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46 遠い日の出会い


 月が昇り小さな泉が放ち出した淡い光が、内側を彷徨っていたヤタカの意識を引き戻した。


「戻ってきたかの? まぁ水の器がそれだけざわつけば、引き籠もってもおれんじゃろ」


 おばばのいうとおり、水の器がそわそわと身を揺らしていた。

 水の器の想いが、ヤタカの手を小さな泉の水へと伸ばさせる。


「薄緑色の光り、これは……」


「気づいたかい? この子達は、あんたを殺そうとしたといっているよ? 泉に引き込んで殺そうとしたのに、腕に二本の傷を持つ男に邪魔をされたそうだ。まぁ、円大はお前を助けた訳じゃない。水の器を宿す入れ物に、あの時点で死なれては都合が悪かっただけのことさ」


 水気の主が優しい眼差しで泉を覗き込んでそういった。


「あの時の小花か」


 水の器がどうしようもなく惹かれた小花達。あの日と同じように、水の底でふるふると頭を振り、黄色い花粉を飛ばしている。


「手を入れても引き込まれやしないさ。おまえを介して、あの方に触れたいだけ。泉に手を入れておやりよ」


 泉に手を伸ばしたい水の器と、用心するヤタカの心が押し問答しているのを知ってか、水気の主が可笑しそうに笑った。

 逆らうのを止めたヤタカが力を抜くと、冷たい水の感触が指先から腕を這い上がり、あの日と同じように、指先に触れた黄色い花粉は線香花火のように、細く細かい光を散らす。


「水の器が、喜んでいる。そんな気がするが……」


「懐かしいのさ。この子達は、あたしの泉を彩る小花達だからねぇ。古い友に再会したようなものなんだよ」


 指先で弾ける細い光は優しく弾け、ヤタカの体を介して水の器と心を交わす。


「その泉に、イリスもいたことが? 俺もそこで出会ったのか?」


「いいや、イリスが少しだけ泉を離れて遊んでいたときに、お前達は出会った。イリスの存在を無闇に知られるのは拙い。草の根の子供とも限らない。そう思ったあたしは、幼いあんたを遠ざけようとした」


 できなかったよ……水気の主は寂しそうに眉根を寄せる。


「漆黒の瞳を持つ者は、村では腫れ物を扱うように遠巻きにされ、近い歳の子と遊ぶことさえ叶わない。ましてや目隠しをした子と遊んでくれるなど」


 幼い日のイリスを思った。燦々と日が差す緑の大地にひとりぽつんと座るイリス。

 親が働きにでた家の中、ぺたりと座ってひとりで食事をするイリス。

 寂しくて、悲しくて、愛おしかった。


「イリスは正確には生まれつきの異種宿りじゃないよ。漆黒の瞳を持つものは、特別な二粒の種を双眼に宿す宿命を負って生まれる。その子の犠牲によって、異種と異物は山下りを終え、長きにわたる平穏を取り戻す。だからこそ、異種も異物も漆黒の瞳を持つ少女を心から大切に想う」


 漆黒の瞳を持つ少女は、視力を失って生きるか、命を落とすかに運命が決められているという。たとえ生きても短命。


「女の子が視力を失っても短命なのはなぜだ?」


「そりゃ理不尽な理じゃて」


 おばばがざらついた咳をひとつした。


「死を選んだなら、水の器の宿り主へ種は移行し少女はすぐに死を迎える。視力を失って生きることを選んでも、山下りが数年延びるだけのこと。水の器を受け取り視力を失った少女は、やはり若くして命を失う。数年後の日没に、双眼の異種は一気に芽吹き、女の子の体を苗床として一夜のうちに巨大な木となる。真ん中には天に向けて咲く二輪の花。月が真上に昇る頃、二粒の種が天に飛ばされる」


 古の少女達と、イリスの姿が重なった。


「種はある村の山向こうへと飛んでいく。ある時は祠であり、荒れ寺であり、地蔵という時代もあったのう。永い時を経て、緩んだ結界から異種と異物が零れでる。山下りの始まりじゃ。それを収めるために生まれた少女が、漆黒の瞳を持って生まれたとき、必然でありながら悲しい運命が繰り返される」


 少女達が異種を目に宿す前から布を巻くのは、器となる瞳を守る為だという。

 誰に教えられるわけではない。子も、子を宿した母も、本能的に布が必要だと悟る。


「水の器は、どうなる?」


「あの方は、木が育ち花を咲かせ、次世代へ続く種をつけるまでがお役目さ。苗床となった少女の……土の小山から地下に抜け出し地中に浸みた水を辿って、わたしのいる泉に戻られる。そして私と共に天と地を廻り結界を張り直される。あたしは結界を張る為の水先案内に過ぎない。人間のおまえにとっては敵にも思えるだろうが、あの方はいつも泣いておられるのだよ。結界を張りながら、自分達の為に命を捧げた少女を思って、泣いておられるのだよ。それは、人を守る為でもあるというのに……優しいお方だから」


「そんなこと、今まで口にしなかったじゃないか」


 水気の主は、目を閉じてこくりこくりと頷く。


「あたしもね、泉のおばば様と同じように、素堂が最後に読経に込めた呪を受けた。

あの場にいた泉のおばば様ほどではないが、イリスを見守るため、人には見えぬ水路を持っていたからね。ただの水ではない以上、素堂の読経は水に染みいる。水路の水はあたしそのもの。だからあたしも、歯が抜けたように思い出せない事実があったのさ」


 残っていたのは水気の主を想う気持ちと、イリスを大切に想うという、一番深い情だけだったと、水気の主は俯いた。


「異種と異物を山の奥深くに留め置く結界。ここがお前達の居場所なのだと教えてやれる結界。あの方が張られる結界も永遠の力は持たないからねぇ。何十年か経つごとに緩み綻び出す結界から、異種と異物が人の住む里へと迷い出る。それを再び山の奥へと引き戻し、新たな結界で人の手が届かぬ安住に地へ導くのが山下りの終結さ」


「どうして女の子が毎回犠牲にならなければいけない?」


 さあねぇ、と水気の主はゆっくり首を横に振る。


「言い伝えでは、古の神々がそう定めたとか……人の力の命を吸い上げた異種だからこそ、人とそうではない者達の境目を結界として造れるのだと。まぁ、お伽噺さねぇ。あの方の水先案内人であるあたしも、罪は拭えやしないのさ」


 結界が張り直されることなく、山下りに終わりがなければ人の里と異種、異物の住み分けは無くなる。数が増えれば認識する者も増えるだろう。苗床となる人間は増え、憎しみを抱いた人間は、異種と異物を完全な敵とみなすだろう。利害の為に、異種と異物が狩られることは止められまい。


「あんたは、何も悪くない。慈庭の役目を俺が担うことになったのが、狂いだした事の始まりだ。でも、それをイリスが望んだなら、何の後悔もない。異種にも異物にも迷惑を掛けたようだが、俺は後悔しない。慈庭も、イリスの望みならあの世で笑っていてくれるだろう」


 水気の主の横で紅を宿したまま静かにしていたゲン太が、小さくかん、と下駄を鳴らした。


「泉の側に横たわって、泉の奥まで腕をいれてごらん。小花達が、おまえとイリスの懐かしい姿を見せてくれるといっている。イリスの為に命を渡そうとしているおまえなら、見ておくべきだと思うがねぇ」


 作務衣の袖を肩まで捲り上げ、泉の縁にヤタカは身を横たえた。水の器がふるりと揺れる。小花達を驚かさないよう、ゆっくり腕を泉の底に降ろしていった。伸びた柱頭はあの日のようにてらてらと薄緑に光り、優しくヤタカの腕を絡めていく。花粉が激しく細い光を散らしていた。

 ヤタカは目を閉じ、小花達から流れ込む記憶に意識を落とし込んでいった。





 珍しい蝶を追いかけ夢中になっていたヤタカは、いつの間にやら見知らぬ森の中に迷い込んでいた。異種も異物も知らない幼いヤタカは、はたと立ち止まり、森が煩い……と思った。

 風もないのに木々がざわめき、どこからか水の流れる音がした。

 迷子になったのが解って、幼いヤタカの目に涙がにじむ。

 小さな瞳からぽろりと零れた涙を見て、傍観していたヤタカはくすりと笑った。もう十数年、涙を流していない。

 目の前に居るのは、涙を流せる普通の男の子だ。かつては自分であった、ただの人の子。 頭を撫でてやりたい衝動に、実体を持たぬ腕を伸ばしかけたヤタカは、苦笑と共に

拳を握り静かに腕を降ろす。

 追いかけてきた蝶は、鼻をすするヤタカを待っているように、同じところをくるくると回っていた。

 鮮やかな水色に銀粉をふりかけたような大きな羽は、今になって思うと異種だったのだと思う。偶然だったのかもしれない。イリスの寂しさを汲んだ異種が、ヤタカを導いたのかもしれない。


――どちらでもいいさ


 優雅に飛ぶ美しい蝶に、感謝の念が浮かんでくる。おまえのおかげでイリスに会えた。イリスを守れる場所に立っていられるのだと。

 鼻をずずりと啜り上げ、幼いヤタカは手にした棒を握りなおし再び蝶を追い始めた。どうせ迷子になったなら、せめて蝶を捕まえないと帰り道が大変なだけだ……そんな風に思った気持ちが蘇った。消されていた記憶が目の前に蘇ったことで、忘れていた感情も手に取るように思い出せる。


――ガキの時代を楽しめよ、坊主


 ヤタカが幼い自分を励ました時だった。

 蝶を追いかけ大木の向こうへ飛びだしたヤタカが、わっと叫んで尻餅をつき、勢い余ってでんぐり返った。


「だぁれ?」


 大木の向こうからひょっこりと顔を出したのは、おかっぱ頭の小さな女の子。


――イリスだ


 耳の辺りに黄色い花をちょこんとつけて、人の気配に小首を傾げている。


「お、おまえこそ誰だよ!」


 驚いてでんぐり返ったのを隠すかのように、ヤタカは声を張り上げた。


「わたしイリスっていうの。あなた男の子ね? おなまえは?」


「ヤ、ヤャ」


「ヤ?」


 首を傾げたイリスのおかっぱ頭が、さらりと髪をなびかせた。


「ヤタカってんだ」


 イリスの口元が笑顔にほころぶ。


「ヤタカね! いいおなまえ!」


 女の子に負けまいと胸を張って立ち上がったヤタカは、あれ? というように首を傾げて指をさす。


「おまえ、どうして目に布をまいてんの?」


「おまえ、じゃない! イリスでしょ!」


 腰に手をあて、イリスがぷん、と胸を張る。


「イ、イリス」


「うんうん」


 言葉の幼さを除けば、主従関係は今と変わらないな、とヤタカは目を細めた。いつだって細っこくて小っちゃなイリスが大将だった。

 

「おひさまがあるときは、これをしなくちゃだめなの」


 小さなイリスが、指先でちょんちょんと布を突いて見せる。


「目が悪いのか?」


「いたくないし、悪くないよ。でも、おひさまを見るといたくなるんだって」


「そっか」


 女の子を相手にどうしたらいいのか解らずもじもじしているヤタカに、有無を言わせぬ明るい声が飛ぶ。


「ねぇヤタカ、いっしょにあそぼ! ね、ね?」


「あぁ、いいよ……うんと……何して遊ぶ?」


 イリスに逆らえない習性はこの頃からかと、二人が草を千切ったり、イリスのおままごとに、口を捻りながらも付き合う幼い自分を見てヤタカは肩を竦めた。

 他愛ない子供の遊びだった。女の子の遊びにしかめっ面のヤタカとは対称的に、イリスは楽しそうだ。白い歯を見せ、声を上げて笑っている。

 でも今なら思い出せる。あの仏頂面は格好つけで、本当はヤタカも楽しかった。

 家に帰る方法を見つける前に日が暮れそうなことさえ失念するほど、イリスと過ごした時間が楽しかった。 


「ヤタカはかっこいいね! ギョメよりぜったいかっこいい!」


 かっこいいといわれて鼻をひくつかせ、得意げだったヤタカの鼻っ柱は直後にへし折られた。


「ギョメはお口ばっかり大きくて、かっこいいとはいえないもん」


「ギョメって……だれ?」


「泉にすんでる大きなお魚さんよ?」


 ぶーっと膨れたヤタカは、顔の形を確かめるようにすりすりと頬を撫でていた、イリスの手をぷいっと払った。


「魚といっしょにすんな! イリスはおしゃべりすぎ! ぜってぇギョメの口よりイリスの口の方がでっけぇ!」


 そこから取っ組み合いのケンカが始まった。女の子相手に無意識に力を抜くヤタカとは対照的に、全力で腕をブン回して向かってくるイリス。イリスの小さな拳が、ぽこぽことヤタカの頭や肩を打つ。


「痛いってば!」


「ヤタカのスカポンタン!」


 トドメといわんばかりに回し蹴られた足をひょいと避けると、勢い余ってイリスが尻餅をついて泣き出した。


「ヤタカのばか!」


「だって、イリスが乱暴するから……」


「おしり、いたい」


「ごめんね、ね?」


 唇を突き出して怒るイリスに、頭を撫でながら謝るヤタカ。

 微笑ましいケンカに、見ていたヤタカは目尻を下げる。

 これが初めての出会い。別に俺が悪い訳じゃないのにと内心では思いながら、ずっと謝り続けた。

 

――成長してからもそうだ。謝ったって、俺が悪いのはたまにだったろ、イリス? ガキの頃から理不尽なんだよ、おまえは。まな板のくせに……


 まな板に用はない、この言葉をいって何度イリスに蹴られただろう。目の前の幼い姿と大人になった自分達が重なっていく。

 もう一度イリスに、まな板に用はないといえたなら。


――もういっぺん、怒らせたいな


 急に立ち籠めた霧が視界を奪うように、幼いイリスとヤタカが掻き消されていく。

 思わず手を伸ばしたヤタカは、目を開きここが泉の縁なのだと確認すると、現実との意識のズレにくらりとする頭をぶるりと振った。。 


「どこまで見えたか知らないが、おまえはイリスと共に木の根元で眠り、朝になって村へと帰っていた。あたしが作りだした水の蝶に誘われてね」


 水気の主はずっと見守っていたのだろう。懐かしむように遠い視線に浮かぶ光景を閉じ込めるように、美しい目元が閉じていく。


「思い出を目に焼き付けられたよ」


 泉の小花達に礼をいう。


「イリスはあの日、俺と遊んで楽しかったのかな?」


「あぁ。自分が永い時を共に過ごす水の器の宿り主。それがヤタカならと、願ってしまうほどにね。その想いがヤタカを辛い人生に引き込んだのを知ったイリスは、逆さ廻りでおまえを救う方法を求めた。たとえ漆黒の瞳を持つ者でも、逆さ廻りで願いを叶えられる者などそうはいない。あの子には強い力があった。念の力だ」


「俺なんか、気に掛けなくてよかった」


「空」


 水気の主が呟いた。


「イリスにとってヤタカは夢にまで見る青空だった。自分には手を伸ばせない日の光の下、自由に跳ね回れる青空の子。だから、逆さ廻りで腕に書かれた一文字は、空」


 うっすらと開いた目元を辛そうに歪ませて、水気の主は言葉を繋ぐ。


「そんな思いを忘れさせるため、そして万が一にもイリスが生き残れたなら……一人で生きていけるようにと願って、あたしはイリスに礼儀作法を叩き込んだ。幾つもの時代を生きてきたからねぇ。イリスに必要だと思えることは、人ならばこうだろう。これを知れば生きていけるのだろうと。想像しながら知識と技術を与えた」


 宿屋で初めて水気の主と会った日、いつもとは違うイリスの話し方、身のこなし方は水気の主が仕込んだものだったのか、とヤタカは独り合点する。どんな知識や技術を教え込まれたのか知らないが、礼儀作法を含めイリスはすっかり忘れたように日常を送っていた。

 何がイリスの記憶を閉じ込めたのか知らないが、ヤタカはいつものイリスが好きだった。

 すぐに笑ってすぐに怒り、礼儀作法など知らないように、両手におにぎりを持って交互に齧り付く、いつものイリスの方がずっと好きだった。


「そうか。イリスに変わって礼をいう。ばかだな、イリスは」


「その馬鹿を大勢の者が愛しとる。だからこそ、おまえさんは生かされた」


 揺らぐ姿で話すおばばの表情は優しい。皺だらけの口がくぇくぇっと笑い声をたてる。


「この戦い、是が非でも円大に勝たせるわけにはいかんでの。それは異種、異物を内包する自然の意思じゃて。円大に嘘の情報を流され、絡み合った各組織の糸を解かねば無駄な血が流れるでよ」


「イリスの命さえ救えるか危うい俺に、そんなことまでできるだろうか」


「やるんだよ!」


 語気の荒さと裏腹に、水気の主は微笑んでいた。


「頭を崩せば組織は雪崩のように形を無くすさ。出来る出来ないじゃない。そこをやらないと、イリスは死ぬ。それどころか、イリスの手を掴むことすらできやしないよ」


 途方もないことだった。

 円大、ミコマ、わたる、ゴテに野グソ。自分の行く先を阻む者の顔がずらりと並ぶ。

 時を違えて出会ったなら、真の友になれたであろう者が含まれることに、ヤタカは眉を顰め歯を食いしばる。


「やってやる。だから誓え。俺に何があろうと、イリスを死なせるな。その希望が無くなったら、俺は虫けらにさえ立ち向かえる気がしないんでな」


「あぁ、誓ってやるとも」


「まかしとくれ」


おばばと水気の主がしっかりと頷きながら微笑んでいた。

 言い切ってくれた嘘に、ヤタカは静かに頭を下げる。

 確証など誰も持たない。

 だからこそ自分の気力を繋いでくれるなら、嘘でさえ武器になる。

 それを知っていて、嘘を言い切ってくれた二人の覚悟を思った。

 ありがたかった。


「味方がいなくたって上等だ! 負けねえよ」


 カキーン


 ヤタカの頭が横にぶれる勢いで、体当たりしてきたのはゲン太だった。


「痛いっつうの!」


――ここにいる


「ここににいる? まぁそりゃ馬鹿下駄がいっぴき」


 ドスッ


 鈍い音をたてて、再度ゲン太が蹴りをかます。


――みかた


――なかま


 木肌に浮かんだ文字を見て、ヤタカはふっと微笑んだ。ゲン太の気持など解っている。からかってみただけのこと。三角に吊り上げられたゲン太の鼻緒が、鼻息荒く揺れている。


「わかってるって。ゲン太や紅は、俺の仲間だ。これでも信頼してんだぜ?」


 くだらないやり取りを見ていられないというように、ゲン太の木肌から逃げた紅が、泉の水面をぴしゃりと尾で打った。


――わかってる


「なにを?」


――ヤタカ せかいいち


「ほほう、今日はやけにに素直だな。世界一好きか!」


――の あほ


 素早く蹴り飛ばしたヤタカの足に弾かれて、ゲン太がぽちゃりと泉に落ちた。


「あぁまったく! 金魚の坊や、下駄の坊やをなんとかしておくれ」


 それを見てヤタカは笑った。

 もやもやと胃を重くしていた、自分への不信が霧散していく。


「ゲン太、明日に備えて寝るぞ。明日までにふやけた体を乾かしておけよ!」


 いつの間にやら本来の姿に戻った泉のおばばが、美しい花びらを広げて泉を覆う。

 おばばの花からは、懐かしいような優しい香がした。

 水気の主と紅が、ゲン太を挟んで揉めているのを子守歌に、ヤタカは眠りについた。

 夢の中で、幼いイリスがヤタカに両腕を振り回していた。遙かに背の大きくなったヤタカは、片手でイリスの頭を優しく押さえ、膨れたイリスを抱き上げ、とんとんと背中を優しく叩いて抱き寄せた。

 頬をつねり上げる、小さなイリスの手の力が緩む。

 ぽやんと口を半開きに、幼いイリスがヤタカの肩に頬を預けた。


「異種はね、人の命をとったりしないの」


「え?」


 目を閉じたまま、イリスの寝言が続く。


「死ぬ日まで、体をかりるだけ」


 寝言が終わり、耳元の寝息が心地いい。

 ヤタカは夢の中 幼いイリスを腕に抱き続けた。





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