」.
よく判らない慰めだったが、大神はその優しそうな微笑みに安堵の表情を浮かべた。
食事が終わると、薫以外のメンバーは、何をするでもなく、椅子に座っていた。メデューサは再び瞑想に入り、健は、明日の献立を楽しそうに考えている。マミーは宙を見つめてじっとしている。テッペンハゲは室内を時折見渡しては、頭を抱えている。
「あのー、仕事は…」
大神が、パソコンに向かっている薫に尋ねた。
「もうすぐ行くんじゃないかな」
「い、行くっ何処へ?」
「今夜の仕事場に決まってるでしょ」
「それって、何処ですか?」
「うーん、門星グランドホテルだったかな」
「そこ何かの事件現場ですか?」
大神が、少し興奮し始めた。
「事件って言うか、何て言うか…」
「そっかー、いよいよ初捜査だなぁ」
嬉しそうに大神が言った。ふと、薫を見て、
「綾小路さんは何をしてるんです?」
薫は、パソコンに向かったままで、
「薫でいいわよ、これから長い付き合いになるんだし」
「あ、そ、それじゃ、薫さん、薫さんは一体何を…」
「会計課に、渡す書類を入力してるの」
「へー、あ、接待費とか、書いてある。警察の接待費ってどんなものなんですか?」
「さっき、ご飯食べたでしょ」
「はい」
「あれよ」
「はぁっ?食事代が接待費ですか?」
「それはそうでしょ、私達に対しての接待じゃない」
「で、でも、あれは健さんが…」
「健ちゃんは仕事として料理を作ったんでしょ。それを私達に振る舞ったんだから接待でしょ」
「で、でも、それは僕達に対しての…」
「だから、私達の接待費でしょ」
「はぁ、そ、それでいいんですか?」
「まあ、静かにしてて、これは私の仕事だから」
「は、はイィ…」
薫の美貌に押されて、大神は押し黙った。薫はキーボードを叩き続けている。大神は、する事もなく、腿を小刻みに手で叩きながら、
「課長、遅いですね。凄いヘビースモーカーなんですか?」
「あ、虎ちゃん?、まあ、吸ってるには吸ってるんだけど…」
「今時大変でしょ、吸う所無くて」
「まあね、でも虎ちゃんは、煙り出ないから」
「ああ、電子タバコですか、あれも結構規制キツくなってきてるでしょ」
「うーん、そうじゃなくて、あ、百聞は一見にしかず、部屋出てみれば。虎ちゃんいる筈だから」
「地下に喫煙室あるんですか?」
薫は首を振った。
「廊下にいるわ。まあ、行ってみて」
薫に促され、部屋を出ると、そこに虎蔵が立っていた。口に煙草をくわえている。
「駄目じゃないですか、課長。廊下で煙草なんて」
止めに入った大神に、虎蔵が言った。
「俺は煙草を吸っているんだ。煙りを吸ってるんじゃない。てか煙草の煙りは吸えん」
「何、訳の分からない事言ってるんですか。警察なんですから社会のルールは守りま…」
大神が煙草の先を見ると、確かに火は付いていない。虎蔵はその火の付いていない煙草のフィルター部分を旨そうに吸っている。
「何してるんですか?」
「俺はこの火の付いていない煙草のフィルターを吸うのが好きなんだ」
「はぇっ。じゃ、じゃあわざわざ廊下じゃなくて、部屋で吸えばいいじゃないですか」
「お前が今言ったろ。ルールを守れって。だからここでいいんだ。」
「で、でも、火を使わなくて煙も出ないなら…」
「いいか、大神。煙草は嫌われものなんだ。税金一杯取られてんのに、皆んなに嫌われてるんだ。だから日陰で静かに暮らさなきゃならん。だからここでいいのさ」
ふっ、と虎蔵が静かに鼻で笑った。
もう、よく分からないのは仕方ない。放っておくか。
「分かりました」
そう言って、大神は、部屋に戻ろうとした。
「俺も吸い終わったから行くわ」
と、虎蔵は携帯の吸殻入れに丸のままの吸殻?を入れた。吸殻入れには、全てが収まりきらず、何本もの煙草のフィルター部分が飛び出していた。
部屋に戻ると、虎蔵が言った。
「よし、今日の仕事だ」
気合いの入った口調だった。
大神も、いよいよかと固唾を飲んだ。
「今日の仕事は、門星グランドホテル&カジノで行う。既に、仕込みは健が済ませてあるので、後はさしてかからない。マミーとロクはここに残って、緊急時の連絡に備えろ。メデューサと健と俺、そして大神が現場に向かう」
「課長!」
メデューサが、目を開き強い口調で言った。
「私の服のサイズ、キチンと伝えてある?」
「ああ、特注で先方があつらえてくれたそうだ。他の従業員じゃ着られんそうだから、終わったら持って帰っていいそうだ」
「そう。まあ、使い道無さそうだけどね」
冷めた目でメデューサが言った。
「よし、では、俺の車で出勤だ」
軽トラの荷台に、メデューサと健が乗り、大神が助手席に乗った。荷台に人を乗せて良いのかと、大神が尋ねたが、インドなら常識、メキシコなら当然だと虎蔵に一蹴された。
車の中で大神が
「あの、どんな事件なんですか?殺人、強盗、それとも…」
「健を乗せてるんだ。判らんか」
「すいません、初日なもので」
「立食パーティーのケータリングだ」
「すいません、ど、どういうことですか?」
「どういう事って、そのまんまだ」
「ケータリングってあの食事のサービスの」
「そうだ。それ以外何がある」
「僕達は警察ですよね」
「まあ、ヤシガニではないな」
「その僕らが…」
「まあ、沖縄ならあり得るか」
「何故、出前サービスをホテルに…」
「あ、沖縄と言えば、やっぱ足てびちか。足てびちって足かよ、手かよ。はっきりしねーな。それでびちって、すげーセンス」
「聞いてます?僕の話」
「うっるせーなー、何だよ全く」
不機嫌そうに、虎蔵が言った。
「いいか、説明してやる。2度としないぞ。面倒臭いから。逆に、しつこく聞いてきたら、お前が睡眠不足で倒れるまで、耳元で言い続けてやる、わかったか」
「は、はい」
「俺達は特殊夜間課だ。この門星という街が、カジノ特区である事は知ってるな」
「は、はい。だから、金銭目当ての強盗や殺人が多いと聞きました。後、風俗嬢やキャバクラ関係の痴情のもつれによる犯罪とか、アルコールに依るDVとか。それから、場所柄、ハメを外した者たちが薬物に走ることがあり、その売買も至る所で行われてるとか」
「そうだ。しかし、事件自体は何処でも起きている。んが、それがこの街はカジノ特区だから眠らないんだ。朝も昼も夜も関係ない。24時間だ。故に、事件が起き易い。いや、まさに犯罪が起き放題だ。わかるか」
「はいっ!」
キリッとして大神が言った。
「そーゆー事だ」
「は?」
「はい駄目ー。駄目駄目ー。ホントセンス無いねお前」
「は?」
「お前、その、は?が多いね。親知らずでもあんの?」
「はぁ?」
「ほらまた。あのな、後ろに乗ってる健なんて、今の話した時なんて言ったと思う。だから、サバ缶は水煮に限るんですね。と言ったんだ」
「どういう意味ですか?」
「意味なんかどうでもいいんだ。センスだよ、センス」
「すいません」
「謝らんでいい。鍛え甲斐があるからな」
「よ、宜しくお願いします」
「とにかくだ。この街は犯罪が多い。特に夜はな。それ故に警察も忙しい。本来はシフトで回す人員を、夜間専属の課を作ることで、いつでも安定して送り込むことが出来る。そして、犯罪の内容に拘らず、全ての犯罪を食い止める為に我々がいるのだ」
「つ、つまり、強盗も殺人も薬物も暴力団も何でもごされって事ですね」
大神が興奮気味に言った。
「んー、まぁ間違ってはいないが、それは昼間の奴らに任せなさい」
虎蔵は続けた。
「我々は、通常の業務では手の回らない所に手を差し伸べるんだ」
「例えば?」
「一般人の全てが、皆犯罪とは無縁である様にサポートするのだ」
「広報みたいなものですか。ストップ薬駄目絶対!とか、振り込む前に相談を。みたいなポスター作ったり」
「それも他に任せておけ。俺達は犯罪を食い止める為に何をすべきか。それは、犯罪なんて犯さなくても、楽しい人生を送れるようにすれば良いのだ。その為には努力を惜まず何でもする。まあ、言わば何でも屋だな、警察の」
「だけど警察とケータリングとどんな関係が?」
「判らんか?全く。お前健の飯どう思った?」
「凄い美味しかったです」
「だろ。エンターテイメントだよ。それこそが我等特殊夜間課の使命だ。エンターテイメントこそが、犯罪を無くす唯一の道なのだ」
「でも、僕らは警察…」
「だまらっしゃい」
納得はいかないが、虎蔵の怒声に大神は口をつぐんだ。
やがて、軽トラはホテルの地下駐車場に到着し、メデューサと健は、さっさと中へ入っていった。
虎蔵の後に続きながら大神が、
「でも、ホテルなら何もケータリング呼ばなくても、いい気がするんですが」
「それだ。いいか、今回の依頼はこのホテルの常連らしい。この門グラ、つまり門星グランドホテル&カジノを何度となく利用してる。幾ら良いホテルでも、味やサービスというのは、そんなにコロコロ変えられるものでもないし、するべきでもない。そんな時、その常連から嗜好の変わった料理とサービスを、とホテル側が頼まれたんだ。そりゃホテルも困った。そしてこのホテルのオーナーと親友である、うちの署長に連絡が入ったんだな。そして今我等はここにいる。わかったか?」
「わかったと言えばわかりましたが、何故ホテルが困って警察に助けを…」
「そりゃ、なに。ねえ。わはは、まあ、うちらの、なんてーの、ぐひひ、エンターテイメント魂が認められてきたって事なんじやねーの!」
満更でもない笑みをたたえてバシバシと、虎蔵が大神の肩を叩いた。
「でも、エンターテイメントなら本物の一流シェフや、お笑いや歌手みたいな芸能人に任せた方が…」
「かーっ。解んない奴だねお前は。俺達は警察だよ。事件が起きれば、当然、追って解決する。それもまたエンターテイメントだろ。一般人は犯罪の収束に安堵すると同時に、解決した我々を称賛する。それは言わばスタンディングオベーション。まさに、エンターテイメントフォーオール。エンターテイメントの何でも屋だ。素晴らしい」
「ええ、しかしその犯罪者を捕まえる、それこそが警察の職務だと思うんです。でも、課長の話だとその警察の本来の職務を軽んじてる様な…」
「職務に軽いも重いもない!ただそこにある任務をこなすだけだ。人々の幸せの為に!」
尤もらしい事を強弁しているが、どうも大神は納得出来ないでいる。しかし、刑事としての初日、虎蔵について行くしかない。どうなってんだよとボヤきながらも、ホテルの中へと入っていった。
パーティー会場では、既にホテルの従業員が忙しく
準備に追われていた。健は、コックの白衣を着て、頭に通常の倍の高さはある様なコック帽子を被っていた。
「良いじゃないか、健。まさにコーーーーーックって感じで」
満足そうに、虎蔵が言った。
虎蔵と大神は、黒いズボンに白ワイシャツ、その上に黒いベストを着て、蝶ネクタイを身に着けていた。
「あのー、僕は何をすればいいんでしょう?」
「お前は初めてだからな。過去に飲み屋かなんかでバイトした事あるか?」
「い、いえ」
「だろうな。緊張感の欠片もない。仕方ない、今回は俺の横で、客にビールを注げ」
「ビールですか」
「ああ、このサーバーで、タンブラーに注ぐんた。まあ、タンブラー置いたら、自動で勝手に注いでくれっから、出来たものを客に渡せ」
「課長は?」
「俺はこれだ」
ビールサーバーの横にはカウンターがあり、所狭しと未だ開封もされていない物も含めた酒瓶が並んでいる。
「これって?」
「バーテンダーだよ。俺はカクテル作りのプロだからな」
「そうなんですか?どっかで刑事になる前に経験が…」
「無い」.
食い気味に虎蔵が言った。
「でもプロだって…」
「いいか、プロとアマの違いはな。自分がプロと感じた時から始まるんだ」
「そうですか」
そろそろ虎蔵の発言に飽きてきたのか、どうでもよさそうに大神が相槌を打った。
「俺はこのウイスキーのボトルをカウンターの中で触れた時から、プロになったと自覚したんだ」
「それ芋焼酎ですけど」
「酒の種類などどうでもいい。心の問題だ」
わっかりました、と大神が適当に返事をした時だった。
「うわー、参ったなぁ」
健の声がした。
「どうした健?」
「今夜のメニューに、スズキのハーブソテーがあるんだけど、肝心なハーブ忘れちゃった」
「ホテルに頼みゃいいだろ」
「ここは、生のハーブしかないって。僕のソテーは、ハーブ以外にも味付けがあるから、あまり香りが強いとなぁ」
「どうする?」
「未だ少し時間あるから、スマホで調べて買ってくるよ」
「間に合うのか?」
「任せておいて」
そう言って、健はコック帽を脱いで、会場から出て行った。
「大丈夫ですか?」
大神が、心配そうに健の後姿を目で追って言った。
「心配無用。アイツもプロだからな」
刑事のプロになれと言いたい気持ちを抑えて、大神が、
「ところで、久米さんは?」
「メデューサはこのホールで乾杯用のシャンパンを勧める給仕係だ。まあ、ウエイトレスだな」
「そうですか。で、何処に?」
ホール内を見渡す大神に、虎蔵が言った。
「パーティーが始まってから出てくる。アイツはインパクトが強いからな。まあ、女性客には申し訳ないが」
健はスマホを見ながら、ホテルから出て、路地を右へ左へ曲がって行った。数分すると、街灯もなく怖いほどに静かな場所に着いた。
「あれ、この辺なんだけど」
辺りを見回すと、小さな明かりが点いている木造の平屋があった。その上に看板が掲げられ、[ハーブ ダツアンドポー]と炭の様な黒い字で書かれていた。昭和の匂いのするような古臭い佇まいである。丁度その頃その店の中では、
「婆ちゃん、じゃ、俺仕事だから行ってくるぜ」
革ジャンにGパン、エナメルの靴を履いた、黄色のサングラスをした茶髪男が、店の奥に死んだ様に首を垂れている婆さんに言った。
「婆ちゃん、いつもの様にだぜ。頼んだよ」
婆さんは返事もせずに首を垂れたままでいる。
「んだよー。また居眠りかよ。耳もだいぶ遠くなっちまってるみたいだけと、大丈夫かね。まぁとにかく頼んだぜ」
婆さんが、僅かに親指を立てた。男はそれを見もせず、Gパンから伸びているキーチェーンをジャラジャラと鳴らしながら、外へ出て行った。
男と入れ替わる様に、健が店の中へと入って来た。
「すいません、乾燥ハーブありますか?」
婆さんは首を垂れたまま、店の中の棚を指差した。健がその棚の前に行くと、瓶詰や小袋入りのハーブがあった。
「良かったぁ。えっと、これとこれ、それとこれも買っとくか」
タイム、レモングラス、バジル、オレガノ等、様々なハーブを近くにあった小ぶりの籠に放り込み、婆さんのもとへ行こうとして、ふと立ち止まった。健が見ていた棚は3段になっていて、健がハーブを取った棚のハーブ全てに特上の文字が書かれている。下の段を見ると、同様にハーブが置かれているが、こちらは上級の文字が。
「下が上級で、その上が特上なら…」
健は
最上段の棚を見ようとしたが、健の身長では無理だった。というか、2メートル以上の身長がなければ無理なほど、最上段は高い位置にあり、且つ幅が狭かった。
「うーん」
と、健は渋い顔をして、何度かその場でジャンプしてみたが、最上段の品を確認する事が出来なかった。
辺りに目をやると、ビール瓶のプラスチックケースと、空の木箱があった。
「ラッキー!」
健は木箱の上にビールケースを置き、よじ登る様にして、最上段へと辿り着いた。
「思った通りだ」
その狭い最上段の棚には極上と書かれたハーブの袋と、大極上と書かれた小麦粉の袋があった。小麦粉の袋には、更におまけ付きと書かれていた。ハーブの種類は明記されていなかったが、健はそれを一つ取り、籠に放り込んだ。折角の機会だからと小麦粉の袋も突っ込んだ。その様子を婆さんは、横目で盗み見るかの様にして、小さく呟いた。
「行きずりの客かと思ったが、裏の客か。どうせ目当ては一番上の奴だろうに、何故、どいつもカモフラージュに、余計な物を取りやがるんだ。レンタルエロビデオをS Fやアニメに挟むのと一緒じゃな」
ふん、と鼻であざ笑った。
健が婆さんの前に行き、お会計お願いしますと告げると、婆さんが首を少し上げて、手を出した。
「あ、はいどうも、こんにちは」
そう言って、健は婆さんと握手した。
「こんにちは。会えて嬉しいわ。冥土の土産になります。って違うわ!バカモンが」
婆さんが、健の手を振りほどいて怒鳴った。
「え?握手じゃないなら、その差し伸べられた手は…」
一瞬健は考えて、
「あ、すいません。僕はダンスのお誘いは受けられません。未だ社交ダンスは始めたばかりなので、ステップがちょっと…」
「何言っとるこのボケが!鍵じゃ、鍵。カーギー!」
「ああ、鍵ですか。じゃ、これで」
健が、黒い縁の小さな鍵を婆さんに渡した。
婆さんは眼鏡を取り出し、
「ほほう、珍しいロッカーの鍵じゃな。また新しいタイプの奴が出回り始めたか。これは番号がついとらんようじゃが」
「あ、それ自転車の鍵です。タイヤ潰してもう乗らないんで、それあげます」
「田宮が潰した小野田が無いんでって、ああ、あのヤクザの田宮に潰された小野田自転車の横にあるロッカーか。あそこはしょっちゅうロッカー新しく変えるからの。分かった。もう行ってええぞ」
「あのお代は…」
「年寄りだと思って馬鹿にすんな。このロッカーに入れとるんじゃろ。分かったから、さっさとそれ持って出てけ。わしはまだ寝足りないんじゃ」
「どうも、それじゃあ失礼します」
健は気にする事なく店を後にした。そして、微笑みながら呟いた。
「気前のいいお婆さんだなぁ。踊れる様になったらお誘いしよう」
健は、今来た道をホテルに向かって早足で戻って行った。
ホテルのロビーには、早めに着いたパーティーの客が、知り合い同士で楽しそうに話していた。パーティー会場から様子を見に来た虎蔵と大神が、六十半ば程のでっぷりと太った男を見て、
「今日は、ビールが出るぞ。忙しくなるぜ」
「どうして、そんな事分かるんです?まだ夜は少し肌寒い位なのに」
「あの腹は、ビールで出来てるからさ」
「それは偏見でしょう。お腹が出てても、ビールっ腹とは限らないじゃないですか」
「刑事のかんだ。かんだと言っても、東京の次じゃないぞ」
「しょーもな」
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
「俺の刑事の感が、そう叫んでいる」
「そうでしょうねぇ」
突然、虎蔵の表情が、笑顔になった。先程の太った男に、三十代後半、そう、虎蔵と同じ位の歳格好のスーツ姿の男が近づいて行った。男は前髪が長く、それは片目を覆う様に隠していた。もう一方は、ギョロリと鋭い光を放っている。太った男に会釈して、僅かに会話した後、では後程と言って歩き出した。
「目玉ーっ!」
バーテンダー姿の虎蔵に、始めは気づかなかった目玉だったが、虎蔵が近付いて誰かを悟った様だった。目玉の顔色が明らかに曇り、苦〜い表情へと変わった。
「目玉、どうした。こんな所で会うなんて、運命的だな」
「ただの偶然だ。偶然」
「まぁ、そんなこたぁどうでもいい。いつうちに来るんだ」
「行かねーよ。全くヒトの顔見りゃ、そればっかり言いやがって」
「何だよ、つれねぇなぁ。お前と俺の仲じゃねえか。
あ、そうそう…」
横にいる大神を見て虎蔵が、
「こいつ、うちに新しく来た大神だ、大神。名前は
男と書いてダンと読む」
「初めまして、オオカミオトコです」
大神が、笑われるのを覚悟して言った。こういう場合、さっさとこの件に触れて笑われてしまった方が、面倒くさくない。大神は学生時代を通してその事を体感していた。が、目玉と呼ばれるその男の反応は、冷めたものだった。
「そうか、お前さん、怪物課の新人か」
怪物課と呼ばれている事を知っていながら、自分の名前に、くすりとも笑わないこの男に、少し興味が湧いた。
「課長のご友人でいらっしゃいますか?」
「いや、アカの他人だ」
「何だよー、親友だろ俺達」
肘で目玉の腹を突きながら、虎蔵が言った。
「こいつは俺の学生時代の親友で、尾井だ」
「オイさんですか。何か街歩いてると、至る所で振り向きたくなりませんか」
「つまんねぇ。街じゃ、誰かれオイ、オイ呼んでるからって言うんだろ。センスねぇぞ」
「そーなんだよ。こいつセンスねーんだ。ウンウン」
虎蔵が、思い切り頷いた。
「あ、ところでこいつもうすぐ、うちに来るから」
「だから行かねーって」
「こいよー。メデューサもいるんだから」
「ち、ちょっと、な、何言ってっか、わ、分かんねーな」
明らかに照れている。久米さんに気があるのかな。と、大神は思った。
「今夜そのメデューサも来てるんだ。今支度中」
「な、なんで?」
「いやー、今日、ここのケータリング頼まれてよ。俺の部下が料理担当で、俺とこの新人がカウンターでバーテンダー、そしてメデューサが給仕係。まあ、ホール担当だな」
「相変わらず、警察らしくねえ仕事してんな」
「そんな、焼きもち焼くなよー。俺達のエンターテイメント魂が評価されてるからって」
「焼いてねーわ」
大神が虎蔵に尋ねた。
「あのー、課長とはどういう…」
「おお、こいつとは北海道の大学で一緒でな、毎日、汗かいてた」
「へぇー。体育会系だったんだ」
「そーなんだよ」
「何言ってんだ。俺達ゃ落研だっただろ。あ」
余計な事を言ったという表情を尾井がした。
「落研って、落語研究会ですよね」
「そーなんだよ、そこで一緒に汗かいた仲なんだ。なぁ」
「知らねーよ。あっち行け」
「つれないなぁ、もう、こちょこちょ」
虎蔵が尾井をくすぐった。
「やーめーれっての」
「で、うちに来いって、尾井さんも警察なんですか」
「いや、こいつは厚生局門星分室勤務だ」
「そうなんだ。…って厚生局って言うと、まさかマトリですか!」
「そうそう」
「そうそうじゃないですよ。麻薬取締官って言ったら
うちの組対(組織対策課)のライバルじゃないですか」
「ライバルなんて、硬い事言うなよ」
虎蔵が尾井をくすぐり続けながら言った。
「やーめーろってーの!」
尾井が、虎蔵の腕を振り解いた。
「新人の言う通りだ。俺はマトリ。お前らの…」
「こーちょこちょこちょ」
「やーめーろっ」
「何だよ。つまんねーの」
襟元を正して尾井が、
「とーにかく、俺は今日はパーティーに来ただけだからな。それ以外の用はない。お前と話す必要もない」
「こーちょこちょこ…」
「えーいっ、鬱陶しいわっ」
「お前がパーティーなんて珍しいじゃないか。人の群れが大嫌いなのに」
「さっき一緒だった方に、随分世話になったんでな。呼ばれて無視出来る立場に無い」
「どなたですか、あの恰幅のいい方は」
「ああ、誰なんだあのデブ」
「デブ言うなっ!」
「こーちょこちょこちょ」
「しつこいわーっ!」
「で、誰なんだ?」
息を切らして尾井が、
「あ、あのか、たは、門、門星の福祉事業に従事されてる我那覇春雄さんだ」
「ガハハハロー?成金がハワイで姉ちゃんに金撒いてるみてーな名前だな」
「なんてたとえですか!失礼ですよ」
「がなはだ!本当に失礼極まりないな、相変わらずよ。まあ、お前に目くじら立てても無駄だから、敢えて説明はせん。とにかく、パーティーで無礼な態度は取るなよ。マジで切れるぜ」
「こーちょこちょこちょ…」
ゴンっ、という重く鈍い音がして、虎蔵が膝から落ちた。尾井の頭突きがヒットしたのだ。
「こ、公務執行妨害…だ」
「何言ってやがる、お互い様だ。じゃあな」
「ま、待て!北郎」
「うるせー名前で呼ぶな」
そう言って、尾井は去って行った。
「あの人、きたろうさんって言うんですか?」
「ああ」
「じゃ、おいきたろうじゃないですか」
「それがどうした。当たり前の事を言うな」
「だって、おいきたろうですよ。しかも目玉って」
「だから?」
「何で驚かないんですか?!」
「わーお」
「どうしました?」
「何だよ、お前が驚けって言ったんじゃないか」
「いや、そうじゃなくて、尾井さんの…」
「もういい、いくぞ。ああ、痛ぇ」
おでこを摩りながら、虎蔵が会場へと向かった。大神は、待って下さいよ、と言いながら後に続いた。
あと僅かでパーティー開始となる為、皆、持ち場についた。虎蔵と大神はバーカウンターの後ろで待機していた。大神が何か尋ねたがっているのか、チラチラと虎蔵を見ている。
「何だよ、気持ち悪い」
「あのぅ、さっきの尾井さんて…」
「また、アイツの話か。そんなに気になるのか。惚れたか?」
「馬鹿な事言わないで下さいよ。そうじゃなくて名前
どう書くんですか?」
「んぁ?名前?」
虎蔵が、注文が殺到した時の為のメモ用紙とペンで、
「尾井はこうで、きたろうは、北のオトコって事で郎。北郎だ」
「うわぁ、惜しいなぁ。字は違うんだ」
「何なのお前?さっきから驚けとか惜しいとか何とか」
「いや、だ、だって凄いインパクトじゃないですか」
「全く解らん。お前の意味が」
「どうしてですか?わからない訳ないでしょう」
「あのな、あいつは生粋の道産子家系で6人兄弟の五番目だ。北の男で北郎。別に不思議でも、面白くも無い」
「そうですかねぇ…い、今五番目って言いました?」
「ああ、言った」
興味津々で、大神が尋ねた。
「他の五人の名前は?」
「そんな事聞いてどうする?」
「教えて下さいよぅ。頼みますぅ」
「変な奴だな。アイツの家は男ばかりでな。本当は子供は二人もいれば良いって感じだったそうなんだが、どうしても女の子が欲しかったらしくてな。それを待ってたら6人兄弟になっちまったらしい」
「ヘぇー」
虎蔵がメモに書き始めた。
「一人目が孝太郎」
「普通ですね」
「二人目が進次郎」
「どっかで聞いたことあるな」
「三人目が孝三郎」
「あ、戻った」
「四人目が四郎」
「面倒くさくなっちゃったのかな?」
「変な合いの手入れんな。、そして五人目がアイツ、
北郎だ」
「完全に笑いに走ってますね。それともヤケになったかな?」
「お前、マジで何言ってんの?」
「どうしてわからないんですかぁ。こんな分かり易い名前ないと思いますけど」
虎蔵は呆れたように首を振った。
大神は諦めて、
「もういいです。で、最後の一人は…」
「おう、そしてやっと女の子誕生だ!」
「御両親も嬉しかったでしょうね」
「ああ、ま、正確には親父さんだけな。お袋さんは三人でも十分過ぎると思ってたらしいからな」
「あはは、確かに。解ります、そのお母さんの気持ち」
「そして、その女の子の名前が、舞子…」
「舞子さんかぁ、普通だけどいい名前ですね」
「まあ、焦るな、まだ終わってない」
「は?」
「舞子グレース…」
「な、何ですグレースって、外人みたいっ…」
「だーかーらー、黙って見てろって」
「えっ?えっ?」
「舞子グレースM…」
「ぇMって?」
「うるさいなぁ、いちいち。最後まで書かせろ」
「ふぇっ?」
「舞子グレースMジョセフィーヌ明日香だ」
「う、嘘でしょ」
「嘘ついてどうなる」
「ビカソみたいだ」
「時々、お前の発言おかしいぞ」
「いや、ほらビカソの名前って、僕もよく知らないけどすっごい長いって…」
「それとこれが関係あるかは知らんが、嬉しかったんだろ。考えつく限りの付けたい名前を皆使ったんだなぁ,うん、愛を感じるな」
「あ、課長、落研だったなら寿限無って落語に似てません?」
「何だそれ」
「知らないんですか?基本だと思いますけど」
「俺の落語には無かったな」
「そうですか。でも、このMって何でしょう?」
「ミドルネームらしいぞ」
「思い出した!ビカソもミドルネームが凄い長かったんだ。となるとこのMが実は無茶苦茶長くて、更にドえらい名前だったりして…」
「大神」
「何ですか?」
「お前、名前フェチか?」
「は?」
「興奮し過ぎだ。俺も仕事柄、色んな嗜好を持つ人間がいるのは分かっているが、お前は真の名前フェチだな」
「何言ってるんですか。課長だって自分の名前について僕に聞いてきたじゃないですか」
「あれは、お前のセンスを調べる為のクイズみたいなもんさ。名前そのものはどうでもいい。それに引き換え、お前の名前に対する執着心は異常だ」
「やめて下さいよ。それじゃまるで僕が変態みたいじゃないですか」
大きく虎蔵が頷いて、
「明らかに変態だ。大変だったろう。卒業式とかで一人一人名前呼ばれる度に、興奮して股間押さえてるんだからな」
「そんな訳…」
しーっ、っと口の先に指を置き、
「心配するな。これは二人の秘密にしておいてやる」
「だから違うって!…もういいですよ何でも。ところで。この女性、ミドルネーム付けるって事はクリスチャンかなんかですか?」
「いや、代々浄土信宗だったはずだが」
「じゃ何でミドルネームなんて…」
「ハリウッドの役者の名前見て、どうしても付けたかったらしい。まあ格好良いからな」
「いや、でも…これ役所受理したんですかねぇ」
「したんじゃねえの。俺、彼女に会った事あるけど、習字やテストが大変だって言ってたぜ。名前が枠に入らないって」
「なるほど…んー…でしょうねぇ」
「ふーっ、出来たよー。これで全部完成!」
健が大きな皿に蓋を被せてやって来た。
「出来たか。良かった。見せてくれ」
蓋を開けようとする虎蔵に、
「駄目だよ。冷めちゃう」
「少しくらい大丈夫さ」
「駄目だよ。これがメインのスズキのハーブソテーなんだから。自信作だよ」
「けーち。まぁ良いさ。ハーブは見つかったのか」
「うん、優しいお婆さんがいてね。ただでくれた」
「ほほぅ、今時寛大な人だな」
「僕もそう思う。あ、それでね、コレなんだけど…」
極上と書かれた、ハーブの入った袋を、健が取り出して見せた。
「そのお婆さんから貰って来たんだけど、今回の料理には使わなかったんた」
「お、極上ハーブか。何のハーブだ」
「さぁ、書いてないから解らないんだけど、どっかで見た気がするんだ」
「おお、俺も見た事がある気がするな。何だったっけな」
「まぁ、とにかく極上だから、明日にでも署でコレを使った料理を振る舞うよ」
「そいつは楽しみだな。…ち、ちょっと待て健」
「どうしたの?」
「それよこせ」
「いいけど、課長料理なんて作らないでしょ」
「いいからよこせ」
「何だか知らないけど…はい。でも、残ったら絶対返してよ。僕も料理で使いたいからね」
「分かったよ。必ず返すって」
虎蔵は健からハーブの袋を受け取り、大神に告げた。
「大神、お湯を貰ってこい。そうだ、ポットで貰ってこい。それの方が簡単そうだ」
「いいですけど、どうするんですか」
「とにかく早く。もう始まっちまうだろ。急げ」
少し疑問に感じながらも、大神は走って行った。程なくして、ポットにお湯を入れて戻って来た。
「これで良いんですか?」
「上出来、上出来」
「で、それをどうするんですか」
「お前、ウーロンハイって知ってるか?」
「勿論ですよ。ま、僕はレモンハイの方が好きだけど」
「じゃ、緑茶ハイって知ってるか?」
「まぁ、居酒屋の定番ですよね。僕はレモンハイの方が好きだけど」
「お前の好みなどどうでも良いわ。とにかくだ。俺のズバ抜けたバーテンダーのプロとしての創作力を見せてやる」
呆れた顔で首を振る大神をよそに、
「このポットに、このハーブをぶち込んでハーブティーを作る」
嬉しそうに虎蔵は、湯の中に大量の極上ハーブをぶち込んだ。
「それで?」
「こうするのさ」
そう言って、虎蔵はポットを乱暴に振り始めた。暫く振り続けてから、
「よし、この位で良いだろう」
「それをどうするんですか?」
「ウイスキーや焼酎で割るのさ」
「ああ、ハーブティー割。つまりハーブハイですか」
「素晴らしい発想だろ」
「まぁ。思いつきそうなものではありますけど。でも、ハーブの種類も解らないのに良いんですか。僕もどっかで見た事ある気はするんですけど。何だったっけな」
「いいさ。なんて言ったって極上だからな」
「はぁ、そんなものですかねぇ…。あ、じゃ、茶漉し借りて来ます」
「いらん、そんなもの」
「でも、そのまま入れたらハーブごとグラスに入っちゃいますよ」
「それがいいんだよ。なんたって、今時は健康志向の連中が多いからな。中に得体の知れない物がある方が説得力がある。これを飲むと美容に良いとか、デトックス効果があるとか言うと、喜んで飲むぞ」
「本当にそんな効果あるんですか?」
「知らん」
「そんな、無責任な!」
「ちっがーう。エンターテイメントとは客を催眠にかけるようにして、誘導する事も大切なのだ。客をその気にさせる。病は気からという奴だ。つまりプラシーボ効果を生む事に因って、本当に健康になるかもしれんわけだ。んー、これこそエンターテイメント!」
「でも、お客様がお腹でも壊したら大変じゃないですか」
「その時は、これはお通じにも効くという事にすれば良い。あ。女ウケするかも」
「知りませんよ。どうなっても」
「まぁ、任せとけ」
その時、パーティー会場に、マイクの声が鳴り響いた。
「皆様、お待たせ致しました。それでは只今より、門星の未来を明るくしよう。チャリティーパーティーを開催致します」
会場が拍手で包まれた。
「それでは、まず、このパーティーの主催であらせられます、門星福祉事業団[春の会]代表の我那覇春雄様より、一言頂戴致します」
会場の中央奥に設けられたステージに、あの太った男が上がった。
「いやいや、どうも我那覇です。ぐわははは。こんなオヤジの長ったらしい言葉などどうでもいいでしょう。私も早くビールでこの腹を満たしたい」
会場の客から笑いが起き、隅で聞いていた虎蔵が、ほらな、と大神をしたり顔で見た。
「本日お越しの皆様には、この門星の老人の為、そして若者の為、日々尽力して頂き、心より感謝しております。(門星の未来を明るくしよう)と題したこのパーティー、勿論主役は皆様方です。どうぞ、今宵は門星の未来の様に、楽しく、明るく、そして笑い、語り合いましょう」
我那覇が、横にいる司会者らしき男に目を向けた。
「では、乾杯させて頂きたいと思います。皆様、グラスをお持ち下さい」
ホテルのユニフォームを着た男女が、どうぞと言いながら酒の入ったグラスを来客に渡していく。その時である。扉が開いて、メデューサが入って来た。片手に銀のトレーを持ち、その上にシャンパングラスを幾つも乗せている。その姿に皆が呆気に取られた。真っ赤な生地に金の龍を刺繍したチャイナドレスを纏っていたのだ。その両サイドはパックリと割れ、一歩進む度に美しい太腿を露わにしていた。ドレスに合わせるかの様に赤いヒールを履き、細く長い脚を一層美しく魅せていた。
うおーっと、低い地鳴りの様な感嘆が男性客達から洩れた。
「あ、あれ何ですか!久米さん、あんな格好で!完全に浮いてるじゃないですか。いくらパーティーとはいえここでは場違いな気が…」
そう大神は言いながらも、悲しいかな、その両眼はメデューサから離せない。
「いいんだよ。あれで。第一、チャリティーパーティーってのは地味なもんだから、少し派手目でって言ってきたのは先方だからな」
「派手目って…度を超えてると思いますけど…それにああいうの男は喜ぶかも知れないけど、女性には少し不愉快に映るんじゃ…」
「だから言ったろ。女性には申し訳ないって」
「で、でもあの格好が元でパーティーが不評だったら」
「まぁ、女から見たら不愉快かも知れんし、嫉妬するかも知れんなぁ」
「だから、不味いんじゃないんですか。早く止めないと…」
「ふっ、ま、見てろよ」
メデューサは会場のど真ん中まで進んで、自分に最大限の注目を集めた。そこで、
「あたしのシャンパン飲みたくないかい?飲みたいよね…飲みたいよね…飲ませてやるよ」
大神が、
「何で、あんなに高飛車なんですか。相手はお客様ですよ」
「黙ってろ」
吸い寄せられる様に、男達が集まっていく。中には仕事を忘れたホテルのボーイまで混ざっていた。目玉だけは、その姿を見てはいけないという感じで、顔を背けていた。
「まぁ、汚らわしい!」
「何なのあの女」
「お父さん、行かないで!恥を知りなさい」
会場の女性客から非難の声が上がった。
だから言ったこっちゃない。大神がそう思った時だった。
「ふ。全く男ってのはどうしようもない生き物だねぇ。まぁいいさ。飲ませてやるよ。おい、そこの、ここへ来て四つん這いになりな」
一人の男が指名された。男は唖然としながらも、何故か素直に言われた通りにした。その背中をメデューサはヒールで踏みつけた。
「ほら、顔をあげな」
踏みつけられながら、男は顔をあげた。その無理な態勢が、男に間抜けで情けない顔をさせた。
「そら、飲みな」
そう言って、メデューサは少し高い位置から溢す様に、シャンパンを男に垂らした。それは飲むというより、かけられているという方が正解で、事実、男の顔面には、口で受け止めきれない酒が、かかりまくっている。
「ほら、乾杯だよ。乾杯って言いな」
「か、かんぴゃひぃぃ…」
大神が慌てて、
「早く!早く止めないとっ!」
「いーんだよ。あれで」
「で、でもあんな酷いことしたら…」
「見てみろ、女達の顔を」
大神がふと見ると、先程の女性客達が、冷ややかな目でその姿を見てはいるが、その顔は明らかにその男を嘲笑っていた。そのうちの一人の声が小さく漏れ聞こえた。
「もっとやれ、もっと…ひひひぃ」
大神が驚いて、
「一体、何が起きてるんですか」
「ホテルサイドから予め客のリストを貰っててな。それをマミーに見せて、連中の生活ぶりを探った。よく利用してるサイトや街の防犯カメラに捉えられた映像でな。すると、面白い事がわかったのさ」
「ちょっと待ってください、それってプライバシーの侵害になるんじゃないんですか」
「ツイッタンやS S N、それから連中が購入して書いた商品のレビューとかさ。どれも盗み見た訳じゃない。誰もが閲覧可能な物ばかりだ。それに防犯カメラのチェックは警察として当然だ」
「だけど…」
「今夜の客達は所謂地元の名士やそれに関わる奴ばかりでな。日頃は偉そうにして生きている。しかしながら同時に周囲の目を異常なまでに気にしている。それ故に、羽目を外すという事が、人前で出来ずにストレスが溜まり、その結果ここの男達全て S Mクラブの会員だそーだ」
「嘘でしょ!だ、だってS Mクラブの会員なんてS S Nに書き込む訳ないでしょう」
「防犯カメラの映像さ。お前、T N第3ビルって知ってるか?」
「いいえ」
「五階建てのビルでな。その入り口前に防犯カメラが設置されているんだ。そこは全ての階に S Mクラブのテナントが入っている。というかS Mクラブだけしかないんだ。人はムチビルとか、女王様のデパートと呼んでいる。ここの男客は皆そこに出入りしているそうだ」
「マジっすか」
「マミーの調べではそうなってる。女達も日頃貞淑な妻や恋人、友人、部下を装って生きている。本当は、男どもを怒鳴りたい時や、殴りたい時があっても世間体があって人前ではそれが出来ない。無論プライベートでも出来ない。金やキャリア、名声を失う事が怖くてな」
「だからってこんなの…」
「女達を見てみろ。あのギラギラとした目と半笑いの口元を」
大神は再び女性客を見た。
「ほら、次はお前だよ」
と、次から次へと男達へシャンパンの洗礼を受けさせていくメデューサと男達を観やり、女達はピエロの様な表情で笑っていた。恐怖を感じる嗤いである。男の方も日頃はアンダーグランドでしかしていない行為を人前で曝け出したせいか、タガが外れて恍惚の表情をしている。最早、垂れ流されているのがシャンパンなのか唾液なのかも定かでない。
「ホ、ホラーだ…」
大神が唇を震わせて呟いた。
「ホラーもまたエンターテイメントなり」
虎蔵が語気を強めて言った。
ステージ上で、我那覇は呆気に取られたまま、凍っていた。一通り洗礼が終わると、メデューサはツカツカと壇上に上って行った。
「わ、わしは、あ、あんな酒、飲まんぞぅ絶対、あんなこ、事はせんぞぅ」
と、我那覇は呟きながらも、少し膝が曲がりかけていた。ステージの上からメデューサはホテル側の給仕係に目配せをした。状況を把握するのに僅かな間があったが、それを理解した係の者たちが、グラスを客に配る。再び全ての客にドリンクが行き渡ったところで、
「それじゃ、音頭取らしてもらうわね」
と、涼しい顔で、メデューサが我那覇に言った。我那覇は状況が理解出来ず、ただ、あぁとしか言葉が出なかった。
「では、皆さん。門星の明るい未来に、乾杯!」
会場には、事態が飲み込めない客達の静寂が広がったが、それを打ち消すかの様に、虎蔵が、乾杯!、と大声を出して拍手した。他人に歩調を合わせる日本人の哀しい性か、会場の全てが呼応するかの様に拍手した。そう、まるでそうする事が自然であるかの如く。
メデューサが、我那覇に耳打ちをした。
「私の出番は本来ここまでだけど、このパーティーのVIPの貴方をこれから護衛する任務に就くわ」
「ご、護衛?君は誰かね?」
「門星警察の者よ。まぁ、信じて貰えなくても結構だけど」
「わしは誰にも狙われとらんぞ」
「そうかもね。かと言って断る理由もないんじゃない。それとも何か問題でも?」
「ご、護衛なんて要らんが、お前さんみたいな美人について貰えるなら、まあ、良しとするか。と云うよりこちらから願いたいのお」
「こちらもそう言ってくれたら都合が良いから是非」
メデューサは我那覇の片腕にするりと自分の腕を巻き付け、ステージから二人で降りた。
「それでは皆様、お食事、お飲み物をお愉しみになり、暫しご歓談下さい」
アナウンスが流れた。
異様な光景で始まったパーティーだったが、漸くごく当たり前の状態となり、誰もが何も無かったかの様に、食事と酒を愉しみ、歓談していた。それというのも、メデューサと我那覇が連れ立って歩いているのを見た客が、二人が愛人か、そうでなくとも近しい関係であると勘違いした事に起因する。無論、孫ほど歳の違う女と寄り添っているのだから誤解するのも当然である。となると、先程のパフォーマンスは、主催者の何らかの意図があるか、たとえ度の過ぎたお戯れだとしても、この場の最高権力者の承認があるなら笑ってやり過ごすしか無いと認識したのだ。その辺の所は連中もそれなりの権力者側、あるいはその類の人間を見慣れている者であり、プロトコルは熟知している。故にそういった状況下での銭勘定が速い。
ホテルの給仕係が運んでいるシャンパンとワイン、そしてビールで客達は満足しているのか、カクテルの依頼が一つも無い事に、虎蔵は不貞腐れていた。時折、ボーイのビールが無くなったと、客がカウンターに取りに来たが、大神もタンブラーを機械に置くだけなので、無難にこなしていた。そこへ、やはりボーイの運ぶビールが無くなったと、メデューサを連れて我那覇がカウンターにやって来た。
「私はビールが大好きでな。一杯頼む」
我那覇は、サーバーの横に立つ大神に頼んだ。
「旦那、良いカクテルがありますぜ」
暇な虎蔵が口を挟んだ。
「私はジャックダニー」
メデューサがそう言うと、虎蔵はほらよ、と、バーボンをボトルごと乱暴に投げた。メデューサはそれを手刀を切る様に掴んで蓋を開け、ラッパ飲みし始めた。
「く、久米さん、職務中ですよ」
「うるさいねぇ。これも仕事だよ」
「どこがですか!」
「旦那、どうです、カクテル」
しつこく尋ねる虎蔵に我那覇が、
「悪いね。私はビール一本槍でね」
「へい毎度。カクテル一丁。いやぁ、お目がたかい。今夜はハーブティーの良いのが入りやしたんでね」
「わしはビール一本槍だと言っとるだろ」
「課長、駄目ですよ。ご要望に答えなきゃ。それに口調が、落語になってますよ」
「黙ってろ。いやー、とにかく飲んで貰えれば旦那も納得いくでゲスよ」
そう言って虎蔵は我那覇を無視してカクテルを作り出した。適当にグラスに氷をぶち込み、手元のウォッカのボトルを持ち、グラスの4分の1程注ぎ、残りを例のハーブティーで満たした。そこにこれがやりたかったとばかりに、丁寧に小さなカクテル用の傘を添えた。
「お待たせ致しやした。ハブウォッカでゲス。ロシヤでは、国民的カクテルとして飲まれてやす。どうぞ、ぐーぅっとやってつかーさい。ぐーっと」
「いや、わしは…」
「どうぞ、どうぞ遠慮なさらずに」
「遠慮しとるわけじゃないんだが」
無理矢理持たされたグラスを眺め、
「むぅ?これ何か草みたいな、葉っぱみたいなのが入っとるぞ」
「はい、それこそが健康維持の魔法の種でがす」
我那覇が顔を歪ませながら横を見ると、メデューサが、相変わらずバーボンをラッパ飲みしていた。それに釣られてか、我那覇はグラスの液体をグイッと一気に飲み干した。
「うーん、美味いのか?これ」
「ビールで口がビール口になってるんでゲス。次で、美味しくなりやすよ」
虎蔵が、二杯目を作り、再び飲ませた。
「うん、旨くなった…気がしない様な、むしろ明確に不味くなった様な…」
「そんな事ないでげしょ。さあさあ、駆けつけ三杯と申しやす。どうぞ勢いで。傘も二本付けやすよ。まぁ豪華!」
「ふーむ。確かに美味い…のか?」
「美味いんでげす。ね、ね、ね。」
もう一度唸ってから我那覇が、
「そこの君、やっぱりビールをくれ。ビール。わしはやっぱりビール党だ。いくら飲んでも酔わんしな」
けっ、と虎蔵が不愉快な表情をしてそっぽを向いた。大神が、ビールを渡すと我那覇は一気に飲み干し、立て続けにその後二杯、計3杯を飲んで、
「やっぱりこれこれ」
と、嬉しそうにその場を去ろうとした。二歩程進んで振り返り、もう一杯!と満面の笑みで、大神に催促した。その時である。正面の大扉からキーチェーンをチャラつかせた茶髪男とレスラーの様な大男が婆さんを連れて乱暴に入って来た。大男にキーチェーンの茶髪が、
「サブの兄ぃ、こんだけ人が多いと見つけられますかねぇ」
「確かにな。だが手ぶらで帰る訳にはいかん。とにかく虱潰しにあたるぞ。まぁ、特徴が特徴だからな。居ればわかるだろ」
「そうっすね」
サブと呼ばれる大男は黒いサングラスに黒いスーツを着ていたが、その胸板の厚い筋肉で、スーツが角張っていた。
茶髪は会場内を見渡した。婆さんの言っていた小男を探すのに集中していた。少し遠目にそれらしき人物がいた。コック帽を被っていたが、その帽子が異様に長い。茶髪は観察する様にその男を凝視していたが、小男は頭が少し汗で蒸れたのか、帽子を脱いだ。ギザギザの傷が露わになった。茶髪が眼を見開き、
「アイツだっ!」
茶髪は、健を見失わない様に注意を払いながら、婆さんとサブを呼んだ。三人はゆっくりと近づいていくと、婆さんが、
「アイツじゃ。間違いない!」
健の動きを封じるかの様に、3人は囲む様に立ちはだかり、茶髪が怒鳴った。
「おう、こぉら、何してくれたんじゃい」
突然の怒声に健は、
「あ、僕の料理、お気に召しませんでしたか?」
「あん?料理だぁ?寝ぼけとんか?くぉら」
怯えるでもなく健は3人を見渡して、
「あ!貴女はさっきのハーブの」
婆さんを見て、嬉しそうに健は笑った。
「お婆さんのお陰で満足のいく料理が出来ました。わざわざ皆さんで食べに来て下さったんですか?」
3人は、顔を見合わせ首を傾げた。健は急いで近くの料理を小皿にとり、フォークを持って戻って来た。
「これなんですけど、味見してみて下さい。結構自信あるんで」
婆さんが渡されたフォークを持ち、健の持つ皿からひと口、スズキのハーブソテーを食べた。
「あら、肉厚の身にバターソースが効いてるわね。そこにほのかで爽やかなハーブの香り。美味しゅうございます。じゃないわ!この嘘吐きが」
「え?嘘って何ですか?」
「お前、偽物の鍵渡したな。ありゃロッカーの鍵じゃない。俺ら騙してブツを盗むとはいい度胸だぜ」
茶髪が、健を睨みながら言った。
「あの鍵は自転車の鍵です。ロッカーの鍵ではないですよ」
「おほほほぅ。認めやがりましたよ。サブの兄ぃ。コイツ、俺らのブツをネコババしたって認めやしたぜ」
「おい、あんた。何してくれてんだ。こちとら商売でやってんだ。ただでブツを持ってかれちゃ、うちらもおまんまの食い上げになっちまうのは分かってるよな」
「あぁ、す、すいません。そうですよね。お婆さんに優しくされて、甘え過ぎました。今すぐお支払いします。ちょっと財布取って来ます」
健が後ろに振り返り、歩き出そうとした時、茶髪が健の服の襟足を掴み引き戻した。
「舐めんなよ。そう易々逃すかようっ」
「だから、今財布を…」
茶髪が健を蹴飛ばした。ふいを突かれて健は勢いよく床を転がって行った。転がった先に虎蔵のバーカウンターがあった。
「どうした健。ビーチフラッグの練習か?」
悶絶している健を茶髪が無理矢理起こして、
「おら、もっと痛ぶってやろーか?嫌ならサッサと金を出せ」
異変に気付いた虎蔵が、
「何だお前ら?健の料理に不満があんのか?」
健を放し、茶髪が虎蔵に近づいた。
「あんだお前。コイツの仲間か?だったら話がはえーな。さっさと銭よこせや。あ」
「銭?何か俺、お前から買ったか?」
「おぅ、極上のブツを持っていったろ」
「あ?ああ、あの評判の悪いハーブか」
「何だと!あいつは南国の極上もんだぜ。寝ぼけた事言ってっと、手前も痛い目にあわすぞ。んあ?」
「どうしたの?何かトラブル?」
メデューサが、不穏な空気を察して、二人の間に入って来た。
「ただの会話なら好きにして。トラブルなら是非仲間に入れて。私の大好物」
茶髪が薄汚くいやらしい眼で、舐め回す様にメデューサを見た。
「ほほぅ、エロいカッコしたねーちゃんだな。こんな奴らに構わず、俺と付き合わねーか。満足させてやるぜ」
メデューサの両眼が妖しく光った。
「満足?お前、私を満足させられるのか?」
「当たりめーよ。俺がヒーヒー言わせてやるぜ」
ズン、と云う音と共に、一歩メデューサが茶髪に近付いた。実際にはメデューサは音も出さず、近付いてもいないのだか、茶髪は確かにそう感じていた。メデューサは腕を組み、
「本当に満足させられるのか?」
「あ、あ、当たり前よ」
ズン、と云う音と共にメデューサが更に茶髪に近付いた。間違い無く、茶髪はそう感じている。
「この私を満足させられるのか?」
「あ、あ、あた、あた…」
ズン、
「満足させられるのかぃ?」
「あ、あひ、ひい、ひい」
ズン、
「満足させられるのか?」
「あ、アヒャん。あひゃひゃん」
茶髪は声にならない叫びをあげ、石となって固まった。最早、メデューサから視線を離す事も出来ず、呼吸も止まりかけている。
「だから、ストレートは駄目なんだ。全く」
サブと呼ばれる大男が、茶髪を横にずらして自らが前に出た。
「お嬢ちゃん。俺はコイツと違ってお前さんの色気にゃなびかないぜ。女にゃ興味ないんでね。さぁ、女を痛い目に合わせるのは好きじゃない、そこをどきな」
ニヤリ、とメデューサが笑った。
「面白くなってきたね」
大男は、メデューサを追い払う為に、手を肩に掛けた。が、メデューサはそれを一瞬で払い退けた。
「俺の趣味じゃないが、そう出てくるなら話は別だ」
大男は、平手打ちをメデューサに放った。メデューサはスウェーでそれをかわし、返す刀で大男の腹に正拳突きを放った。見事なまでに命中したが、大男は笑って、
「ふん、なる程。こりゃ遊びで済みそうもないな」
会場の何処からか、突然、耳にペンを挟んだガリガリに痩せた出っ歯が現れた。虎蔵が、
「あ、野実だ。始める気だな」
「誰ですか?」
大神の質問に虎蔵が、
「野実本作。門星福祉賭博課の役人だ」
「のみほんさく?一体誰なんです?」
「門星がギャンブルOKなのは分かってるな」
「はい」
「奴は門星の収入を上げるために、ありとあらゆるものを賭博化するのさ。奴等にはそう云う権限が与えられている。そうして賭け金の三十パーセントを参加費として徴収する。それが門星の財源として計上される訳だ。奴らの現れる所では、何かが賭けの対象となる。金になりそうな臭いがすれば、何処にでも現れる門星福祉課の一人だ。まあ今日はチャリティーパーティーだからな、いるのも当然か」
「でも、一体何が賭けの対象に?」
「それは俺にも解らん。だか、奴が出て来たと云う事は何かあるんだろう」
出っ歯をよそに、大男は、メデューサにパンチを繰り出す。メデューサはしなやかにそれを身体を回転させてかわす。フワリと、チャイナドレスが舞い上がり、両腿が露わになる。次の瞬間、メデューサの蹴りが、大男の顎にヒットする。大男は少したじろいだが、すぐに体勢を立て直し、
「いいねえ、実に良いぞ」
そう言ってメデューサの顔面めがけて回し蹴りを放つ。実に重そうな、そして速い蹴りである。それをメデューサは間一髪の所で、その細い腕でガードし、パンチ、キックと連続で繰り出す。メデューサが動く度にチャイナドレスが舞い上がり、太腿が露わになるが、その布地がじれったい程に股間に纏わり付く。
「はい、はい、それでは始めましょう」
野実が声を上げた。
「えー、あの女性の下着は何色でしょう」
その声に大神が、
「あ、あんな事言ってますよ!良いんですか?」
「まあ、好きにさせとけ。賭け金の三十パーセントは収益となる。門星の住民にも還元されるからな」
「で、でも…」
「今日は子供や学生もいないからいいだろう」
「そういう問題ですか?」
野実が言った。
「えー、黒、ピンク、その他の三択と致します。さあ今から1分間ですよ。えー、尚、今回は日頃の皆様のご愛顧に対しまして、スペシャルベットとして、30パーセントの参加費、コミッションは頂きません。当選された方には賭け金の三倍を保証致します。ただし、キャリーオーバーはございません。はい、ベットタイム!」
会場の客から、囁きが漏れた。
「あたし賭けますよ。頂いたも同然。見えちゃったんです。黒でしたよ。ええ」
「そうなんですか?それじゃ私も便乗させてもらいますか」
一方では、
「私、見えました。あれは間違い無くピンクですよ。ええ。先程見えました!チラッと。こりゃ勝ち戦ですな」
日頃ギャンブルにさして興味の無い女達も、
「その他って、黒かピンク以外なら何でもいいんでしょう。何か一番可能性ありそうじゃなくて?」
「でも、だったら選択肢がもう少しあってもよくありません?実はあの人分かってるから三択にしたんじゃないかしら」
「そうよねえ。三択っていうのは怪しいわね」
あちこちでヒソヒソと声が飛び交う。その間にも、メデューサと大男がやり合っているが、大男の攻撃をほぼ全て見事にかわし、メデューサの蹴りが漸く効き始めたのか、大男の動きが鈍りだした。
「こ、このぅ、ふざけやがって」
大男は、疲れと痛み、そして苛立ちからか、蹴りもパンチも大振りになってきた。
「はい、あと30秒で締め切ります」
野実の声に、わらわらとパーティーの客が近寄って、
「ピンクに5万!」
「黒、2万」
「あたしは黒に五千」
と現金を振り回している。
「はい、終了でーす」
野実が宣言して、程なくメデューサと大男の対決に決着が着いた。メデューサの上段回し蹴りが、大男の頬からこめかみにかけてクリーンヒットしたのだ。芸術とも言えるそのキックは、極限までチャイナドレスをひるがえした。大男は、崩れる様に倒れた。と、同時に客達は、
「見えた!見えました!黒です。間違いない」
その一方で、
「取った!取りました!ピンク確定!」
という雄叫び。
客の歓声をよそに虎蔵が、、
「まあ、当然の結果だな」
と、冷静に言った。
そこに、目玉こと尾井が怒りながらやって来た。
「こら、あれ程面倒起こすなと言ったろ」
「コイツらが勝手に仕掛けて来たのさ」
「はぁ?一体何があったんだ?」
「何でもハーブがどうとかこうとか」
「何だそれ」
「説明するより見た方が早い。コイツだ」
虎蔵が、ポットからハーブティーをグラスに注いだ。
「このハーブがどうのこうの因縁つけてきたんだ」
尾井がグラスの中に泳ぐハーブを見て、
「うん?…こ、これって、ま、まさかマリファ…」
離れた所でけたたましい笑い声がした。
「ぐわははは。ぐわはははっ。楽しいのう。何だかとても気分が良い。それにこの料理最高じゃ。幾ら食っても食い足りん。ガハハハッ」
我那覇が狂った様に、料理を貪っている。目は真っ赤に充血し、周囲を気にする様子もない。
「あそこまで喜ばれると実に嬉しいね。俺としたら」
満足そうに虎蔵が言った。反対に尾井がいぶかしげに、そして怒りを殺すように言った。
「お前、我那覇さんにこれ、まさか、飲ませてないよな?」
「飲んでたよ。駆けつけ3杯」
「お、お前、こ、これ麻薬だぞっ」
「何ぃ!じゃ、コイツら売人かっ!よーしっ、全員逮捕だっ」
「解ってんのか、我那覇さんにこれを…」
「大神。見たか。これぞ我らが特殊夜間課の仕事だ。飲食でエンターテイメント。そして売人逮捕でエンターテイメント。この場所に吸い寄せられてやって来た。料理の臭いに誘われて。これぞ飛んで火に入るカブトムシ」
「夏の虫ですよ」
「ばかもん!カブトムシも夏の虫だ」
「夏の虫が何でも良いなら、クワガタだって、ヤブ蚊だって良くなっちゃうじゃないですか」
「解らんか?」
「何がです?」
「それじゃ、字足らずだろ」
横で聞いていた尾井が頭を抱えて、苦悶の表情になった。
そこへ野実がやって来た。男達をスルーして、メデューサのもとへと近付いた。
「どーも門星福祉賭博課の野実です」
「あら、どうも。以前お会いしたかしら」
「ええ。覚えていらっしゃらないかも知れませんが、何度か」
「そう。で、何か用?」
「はい、不躾で失礼ですが、本日お召しになっている下着は何色でしょう?」
大神が慌てて、
「そんなのセクハラでしょう!失礼じゃないですか」
メデューサは気にも止めずに答えた。
「下着?私は成人してから下着は着けてないね」
「ありがとうございます。えー、皆さん、残念ながら正解はその他となり、よって正解者なし。今回はこちらの総取りとなります」
メデューサの答えを聞き、女達からは口惜しそうな声が聞こえたが。何故か男達からは拍手が起きた。その拍手も聞こえる様子なく、我那覇は未だに料理を食い散らかしていた。
「どうも、門星の経済発展にご協力頂き、感謝致します」
頭を下げる野実に、
「こんな事でよければいつでも」
と、メデューサが返した。
虎蔵が、大神に向かって、
「俺も下着着けない派」
「どうでもいいです」
その時、健が何かに気付いて走って行った。戻って来たその手には、大極上と書かれた小麦粉があった。袋を開け、中を見ると小さなビニール袋が入っていた。
「これ、もしかして…」
尾井が、
「ほう、シャブだなコレ」
既に手錠を掛けられた茶髪に向かって、
「小麦粉の中にコイツ入れてたか。おまけ付きって書いてあるが、とんだおまけだなぁ」
茶髪が怒鳴った。
「うるせー、おまけが本命なんだよ!」
「おまけが本命?変な話しだな」
「何言ってんだ。お前食玩知らんのか?今のご時世、おまけがメインでお菓子がついでなんだよ。でもウチの小麦粉は一流だぜ。何てったってハルユカタだからな」
「あーん、何言ってんだてめー」
「あの幻の!」
健の眼が輝いた。
署に戻り、虎蔵が、
「いやー今日は働いたなー。うん充実した夜だった」
と微笑みながら言った時だった。扉が開いてずんぐりした、警察の制服を着た、団子鼻の還暦位の男が入って来た。
「パパ〜!」
そう言って、薫がその男に抱きついた。
「パ、パパ?」
大神が驚いた顔でいると、健が、
「綾小路久兵衛署長。薫ちゃんのお父さんだよ」
と、教えた。
「え?か。薫さんのお父さんが署長!」
健が頷いた。
久兵衛は、薫のハグを受けた後、何やら虎蔵と混みいった話をしている様だった。やがて話が済み、部屋を出ようとして、大神に目をやった。
「君が大神くんか」
「はい、ご挨拶遅れまして申し訳ございませんでした。わたくし本日より…」
緊張し、直立して話す大神に久兵衛が、
「ま、ま、そんな硬くならずに。いやー若いね君。期待しとるよ。頑張ってくれたまえ」
「あ、ありがとうございます。期待に添える様、一生懸命頑張ります」
うんうん、と、言いながら久兵衛は大神の肩を優しく叩いた。
「ウチにも子供はいるが、君の様なタイプはいないなぁ。何か新鮮だなぁ。君の様な実直さ。嫌いじゃないよ」
「ありがとうございます。署長、お子様は…」
「ああ、3人だ。男1人に女2人」
「そうですか」
「まあ、ここに一人と、残りも近いうちに会うだろうが宜しくね」
「こ、こちらこそ」
「んじゃ、そういう事で」
久兵衛はそう言って、課内の皆を見廻してから部屋を出て行った。
署長との初対面の緊張から解放された大神が、椅子に腰掛けた時だった。
「大変!虎ちゃんが!」
と、薫が叫んだ。
「パニック発作だわ!」
虎蔵が、虚ろな眼で、口を半開きにして、
「あわわわ、あわわわら」
と、震えながら、何処を見るでもなく視線を八方に忙しく動かしている。
心配する薫にメデューサが、
「大丈夫、今回は私が引き受ける」
そう言って、ジャケットを脱ぎTシャツ姿になった。
「はいよ」
と、メデューサが露わになった腕を出すと、虎蔵はその腕に噛み付いた。
「な、何してるんですか、課長!」
大神の言葉に無反応のまま、虎蔵は夢中でメデューサの腕に、吸い付く様に噛みついている。
「だ、大丈夫なんですか、久米さん?」
「気にしないで、甘噛みだから」
「あ、アマガミって…」
薫が言った。
「虎ちゃん、たまになるのよ。過度のストレスやショックな事が起きると」
「でも、どうして腕に噛み付くんですか?」
「落ち着くんだって。昔からなの。女の子の腕に噛み付くの。まぁ甘噛みだから吸いついてる、って云うのが正しいのかな」
「へー、まぁ、課長なら何となく理解できる様な気がします」
「あら、そう?」
「えぇ、というか、もう、僕、分からない事が多すぎて納得しちゃうというか…でも、薫さん昔から課長の事知ってるんですか?」
「まぁね」
「ふーん。でも、何が悪かったんですかね。課長。今日帰って来てからご機嫌だったのに」
「実はね、パーティーで麻薬の売人捕まえたでしょ」
「はい。久米さん大活躍でした」
「うん、それはいいんだけど、主催者に変なモノ飲ませちゃったでしょ」
「あ!」
「そう。それで売人逮捕に関しては、ウチの手柄じゃなくて、厚生局の方に持っていかれちゃったの」
「あ、尾井さんの…」
「あら、尾井さんいたんだ」
「知ってるんですか?尾井さん」
「ちょっとね。で、ウチの手柄にするなら事件の詳細をマスコミに公表しなければならないって事になって。そうなったら例のお酒の件が公になっちゃうでしょう。そしたら手柄どころか大問題になっちゃうでしょ。だから今回は厚生局が目を付けてた売人が、パーティー会場となったホテルで麻薬を捌こうとした所を、マトリが逮捕したと云う事で手打ちにしたそうなの」
「成る程。確かにそうですね。民間人にアレ飲ませちゃったのはまずいよなぁ。まぁ、事件解決したのは間違いないんだから良しとしましょう。って、それでいいんですか!とんでもない事じゃないですか!そんな事許される訳が…」
「大神くん、ゆっくりいこうよ」
「ゆっくりって…」
薫の微笑が、大神の心の中から脳髄へと浸透して行く。
「いいんですか!」
「大丈夫だよ」
「そうですかねぇ」
「そうだよ」
「そっかなー」
「うん」
「僕も大丈夫な気がしてきた」
「良かった」
「何か吹っ切れました」
「そう!ただ虎ちゃんは心の整理がつかなくて…」
「で、ああなったと…」
大きく薫が頷いた。
虎蔵が漸く落ち着いて、メデューサの腕から離れた時、
「虎ちゃん大丈夫?」
優しく薫が声をかけた。
「あーっ、折角の手柄がパーだ。くっそぅ」
「いいじゃない。もともとの仕事はケータリングで、そっちは成功だったんだから」
「だがなぁ…」
「さあ、もう忘れて。そうだ、大神くんも入った事だし、歓迎会って事で飲みに行こうよ!」
「いいっすねそれ」
「僕も行く」
「じゃ、僕も」
佐賀、マミー、健が答えた。
「腕を貸したんだ。課長、奢ってよ」
メデューサも同意した。
7人は[16日の月曜日]と云うバーにいた。カウンターと、ソファーがコの字になったテーブル席が3つ程の広さで、店内には有線だろうか、洋楽が流れている。テーブル席の一つに虎蔵が座り、横に寄り添う様に薫が、もう一方にメデューサが座っていた。薫は楽しそうに虎蔵を見ていたが、メデューサは、バーボンを時折ラッパ飲みしては、相変わらず瞑想に耽っている。マミーと佐賀はその3人を眺める様にして、隣りのソファーに座っていた。
「おい、翔、カラオケ頼むよ。マイコージャンクション。今夜は踊るぜ。ポーッ、てこうパウッって」
股間に手を当て、虎蔵がはしゃいでいる。カウンターの中にいた人物が、
「カラオケしたけりゃ、貸し切りにしろよ。うちは普通のバーなんだからな」
「固い事言うな。俺達しか客いねーんだから」
「しょーがねーな。一曲だけだぞ。後、他の客来たら止めるからな」
そう言って翔はカラオケの準備を始めた。
健と大神は並んでカウンターに座っていた。大神は店内を眺めて、
「良さげなお店ですね。よく来るんですか?」
「うん、しょっちゅう」
「へぇ…」
テーブル席を振り返ると、薫の癒される笑顔があった。眼が合って薫が小さく手を振った。大神が笑顔で返す。
「薫さんて素敵ですよね。ちょっと僕より年上だろうけど…。幾つですかね」
「大神くん」
真面目な顔で健が、
「今は、女性にも男性にもそういうの聞いちゃまずい時代じゃない?」
「す、すみません。そうですよね」
少し置いて大神が、
「あのぅ、課長と薫さんって仲良さそうですよね。課長の事、虎ちゃんなんて呼んで」
「そだねー」
少し聞き辛そうに大神が、
「お二人は、そのう…何というか、どういう関係なんですかねぇ」
「幼馴染だって聞いてるよ。子供の時から、課長の後を薫ちゃんが追いかけてたんだって」
「あ、そ、そうなんだ。どおりで仲良い筈だ。で、もしかすると、そのう…お付き合いしてるとか」
「んー、それはないなぁ」
「ホントですか!皆さん知らないフリしてるだけで、実は、なんてことあるんじゃ…」
「大神くん」
「はい」
「そんな事聞いてどうするの」
「いや、その、どうするとかではないんですが…」
言葉に詰まり、大神は話題を変えた。
「そ、そうだ!署長がお子さん3人って言ってたんですけど、確か男1人に女2人だって」
「そうだね」
「って事は薫さんには、あと兄弟が2人いるって事ですよね」
「ん、まあそうなるよね」
「署長、近々会うだろうけどって、言ってたんですけど、どんな人ですかねぇ」
「目の前にいるじゃない」
「へ!」
「ここ、その薫ちゃんの兄弟のお店だよ」
「ま、マジっすか」
目の前には、翔と呼ばれたオールバックにした短髪を紫に染め、黒地に白のスカルアンドボーンがプリントされたTシャツを着た人物が立っている。身長は百八十近く、その筋骨隆々の二の腕にはアンカーのタトゥーが入っていた。
「こ、この人が、その、あの、薫さんの…」
「そうだよ。翔ちゃん。あ、翔ちゃん彼がウチに新しく入った大神くん。宜しくね」
「あーん?」
翔は大神を見つめ、
「はっ、大丈夫なのか、こんなので?もうちっと鍛えなきゃ務まらねーんじゃねーのか」
強烈なハスキーボイスが、大神に浴びせられた。
「お兄さん。失礼ですが、これでも僕やる時はやります。刑事ですから」
少し反抗するかの様に、大神が翔の両眼を見て言った。翔が、その太い腕を伸ばして、大神の襟首を掴んだ。
「お前、喧嘩売ってんの?」
「い、いや、別にそういう訳じゃ無くてですね…」
「お前、何て言ったんだ、今?」
「で、ですからぼ、僕もやる時はやると…」
「そうじゃねえ、その前だ」
「そ、その前って、何だったっけな。あ、あのお兄さん、とにかく落ち着きましょう」
「ふざけんな!」
翔が怒号をあげた。
「俺は女だ!」
「へ?????」
「そうだよ。失礼だよ。大神くん」
健がカルアミルクをストローで吸いながら言った。
「も、申し訳ありません。た、大変失礼な事を…」
「チッ」
舌打ちして、翔が、大神から手を離した。
崩れる様に座ってから大神が小声で、
「どうして教えてくれないんですか」
「何を?」
「翔さんが、その、あの、女性って事ですよ」
「えー、そのくらいわかるでしょ。見れば」
「分からないですよ!」
「どーして?」
「どーしてって…」
大神が翔に目をやると、未だ自分を睨んでいた。萎縮した大神が目を逸らすと、今まで見えなかったのだが、大柄の翔に隠れる様に、背後に細く華奢な人物が立っている。歳は二十歳を幾つか出たところ。頭はマッシュルームカットで、丸メガネを掛けていた。翔と同じ様に黒いTシャツを着ていたが、そこには(なるべく話しかけないで)とプリントされている。
大神は翔の眼光を避ける為、その人物に声をかけた。
「どうも、大神って言います。こんにちは」
その人物は、大神の方を向く事なく、時折眼鏡を触りながら、空のグラスを拭いている。
「おう、涼、挨拶されてんぞ、返事は」
翔に促され、涼が何かを言ったが、余りにも小さすぎて聞こえない。
「はい?」
聞き返した大神に、
「ほら、ハッキリ応えろよ」
と、翔が言った。
「こ、こ、こんにちわ…」
やっと聞こえる程度の声で涼が喋った。甲高いアニメ声である。
大神が、その気の弱そうな態度に、翔の呪縛から解放されて饒舌に言った。
「どうも。いやー、涼くんて言うんだね。素敵なお姉さん2人に見守られて羨ましいな。僕は一人っ子だから、小さい頃、学校から帰っても1人でね。君みたいな弟が欲しかったのを思い出すよ。ホントあの頃欲しかったなぁ、弟」
涼が、また何かを呟いた。
「えっ?何?」
と、大神が聞き返すと、
「あ、あたし、お、女です」
と、涼がか細い声で答えた。
「あ、そうなんだ」
と言って、
「署長は男1人に女2人って言ってたけど、聞き間違いだったんですね。3人姉妹なんだ」
「何言ってんだ。ウチは3人兄弟だぜ。親父は間違ってねーよ」
そう、翔が言った。
「だって」
大神が翔の方に手を差し伸べ、
「女性でしょ」
頷く翔。
涼の方に向けて、
「女性ですよね」
頷く涼。
「で、あの…」
後ろを振り返り、大神は薫を見た。薫も大神を見て
ウインクを返す。
カウンターの中で翔、涼、そして隣の健も首を振った。
「嘘ダーーーーーーーーーーーーー」
大神の咆哮が朝焼けに轟いた。