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別府での朝

作者: Gakio

露天風呂につかりながら、僕は別府の街並みを見おろしている。東の空は明るみ始めていて、朝の日射しが淡く街を照らしている。

天然温泉の湯が身体全体に染み込んできて、僕を温めリラックスさせる。汗や体臭は洗い流されて、さっぱりとした気分。僕の他に入浴者はおらず、開放感もある。今この瞬間の幸福をずっと保ちながら過ごしていけたらどれだけ素晴らしいだろう。しかし現実は理想通りには進まない。僕は二十歳で、この春休みが終れば大学三年生になるのだ。時間は決して止まることはない。あと二年で閉塞した日本社会へ放り出される。僕たちは一歩ずつ、死に向かって歩いているのだ。

 布団の中で抱き合った時、亜友の身体はいつもより軽かった。僕は亜友の首すじにくちびるをつけ、彼女の匂いをかいだ。彼女の足に自分の足を絡ませた。亜友は僕の胸元に顔を押しつけ、僕の浴衣はたちまちはだけた。亜友の髪をなでながら、このつややかに長いブラウンの毛並みはなんという奇跡だろうと改めて思った。ああ、もうすぐこの美しい髪に触れることができなくなってしまう。そしてそれは六ヶ月という長い期間も続くのだ。

 三日後の朝、彼女はドイツ行きのジェット機に乗り込む。フランクフルト大学に留学して、そこでドイツ語会話とヘルマン・グシュヴェントナーの文学について勉強するのである。僕は彼女がフランクフルトの講義室で幾人ものドイツ人男性を魅了し、彼らの恋の対象になるすがたを容易に想像することができる。なぜなら亜友は僕とはまるで釣り合わないほどに美しく、聡明な二十歳の女子大生なのだから。

 別府の温泉を堪能できるこのホテルには、昨日の夕方にチェック・インした。湯舟につかり、バイキング形式の夕食をとったあと、僕らは部屋に戻ってくつろいだ。部屋にあったインスタントの紅茶を飲みながら、僕らはぽつりぽつりと会話していた。煙草が吸いたくなったので、僕は喫煙室に行った。ライターの火がなかなか点かなかった。

戻ってくると、亜友は布団にうつぶせに寝ころんで持ってきた文庫本を読んでいた。僕が入ってきたのを分かって大げさに両足をばたばたさせながら、それでも視線は活字の上だった。浴衣がはだけてあらわになる亜友の健康的な太ももを微笑ましく眺めながらも、

「何を読んでるの?」と訊いてみた。すると彼女はにこやかな笑みを浮かべながら新潮文庫のカバーを僕に向けた。そこには『小僧の神様・城の崎にて』と書かれていた。

「温泉といえばこれでしょ。まあ、ここは別府なんだけどね」

「それに、亜友は電車にひかれたわけじゃないだろ」

「うん。もっと言えば、わたしは一人でもないしね。U君が一緒にいる」

 僕は亜友の横に寝ころんで、亜友の頭をなでた。彼女は顔をほころばせて僕に甘えてくる。ほんとうに仔猫のようだ。じゃれあうのが大好きな、可愛いハニー。

「芥川龍之介が奥さんのことをお菓子みたいに頭から食べちゃいたいって書いた手紙あるでしょ」と僕は言った。

「うん」

「今おんなじ気分だ」

「そうかあ。やっぱり芥川はすごいんだね。百年後にも通じることを言ってるんだ」

「ほんとにね」

 僕が亜友の瞳を見ると、彼女も僕を見つめ返した。僕らは口づけした。

「芥川は志賀直哉のこと相当褒めてたね」

「そうだね。特に文体については誰にも真似できない、って感じでね」

「やっぱり文体って大事だよなあ。作家における文体って歌手における声に近しいと思うんだ。一行読んで分かるような独特で力強い文体を獲得したいよなあ。しなきゃなあ」

亜友は右手を伸ばして僕の頬に触れ、

「応援してる」と優しく言った。

 僕と亜友は地方の国立大学の文学部のクラス・メイトだった。三年生からの専攻選択で、彼女はドイツ文学科に、僕は日本文学科に進む。僕は一年間にだいたい百冊ほどの小説を読む。同じ学部で僕以上に読んでいる人間は僕が知る限り三人いたが、その中ですれ違った時に挨拶をするほど仲が良いのは亜友だけだった。読書家には内向的な人間が多い。髪を明るく染めピアスを開けているような奴とは関わり合いになりたくないようだ。亜友は唯一の例外で、いわゆる「社会的コミュニケーション能力」は充分に備わっており、おまけにヘルマン・グシュヴェントナーの熱心で優良な読者だった。彼の作品は三篇の長篇小説、二冊の短篇集が邦訳されているが、日本では決してメジャーな作家とは言えない。僕は高校時代にある日本人作家のエッセイを読んでこの作家の存在を知ったのだが、まさかグシュヴェントナーの愛読者に出会える日がくるなんて思ってもみなかった。しかもそれが、澄んだ瞳と白い肌を持った、街を歩けば男が振り向くほどの美少女だったのだ。

ヘルマン・グシュヴェントナーは一九四八年に旧西ドイツで生まれた。ティーン・エイジャーの時はバンド活動に打ち込み、エレキトリック・ギターを弾きまくっていた(ジョージ・ハリスンが彼の生涯においての最大のアイドルであることはグシュヴェントナーのファンにとっては有名な逸話だ)。二十四歳で出版したデビュー作『月の降る夜』がベストセラーとなった。二十六歳の時にアメリカ国籍の女性と結婚し、それを機にカリフォルニア州に移り住んだ。一九八四年に自動車事故で右腕を失い、彼の生きがいの一つであったギター演奏が不可能になる。この事故を境にしてグシュヴェントナーの作風は一八〇度変わる。彼はこれまで扱ってこなかった第二次世界大戦におけるドイツの敗戦を題材に用い、現代を生きる若者の個人的な孤独や憂鬱を描いていた初期作品群とはその主題において同一作家とは思いづらい。

 昨年の夏休み前、僕は図書館で借りた『月の降る夜』の原書をリュックに入れ、照りつけるような日射しの元、キャンパスをのんびり歩いていた。するとベンチに座って読書をしている亜友がいたのだ。彼女とはドイツ語や英語の講義が一緒で、挨拶をする程度の仲だったが、ノースリーブのワンピースを着て、麦わら帽子をかぶって読書している美少女のすがたが余りに上品でまるで映画のワン・シーンのようだったので、僕は声をかけずにはいられなかった。

「やあ」と僕は笑顔で言った。しかし彼女は読書をやめなかった。僕はもう少し大きな声で言った。

「何読んでるの?」

「うわ、びっくりした!」顔をあげて、澄んだ瞳を丸くして僕を見た時の、亜友の美しさは例えようもなかった。日光のせいもあるが、僕は危うく失神するかと思った。

「あ、U君。ごめんなさい。本に夢中で。グシュヴェントナーを読んでたの」

「奇遇だね、たった今僕も借りてきたんだ」

 そう言ってリュックから原書を出した。

「うわ、それドイツ語? すごいなあ」

「夏休みに挑戦しようと思って。ところで、レポートは終った?」

「あと一つ残ってる。U君は?」

「奇遇だね。僕もあと一つ残ってる」

 その日、僕と亜友はとても話が合い、そして気が合うことも発見した。僕にとっては奇跡だった。亜友は透き通るような白い肌をしていたし、痩せていてスタイルもよかった。そしてドイツ語で書かれたさまざまな文学作品の他にも、日本の近代の詩人や、アメリカのロスト・ジェネレーション、それにフランスのリアリズム小説をよく読んでいた。僕と亜友が共通で好きな作家も何人もいた。村上春樹、三島由紀夫、ライナー・マリア・リルケ、ドストエフスキー、そしてヘルマン・グシュヴェントナー。二人で時間を過ごし、二人で夜を過ごすようになるまでそう時間はかからなかった。僕らは日が暮れても喧騒がおさまらない都市のバーに座って、村上春樹の小説に出てくるようなカクテルを飲みながら、文学や音楽や映画の話題、それに将来について語り合った。僕は彼女の影響でフランソワ・トリュフォーの映画に恋をして、亜友は僕の影響でボブ・ディランが歌詞だけでなくメロディにおいても卓越したセンスを有していることを知った。そして二人で声をそろえて宮崎駿とブルーハーツを称賛した。

「村上春樹のことを好きだという女の子は素晴らしいよ」とある時僕は言った。

「そうなの?」と亜友は首をかしげた。「じゃあ、わたしの高校の友だちに何人もいるよ」

「間違えた。亜友みたいな読書家が、村上春樹を好きだと言えるのが素晴らしいんだ。彼は圧倒的知名度と、圧倒的読みやすさで、圧倒的に売れている。だから普段小説を読まない奴らがスタバかどっかで読んではSNSに投稿して、褒めたりする。ポーズとしてね。だからこそ、少しでも読書していることをアピールしたい人間は、村上春樹なんか嫌いだと主張する。『なんだって?  村上春樹? なんか性描写が多くて好きじゃない。それに主人公モテすぎだよね。自己陶酔型で、大して格好よくもないのに、どうしてあんなにモテるの? 意味分かんない。まあ料理が美味しそうなのは認めるけど。なんかいちいちキザだし。嫌い』」

「U君はインターネットに毒されちゃってるね」

「そうなんだよ。おまけに今は酒にも毒されちゃってる。僕が言いたいことは、君が好きだ、ってただそれだけなのにね。藤原基央も唄ってるけど、言葉は完全じゃないんだ。でもなぜだか、僕は言葉に頼ってる。なぜなんだろう?」

「それはU君が詩とか小説とかを読んで、言葉に救われてるからじゃない?」

僕は自分が小説を書いていることを亜友に言った。そして将来は純文学の新人賞を獲って職業作家として活動する夢を抱いていることも言った。僕が小説を書いていることを知っているのは両親を含めてもそう沢山はいない。小説家になりたいのを知っているのはこの広い地球上で彼女一人だけだ。

そして亜友もまた、大学院に進学してドイツ文学を研究するという、自身の目標を語ってくれた。彼女は自分の美貌だけで成立してしまう仕事に就くことを極端に嫌っていた。そういうのはもって生まれた運だから、才能ではない、わたしは自分だけの才能を見つけたい、と彼女は言った。そしてそれはグシュヴェントナーのテクストを研究することにより見つかるかもしれない、そうなれば素晴らしい、と。

「わたし、中学生の時いじめられてたの。学校にいけなくなってしまって、友だちがいなかったから、ずっと本を読んでた。『月の降る夜』にアガーテっていう十三歳の女の子が出てくるでしょ。彼女も一人ぼっちで空想と読書が大好きで、愛に飢えてる。ものすごく共感して、彼女に励ましてもらいながら、なんとかあの時を過ごせたの」

亜友は三歳の時、交通事故で母親を亡くし、しばらくは父親と二人で暮らしていた。彼女が中学二年の時に父親が再婚し、義理の母には当時高校三年の娘がいたから、そこで姉ができた。受験生になっても学校に行くことができなかったので、難関私立大学に合格した姉の友だちに勉強を教えてもらい、中学校の同級生がいない私立高校に入学したのだった。

孤独や不安と、複雑な家庭環境における日常生活の精神的な支えを、彼女は文学を読むことによって受け取っていたのだろうと僕は推測する。救い、慰め、癒し。そういうものを必要とする人たちのために、僕は新しい小説を書かなければならないのだ。

愛の行為が終ったあと、僕らは身体を寄せ合い、小さな声で語った。

「もうすぐ、しばらく会えなくなるんだね」

「うん」

「とてもさみしいよ。この心の痛さは、おそらく生まれて初めて経験する種類の辛さだ。でも僕は亜友を信じてる。僕は亜友を信頼してるんだ」

「大丈夫。話したくなったらテレビ電話すればいいし、メールもいくらでもできるじゃない」

「グローバルな時代だなあ」

「ほんと。とっても便利な時代」

僕は胸の奥がじんときて底知れない幸福感に震えながら、のんびり亜友とピロー・トークを行っていた。時々布団の中で手を取り合ったり、顔をくっつけ合わせたりした。そんな時間をいくらか過ごし、やがて亜友は眠りについた。すやすやと寝息を立てて眠る彼女をよそに、僕は全く眠れそうもなかった。亜友と片時も離れたくないと思うばっかりに、僕は彼女を抱きしめたかったが、そんなことをして気持ちよさそうに寝ている彼女を起こしたくなかった。それで、スマートフォンの時計が五時半を示した頃、僕は亜友を起こさないように注意しながら、彼女の額にそっと口づけして、一人で朝風呂に向かうことにした。部屋を出た瞬間、わびしさが僕の心を支配して、僕は少し身ぶるいした。

前期セメスター最後の英語の講義の後、僕と亜友は一緒に大学を出た。僕らはクラス・メイトの平和なうわさ話なんかをしながら歩いていた。まだ僕が亜友に告白する前のことだ。

「あ、ミスドだ」と亜友が言った。

「僕はこの店でよく小説を書いてるよ。下宿から近いからね」

「そうなんだ。ミスド良いよね。わたしフレンチクルーラーが大好き」

「じゃあ入ろうか」

「やったあ」

 店内には客がたくさんいた。ドーナツとアイス・コーヒーを注文した僕らが座れそうな場所は喫煙席しかなかった。

「煙とか大丈夫?」と、席に向かう前に僕は小声で訊いた。

「わたしは平気。煙草の匂いって素敵じゃない?」と亜友は笑った。僕は鳥肌が立つ思いだった。なぜなら僕は、二〇一〇年代に国立大学に通う女子学生の大多数と同じように、亜友もまた煙草が嫌いな女の子だと思っていたからだ。

「じゃあ、僕も吸っていい?」

「いいよ」

 僕は店員を呼んで灰皿を頼んだ。すると亜友は興味深そうに腕を組んだ。

「へえ、U君って煙草吸うんだ。意外」

「そうかな」

 僕はリュックからラッキーストライクの箱を取り出した。店員が灰皿を僕らの席のテーブルに置いた。

「私も一本もらっていい?」

「え、亜友ちゃん喫煙者なの?」

「そうだよー。びっくりした?」

「そりゃもちろん」亜友の真似をして僕も腕を組んだ。

「でもたまにしか吸わないよ。今日だって持ち歩いてないし。時たま、吸いたくなるの」

 亜友はきれいな指で煙草をはさんで口にくわえた。僕はライターで火を点けてあげた。二人の持つ煙草からは熱い炎が燃えていた。

「今、『煙草屋のJK』ってタイトルの小説を書いてるんだ。田舎町の煙草屋でおばあちゃんの代わりに店番をしている女子高生の話」

「なんかそれ素敵そう。で、その女子高生は煙草を吸うの?」

「途中からね。最初は拒否するんだけど、常連客のサッカー部の副キャプテンに勧められて、一口吸ってしまう。主人公は彼のことが好きなんだ」

「なるほどね」

「僕は煙草を吸う女の子ってすごく魅力的だと思ってる。それに本を読む女の子も。亜友ちゃんはその両方を奇跡的に兼ね備えてる。おまけに美人だ。君はほんとうに素晴らしいと思うよ」

「なにそれ、照れる」

 僕らはクラス・メイトのうわさ話を再開した。亜友はとても美味しそうにフレンチクルーラーを食べた。その日、僕は幸福だった。多分亜友も、同じ気持ちだったと思う。

彼女がドイツに留学したいと考えているのを知ったのはその日だった。

「できれば長期留学したいなと思ってる。もしかしたら来年の四月から行けるかもしれない」

「留学かあ。考えたこともなかったなあ」

「そのためにも夏休みと後期はドイツ語を頑張らなきゃ」

 その時の僕はただただ亜友を尊敬していた。時間はあっという間に経過するはずなのに、半年以上先のことはうまく考えられない。僕らはいつだってその日その日を精一杯生きている。会いたい時に会うことができなくなる、なんていう事実は、当時の僕の頭の中にはまるきり存在していなかったのだ。

――露天風呂から出る時、入れ違いに一人の外国人が入ってきた。年齢は六十代くらいで、金色の髪の毛をして、顔には深いしわが寄っている。僕はとっさに、グシュヴェントナーじゃないだろうか? と考えた。しかしもちろんそんなことはなかった。彼は五体満足で、剛い毛の生えた太い右腕でタオルを持って、それで股間を隠していた。脱衣所に向かう僕と彼はすれ違った。

バスタオルで身体を拭きながら、僕は脳味噌の中で、

「Guten Morgen!」と外国人に向かって話しかけた。

大作家が僕を見た。そのせいで僕の声帯はドイツ語の単語を一つも発信しなくなった。

「アンビリーバボー。アイム ユア ファン。アンド マイ ガールフレンド イズ ユア ファン、トゥー。マイ ガールフレンド ウィル スタディー ユア ワーク イン ジャーマニー」

グシュヴェントナーは蒼い瞳で僕をじっと見て、僕の片言英語を熱心に訊いてくれていた。そして僕に左手を差し出して、

「ナイストゥーミーチュー」と言った。そのとき彼が左手に持っていたタオルが落ちた。彼は楽しそうに笑い出し、僕もつられて笑ってしまった。ノーベル文学賞の有力候補だとも言われている大作家がこのように気さくでユーモアがあるとは、思ってもみなかった。彼の性格と同じように、視界に入った彼の性器も堂々と立派だった。そのせいで僕のお口は英語の単語を一つも発信しなくなった。

「夢を見てるようなんです」と興奮しながら言った。

「このホテルにガール・フレンドと一緒に来てるんですが、僕と彼女はあなたのファンで、それで仲良くなったんです。彼女は『月の降る夜』のアガーテが大好きなんです。彼女に人生を支えられて生きてきたのです」

「私もすごく嬉しいよ」とグシュヴェントナーは言った。ネイティブ・スピーカーのような日本語で。

「遠い日本という国で、私の本が読まれて、それをきっかけに恋が始まっている。作家にとってこんな嬉しいことはないよ。君もそう思うだろう?」

「ええ。もちろん。実を言うと、僕も小説家になるのが夢なんです。このことを人に言うのは、二回目なんですけど。このことは、亜友の他には、誰にも言ってないんです」

「亜友っていうのが、君のガール・フレンドの名前かい?」

「そうです。彼女はとても美しいです。グシュヴェントナーさん、お願いがあります。ぜひ彼女とも会ってやってください」

「ああ。もちろん。私も会いたい」

ヤング、ビューティ、ヤマトナデシコ、と彼は大声で言い、そしてハハハと大声で笑った。

「君に一つだけアドバイスをあげるよ。毎日休まず書き続けなさい。それが全てだ。雨の日も風の日も、ガール・フレンドと喧嘩した日も、休んじゃだめだ。そうすると、君もきっと、いい作品が書けるようになる」

「Vielen Dank!」と僕は言った。そしてもう一度がっちりと握手した。

部屋に戻ると亜友は起きていて、化粧台に座って髪をポニー・テールに結んでいた。すでに洋服に着がえていた。

「温泉に行ってたの?」

「ああ、そうだよ」

「目が覚めたらいなかったから、ちょっとさみしかった」

「ごめんよ」

彼女の近くに寄って、肩に手を置いた。

「でも、これくらいのことでさみしいとか言ってたら、フランクフルトに行ったら発狂しちゃうかも」そう言ってから亜友は僕を見あげて笑った。

「確かにそうだね。それともう一つ、今から僕が言う言葉でも、君は発狂するかもしれないよ。なんたって僕がすでに発狂しかけているからね」

「え?」

「何か想像つく?」

「まったく分からない」

「露天風呂で、あるドイツ人に会ったんだ。そして驚くべきことに、その人には右腕がなかった!」

「嘘だあ」と亜友は笑った。「U君ってそんなつまらない冗談言う人だったっけ?」

「つまらない冗談! なかなかいい短篇になると思うんだけどなあ。温泉で敬愛する異国の小説家に出会う物語」

「ふうん」

「でも露天風呂にグシュヴェントナーそっくりの客がいたのは本当だよ。ちゃんと腕はあったけどね。もしかしたら朝食のバイキングで顔を合わせるかもしれないよ」

「じゃあそのためにお化粧をばっちりしようっと」そう言って亜友はウインクした。

「僕はサインを貰いたいなあ。彼の本持ってきてたかなあ」

亜友はほんとうに時間をかけて化粧した。僕は洋服に着がえたり、志賀直哉の小説を借りて読んだりしながら、彼女のメイク・アップを待った。煙草を吸おうと思ったが、切れていたので我慢した。それだけ亜友の側にいたかったのだ。鏡越しに彼女の澄んだ瞳を見つめていると、僕はふいに泣きたくなった。

 僕と亜友は手をつないでバイキング会場に向かった。ホテル内を歩いていると、僕らと同い年くらいの若いカップルはけっこう目についたが、朝から手をつないでいるのは僕らの他にはいなかった。でももちろんそんなことは二人とも気にしていなかった。

 バイキング会場は人がいっぱいだった。料理を取りながら僕は露天風呂で会った外国人を少し捜してみたが、見つかる気配はなさそうだった。

 亜友はお皿にたくさんのスクランブル・エッグとソーセージをのせ、パンケーキに蜂蜜とバターをかけたものと一緒に食べていた。そして時々グラスに入ったオレンジ・ジュースを口に運んだ。僕はそれほど腹が減っていなかったので、ロールパンを食べることよりはむしろ美味しそうに食事をとる亜友を眺めることに集中していた。

 僕はあくびをした。

「眠い?」

「少しね」

「U君、いつも朝弱いよね」

「亜友はいつも朝から元気だよね。食欲旺盛で」

「うん。もりもり食べちゃう」

 この可愛いハニーは食べることが大好きで食後のスイーツだって欠かさないのに、どうしてお腹に脂肪がつかないのだろう? これは僕にとっての永遠の謎だ。

「眠気覚ましにコーヒーを取ってくるよ。亜友のも、飲み物入れてこようか?」

「あ、じゃあオレンジ・ジュースをお願い」

僕がオレンジ・ジュースの入ったドリンク・ピッチャーを取ろうとしたら、同じタイミングで若い女性がやってきた。

「どうぞ」と僕は笑顔でゆずった。女性はまだ浴衣を着ていて、くるりとした瞳がとても可愛かった。それに浴衣の上からでもはっきりと分かるくらい胸が大きかった。

「すみません」と言って、浴衣の女の子はオレンジ・ジュースをグラスに注いだ。美人というのは何気ない動作をとても魅力的にこなす。

「ありがとうございました」と、彼女は僕に笑顔を見せた。

僕はこの浴衣の女の子とも温泉旅行に行ってみたいと思った。もし彼女が亜友のいないところで僕の耳元に口を近づけて、「なんだかこのあたりがムズムズするんです」とささやきながら僕の身体にその大きな乳房をすりつけてきたら、僕の理性は空に舞い、あとには獣の衝動だけが残るだろう。亜友は僕にとって理想の女の子だが、バストは決して大きくない。そして僕の性的な嗜好は巨乳なのだ。ここに愛情と肉欲のあからさまな矛盾が存在する。僕が彼女と寝たら、亜友は悲しむだろう。でも僕は、亜友が僕より大きな性器を求めて性交するなら、それを拒む権利はないと思っている……。

つまるところ僕は、亜友がいなくなった後の性生活のことを考えているのだ。ああ、僕は亜友のどこが好きなんだ? 顔か? おっぱい? それとも、くちびるをつければ甘い汁があふれてくる秘所? そんなものは女であれば誰だって持ってるじゃないか! 世界三十億の女が乳房と大陰唇とねばねばの愛液を持っている。亜友がドイツに行き、僕が日本に残るということは、結局はそういうことなのだ。

「お待たせ」と僕は言って、彼女の前にオレンジ・ジュースのグラスを置いた。

「ありがとう」と亜友は微笑んだ。

 席について亜友の顔を見ると、その澄んだ瞳は世界の何よりも輝いているような気がした。僕はため息をついてから熱いコーヒーを一口飲んだ。




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