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ボーニンゲン・ガンバローズ~熱き男たちの友情~  作者: きちやまきちこ。
第1章 ボーニンゲン・ガンバローズのメンバーたち
31/33

30話 手拭いとカツラ

繁華街のど真ん中にあるクラブに勤めるセピアは、その日の仕事終わり、長く思いを寄せる灰棒の行方を探るべく、繁華街の外れのおでんの屋台のそばにまで来たのであるが、屋台から漏れ聞こえる灰棒の名前と彼に関する話の内容が耳に入ると、いてもたってもいられなくなるのを我慢して、しばらくその話を立ち聞きしていた。


話の内容からして、彼女自身、どういう立場で屋台に入るかは考えるべきところであったからである。


だが、


(ここを間違えたらこれからのことは全部意味がなくなっちゃうかもしれないから慎重に・・・)


と思っていたその瞬間、屋台の暖簾が勢いよく開き、中から頭に手ぬぐいを巻いた中年の男─おでんの屋台の主人─が現れた。


「おやおや、こりゃまた、べらぼうに綺麗なお姉さんがいるもんだなぁ。あんたみてぇな超が十個ぐれぇ付きそうな美人なお姉さんがこんな夜遅くに一人で歩いてちゃぁ危ねぇぜぇ。あ、もしかして、お姉さんのお仕事って、蝶(ボーニンゲン界では、夜の店で働く女性たちのことを一般に、『蝶』と呼び、それが一つの職業名になっている。)かい?それにしてもいくら蝶って言ってもよぉ、アンタほどの美しい蝶は、俺ぁいまだかつて見たことねぇや。・・・気に入った!アンタ、いくらあったかそうなふわふわモフモフのコートを着てたってよぉ、そんな短けぇスカートで長ぇ足出してたらどっちみち寒ぃだろ?うちのおでんであったまんな。お代はいいから。アンタの美しさがお代がわりでぃ。さぁさぁ、入んな。」


絶世の美女を目の前にした主人は、そう言って、困惑するセピアの手をとって、屋台の中に引き入れた。


平棒は、いきなり屋台の外に出て行った主人が近くにいたと思しき女をこれまたいきなり連れ込んで席に座らせたのに驚いたが、それ以上に、その女の圧倒的な美しさに目を奪われていた。


他方、主人に引き入れられて、屋台のカウンター席に座ったセピアは、すぐ隣の席に、見知った顔の男─平棒─がいるのを見て一瞬焦ったが、平棒は彼女を知らない─彼女が実は自分と知り合いであることに気付いていない─ようだったので、あまり気にしないことにした。

それよりも、今まで立ち聞きしていたことが気づかれていないかが、目下の彼女の気がかりであった。


「さぁさぁお姉さん、どれでも好きなものを頼みな。今日はオヤジ二人の奢りだからよぉ。」


「え?おい大将、私も奢るのかい?そんなの聞いてないぞ?・・・まぁ、こんなに美しい人と一緒に美味しいおでんを食べられて、美味しいお酒を飲めるんなら、奢ってもいいけども。」


(よかった・・・やっぱり平棒さん、私のこと気付いてない。じゃあただの通りすがりのフリをしていたらいいかな。)


平棒に気づかれていないことを確認したセピアは、安心して、おでんをご馳走になることにした。


「本当にいいんですか?わぁ、ありがとうございます。嬉しいです。」


「ところでお姉さん、アンタ、さっきまでお仕事だったのかい?こんな遅ぇ時間にそんな寒ぃ格好で繁華街にいるなんてよぉ。」


「そうなんです。この近くのクラブで働いています。それで、仕事終わりでお腹が空いちゃって、ホントはこんな時間に食べたら太っちゃうんですけど、おでんなら大丈夫かな、むしろ温まるからこんな寒い夜にはちょうどいいかな、なぁんて思って屋台のそばまで来ていたんです。」


「そうなんだ。お姉さんは、この屋台は初めてかい?」


「はい、そうです。私、この辺りで働き始めてまだ間もないので、どこにどんな美味しいお店があるのかがよくわからなくて・・・。」


「ほぅ、そうなのかい。じゃあうちのおでんはオススメだよっ。俺ぁ田園穀倉地帯の畑で美味ぇジャガイモを作ってるからよ、おでんだけじゃなくってじゃがバターもメニューにあるんだぜ。」


「そうだよ、大将の料理はどれも絶品だから、何を食べても美味しいよ。」


「わぁ、じゃあ何にしようかなぁ。えーっと、それなら、まず、大将が畑で作った美味しいジャガイモのおでんをいただきます!」


「よっしゃ!まかせとけぃ!あ、そうそうお姉さん、酒はどうでぃ?ボーニンゲン国中から仕入れた美味ぇ酒がいっぱいあるぜぇ。お姉さんはイケるクチかい?まぁ、蝶をやってるんだったら、飲めねぇわけねぇよなぁ。」


主人にそうきかれて、セピアは窮地に立った。


というのは、セピアは、店での情報収集を黒棒に頼まれているため、蝶であるのにもかかわらず、その活動を優先して酒を極力控えており、酒への免疫がほとんどなかったからである。

客に酒を勧められた時は、同僚の蝶(彼女たちは、単にセピアはお酒を飲めないだけだと思っている。)に代わりに飲んでもらったり、口裏を合わせてその場を切り抜けたりして、その都度『危機』を乗り越えていたのだ。


だが、ここにはいつも助けてくれる蝶もいなければ、口裏を合わせられる蝶もいない。

ここにいるのは二人の『気のいい』酔っ払いオヤジだけであった。


(どうしよう、おでんの屋台でお酒を飲まないのって、変なのかしら。でも、飲みたくないものは飲みたくないし、困ったなぁ。でも、飲んでその場を楽しめたらいいけど、楽しみすぎて、知られたくないことを知られちゃうかもしれないのも怖いし。だから、理由つけて断るしかないよね。)


「あぁごめんなさい!私、お酒飲んだら全身が真っ赤になってすごく痒くなっちゃうんです。じゃあどうやって蝶の仕事をしてるのかって言われそうなんですけど、仕事の時は、代わりに飲んでもらったりして、毎回何とか乗り切ってます。すみません、お酒をご一緒できなくて。」


「そうか、君はお酒が飲めないのかぁ。うーん、アルコールに限ったことではないが、何かのアレルギーを持っているのは何かと辛いこともあるよね。まぁ、ここの屋台はお酒が飲めなくても、大将のうまい料理だけでも十分満足できるから、飲めない分食べたらいいじゃないか。なぁ、大将?」


理由が本当であれ嘘であれ、酒が飲めないことを申し訳なさそうに告白するセピアに対し、客と酒を飲むことも蝶の重要な仕事の一つであることを知らない平棒は、鷹揚な態度を示して主人の同意を求めた。


主人も、意外そうな表情は見せたものの、黙って烏龍茶をグラスに注ぎ、ほくほくのジャガイモのおでんとともに、セピアの前に置いた。

そこで生まれたこんな疑問を胸に抱えつつ・・・。


(この子、酒も飲めねぇのに、なんで蝶をやってるんだ?お客さんと一緒に酒飲むのが蝶の仕事じゃねぇのか?)


「すみません大将、せっかくお酒を勧めてくださったのに・・・ありがとうございます、いただきます。」


「いいってことよぉ〜。じゃあ、うちのおでんやじゃがバターを思う存分食べな。さっきも言ったけど、今日のお姉さんの分は全部奢りだ。俺らがそうしたいからそうしてるんだから、気にしねぇでいっぱい食べな。」


主人がそう言ってセピアにおでんを勧めたのを見て、平棒は思った。


(俺『ら』がそうしたい?おいおい大将、確かに奢ってもいいかとは言ったが、そうしたいと言った覚えはないぞ。まぁ、大将がそうやって話を盛るところには慣れているから今さらだが。それより大将は、突然屋台の中に連れ込んだこの子に、おでんを我々の奢りにしてまでタダでたくさん食べさせようとしているみたいだが、一体何を企んでいるんだ?)


こうして、三者三様に本音を隠した、面妖な宴が始まった。


主人は、まず、本題─灰棒の話─とは関係のない話題を、あえて持ち出した。


「そういやぁさっきの話だけどよぉ、息子さんだけじゃなくってよぉ、奥さんも一緒に探したらどうでぃ?なんだかんだ言ったって、奥さんに未練あんだろう?」


(え?息子さん?平棒さん、息子さんいたんだ!・・・知らなかった。)


セピアは驚きつつ、その驚きを二人のオヤジに悟られないように話を聴いていた。


「またその話を蒸し返すのか。何を言ってるんだい、ないよ・・・だってよりを戻したら、またSNSのメッセージが一日に何百件と来て、それが毎日続いてその画面を見るだけで疲れるのに、帰ったらメッセージを未読スルーや既読スルーしたと言って怒られる日々が戻ってくることになるんだぞ。仕事があるんだから、そんなすぐに返信できるわけがないだろう?一度メッセージを送ったら、しばらく待ってほしいんだよ。それを何度伝えても聞いてくれない人とよりを戻せというのか?冗談じゃないよ!大将よ、あなたは私にまたあの地獄を味わえというのか!?」


(あー・・・それは確かに奥さんやりすぎだわ。まぁ気持ちはわかるけど。私も今、灰棒さんからずっと返信来ないし、何ならずっと送ってるメッセージにも既読がつかないんだから。会えなかったらなおさら、何で返信がないの?何で既読もずっとつかないの?なんて思っちゃうわよねぇ。そう考えたら、ずっとメッセージの画面を見ない平棒さんも平棒さんよね。一度でも返事してあげたら、奥さんだってちょっとは安心して、何百通もメッセージを送ったりすることなんてないのに。)


セピアは、おでんのコンニャクの熱さに少し手こずりながら、平棒の反論に対して心の中で呟いていた。


「だからってよぉ、何日も既読をつけなかったり返信しなかったりしたらアンタ、そりゃあ心配になってまたメッセージを送りたくなるだろうよ。一日に何百件もメッセージを送ってくるアンタの奥さんも確かに『やりすぎ』だけどよぉ、何日も会えねぇのにずーっと未読のままだったり既読をつけても返信しなかったりするアンタも『やらなさすぎ』だと俺ぁ思うぜぇ・・・要は、アンタら二人揃って極端だっちゅーことなんだよ!そういう意味じゃあ、アンタら二人は似た者同士でお似合いなんだから、もういっそのこと、より戻しちまいなって!」


「え?何だって?『やりすぎ』と『やらなさすぎ』だって?で、それで何だって?二人とも極端だという意味で似た者同士でお似合いだから、よりを戻せだって?なんで似た者同士だからってよりを戻さないといけないんだ?そんな強制があるか!何て無茶苦茶な論理なんだ!訳がわからないぞ!」


「てやんでぃべらぼうめ!訳わかんねぇどころか、これ以上訳わかる論理があるかっちゅーんだよ!なぁお姉さん、アンタ、蝶として、毎晩お客さんや他の蝶たちのその辺の話とか不満とか色々聞いてんだろ?アンタからもこのわからずやに何か言ってやってよ!」


ほくほくのジャガイモに舌鼓を打ち、熱々の口の中を冷たいウーロン茶で冷ましていたセピアは、この話題に関する二人の『気のいい』オヤジのあまりの剣幕に、少し気圧され気味であった。

だが、主人に意見を求められたので、おずおずと、店で客の相手をしている時の口調とは別人のような口調で、自分の意見を述べた。


「えっと、あの・・・メッセージを短時間に多く送りすぎるのも、あまりにも長時間、届いたメッセージに既読をつけなかったり返信しなかったりするのも、相手の誤解を招きやすい気がするので、どちらも良くないと思います。もしもそんな状態になってるんだったら、できるだけ早く、そこから抜け出さないといけないと思います。その状態から抜け出すための鍵は、メッセージを送られた方の人が握ってると、私は思います。と言うのは、メッセージを送られた人が、お仕事や学校などの忙しい合間の短時間で、既読をつけたり短い返信をしたりスタンプを送ったりするだけで、送った人は少しでも安心できるし、メッセージを続けて送る必要がなくなる場合が多いからです。送った人が続けてまたメッセージを送るのは、相手に嫌がられることが多いので、基本的にはためらわれますからね。」


(あれ?この子、さっきまでの話し方と随分違う話し方をするな。もしかして、この話し方が普段のこの子の話し方なのかもしれないな。何だか少しばかり、男っぽい気もするが・・・そうは言っても声は女の子の声だしな。とは言えもしこの子が男だったら、私のように世界中に数多いる平凡な男どもはもちろん、イケメンとかカッコいいとか美男子とか男前とか騒がれている男たちもきっと、美しさにかけては、誰一人としてこの子の足元にも及ばないだろうから、まぁやってられないだろうな。)


このように、平棒は、セピアの口調に軽い違和感を覚えつつ、冷酒がなみなみと入ったグラスに口をつけた。


(ふーん、今のこの子の話し方は、少なくとも蝶やってる女の子の言葉遣いじゃぁねぇよな。ってぇことは、この子は仕事中は相当自分を作ってるっちゅーことだな。でもあんな仕事は、毎度毎度自分を作ってちゃぁもたねぇと思うんだけどなぁ。どっかでおかしくなっちまうってゆうか・・・そんな蝶たちがここにいっぱい来ては、散々俺に愚痴ってたもんな。そういやここで俺に愚痴ってたあの子らは最近見かけねぇから、きっと辞めて故郷に帰っちまったんだろう。うん、そういうことにしとこう。でねぇとそれ以外のあの子らの末路は、考えるだけでも恐ろしいからな・・・。まぁ、蝶ってぇのはお客さんと一緒に酒飲んでお客さんを楽しませてナンボな仕事なんだから、あの子らは自分を作りきれずに店でも酒を飲んでた、もっと言えば飲まされてたんだろう。店で酒を飲むんなら、胃や内臓を守るために飲みながら食べるなんてことも満足に出来ねぇだろうから、きっと空きっ腹にアルコールを流し込まなきゃならなかったんだろうしな。そうやって身も心も壊れてった仲間たちをこの子もいっぱい知ってんだろう。だから飲まねぇ、そう、飲めねぇんじゃなくて、あえて飲まねぇのかもしんねぇなぁ。となると、次の謎は、なんでこの子だけ、蝶の仕事の一つであるはずの酒を飲むことが、言ってみりゃあ、免除されてんのかっちゅーことだよな。おでんに満足してくれてるようだし、狙いどおり、この子の腹がある程度満たされる頃合いを見計らって、うめぇ酒飲ませてきいてみたら、それにからんで灰棒さんのことも何かわかるかもしんねぇし、もしかしたらもっと面白ぇこともわかるかもしんねぇしな。)


主人は、セピアの蝶らしからぬ口調をこう分析しつつ、グラスにたっぷりの烏龍茶を注いで彼女の前に差し出して、彼女の意見に明るく同意した。


「それだよお姉さん!俺が言いてぇのはそういうことなんだよ。いくら仕事が忙しいからってぇ、スタンプのひとつも打てねぇはずねぇんだって。『ずっと会えない好きな人にそれすらもしてもらえないアタシって何なの?こんなの大事にしてもらってるって言えないよね?こんなことならアタシのことをもっと大事にしてくれる人を他に探そうかな・・・』みてぇな気持ちになっちまうのが女心ってぇヤツなんだよ。言っとくけどよ、そこらへんの話は結婚してたってしてなくったっておんなじだからな!いくら妻の立場だからって、夫から何の反応ももらえねぇのはツレぇんだって。だから男は、最低限、それこそほんの何秒でもいいから、メッセージに既読付けるなり返信するなりしねぇと、いつかフラれちまうし、離婚だってされちまうぞってぇ話でぃ。」


(まぁ、『大事にしてもらえてること』の基準は、『マメに会ってもらえたりマメに連絡してもらえたりするかどうか』だけじゃないもんね。だからそうしてもらえないっていうだけで、好きな人に『大事にしてもらえてない』なんて思っちゃって、その人と別れて、自分を『大事にしてくれそうな』他の人を探すのは、正直もったいないんだよね・・・一度それをやっちゃったら、きっと早いうちに、新しい相手ともまた同じことを繰り返すことになるだろうし。みんな頭ではわかってるつもりなんだけどね・・・。)


そう思いながらセピアは、主人の話の中で、主人が女の声色と口調を真似て話している部分に思わず軽く吹き出した。

そして、頼んでいたじゃがバターを頬張りつつ、出された烏龍茶のおかわりを口にした。


その後もセピアは、『気のいい』オヤジたちとの会話を楽しみながら、おでんの色々な具をたくさん食べ、じゃがバターや烏龍茶も何度となくおかわりして、主人の屋台のメニューを満喫した。


そんな時間がしばらく続いた後、頬を桃色に染めて幸せそうな表情を浮かべることによって拍車がかかったセピアのこの世のものとは思えぬほどの美貌に見とれないように注意しつつ、主人は『勝負』に出た。


「なぁお姉さん、アンタがさっき言ってたみてぇに、酒飲んでホントに全身がひどく痒くなっちまうんだったらしゃーねぇけどよぉ、もし今そうでもなさそうな感じなんだったら、ちょっとぐれぇ飲んで憂さ晴らししたってぇ罪にゃあならねぇと俺ぁ思うんだよなぁ。そんなわけで、お姉さんも俺らと軽く一杯どうでぃ?うちに置いてるお酒ときたら、ボーニンゲン国中の銘酒ばかりだぜぃ。」


この時点で、セピアはまだ一滴もアルコールを口にしていなかったが、お腹が満たされていたので、気分は既にほろ酔いに近い状態だった。


(なるほど、大将の狙いは、お腹が満たされた状態ならこの子も酒を飲むかもしれないことを考えて、この子におでんをたくさん食べさせてから酒を飲ませて、灰棒くんの行方不明について知ってることをききだすことなんだな。それで、私にまで奢らせてでもこの子に食べさせているんだな。)


平棒は、ここでようやく主人の意図に気づいた。


「うーん、じゃあ、お腹が満たされてきてる今だったら、大丈夫かな・・・それなら、えーっと・・・その、今、大将の後ろの棚の一番上の段にある、『橘』をいただきます。」


「おぉ〜、お姉さんお目が高いねぇ。これはナバチタで作られる蜜柑でできたお酒で、アルコール度数がかなり低いから、アンタみてぇな若ぇ女の子やお酒が苦手な人にも大人気なんだぜぇ。」


「そうですよね、ナバチタと言えば、蜜柑の名産地ですもんね。そこに大きな酒蔵もあって、長年に渡って、『名作』と呼ばれる多数の銘酒を作ってこられた杜氏さんが、ご近所の蜜柑畑で採れたばかりの蜜柑を発酵させて丹精込めて作っておられるのが、この『橘』ですもんね。」


「おっ、さすが蝶だねお姉さん。そうか、アンタが勤めるお店にもあるよな。そりゃそうだよな。銘酒として名高い酒だもんな。」


「まぁ、確かにあります。ただ、お店ではお客様にお勧めするばかりで、いただくのは、今が初めてなんです。蜜柑でできてるんなら、きっとフルーティーで飲みやすいんでしょうね。」


「おぅ、もちろんさ。香りも最高なんだぜぇ。もう今日のアンタの仕事は終わってるんだからよぉ、今からだったらうめぇ酒を純粋に楽しんだっていいじゃねぇか。」


短くも小気味良いやりとりを交わした主人とセピアは、互いのグラスに『橘』を注ぎ合い、乾杯した。


「おいおいお二人さん、私も入れてくれ。大将、私にもその『橘』を入れておくれよ。」


この間、一人蚊帳の外だった平棒が懇願すると、主人は、


「しょうがねぇから、女心のイロハもわからねぇ残念なオヤジにも一杯入れてやろうか。」


と言いつつ平棒のグラスにも、『橘』をなみなみと注いだ。


「大将、一言多いぞー。」


と、平棒は文句を垂れつつも、主人が注ぎやすいように、グラスを傾けた。


「じゃあ、みんなのグラスに『橘』が入ったところで、ここでまた、乾杯しましょう!カンパーイ!」


「カンパーイ!」


セピアの音頭に合わせてここで改めて乾杯した三人は、グラスの中の蜜柑色の美しさとそのフルーティーな香りを愛でた。


グラスを重ねるにつれて、主人や平棒は、ビールや他の冷酒を飲んだりもしたが、『橘』を気に入ったセピアは、ずっとそればかり飲んでいた。


タイミングを見計らって、ついに主人がセピアに揺さぶりをかけ始めた。


「どうやらお姉さんは、『橘』だったら痒くなったりしねぇようだな。良かったじゃねぇか。お気に入りの酒でアレルギー反応が起きなくてよぉ。」


「そ、そうみたいですね。良かったです。ありがとうございます。」


「それにしてもよぉ、蝶ってぇのは、お客さんと酒飲んで、お客さんをトークで楽しませるのが主な仕事だと俺ぁ思うんだけどよぉ、酒を飲まねぇアンタは、同僚の蝶たちに代わりに飲んでもらってる間、何やってお客さんを楽しませてるんでぃ?」


「私は子供の頃から、歌手だった父に鍛えられてきたので、声が7オクターブ出るんです。それを生かして、店で歌を披露することがあります。ありがたいことに、それを喜んでいただけるお客様が多くて、おかげさまで、お店で一番多く、お客様からのご指名をいただいています。」


「へぇ!声が7オクターブ出るとか、それを生かした歌でお客さんから一番多くご指名もらえてるとか、って、じゃあアンタはそんな一芸で、店のナンバーワンになったってぇことかい!すっげぇじゃねぇか!」


屋台に引き入れた女が、思いがけず、繁華街のど真ん中のクラブのナンバーワンの蝶であったことを知った主人が興奮していると、平棒が、鋭い質問をセピアに投げかける。


「しかし、声が7オクターブも出るようになるには、何らかの特殊な発声法が必要になると思うのだが、そういう発声法を必要とする歌のジャンルと言えば、ボーミー(ホーミーではない。)ぐらいしか思いつかないなぁ。ボーミーは、確か、棒国の伝統的な民謡だったかな。お父上がボーミーの歌い手さんでいらしたということは、もしかして、君は棒国の人なのかい?」


「・・・はい、実はそうなんです。高校を卒業してから、言わば『出稼ぎ』っていう形でボーニンゲン国にやってきたんです。」


(確かにボーミーを歌うのには特殊な発声法が必要だけど、そこまで特殊なものだったなんて思ってなかったよー。お父さんはそんなこと言ってなかったのに・・・。えー、私が棒国人なのがこんなことでバレちゃうなんて・・・て言うか、それを知られないように、歌のジャンルを隠して話したのに、それがボーミーってわかるなんて、平棒さん知識の幅が広すぎるー。)


セピアは、平棒の教養のレベルの高さに驚いた。

ごまかすつもりだった出身国をごまかせなくなった苦しさの中、そこから今の店で勤めることになった細かい経緯を省略して答えた。


(この子、棒国人なのか。じゃあもしかしたら、黒棒さんや灰棒くんのことも知ってるかも。あの人たちがこの子の勤める店に来てたりとか、ありそうだもんな。ってことは、灰棒くんが行方不明なことも知ってるかもしれない。もっと言えば、その事実以上のことまで知ってるかもしれないな・・・。)


冷酒を飲みながら、セピアの素性について考えを巡らせる平棒は、主人が同じことを考えていないか確認するために、主人の方を一瞥した。

主人も、平棒の視線とその意図に気づいた。

そして、主人も概ね同じようなことを考えていた。


(やっぱり平棒さんも、今のこの子の答えを聞いて同じことを思ったみてぇだな。棒国人のこの子が勤める店に、同じ棒国人の黒棒さんや灰棒さんが行かねぇわけねぇよな。いやそれ以前に、あのモノトーンコンビのことだから、あの子を棒国から連れてきて、蝶として働かせてるのかもしんねぇな。だとしたらよ、この子は、灰棒さんの行方不明についてゼッテェ何か知ってるってことになるよな・・・。)


平棒は、より核心に迫るべく、セピアにさらなる問いかけをした。


「ということは、君もボーニンゲン語を、我々のような、言ってみれば、ボーニンゲン語ネイティブと普通に会話できるぐらいにまでマスターするのに、相当苦労しただろう?何しろボーニンゲン語と棒国語とでは、言語の系統が根本的に異なるとされていて、確立するまでの歴史的経緯も違えば文字も文法上の決まりもまったく違うそうだからね。実は、君の他にもう一人、棒国語とボーニンゲン語をどちらも見事に使いこなせる人を知っているのだが、その人も、両方の言語を使いこなすまでに、かなり努力したらしいからね。」


「いえ、私の場合は、ありがたいことに、ボーニンゲン語を教えてくれる人が身近にいたので、少なくともその方よりは、多分それほど苦労も努力もせずに済んだんだと思います。」


(あぁ、二人とも灰棒さんのことを言ってんだな。)


そう思った主人は、まず、親友である平棒の良さを褒め、そこに絡めて、ここぞとばかりに本題━灰棒の話━を持ち出した。


「へぇー、ボーミーっていう歌い方があんのかぁ。で?それで何だって?ボーニンゲン語と棒国語って、そんなに何から何まで違うものなのかぃ?はぁー、アンタやっぱり博学だよなぁ。俺がアンタを尊敬してんのは、アンタのそーゆーところなんだよ。何つーか、教養の幅が広くて深ぇところってぇのかな。だからアンタの話はいっつも面白ぇんだよな。まぁ、女の人にゃあなかなかわかってもらえねぇんだろうけどな、アンタのこういう『良さ』っつーのはよ。・・・ところでよぉ、ボーニンゲン語と棒国語で思い出したんだけどよぉ、どっかに行っちまったのかなぁ灰棒さんはよぉ。あの人最近、テレビで見なくなっちまったもんなぁ。野球中継でガンバローズの試合の後、必ずオーナーの黒棒さんのインタビューがあったら、あの人も必ず棒国語の通訳として一緒に出てくるってぇのに、ここ二週間ぐれぇ見ねぇもんなぁ。」


「君は、プロ野球中継を見るかい?」


平棒が、そこに関連づけてセピアに尋ねる。


「えぇ、仕事がお休みの日は、テレビで見ています。確かに灰棒さんと言えば、いつもガンバローズの黒棒さんの通訳で出てる人ですよね。」


無難に答えてその場を切り抜けようとするセピアの逃げ道を塞ぐべく、主人は、確信を突く問いを発した。


「・・・お姉さん、アンタが知ってる灰棒さんは、そんな灰棒さんだけじゃねぇだろぉ?灰棒さんは、同じ棒国人のアンタがいる店に、黒棒さんと一緒に毎晩のように通ってきてたんじゃねぇのかい?」


「・・・」


「あぁ、お店でボーミーを歌うこともあるんだったら、棒国人のお客さんもよく聴きに来るのではないかな?とすると、大将の言うように、黒棒さんや灰棒さんも、お店に来ていても何の不思議もないよね。」


「・・・」


「それどころか、アンタ、棒国から黒棒さんと灰棒さんに、この国に連れて来られた、もっと言やぁ、言葉悪ぃけど、拉致られたんじゃねぇのかい?でもって、黒棒さんの情報収集に協力するために、今の店で働かされてるっちゅー話なんじゃねぇのかい?」


「・・・それは違います!」


セピアは、答えに困る質問ばかりを急にしてくるようになった『気のいい』オヤジたちが作ろうとしている話の流れを、何とかして変えようとした。

そこで、主人が発した『拉致』という言葉に敏感に反応して言葉を続けた。


「・・・拉致されたんじゃありません。私が灰棒さんにお願いして、高校卒業後にこの国に連れて来てもらったんです。灰棒さんは地元の先輩で、小学生の頃からずっと、私を可愛がってくださっています。ボーニンゲン語も、灰棒さんに丁寧に教えてもらったおかげで、それほど苦労することなくマスターできました。私だって、この二週間ずっと、灰棒さんと連絡が取れなくて、心配なんです!」


しかし、それが自らの立場をより悪くする結果となった。


「ふぅーん、それで、俺の屋台のすぐそばでよぉ、ちょうど俺らが灰棒さんの話をしてたのを聞いて、しばらく立ち聞きしてたっちゅーわけだな。」


(しまった!立ち聞きしてたのバレてたんだ!)


(あぁ、だから大将は、この子をここに連れて来たんだな。なるほどね・・・。)


「それで、灰棒さんに何度もメッセージを送ってるけど返信をもらえるどころか既読さえもつかねぇから、灰棒さんにふられちゃったのかも、なぁんて思ってたんだろうけど、それにしても二週間も既読がつかねぇのはいくら何でもおかしいから、最近の灰棒さんのことを何か知ってる人はいないかな、みてぇなことを思ったから、ここに来たっちゅーことだろ?」


「え?灰棒さんにふられちゃったかもって、え?え?大将、何言ってるんだい?」


「はぁ・・・アンタはつくづく女心ってヤツをわかってねぇなぁ。このお姉さんは、灰棒さんに惚れてるんだよ!」


「えぇーっ?!今の話だけでそんなことがわかるのか?」


「丸わかりだろぅ。見ろよ、お姉さんの綺麗な顔が真っ赤っかじゃねぇか。」


「いや、わからないよ。一体どの部分でそんなことがわかったんだよ。」


セピアは、主人に図星を突かれすぎて、顔のみならず、耳まで赤くしていた。

そして、恥ずかしさのあまり、手で顔を隠しつつ、不用意な一言を発した。


「もぅ、そんなこといいじゃないですかぁ、平棒さん・・・。」


その一言で、場の空気の全てが、一瞬止まった。

そして、平棒が、おもむろにセピアに話しかけた。


「あれ?お姉さん、私はお姉さんに名を名乗ったっけかな?」


自己紹介をした覚えがなかった平棒がそれを彼女に確認した刹那、主人がおもむろに頭に巻いていた手拭いをほどいて右手にその手拭いの端を持って勢い良く数回振り回すと、それを思い切りカウンター席の方へ一振りした。


「何だ何だ、虫でもいたか?」


平棒がすんでのところで首をすくめて主人が振り抜いた手拭いをよけ、その首をゆっくり戻しつつ主人に尋ねた。


主人はそれには答えず、手拭いを持っている手とは反対側の手で何かをぶら下げていた。


平棒は、主人が何を持っているのかわからなかったのだが、そんなことより、隣に座っているセピアの様子が気になった。

主人が突然勢い良く振り回した手拭いが、セピアの顔や頭を直撃しているのではないかと心配になったのである。


しかし、平棒がそこで見たのは、セピアが頭を両手でしっかり抱えてカウンターのテーブルに突っ伏している姿であった。

そういう意味では、平棒の心配は杞憂だった。


とりあえずは、セピアは無事なようであった。

だが、両手で隠れているセピアの頭には、先ほどまであったはずの長く美しい巻き髪がなくなっていた。

それに気付いたセピアは、突っ伏したままで、一気に青ざめた。


「いやぁお姉さん、突然手拭いを振り回してすまなかったねぇ。屋台なもんで、外から虫が入り放題でよぉ、今もう冬だってぇのにおでんの匂いに釣られて入ってきやがるんでぃ。って言っても殺虫剤を撒くわけにもいかねぇしよぉ、だからさっきやったみてぇに手拭いで追っ払ってるんでぃ。いきなりやっちまってビックリしただろう?ごめんよ。大丈夫かい?」


(ど、どうしよう、巻き髪のカツラがないっ!これじゃあ恥ずかしくて顔を上げられないわ。でもだからと言って、いつまでもこのままっていうわけにもいかないし・・・あーんもう、全然大丈夫じゃなーいー!)


セピアは、そう思いながら、恐る恐る答えた。


「い、いえ・・・だ、大丈夫です。」


(・・・虫なんていなかった。いたとしてもごく小さい虫だったはずだし、その程度の虫ならわざわざ手拭いであんなに強く振り払う必要なんてないはずだ。その程度の虫なら、今までだったらいないことにしていたじゃないか。なのになぜ・・・?大将は一体何を考えているんだ・・・?)


主人の方に向き直っていた平棒には、主人がセピアに謝罪しているのが嘘くさく聞こえてならなかった。

主人が何かを考えているらしいことはわかったのだが、それが何であるかまでは、この時点でセピアの巻き髪がなくなっていることにまだ気付いていない彼にはわからなかった。


手拭いを頭に巻き直して、その手拭いの戦利品である長く美しい巻き毛─のカツラ─を、ようやく顔を上げたセピアの目の前に示して主人は尋ねた。


「ところでおねえさん。いや、お・に・い・さん、って呼んだ方がいいんだろうな。さっき、酒が飲めねぇって言うアンタには、どうやって蝶の仕事をしてるか教えてもらったけどよ、俺が知りてぇのはそんなことじゃねぇ。酒を飲まねぇとつとまらねぇはずの蝶の仕事をアンタが出来てるのは、恐らく黒棒さんが、店に来る色んなお客さんからの情報収集をアンタに頼む代わりにアンタが店で酒を飲まなくてもいいようにしてるんだろうな。だけどよ、お姉さんにしかできねぇはずの蝶の仕事を、お・に・い・さんであるアンタがなんでやってんのか、それを俺ぁ知りてぇんだ。あと、何でこの人が平棒さんだってことを知ってたのかってぇこともだ。俺もこの人も、この人が平棒さんだっちゅーことを、アンタにわかるようには一回も言ってねぇ。なのにアンタはこの人を平棒さんと呼んだ。それも何の躊躇もなく、だ。アンタ、いってぇぜんてぇどこの誰なんだ?」


そこで初めて平棒は、巻き髪のカツラのないセピアの顔を、まじまじと見た。


そして、その顔が、見知った顔であるという確信を持って、こう声をかけた。


「君は・・・墨茶棒くんだよね?」


自分の正体を明かさないままこの屋台を出るつもりだったセピアにとって、『気のいい』オヤジたちは、もはやどこにもいなかった。

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