7 理想の世界の恋愛模様
長い休みが終わり、新しい年度が明日から始まる。
聖サフラン学院の正面玄関ホールでは、見知った顔の中に緊張した面持ちの新入生が混じっている。入寮の手続きをしているのだろう。本来なら明日の主役はあの子達なのにな、そんなことを考えながら賑やかな正門付近を通り抜ける。
試験の時にしか姿を見せることのなかった第1王子シレネ様。その彼が今年度から入寮するというニュースは、学院の中にあっという間に駆け巡り大混乱をもたらした。さらに休暇の間に今まではねのけ続けていた婚約までしているのだというから、学生達の好奇心は高まるばかりのようで…… 行く所行く所で、皆その話ばかりしている。私の姿を見た途端に、「あ、あの方よ……」とコソコソ話されるのは気分のいいものではないけれど、しょうがない。有名税ってこういうことを言うのかもしれない。学院側も突然の王族入寮に慌てているようで、なんだか学院全体にそわそわとした空気が流れている。
そんな空気の中を人目を避けるように進み、そのまま人気の無い裏門へと到着した。この門は王族専用のため普段はしっかりと閉ざされている。王族専用といっても日常使い用ではない。なぜならこの学院に一歩踏み入れたら王族であっても基本的には他の学生達と同じ扱いを受けるからだ。けれども何かあった時にいち早く行き来するためにこの裏門は用意されているという。
今日はシレネ様たっての希望で裏門は特別に開かれている。
よかった…… 間に合った……
速足で歩き続けたせいで少し息苦しい。けれどちゃんとシレネ様が来る前にここまで来れたから良しとしよう。壁にかけられている刻読み、前の世界の時計に似ているそれを確認すれば、シレネ様が来ると言っていた時間まではまだまだある。けれど本当はもっと余裕をもって来るはずだった…… 髪型や服装にあーでもない、こーでもないと葛藤していたらこんな時間になってしまったのだ。今日の部屋の鏡は絶対に調子が悪いと思う、映りが悪かったもの。
そんな八つ当たりでもしていないと落ち着かない。急いで息を整えるとお目当ての人物が来るのを待った。
※※※
今日もカッコ麗しいですシレネ様。
ただいま私の目の前から微笑みながら真っすぐこちらに向かってくるシレネ様がとても眩しいです。由緒正しき学院の伝統に則り護衛は連れずに、門から1人で来ている。まあ、学院の中には至る所に魔法が張り巡らされて安全だから心配はあまりないけれど。
シレネ様は目の前で歩みを止めると、後ろに光源でもあるのかというくらいキラッキラとした微笑みを浮かべてくれた。
「ロベリア、出迎えてくれるなんて嬉しいです」
ま、眩しい……
時と場所が違うとまた一段とかっこよくいらっしゃる…
思わず凝視しそうになってしまうのを堪え、優雅に微笑んでお辞儀をした。今ここにいるのはシレネ様と私だけだ。堂々と正門から来ると思ったのに、シレネ様はこの裏門から来ると言っていた。だからここで早い時間からスタンバイしていた。決して重くはないと思いたい。
それにしても、わざわざ裏門を選ぶなんて人嫌いという噂はやっぱり本当なのかもしれない。2人で話している内にすっかり忘れ去っていた噂を思い出す。そういえば、あの離宮も第1王子がいるというのに警備を含めて人がとても少なかった。
そんなことを考えながら、顔を上げつつ選択肢を見る。
「婚約者として当然ですわ」〇
「会いたくなってしまって」△
「たまたま通りすぎただけです」×
おう……
3つ目はどこのツンデレだと言いたいし、正門から離れたこの場所で〝たまたま”は無理がある。2つ目は絶対無理。そんなの恥ずかしくて言う前に心臓が止まるかもしれない。そして、選択肢様オススメの1つ目。こちらはもっと無理かもしれない。けれど選択肢は絶対である。
こ、こ、婚約者…… 言えるだろうか、これ……
選択肢に困惑していると、顔を上げたままいつまでも固まっている私を変に思ったのだろう。シレネ様が困っているような顔になってしまった。すぐに動揺してしまうなんて私は皇太子の婚約者としてダメだな。何よりもシレネ様を困らせたくない、そう反省するとすぐに笑顔をつくった。
「こ、こん、こん……」
「こん?」
「あの…… 婚約、婚約……」
「ん? 婚約がどうかしたのかい?」
インコか私は…… いや、それはインコに失礼か……
思った以上に口から言葉が出てこない。喉元あたりで詰まってしまっている。そんな私をシレネ様は優しく微笑んで見守ってくれている、天使である。今も私の言葉の続きを優しく待ってくれている。それに対して、私の不甲斐なさよ…… こんなの令嬢らしくない。シレネ様に相応しい気高い貴族の令嬢になりきらなくては…… ドレスの裾を握る手に力を込める。
「婚約者として当然ですわ」
よっし言えた、言えたぞ! 心の中のガッツポーズを隠し、鏡の前で練習した最も出来の良い微笑みを浮かべる。さりげなくシレネ様の反応を覗ってみれば、何故かシレネ様は大きな目を更に大きくして固まっている。最初のどもり具合にひかれてしまったのだろうか……
不安になっていると、次の瞬間、いつも落ち着いているシレネ様にしては珍しいことに声をあげて笑いだした。その姿はいつもの完璧王子様、というよりは普通の子供のようで…… そうか、シレネ様もこうやって笑うんだな、と今までどこか現実味のないように感じていたシレネ様の存在。けれど、彼だって同い年の少年なんだなと親近感が湧いた。同い年、そうこの世界における同い年だからそう言っていいだろう。
いつの間にかシレネ様は笑い止んでいた。シレネ様は笑いすぎて目に薄っすらと浮かんだ涙を片手で抑えながら。いつものように微笑んだ。
「そっか、そうですね。こんなに想ってくれる婚約者がいて私は幸せ者ですね」
優しい笑顔と声、それに言われた内容に頭が爆発しそうになる。令嬢の仮面が剝がれそうなのを少しでも隠そうと下を向く。シレネ様の優しさにホッとすると同時に、これからはどんな選択肢が出ようとも、決して動揺せず女優になりきらなくては。そう決意した。精霊も呼べない私でも彼に相応しいと思ってもらえるようにと。
※※※
シレネ様が学院に通うようになってから、あっという間に半年過ぎた。私の学院生活はそこまで激変していない。これまで通りに、講義を受け、精霊学の補習を受け、精霊学の自主練習をし、精霊学の…… う、考えたら気持ち悪くなってきた…… ともかく、思っていたよりも学院内でシレネ様と会う時間はあまりなかった。
それもそのはず、お坊ちゃま、お嬢様だらけの聖サフラン学院。秩序と礼節を重んじるこの学院ではいくら婚約者同士でも、人前で親密にするのはあまりよろしくないとされている。だから、ほとんどの生徒は人目を忍ぶように、講義の間のほんの少しの間や、消灯時間前のささやかな時間に恋人と会う。よほど目立つ行動をしなければ、学院側も暗黙の了解とでもいうか…… 目を瞑ってくれている。
シレネ様と私も他の学生たちと同じように話す時間を少しずつ増やしていった。たぶん最近の私達が一緒に過ごすことが最も多いのは、今いる練習室だろう。悲しいことに……
そう、私の精霊学の実技の酷さがシレネ様に知られてしまったのだ。いつまでも隠しおおせるとは思ってはいなかったけれど……
生まれながらに精霊と契約しているシレネ様は精霊学の講義には出ていない。他の講義は皆と一緒に受けているけれども、精霊学だけは別室で個別レッスンしている。さすが精霊に愛された男は違う。一体どんなレジェント精霊と契約しているのかが全く分からないのが残念でしょうがない。周囲の人々に聞いても「恐れ多くて申し上げられないです」と逃げられてしまう。名前を言うこともできないなんてどこの悪の魔法使いだ。私がこの目でその名前を言ってはいけない精霊を見ることができる日はいつになるのか……
ある日そんな優秀な彼に、お節介な誰かが私のことをとても丁寧に説明してくれたらしい。その話を聞いたシレネ様はどう返したのかは知らないけれど…… 恥をかかせてしまい本当に申し訳ない……
その話を聞いた彼はすぐに私の居場所を探し当てて来てくれた。その日、私がいつものように練習室で精霊を呼び出そうとしているとノックが聞こえたのだ。まさかシレネ様が来るなんて思ってもいなかった私が、他にも部屋あるのになんだと思いつつ扉を開ければ、そこにシレネ様がいたのだ。表情に出さなかったけれど、死ぬほど驚いた。練習で疲れすぎたせいで幻見たのかと扉を閉めかけたぐらいだ。
シレネ様は閉まりかけた扉を驚きの速さで止めると、私に優しく言った。
「もし良かったら、私にロベリアの練習を手伝わせてくれませんか?」
聞いた瞬間、無理です、嫌です、お断りいたしますと口から飛び出そうになった。けれどもそれらの言葉はあまりにストレートすぎるので胸の奥に押し戻す。一国の皇太子に手伝わせる訳にはいかない…… そして情けない姿を見せたくない……
そう思いつつ、すばやく選択肢を出す。この半年間、いかなる時も令嬢らしくと自分を戒め続けたかいあって動揺を出さないことが得意になってきた。嫌味の受け流し方も一流になった。
「シレネ様に手伝ってもらえるなんて光栄です」〇
「もう少し自分で練習してみます」△
「シレネ様のお手を煩わせる訳にはいきません」×
ちらりと横目で確認すると微笑んだ。そして、自分の気持ちと真っ向から対立している令嬢として完璧な答えを口にした。
「シレネ様に手伝ってもらえるなんて光栄です」
きちんと顔を見つめて言えば、シレネ様は少し困ったように笑った。
「なんだか無理をさせてしまったかな。召喚していない私に手伝えることは少ないかもしれませんが……、私の精霊も手伝うと言っているので2人でがんばりましょう」
こうして、シレネ様は練習を時々見てくれるようになった。私なんかに貴重な時間を割いてくれることを申し訳ないと思う。なのになんとも傲慢なことに、それを嬉しく感じてしまう自分もいた。
※※※
そうして今日も今日とてシレネ様と練習である。いつまで経っても召喚できない私が悪いのだけれど、シレネ様との貴重な2人の時間が…… あ、シレネ様の精霊も一緒にいるから厳密には2人っきりではないのか。
「ん? 分かった。ロベリアに伝えるよ」
「え?」
魔方陣を描いていると、シレネ様が誰かと話す声が聞こえた。いつもよりもかなり砕けた口調だ。思わずそちらを見れば、シレネ様が首を右に向けて、空中に語りかけていた。シレネ様の精霊様はそこにいるらしい。
「シレネ様、どうかされましたか?」
「あ、ああ。 どうやら私の精霊がロベリアに助言を、と言っていてね」
「まあ……」
感じないし見えないのですっかりその存在を忘れていたけれど…… シレネ様の精霊は私の練習をしっかりと見ていてくれていたようだ。シレネ様と同じ方向を見てみる。
「なんと仰っているのですか?」
「それが……」
少し迷うような仕草をした後、シレネ様は精霊からの助言を一気に述べた。
「大切なのは糸を手繰り寄せる順番じゃない。精霊と共に踊るような感覚でやらないと。一人踊りに精霊は惹かれない、と」
教授は順番、順番言っていたのに…… 精霊とダンスするような感覚? なんだそれ……
どうしたらいいのか分からなくなってしまった私に、シレネ様の精霊は続けて言った。
「召喚されたとしても、召喚主がこの世界を、精霊を受け入れないとその姿を見せることはできない。変なもんが混ざってるの苦手なんだよ。だそうです。口が悪い精霊で申し訳ありません…… でもこのまま伝えろとうるさくてね」
「いえ…… あの、他に何か仰っていますか?」
「いや、これで全部だそうです。後はロベリアが考えることだ、と。これ以上の助言はないと言っています」
「そう…… ですか……」
「大丈夫ですか? 顔色が…… 私の精霊が無神経なことを言ったせいですね……」
「そんなことはありません。精霊と直接交流できない私には貴重な直々の助言ですもの」
最初で最後の精霊からの助言。その言葉は一言一句違わず覚えた。この世界も精霊も受け入れる? 以前の世界の記憶がどんどん薄れていくほどに今の生活に馴染んでいるのに? 一体どういうことかと私がもっとしつこく精霊に問えば、シレネ様も協力してくれると思う。けれど、最後の言葉はまるで私が何者かを見通されているようで、これ以上何も聞けなかった。シレネ様に本当の私を知られたくない。以前の私もこのずるい力も……
今はその画面を見たくなくて、いつもは頼りきっている選択肢を開かずにシレネ様に話しかけた。
「シレネ様、私、シレネ様の精霊が仰った意味を自分自身でもっと考えてみますわ」
「でも……」
「今日はもう部屋に戻ります」
「そうかい…… ロベリアがそう言うなら分かりました。しかし、決して無理はしないでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
シレネ様の気遣いが胸に痛い。気を抜けば泣きそうな顔になってしまいそうだ。仮面が剥がれる前にさっさと退散しないと…… そう思いお辞儀をしてシレネ様の横を通ろうとした時、優しく腕を掴まれた。出会ってからまだ半年ちょっとなのに随分と大きくなったその手に動揺してしまう。貴族の令嬢の仮面が剥がれ落ちそうになるのを必死に耐える。
「ロベリア」
「はい?」
「私はそのままのロベリアを好ましく思っているよ」
いつもより低く真剣な声で告げられた言葉。シレネ様の言うそのままの私は一体どんな私なのだろう? やっぱり完璧な令嬢ロベリアかな……
そんなこと考え始めたら返事ができなくなってしまった。シレネ様がどんな表情で言ったのかを見ることもできない。
これ以上シレネ様の顔を見ていたらどんどん弱気になってしまいそうな気がする。早く部屋に戻らないと……
シレネ様にもう一度優雅にお辞儀をする。そして、部屋に戻ってひたすら精霊の言葉の意味を考えた。