24話 浅葱棒の手紙と楽園の未来
萌黄棒の入団交渉が難航するであろうことを予想していた黒棒一行は、あらかじめスケジュール調整をしておいたうえで、長期滞在する腹づもりでゲンザにやって来ていたのであるが、それでもなお、そうした予想を超える事態が起こる時は起こるものである。
その予想を超える事態、すなわち『あの悲劇』が起こったのは、黒棒一行のゲンザ滞在五日目のことであった。
その日も萌黄棒の父である浅葱棒は、いつも通り仕事に出かけた。
しかし、彼はその日、帰って来なかった・・・。
夜になっても帰らない父を案じた萌黄棒は、近所の隣組、集落の消防団、自警団、そして黒棒一行に、父の行方不明を伝えた。
すぐさま大人数の捜索隊が結成され、浅葱棒の捜索は、夜も昼もなく行われた。
こうして大規模な捜索が行われた末に、捜索開始から三日目の早朝に浅葱棒は発見されたのだが、その時には彼は、すでに一本の棒になっていた。
ボーニンゲンが棒になるということは、そのボーニンゲンの死を意味する。
ボーニンゲンは、死んで肉体から魂が抜けた瞬間、一本の何の変哲もない棒になるのだ。
浅葱棒は、深い森の中の一本の木の下で発見されたのだが、そこは彼が最後に出かけた作業場であり、発見された現場のそばにある木の高枝を切り払うべくその木に登っていたところ、何らかの原因で、高所から真っ逆さまに地上に落ちて頭部を強打したことによって死亡し、棒になったものと思われる。
なぜその棒が浅葱棒の遺体であるということがわかったのか、ということであるが、ボーニンゲンが事故や事件に巻き込まれるなどして人知れず亡くなった場合であっても、その時点でそのボーニンゲンが身につけていた着衣や持ち物が、その遺体である棒に必ずまとわりついているもので(それによって、その棒がボーニンゲンの遺体であるかただの棒であるかの区別がつく。)、その点浅葱棒の遺体発見現場も例外ではなく、そこにあった棒に、浅葱棒の作業着がまとわりついていたからである。
浅葱棒の遺体である一本の棒を見つけたのは、黒棒一行がゲンザに来る直前に、萌黄棒と遊びに行く約束をしていた友達のうちの一人の少年だった。
この少年は集落の自警団の一員であったのだが、まだ高校生でありながらもこのような捜索や遺体発見には比較的慣れていた。
と言うのは、鬱蒼とした森や切り立った崖に囲まれた集落であるゲンザにおいて、集落内及びその周辺における行方不明者の捜索や救助あるいは遺体発見は、悲しいことに日常茶飯事であったからであり、そうしたことは、取りも直さず、集落の自警団の出番が多いことを意味していたからである。
ゲンザの美しくも厳しい自然は、そこに長らく暮らす地元民のみならず、やっとの思いでたどり着いた数少ない観光客や研究者たちといった外部の者にも、まるで虫の居所が悪い時にたまたまそばにいた者に八つ当たりでもするかのように、季節を問わず、たびたび牙をむいて容赦なく彼らを飲み込んでいく。
そうしてゲンザの自然に飲み込まれた者たちの捜索・救助及び遺体発見並びにその後の必要な活動は、彼のように集落の自警団に入っている者にとって、一人一人の被害者に必要以上に感情移入する余裕がないほど次々と行われるものなのである。
だが、そんな彼でさえも、親友の父親、それも自分がごく小さい頃から自分の子供と同じように育ててくれて、一緒に遊んでくれた近所の優しいおじさんの遺体を自分が見つけてしまったことに、ひどい精神的ショックを受けざるを得なかった。
浅葱棒の遺体を発見してからしばらくの間、少年は現場で一人、立ち尽くしていた。
声を上げることさえも出来ずにいた。
ただひたすら、とめどなく涙が流れ落ちるのみであった。
それからどれぐらいの時間が過ぎただろうか。
遠くの方から聞こえる自分を呼ぶ声によって少年は我に返り、首に掛けていた笛を、渾身の力を込めて吹いた。
その笛が被害者発見の合図であった。
笛を吹いた後、少年は、浅葱棒の作業カバンの外ポケットから、何やら文字が書かれた封筒のようなものがはみ出ていることに気づいた。
その文字は、最初の二文字しか見えなかったが、それを見ただけで、その手紙の存在そのものが秘密にされなければならないものであることを察した少年は、その封筒を丁寧に引っ張り出して、背負っていたリュックのポケットに、急ぎつつも丁寧にしまい込んだ。
封筒をしまい込んだリュックを元どおりに背負った瞬間から、少年の笛の音に呼応した捜索隊のメンバーが、続々と現場に集まり始めた。
それからしばらくすると、集まってきていた人々をかき分けて、萌黄棒がその輪の中心─父のいる場所─に入ってきて、少年の横に並んだ。
そこにあった一本の棒を見て、萌黄棒は言葉を失った。
少年が、変わり果てた父の姿を見て言葉を失っている萌黄棒の肩に手を掛けた。
涙は静かに、彼の頬を濡らし続けていた。
萌黄棒は、少年の方を向き、彼の肩に軽く頭を乗せた。
その頬もまた、涙で濡れていた・・・。
黒棒一行も、浅葱棒の捜索への協力を申し出ていたが、捜索には幾多の危険が伴うため(実際、ゲンザでは、『ミイラ取りがミイラになる』ような事態はよくあることであった。)、捜索隊から待機を依頼されていた。
待機していた黒棒一行のもとに浅葱棒発見の一報が入ったのは、ゲンザに一つだけあるホテルで彼らが朝食を食べながら、浅葱棒の無事を祈る話をしていた時であった。
彼らは取るものもとりあえず、萌黄棒の家に急行した。
浅葱棒の無事を願っていた彼らにとっても、それは残酷な対面であった。
萌黄棒の家に着いた彼らを待っていたのは、浅葱棒の遺体と、そばに付き添う二人の少年だった。
彼らは浅葱棒の遺体に一礼し、二人の少年に遺体発見の経緯を聞き、二人を慰め、萌黄棒の入団交渉を無期限で延期することを提案した。
それから三日後、浅葱棒の葬儀が執り行われた。
黒棒は、葬儀に参列した後一旦ゲンザを離れ、萌黄棒の入団交渉について、それ自体を白紙に戻すことも含めて再検討することを考えていた。
高校生とプロ契約を結ぶのには、事前に本人のみならず保護者とも十分に協議しなければならないが、萌黄棒の場合、唯一の保護者であった浅葱棒がいなくなった以上、これ以降の協議が現時点では不可能となったからである。
萌黄棒本人がプロ野球選手になることに後ろ向きである一方で、保護者であった浅葱棒が萌黄棒のガンバローズ入団に非常に前向きであった、すなわち黒棒の『強い味方』であったのだが、その浅葱棒がいなくなったことが、黒棒にとっては何より痛手であった。
葬儀が終わり、帰りのヘリコプターを手配しようとしていたちょうどその時、黒棒は少年に呼び止められた。
「黒棒さんですか?」
黒棒は、自分が呼ばれたことをかろうじて理解し、呼ばれた方に向き直った。
「実は僕、浅葱棒さんを見つけた時、浅葱棒さんのカバンのポケットから、あなた宛のお手紙を見つけたんです。手に取るべきかどうか悩んだんですが、手に取る前の時点で、既にあなたのお名前が書かれているのが見えていたので、もしかして萌黄棒のプロ野球行きのことなのかな、もしもそうだとしたら他の誰かに見られるのは多分まずいんだろうな、だから誰にも見つからないうちに、と思って・・・」
長く複雑なボーニンゲン語を全く理解できない黒棒は、少年が言いたいことを言い終わらないうちに、彼の手を取って灰棒がいるところに連れて行き、灰棒に通訳を頼んだ。
何が何だかわからないままいきなり灰棒の目の前に連れて行かれた少年は、どうやら自分が話す言葉が黒棒には通じないらしいことに気づいた。
そこで、誰に促されるでもなく、先ほど黒棒に言ったことをもう一度灰棒に言い、黒棒に伝えてもらった。
そして、少年から封筒を受け取った黒棒は、封を切り、中に入っていた浅葱棒の手紙の文面を灰棒に訳してもらうことにした。
灰棒は、一度手紙に目を通して黒棒に棒国語で手紙の内容を伝えた後、何か思うところがあったようで、黒棒と棒の富士に何やら耳打ちした。
そして、棒の富士は少年に、手紙の内容を読み聞かせた。
手紙には、武骨ではあるが丁寧な字で、こう書かれてあった。
『拝啓 黒棒 様 灰棒 様
この度はお忙しい中、我が息子、萌黄棒のために、このような危険な辺境にまでお運びくださり、誠にありがとうございます。
数多いプロ野球ファンの一人として、これ以上光栄なことはありません。
もともとテレビやラジオが十分に普及しておらず、その結果、プロ野球はおろか、野球というスポーツそのものを知っている人も決して多いとは言えないここゲンザにおいて、萌黄棒は、我が子ながら素晴らしい才能を発揮して、ありがたいことに、国の高校野球の代表選手にまでなってくれました。
一時は私の期待通り、プロ野球選手になることを考えていたようでしたので喜んでいたのですが、最近になって急に、私の仕事を継ぎたいなどと言うようになり、困っているところです。
萌黄棒は、それが親孝行になるしゲンザのためにもなると言って、聞かないのです。
私としては、萌黄棒の素晴らしい才能がこのまま埋もれてしまうのは本意ではありませんし、何より私の仕事は危険度が大変に高いため、萌黄棒には絶対にさせたくない、決してさせまいと考えております。
この仕事をしている限り、私の身にも、いつ何が起こるかわかりません。
仕事で家を出るたびに、もう生きて帰れないかもしれないと思うのです。
私の前では言葉にすることはありませんが、恐らく萌黄棒も、そんな私のことを心配していると思います。
彼には私と同じ思いをさせたくないですし、この先できるであろう彼の家族にも、今の彼と同じ心配をかけさせたくないのです。
また、私の仕事に将来性があるとも思えません。
確かに、ゲンザの美しい自然を守ることも大切かもしれませんが、その美しいと度々評されるゲンザの自然の恐ろしさは、今ゲンザにいる人々の力だけではもはや手に負えないところまで来ています。
それならば、萌黄棒にはプロ野球選手として活躍してもらい、叶うことなら、我らが楽園の英雄である横綱棒の富士関とともに、ゲンザのこの窮状をボーニンゲン国全体に、いえ、全ボーニンゲン界に訴えてもらって広く皆様方のご協力を仰ぐことによって、ゲンザを助けてもらいたいのです。
無論、こうしてお声がけをいただいているからと言って、必ずしも萌黄棒がプロ野球選手になれるとは限りませんし、晴れてプロ野球選手になれたからと言って、そうした役割を果たせるほどの活躍ができるとも限りません。
しかし、それでもなお、私はその可能性に賭けたいのです。
もし萌黄棒に、プロ野球選手になれるほどの才能、実力、将来性があると認めてくださるのでしたら、我が息子、萌黄棒を、プロ野球選手として、ボーニンゲンガンバローズ様の一員にしていただけますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
・・・・・・・』
黒棒と灰棒は、常に自らの死を覚悟していた浅葱棒の並々ならぬ思いに触れ、涙を禁じ得なかった。
少年に至っては、号泣していた。
手紙の中で言及されていた棒の富士は、自分が『楽園の英雄』と呼ばれていることの意味を、その重さを、改めてひしひしと感じていた。
萌黄棒が落ち着き次第、再び入団交渉のテーブルに着いてもらうことで、四人の意見が一致した。
それから一週間ほど経ったある日、彼らは萌黄棒をホテルのロビーに呼び出し、彼に浅葱棒の手紙を見せた。
手紙を見つけた少年が、重い口を開いた。
「ごめんよ萌黄棒、浅葱棒おじさんが書いた手紙、僕がおじさんのカバンから取ったんだ。宛名に黒棒さんの名前が書いてあるのが見えたから、これは絶対に、君がプロ野球入りするかどうかについての大事なことが書かれてる手紙だから他の誰かに見つかったらきっと面倒なことになるだろうなと思って、みんなが来る前に咄嗟に隠したんだ。それで、黒棒さんたちに渡して読んでもらったんだ。その結果、君にこの手紙を読んでもらったうえで、もう一度自分の進路を決めてもらおうということになったんだ。」
そう言われた萌黄棒は、父が最後に書いた手紙とはいえ、自分宛ての手紙ではなかったし、しかも、他人に知られてはいけない内容であった手紙なら、自分がその手紙を読める筋合いではないということを理解してはいたが、それでもなお、なぜ自分の親友であるこの少年が自分より先に父の手紙の内容を知っているのかについては、どうにも釈然としないものがあった。
父の手紙を渡された萌黄棒は、そんな複雑な気持ちで、その手紙を読んだ。
萌黄棒が手紙を読んでいる間に、灰棒が少年に、みんなの分のお茶を入れてきてくれるよう頼んだ。
『・・・萌黄棒を、プロ野球選手として、ボーニンゲンガンバローズ様の一員にしていただけますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。・・・さて、私の子供と言えば、一人息子の萌g・・・』
萌黄棒がそこまで読んだところで棒の富士があわてて手紙を取り上げて、彼に言った。
「まあそういうことだ。このお手紙を読んでどうするかは君自身がよく考えて決めることだ。ここまで読んだら、君のお父さんがどんな思いで林業の仕事をされていたか、どんな思いで君の将来を考えておられたかがよくわかっただろう。」
萌黄棒は、途中で棒の富士に手紙を取り上げられたので、彼に不審な目を向けたが、彼に強めに肩を叩かれてそれを遮られた。
(父さんの手紙にはまだ続きがあったのに、なぜ、横綱は急に手紙を取り上げたんだろう?)
萌黄棒は、そう思いつつも、少年が持って来たお茶を受け取って飲んだ。
「もちろん、今すぐ返事してくれなくていい。よく考えて、君の中できちんと結論が出たら、我々に教えてほしい。勿論、我々のチーム事情のことは考えなくていい。君がそんなことを気にしなくてもいいんだ。全てはこの先の君の人生のことだ。くれぐれも、自分の気持ちに嘘をつくことのないように。いいかい?」
黒棒は、灰棒の通訳を介して、萌黄棒に思いを伝えた。
「はい、わかりました。しばらく考えさせてください。」
萌黄棒は、そう答えて、家に帰った。
(父さんは、僕に林業の仕事を継いでほしくないと考えていたのか・・・。ということは、僕が林業の道に進むことは親孝行どころか、かえって親不孝になるんだな。まあ、確かに危険ではあるし、現に父さんは、仕事中の事故で亡くなってしまったし・・・。)
(僕がプロ野球選手になったら、もうゲンザにはなかなか帰ってこれなくなるから、ゲンザのために働くことができなくなってしまうと思っていたけど、父さんが考えていたような方法なら、棒の富士関みたいに自分も有名になったら、それを利用してゲンザを助けることができるかもしれない・・・。)
(だけど僕が一人だけでゲンザを出て、プロ野球選手としてやっていけるかなぁ・・・。)
この三日間、萌黄棒はそんなことばかり考えていた。
そして、ついに、あることを決心したうえで、棒の富士に連絡をとった。
萌黄棒の連絡を受けた棒の富士は、黒棒と灰棒にその旨を伝え、少年と萌黄棒には、ホテルのロビーに来るよう指示した。
全員が集まった場で、萌黄棒は、プロ野球選手として、ボーニンゲンガンバローズへの入団を希望する意思を表明した。
ただし、条件をつけた。
おもむろに席を立って少年の後ろに回り、彼の両肩を真後ろから両手で力強く叩いて、こう言い放ったのだ。
「彼も一緒なら、僕はプロ野球選手としてやっていけます。ですので、彼と一緒に、ということを条件に、ボーニンゲンガンバローズに入団させていただきたいと思います。」
驚いたのは、肩を叩かれた少年だった。
・・・驚いていたのは、彼だけだった。
三人の大人たちは、我が意を得たり、と言わんばかりの表情をしていた。
実際、萌黄棒の返事は、完全に彼ら・・・正確には、灰棒の読み通りだったのである。
その様子を見た少年は、背筋が凍ったような感覚を覚えた。
なぜなら、自分が萌黄棒のために密かに動いていたはずなのに、いつの間にか大人たちが、自分の知らないところで自分に何かをする目的で動いていたことに気づいたからである。
騙された気分になった少年は、大人たちに不信の目を向けた。
そして、怒気を奥底に含んだ声で、萌黄棒を問いただした。
「なぁ萌黄棒、君は一体何を知ってるんだい?僕は野球なんて全くやったことないのになぜ君は、僕が一緒ならプロ野球選手としてやっていけるみたいなことを突然言い出すんだよ?おじさんの手紙のことを君にすぐに教えなかったことは謝る。本当にごめん。だけど、プロ野球選手を一緒にやることを僕に直接持ちかけもしないで、なんでいきなりプロ野球のスカウトの人たちに言っちゃうんだよ、おかしいだろう?もし何かを隠してるんだったら、ここで今すぐ教えてくれ。おじさんの手紙には、続きがあるんだろ?そこには僕のことが書かれてるんじゃないのか?」
少年は、そう言い終わるが早いか、萌黄棒に掴みかかった。
萌黄棒は、手紙を最後まで読んでいないから手紙に少年のことが書かれていたかどうかは知らないと言い続けたが、少年は、聞く耳を持たなかった。
灰棒が、少年の察しの良さ、頭の回転と行動の速さに舌を巻きつつ、慌てて少年の動きを止めた。
実は、少年が怒るところまでは灰棒の想定の範囲内であった。
しかし、浅葱棒の手紙には続きがあることに少年が気づいていたこと、そして、少年が、親友に掴みかかるほどにまで激怒することは、完全に想定外であった。
少年はさらに続ける。
「萌黄棒がおじさんの手紙を読んでる間に、僕は灰棒さんに頼まれて、みんなの分のお茶をもらいに行ったけど、そうやって僕が席を外している間に、君はおじさんの手紙を最後まで読んだんだろう?僕が読んでない、いや、棒の富士関から聞いていないところを含めてね。だから君は突然、こんな大事な場で、あんなとんでもないことを言い出したんだろ?」
萌黄棒は、今は敢えて答えず、少年が落ち着くまで待つことにした。
少年の怒りの矛先は、灰棒と棒の富士にも向けられた。
「もっと言えば、灰棒さんも棒の富士関も、おじさんの手紙の最後の方の部分を、わざと僕には教えないようにしておられた、ということですよね?とは言うものの、本来、僕はたまたまおじさんの手紙を見つけただけで、それ以上の関係は何もなかったはずです。黒棒さんにおじさんの手紙を渡したら、それで僕の役目は終わりだったはずです。とすれば、僕は、おじさんの手紙の内容を、ほんの少しでも知っていてはいけないはずなんです。それなのにあなた方は、たとえ全部ではなかったとしても、そして、手紙そのものを僕に直接読ませてくれはしなかったとしても、手紙の内容を僕に知らせてくれましたよね?そうまでして、一体全体何のために、僕をここまで巻き込もうとするんですか?」
灰棒は深いため息をついて、静かに少年に語りかけた。
「うん、君の言う通りだ。君には本当に迷惑をかけた。全ては私のワガママを、黒棒オーナーと棒の富士関に聞いていただいたことから始まったんだ。君を騙したり、ここまで怒らせたりするつもりはなかった。すまない。全て私の責任だ。許してくれとは言わないが、もうしばらく私の話を聞いてほしい。」
灰棒は、少年に一番伝えたいことを語り始めた。
「本当のことを言うと、私は、萌黄棒くんのみならず、君にも、ボーニンゲンガンバローズの一員として、どうしても我々と一緒に戦ってほしいと思ったんだ。君が浅葱棒さんのお手紙を見つけた時や黒棒オーナーに私の前へ連れて来られた時の察しの良さと状況判断の的確さ、そして状況判断に基づいた行動の素早さ、君のそういう素質を知った時に、キャッチャーとして、萌黄棒くんとバッテリーを組んでくれたらどれだけ素晴らしい戦力になるだろうか、と思うと、楽しみで仕方なくなってしまったんだ。集落の自警団員として普段から鍛えているようだから、体力面の問題もないだろうしね。野球のことを勉強してもらうのは、ガンバローズに入ってもらってからでも十分だろうと私は思ったんだ。どうだろう、君も萌黄棒くんと一緒にプロ野球選手にならないか?いや、頼む、お願いだから、プロ野球選手として、ガンバローズに入団してもらえないだろうか・・・どうか我々を助けてもらえないだろうか。」
最後の方は、ほとんど哀願になっていた。
それほどまでに灰棒は、少年の非凡な素質に惚れ込んでいたのである。
少年は、自分が置かれている状況を理解するのに少し手間取った。
(野球経験が全くない僕にプロ野球のスカウトの人が入団をオファーしてくれてるってどういうこと?でもってポジションまで決まっちゃってるし・・・何ていうか、大人って基本的に、ホントいつでもどこでも勝手だよな。)
ここで萌黄棒が、少年に言った。
「確かにさっき君が言ってたみたいに、君がお茶をもらいに行ってくれている間に、僕は父さんの手紙を読ませてもらってたさ。でも、僕だって、途中で横綱に手紙を取り上げられて、最後までは読んでないんだってば。全くどれだけ言ったら信じてくれるんだよ・・・。」
「じゃあ何で、僕と一緒にプロ野球選手になるみたいなことをいきなり言い出すんだよ?それも、事前に相談もなく。僕、野球経験ないんだよ?」
少年がそう返事したのに対して、萌黄棒は、以前から抱えていた本音をここで吐き出した。
「そんなことわかってたさ。でも君は、僕の試合をよく見に来てくれるし、その都度、僕の投げる球を受けるキャッチャーミットの位置について、それこそ野球経験がないくせに、本当に的確な意見を述べてくれるじゃないか。君は今、僕が父さんの手紙を最後まで読んではいないことが信じられないんだろうけど、僕にしてみたら、君に野球経験が全くないっていうことがずっと前から全然信じられないんだよ!」
険悪な雰囲気になりかけていた二人の少年の間に割って入ったのは、棒の富士だった。
「まぁまぁ、私が君たち二人に対して、浅葱棒さんのお手紙の内容を最後まで教えてあげなかったのがいけなかったんだ。申し訳なかった。もうここまで来たら、あのお手紙の続きを読んであげてもいいだろう。ねぇ、灰棒さん?」
水を向けられた灰棒も観念したようで、黒棒の許可を得て、浅葱棒の手紙を読むことにした。
『・・・萌黄棒を、プロ野球選手として、ボーニンゲンガンバローズ様の一員にしていただけますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。・・・』
「ここまでは、君たちも内容を知っている部分だと思う。次からが、君たちにまだ見せていない部分だ。」
灰棒が続けて読む。
『・・・さて、私の子供と言えば、一人息子の萌黄棒だけですが、実は、彼の他にもう一人、私には気がかりな少年がいます。
彼には身寄りがないため、私を含めた近所の隣組で我が子同然に育てているのですが、彼は萌黄棒と特に仲が良く、萌黄棒は彼をとても頼りにしています。
彼には野球経験が全くありませんが、集落の自警団に所属しているため、体力は十分にあります。
さらに、彼は大変頭が良く、こちらが一つのことを伝えると、大抵その何倍ものことを理解してくれるのです。
萌黄棒は、少し引っ込み思案な性格のため、たとえプロ野球選手になる意思があったとしても、自分一人でゲンザを離れてプロ野球選手としてやっていくことを恐らく嫌がると思いますが、彼が一緒なら、きっと勇気を出して一歩踏み出してくれると思うので、そうすれば、二人して、皆様のお役に立てるのではないかと思います。
もちろん、彼自身の意思が最優先されるべきであることは百も承知ですが、もし彼の意思に沿うのでしたら、どうか彼も萌黄棒と一緒に、ボーニンゲンガンバローズ様で働かせていただけましたら、私にとって望外の幸せです。
勝手ばかり申しまして誠に恐縮ですが、この件につきましても何卒ご検討くださいますよう、よろしくお願い致します。
最後になりましたが、彼の名前は・・・』
灰棒がそこから先を読もうとしたところで、少年が、
「・・・浅黄棒です。」
と、自らの名を名乗った。
「うん、お手紙の続きにも、同じ名前が書かれているよ、浅黄棒くん。私はこのお手紙を最後まで読ませてもらって、萌黄棒くんがもともとプロ野球選手になることに後ろ向きであったうえに、たとえ前向きになってくれたとしても、親友、いや、もはや兄弟同然の君が一緒でなければプロ野球選手になるとは言ってくれないだろうと思った。だから、君にもお手紙の内容を知っておいてもらいたかったんだ。だがその反面、あの時点でお手紙の内容の全てを君たちに知られてしまうと、君たちの将来の意思決定に余計な材料を与えてしまいかねないから、棒の富士関にお願いして、お手紙の後半部分は敢えて君たちには知らせないようにしたんだ。そのせいで、君たちを混乱させたり怒らせたりして済まなかった。」
灰棒は、自ら『罠』を仕掛けたことを認め、少年たちに謝罪した。
しかし、その『罠』のおかげで自分の進路を決めることができた萌黄棒は、晴れやかな表情で、
「いいんです、灰棒さん。だって、もしあの時僕が、父の手紙を最後まで読んでいたら、きっと意地張って、無理して一人でプロ野球選手になろうとしていたと思います。その点、浅黄棒が一緒なら僕は安心です!」
と言って、灰棒を許した。
さらに、浅黄棒にこう尋ねた。
「浅黄棒、君はどうだい?君は・・・その、僕と一緒にプロ野球選手としてガンバローズでバッテリーを組まないか?」
浅黄棒は、少し悩んで答えた。
「うーん、灰棒さんが僕をすごく買ってくださっているし、正直言って、自分の将来のことなんて何も考えてなかったし・・・まぁ、萌黄棒が一緒なら、僕も頑張れるかな。おじさんの手紙を君も最後までは読んでなかったんだね。君を疑って、突っかかったりしてごめんよ。」
「いいんだ、君は僕の将来のために動いてくれてたんだから・・・ありがと浅黄棒、これからも一緒だよ!」
萌黄棒はそう言って、満面の笑みで浅黄棒に抱きついた。
こうして、ボーニンゲンガンバローズには、新たに強力な戦力が加わった。
黒棒は、当初は、エースの紫棒の負担を減らすべく、ボーニンゲン界の高校野球屈指の名投手の呼び声高い萌黄棒のみをスカウトする予定であったが、灰棒のワガママと彼が仕掛けた『罠』・・・もとい、灰棒の眼力と彼が働かせた『忖度』により、優秀なキャッチャー候補として、萌黄棒の親友の浅黄棒をも獲得することに成功したのである。
こうして今回のゲンザでのスカウト活動が大成功に終わり、詳細な入団交渉のための手続きのため、一旦ゲンニーボンへの帰路についた三人の大人たちは、黒棒所有のヘリコプターの中で、到着までのしばしの間、くつろいでいた。
「たとえ一時的であったとしても、あの子たちの仲を険悪な感じにしてしまうなんて、私の腕も衰えたものだ・・・。」
灰棒が、独り言をつぶやいた。
それを聞き逃さなかった棒の富士がすかさず尋ねる。
「何の話ですか?」
灰棒は、少し慌てた様子で答えた。
「あぁ、聞いておられたんですか。これは失礼。勝負の世界にいらっしゃる横綱もご存知かとは思いますが、目的を達成するためには、ときに『罠』を仕掛けないといけない場合もあるでしょう。今回は、まさにそういう場合でした。しかし、『罠』を仕掛けるには、余計な副産物、すなわち意図しない悪い結果は、一切生み出してはならないのです。なので、『罠』を仕掛ける時はいつも、細心の注意を払います。今回も私はそうしたつもりでしたが、少年たちが相手だったこともあって、そして何より、棒国にいた頃のように、相手を追い込むことが目的だったわけではないので、少しその注意が甘かったようです。今後は、棒国でいつもやっていたことを思い出して、引き締めていかないと。私の身にも、いつ何が起こるかわかりませんからね。」
棒の富士はひどく驚いて、さらに尋ねた。
「え?今回?相手を追い込む?棒国でいつもやっていたこと?いつも『罠』を仕掛けていたんですか?灰棒さん、自分の身にもいつ何が起こるかわからないってそんな不吉なことを言うなんてあなた一体棒国で何をしていt・・・」
棒の富士の言葉を遮るように、灰棒が自嘲気味に笑って、言葉をつなげた。
「あぁ、すみません、私としたことがちょっと喋りすぎました。さっきから私が言っていることは全て忘れてください。・・・一生のお願いです、今すぐ忘れてください。」
棒の富士には、そう言って笑う灰棒が、無理に口角を上げて笑顔を作ることによって、心の中に巣食う悲壮感を必死に覆い隠しているようにしか見えなかった。
「うん、あなたが一体何者で、今でもまだ若いのに、過去に棒国でどういう仕事をしていたのかが気にはなるが、あなたが望むなら、今すぐ全てを忘れるから安心しなさい。ただそれ以前に、ここは黒棒さんのヘリの中、そして、私たちの真向かいの席で静かに本を読んでいる黒棒さんには、今私たちが話している内容はわからない。あなたが棒国語に訳さない限りはね。ということは、忘れるも何も、さっきからずっと、誰も何も話していないのと同じ状況なんですよ。そうでしょう?」
棒の富士は、思いつく限りの言葉を尽くして、この哀れな若者を慰めるのに全力を注いだ。
「・・・ありがとうございます。恩に着ます。」
灰棒は、感謝の意を短く伝えた。
この時の彼には、それが精一杯だった。
光の加減か、目の端に、ごく小さな星の粒が見えた。




