2 理想の世界で精霊契約
シャンデリアがいくつも天井から吊るされ、聖サフラン学園の廊下はもうすぐ日没だというのに眩しいぐらいの灯りで満ちていた。大理石の床はしっかりと磨かれ、精霊や花などが描かれた豪華な天井画をうっすらと映している。普段は多くの生徒がこの床の上を行きかっているため、人通りの少ない今しか見ることのできない光景だ。
太陽がほとんど姿を消す頃になると、1学年の必修科目「初級精霊学」の補習終了を告げるベルの音が静かな廊下に鳴り響いた。同時に、突き当りの教室から一斉に数名の生徒が出てくる。長時間の補修で疲れ切り、早く自室へ戻りたいのだろう。どの生徒も足早に廊下を抜けていった。
しばらくすると生徒の姿は消え、再び廊下は静けさに包まれる。すると、再びゆっくりと教室のドアが開いた。そこから腰まであるダークブロンドの髪にグレーの瞳をした1人の少女が青白い顔で出てくる。分厚い本をがっちりと握りしめているせいで、彼女の白い両手はさらに白くなってしまっていた。
※※※
なんてことだ…… ここまでとんとん拍子に進んでいたのに……
他の科目は全部良い感じにこなしてきた。なのに…… それなのに……
精霊学の実技が恐ろしいくらいにできない! 筆記の試験では満点をとった。知識面では隙が無いはずなのだ。呼び出す手順を間違えてなんかいない。
にもかかわらず、他の生徒がぽんぽん呼び出している精霊は私の所には一向に来る気配がない。何が「あなたの心からの呼びかけに精霊は答えます」だ。どんだけ私が呼んだと思ってるのか。精霊の耳遠すぎでしょ!
優雅に歩きつつ、湧き上がる焦りと怒りを心の中で思いっきり叫ぶ。最近よく思うのだけれど、私は世界選びを間違えたのかもしれない。というか、絶対に間違えた。ふわっと精霊と共に生きる世界なんてロマンチックだなあ、なんて思ったのが運の尽きだった。まさか精霊を呼ぶのにこんな苦労するなんて……
戻れるのならば、あの館に戻って願いを言いなおしたい。もっとしっかりと細かいことまでイメージしてから本をめくれば良かった。覆水盆に返らず、後悔先に立たず……
でも、散々不満を言っておいた後に思うのもなんだが、それ以外には不満は全然ない。容姿だってスタイルだって今の私はまさに理想のお姫様そのもの。侯爵家自慢の令嬢ロベリア、それが新しい私の姿だ。
昔は全身鏡なんて見るのが嫌だったけれど、今はいつまでだって見ていられる。が、決してナルシストではない。
気がつけば廊下の端まで歩いていた。立ち止まり、磨かれぬいた大理石の床に映る自分の姿をじっと見つめる。そして、この世界に来たばかりの頃を思いだし始めていた。
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最初は少し大変だった。あの不思議な部屋で攻撃的な光に包まれた後、目覚めた私は生まれてまだ数か月の赤ん坊。自分で動いたり、意思を伝えられるようになるまではもどかしくてしょうがなかった。その上、自分で望んで前の人生を捨てたくせにホームシックにもおそわれた。
動けるようになった後も思った通りにはなかなかいかなかった。他の同世代の人よりもスタートが違う、なんせ前の世界の記憶ありますから、経験値が違います。そんな風に驕っていたら、速攻で出鼻をくじかれた。
私のそれまでの一般人としての経験なんて、貴族のご令嬢の生き方にほっとんど役に立たない。礼儀作法・ダンス・処世術などの初めましてな数々の習い事たち。立派なレディーになるためにはそれらが必要なのだと、お母様の立ち振る舞いから思い知ったのだ。それでも……
他の子供に比べて精神年齢大人な分やる気でカバーよ! 目指せ神童。
新たな決意を胸に行動を起こす。けれど、幼児の体というのは非常に不便だった。普通に歩いているつもりが、気がつけば頭からガクンと転んでしまう。本をめくるにもページが上手にめくれない。そもそも椅子に座れない。そして……
眠い。ちょろっと動いただけで非常に眠くなる。この眠気には何をもっても抗えない。
数週間の努力の後。私はあまりに無謀な努力は諦めることにした。無茶をした私が怪我をしそうになる度、使用人の誰かの首が飛びそうになるのに耐えられなかったのだ……
けれど、悲しむことばかりではなかった。私が生まれた侯爵家は由緒正しい家柄だ。お父様もお母様も、そのまたお父様とお母様も。その更に前も。皆様素晴らしい顔立ち、才能をお持ちだった。
昔読んだ少年漫画でも言っていた。血統、それが全てなり。そんな家の娘に生まれた私も、その恩恵を受けることができた。以前の私ならこんなに効率よくできない。そう実感するくらい、あらゆることが努力した分だけよくできた。貴族として厳格な両親に優秀な兄様、選抜されしスパルタな家庭教師に囲まれていたので、がんばらないなんて選択肢はそもそも無かったけれど……
それに、せっかく貴族の令嬢に生まれたのだから精一杯それらしくなりたいもの。そのための努力は惜しくない。
そんな感じで順風満帆に進んでいた私の新たな人生は、ある日、思わぬ所で暗礁に乗り上げてしまった。
※※※
「もうすぐロベリアが学院入学だなんて早いわね」
珍しく家族揃っての晩餐。笑顔のお母様に言われたその言葉に心が重くなる。
「リンバード家の一員であることを日々忘れぬように」
「はい」
お父様の重々しい言葉に頷く。そりゃね、分かってる、分かってまるけれど…… 悩む私を更に追い詰めたのはお兄様の言葉だった。
「聖サフラン学院には優秀な教授が多くいるからね。そこで、精霊学についてしっかりと学べば、ロベリアも僕らと同じように精霊と契約できるようになるよ」
自信満々に言い切るそのきらっとした笑顔が今は憎い。ああ、お兄様。たぶん慰めようとして言ってくれているのだろうけれど…… その思いやりが妹をがんがんに絶望の穴に押し込んでます。才能に恵まれた人々には私のこの焦りが分からないのだ。
今も私の目には全く見えないし、気配すら感じないけれど…… 温かく私を見つめる両親とお兄様の近くには、それぞれが契約した精霊がいるのだろう。
この国に生きる貴族にとって精霊と契約できるか否かという問題は、その後の人生に大きな影響を与える。それはこの国の成り立ちと深く関わっている。
この国は、最初の王が精霊と契約を交わしたことによって栄えたという。その歴史ゆえ、王家はもちろんのこと多くの国民が精霊と契約している。珍しい能力を持った精霊と契約できたなら、契約者は国にとって重要とされその生涯の安定が約束される。それが誰であってもだ。人生の一発逆転のホームランおめでとう! となるのだ。
そのため、貴族だけではなく多くの庶民も幼い時から精霊の召喚や契約について学んでいる。王家やそれに近い人間にもなると、生まれながらに精霊と契約していることもあるみたいだけれど、普通は学校や師について色々学んでから召喚を行い、そこでやっとこさ契約できる。
我がリンバード家はというと。さすがに生まれながら……という人は滅多にいない。けれど、私の家族も親戚の皆様も、学院に入学できる12歳になる前には自分の精霊と契約している。
なのに、私には精霊学の才能が一切ないようだ。召喚できないだけではなく、その姿を見ることさえできない。あ、1度だけ見たことがあるか…… まだ赤ん坊の時、お母様の右肩辺りを飛んでいる全身緑色の精霊を見たのが最後だ。綺麗な羽と長い耳をパタパタさせながら、その精霊はにこにことお母さまと何かを話していた。
その後は全然だめ! 城やこの屋敷には精霊がそんじょそこらにいるらしいけれど、私には見えない。あまりにも見えないため精霊の存在すら疑ってしまいそうだ。私にとって精霊と話をしている人は、独り言言っているようにしか見えない。
焦る私の気持ちとは裏腹に、家族はそのことに関して大らかに構えている。両親やお兄様は私が学院に入ったらきっと精霊と契約できると思っているのだ。そういう人もこれまでにいたのだよと何度も励まされた。貴族の女性にしては少しおっとりとしているお母様は今も目の前で
「大器晩成型なのはひいおじい様譲りねー」
と言っている。そのまま、今夜の話題の中心は私の学院生活になってしまった。料理長が腕を奮ってくれた晩餐もこうなると何の味もしない。申し訳ないことだけれど。
優しい家族とは違い、名家に生まれながら未だ精霊と契約していない私のことをあざ笑う人々はやっぱりいる。他人の不幸は蜜の味ですか、そうですかと今は流しているけれど。まだ社交界デビューもしてない小娘にだって、使用人たちのちょっとした立ち話から自分の貴族社会での立ち位置を知ることをはできるのだ。
精霊に関して大きな不安があるものの、せっかくこんなに恵まれている人生のリニューアル。悪意ある人々の戯言を吹き飛ばす勢いで私は精霊学以外のことを磨き続けている。学院に入る前にできることはやっておきたい。こうして努力し続ければ、いつかは精霊だって私の所に来てくれると信じて……
でも、学院に入って勉強しても変わらなかったら……
人間常にポジティブにはいられない。時折襲ってくるそんな思いに不安でたまらなくなる。家族の話す学院の話がその気持ちをどんどん膨らませてゆく。晩餐後、そんな不安を払いのけるように私は自分磨きをしようと一心不乱で全身のマッサージをし続けた。