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43 幻は目の玉を差しだして

驚くほどの速さでヤタカの体は回復していった。

 和平が処方する飲み薬と貼り薬、そして激痛を伴う指圧のおかげだろう。和平曰く、体が治ったと勘違いしているだけで、根本から完治したわけではないのそうだが、痛みがないだけで十分だった。


「くそオヤジのよこした薬は飲まずに済みそうだ」

 

 苦々しく吐き捨てると、宿屋あな籠もりの主人は笑いながらヤタカを宥めた。


「思いやりは人によって形を違える。身を刺すような鋭利なものもあるが、その痛みが意識を保ってくれることもあろう? それも思いやりじゃよ」


 ぶすりと膨れて返事をしないヤタカの脳天に、和平の肘鉄が落ちた。


「ガキだな!」


「ガキにいわれたかねぇよ!」


 ゲンコツを振り上げたヤタカの手がぴたりと止まり、視線が胡座をかいた膝へと落ちる。


――はやく いく


 いつもなら遊びと言わんばかりに小競り合いに参加して来るゲン太が、前の歯をヤタカの膝にかけ、力なく揺れる墨の文字を木肌に浮かべていた。


――イリス たすける


 怒鳴ろうと吸い込んでいた息をゆっくり吐き出し、ヤタカは指先でゲン太の鼻緒を弾いた。


「ゲン太が元気なくしてどうするんだ?」


 薄墨を渦巻かせ鼻緒を垂れたゲン太の前の歯が、ひょいとヤタカの膝から引き離された。


「そんなにしょんぼりして、イリス姉ちゃんを助けられんのか? 気合いがたりん!」


 迫る人物に気づいて、ゲン太が鼻緒をぴんと立てたときには遅かった。


「気合い注入!」


 どすん、と音を立てて和平の素足がゲン太の鼻緒に差し込まれた。

 張った鼻緒がぶるぶると震えたかと思うと、寸の間もおかずにだらりと垂れた。黙って眺めていた三人から溜息が漏れる。


「むごいのぅ」


 惨殺現場を目の当たりにしたように、主人の皺が目を囲む。


「慣れることのない臭いって……あるんだね」


 身を仰け反らせたシュイが、哀れみに満ちた視線を送る。


「逝ったな、クソ下駄め」


 ふん、と鼻を鳴らして立ち上がったヤタカは、満面の笑みで足の指をくしゅくしゅと動かす和平の額を指先で弾いた。


「いてっ!」


「出かける前に気絶させんなって。準備ができ次第出発するから、早く蘇生させてくれ」


 ちぇ、と口をへの字にして足を引き抜いた和平は、ころりと横になって動かないゲン太を突き始めた。


「出かけるにしても、境の盆がどこにあるのか目処はついたの?」


 楽しそうにゲン太を突く表情と裏腹に、声には低く咎めるような少々のトゲが含まれている。


「わからないから早く出発したい。和平はここに残った方がいいよ。お前が行くと、ややこしいことになりかねないだろ?」


「ヤタカ兄ちゃんと一緒になんて行かないよ? 行き先も知らない一行に混ざってヘタ打って、一網打尽なんて嫌だしね」


「ヘタ打つのが前提か? もうちょっとは信用してくれてもいんじゃないの?」


「信用しているよ? 心配もしていない。ゲン太が一緒だからね」


 自分よりゲン太に信用が置かれていることに、納得いかないヤタカが反論しようと吸い込んだ息は、背中に入ったシュイの蹴りでげふりと無駄に吐き出された。


「文句いう暇にさっさと準備しなよ。水も、もう一度飲んでおきな。今度は大量に飲める機会があるかさえわからないんだよ? そんな無計画でイリス姉ちゃんを本当に助けられるわけ?」


「シュイおまえさ、平等を謳っているわりに、男女の扱いが不平等過ぎないか?」


 背中を擦るヤタカの手に、追い打ちの蹴りがぼすりと入る。


「和平を蹴ったりしないよ? イリス姉ちゃんも、さっきのお姉ちゃんもかわいくて優しいじゃないか。あんたは何処がかわいいのさ。それとも何かい? あんな細腕の女性をあんたと同じように蹴り倒せっていうわけ? 平等の意味をはき違えんなっつうの」


「はいはい」


「返事は一回! 女性と平等であるべきは精神のみ。力が入り用のとき、男性は女性を守るべきである。じちゃんの教えだ!」


「はい、すみません」


「だから……だから、イリス姉ちゃんを助けろ! 絶対助けろよ!」


 本当にわかってんのかよ、とぶちぶち文句をいいながら部屋の隅に去って行くシュイの背中を優しい目で見つめながら、宿屋あな籠もりの主人が笑う。


「生意気を許してやってくれんか。口は悪いが、あれでも心配しておるのじゃ。イリスさんのことだけでなく、あんたの身もな」


「はい、わかっています」


 苦笑しながらヤタカは静かに頷いた。

 じっちゃんの教えを丸暗記するほど幾度も心で繰り返し生きてきたシュイは、口とは裏腹に優しいのだとヤタカも思う。

 ただ生意気な反論が憎たらしくも面白くもあって、ついついからかいたくなるだけだ。


「ご主人、今日中にここを立とうと思います。一応お聞きしますが、境の盆という地名に

聞き覚えはありませんか?」


 穏やかな表情のまま主人は首を横に振る。


「そうであろうと思う土地は無数にある。その時代、その時に必要とされる者のみに伝わるように、部外者が場所を悟らないように、その度に呼び名が変わる土地じゃ。今回もそのひとつであろうよ」


「そうですか」


「じゃがの、あの男が残した言葉じゃ。必ず糸口は見つかるはず。わしに場所を告げなかったのは、わしやシュイを巻き込まぬためであろうの」


 それに、と主人は少し寂しそうに話しを続けた。


「わしは見守る存在じゃ。そのように定められておるのじゃよ」


「はい」


 ヤタカは宿の礼と、主人が生きた時間の重みに深い感謝を込めて頭を下げた。

 シュイに言われた通り水をたらふく胃に流し込み、主人が分けてくれた乾燥肉や乾パンを背負う袋に押し込んだ。

 眠ったように水の器が黙り込んでいる。この部屋にいる大量の異物はヤタカに居心地の悪さを感じさせなかった。ヤタカの出発を知ってか、まだ未確定な未来を憂いてか部屋のあちらこちらから、カタリコトリと身を震わせる異物達の振動が鼓膜に響いた。 


「お、目を覚ましたか」


 嬉しそうな和平の声に振り向くと、杖をついた老人の膝みたいに、がたがたと身を震わせながら身を起こしたゲン太が、よたよたと和平の側から逃げるところだった。


――げた ごろし


「なんだって、ゲン太?」


 呑気に問い返す和平によろよろと振り返り、渾身の力で鼻緒を立てたゲン太だったが、反撃もそこまでだった。


――う げろ


 涙に滲んだ墨の文字みたいに、情けなく薄墨の文字が木肌にでろんと広がった。


――うえっぷ おえ


「嘔吐くな……鼻緒の間からゲロが出てすっきりするわけでもないだろ?」


――なみだめ


「かわいくねぇよ! 目玉だってないくせに、アホいってないで出発するぞ」


 出口に向かうヤタカの後を付いてきたのはいいが、完全に平衡感覚がいかれたようで、酔っ払いのオヤジよろしくテコテコと横にしか進んでいない。


「もうちょっと待ってあげてよ。目がまわっているようなものだから、すぐに直る」


 堪えきれない笑いを手で押さえながら、和平がいう。


「待ってるほど暇じゃないんだがな」


 ぎろりとゲン太を睨み付けると、ぴたりと動きを止めた木肌によたよたと薄墨が湧く。


――だっこ


「囲炉裏の火にくべてやろうか?」


 仕方なく荷物置いて待っていると、しばらくしてゲン太の鼻緒がぴんと立った。


「復活したか? なら出発し……ゲン太?」


 ヤタカの声など耳に入っていないようすで、ゲン太が猛然と出口から横道へ飛びだしていく。瞬時に戦闘態勢をとり飛び出そうとしたヤタカの肩に手を置き、にこやかな笑顔で和平が止めた。


「害をなす者が近付いた気配はないよ」


 和平の言葉にさえ完全に警戒を解くことなく、ヤタカが縄暖簾に似た音を立てる入口の壁に手をかけようとした時だった。

 入口の壁がシュっと音を立て、部屋が白く曇る程の靄に満たされた。重力に引かれて部屋の隅々に舞い降りた水気が、部屋にある物全てに薄い水の幕を張る。


「何が起きた? ゲン太! 無事なのか!」


 かん かんかん


 外の横道から、下駄を打ち鳴らす音がした。危険を知らせる音ではない。むしろ、安堵と喜びの色を含む優しい音だった。

 だがそんな下駄の音に胸を撫で下ろしたヤタカは、次の瞬間ぎょっとして身を仰け反らせた。

 しゃらしゃらと音を立て出口からぬっと突き出されたのは、抜けるような白い腕。

 細い指先がぱん、と弾かれ部屋の中に再度靄が湧いた。

 

「水気の主……なのか?」


 弾かれた指がゆっくりと握られ、まるでヤタカが見えているかのように向きを変える。

 静かに開かれた手の平にはゆらめく透明な水の玉。滑らかな動きで、それは床に落とされた。

 音も立てずに着地した水の玉は、物理法則を無視してヤタカの元へ転がってきた。


「それを使っておくれ。あの子が案内してくれる」


 水が爆ぜるように、白い腕が霧散した。

 代わりに入口から意気揚々と入ってきたのはゲン太。


「ゲン太おまえ……紅?」


 湿ったゲン太の木肌を、ゆらりと尾を揺らしながら紅が泳いでいる。万事承知といわんばかりに棚の前でゲン太が立ち止まると、木肌から床へ泳ぎ出た紅は滝を昇るように棚の上へと向かい、収められた異物たちの表面を渡り歩いていく。

 久しぶりの再会を喜ぶかのように、かたりかたりと異物達が身を揺らした。

 ゆったりと部屋中を泳ぎ回った紅がゲン太の木肌に戻り、満足げに見えない水面をぴしゃりと尾で叩いた。


――べに あんないする


「まさか境の盆に? どれだけ距離があるか知らないが、その間ゲン太の木肌を湿らせておくだけの水を持って歩くのは難儀だぞ?」


――へいき


 まるで自分のことのように自慢げに鼻緒を立てたゲン太は、ヤタカの足元で水面を揺らす水の玉までとことことやって来ると、鼻先でこつりと水の玉を突いた。

 紅がぱしゃりと尾を打つと、湿った木肌が水を湛えたように美しく広がる水紋を広げる。

 水の玉に紅が身を移すと、するりと水の玉は転がりだした。

 後に残された濡れた筋にするりと落ちた紅は、転がる水の玉がつくる湿った床をゆったり尾を揺らして泳いでいく。


「さっきのは水気の主だろ? ならこの水の玉、目的を果たすまでは枯れないってことだよな?」


――たぶん 


 頼りないゲン太の返事に嘆息したヤタカだったが、くるりと向き直り主人に向けて一礼した。


「お世話になりました」


「気をつけてのう」


「はい」


 壁の際で水の玉が動きを止めた。

 嬉しそうに跳ね上がったゲン太が、シュイの元へ駆け寄り身をすり寄せる。


「ゲン太、気をつけていきなよ。いざとなったら、荷物持ちなんか放り出して逃げるんだぞ?」


――うん


 真顔でいうシュイと、嬉しそうに頷く下駄を眺めていた和平が、自分もとゲン太へ近づいた。


「ゲン太、また遊ぼうな!」


 べ~っと舌でも出したつもりなのだろう。ひょい、と飛び退いたゲン太は突きだした鼻緒をべろべろと振るわせ、ぷいっと踵を返して戻ってきた。


「いいのか? そんな別れ方をして」


 呆れたヤタカの言葉など無視して、待っていたように動き出した水の玉についてさっさと外へいってしまった。


「それじゃ、いってくる」


 二人に軽く手を振り、ヤタカもその後に続いた。しゃらしゃらと音を立てて出口をくぐり横穴へでる。ゲン太を待っていたことを考えると、水の玉は紅の意思によって動いているのだろう。

 先へ転がる水の玉。

 その後を悠然と泳ぐ紅。

 この世の物ではない水の玉と、異物の呼び名を持つ金魚に力を貸すように、闇に閉ざされた横道に灯りが灯る。

 無数の淡い光が土壁の至る所でぽつりと灯っては消え、うっすらと行く先の道を照らし出していた。

 二、三歩進んだところで、ヤタカの横を歩いていたゲン太がぴたりと動きを止めた。


「どうした?」


 怪訝に思い問いかけたヤタカを無視して、ゲン太はすたすたと宿屋あな籠もりへと戻っていく。


「ゲン太、何しに……か」


 ヤタカが言い終わるより早く、壁の向こうからごつりと鈍い音が響き、次いで「ぐごっ!」 と言葉にならに和平の悲鳴が響いた。


「なんだよ。結局は別れが寂しいんじゃないか」


 大股に横道へ戻ってきたゲン太に声をかけたが、立ち止まることなくゲン太は進む。


――やられたら


「なんだよ」


――やりかえす


 水の玉が紅とゲン太を従えて先へと進む。


「素直じゃないねぇ」


 一時笑みを浮かべたヤタカだったが、すぐに表情は引き締められた。

 先の見えない道。

 手を伸ばしても届かないイリス。

 打開策の見えない未来。

 一気に膨れあがる不安を振り払うように、ヤタカは激しく頭を振る。


「考えるより、今は進もう」


 チヨちゃんの願いを叶えられるとは思えなかった。だが、命を賭けたチヨちゃんの願いを、塵のように捨てることなど出来るはずもない。


「イリス、無事でいてくれ」


 口の中で呟いてヤタカも歩き出す。思惑は違っても、手を差し伸べてくれる者達がいる。今は疑うことなく、その手を取るべき時だと信じた。

 信じるしかなかった。





 横道から抜ける手前、小部屋のように広がった空間で、初めて横道に足を踏み入れたときに出会った男に会った。

 よかった、生きてたかい―――

 男はそう言って微笑んだ。

 聞けば横穴を見守る仕事を続けられなくなったのだという。

 自分の力量では、札を渡しても旅人を目的地に届けることができなくなってきたのだと。

 それほどまでに異種と異物の往来が激しいのだそうだ。

 気配が多すぎて、男の力では止めることも守ることもできないと、悲しそうに微笑んだ。


「この役目も、時代に必要とされなくなったのかねぇ」


 寂しそうに呟いて、男は横穴の奥へ続く闇に姿を消した。

 横穴の奥深く、男しか知らない場所に異種と異物を寄せ付けぬ鉱石に囲まれた小さな小部屋があるのだという。

 手の届かない動乱が収まるまで、また自分が必要とされる日が来るまで、そこで身を潜めると男はいった。


――もどって こない?


 鼻緒を垂れるゲン太に、ヤタカは静かに首を振る。


「戻ってくるさ。横道を守り往来を仕切る、彼のような男が必要とされない世界が永遠に続くなら、その時は俺達もこの世にいないってことだ」


 しょんぼりと鼻緒を下げたゲン太をせっつき先へと進んだ。

 水の玉は葉の上を転がり、小岩を超え、細い小川の水と交わることなく表層を転がりヤタカ達を誘った。

 紅の進む道は街道からすっかり外れ、獣道さえ残らない山道を進むこともあった。

 ヤタカのなかで水の器が身じろぐ。

 その度に鈴を鳴らしたように細く冴えた音が、内側からヤタカの体に残響する。


――全てカタがついたら、俺から出ていってくれ。イリスに宿る異種に用があるだろ?


 声に出すことなく、ヤタカは水の器に語りかける。


――俺の体で再会することは許さない


 ぶるりと水の器が震えた気がした。


――そんなことをしたら……


 イリスが死ぬ。


 ゴザ売りの言葉を何度も考えた。和平に薬を塗られながら、シュイと軽口を交わしながら、笑顔の裏で必死に考え続けていた。

 幾通りもの方法を考えても、辿り着く答えはひとつだけ。

 二人とも生き残る道は、何処にもない。


――イリスは死なせない。


 進む足を速めながら、ヤタカはひとりにやりと笑う。


――こんな命、惜しくもないさ。


 場にそぐわないヤタカの笑みに気づいたゲン太が、足を止めて不思議そうに見上げていた。


「なんだよ? しかめっ面してたって事態は好転しないだろ? 笑ってた方が幸運が寄ってくるんだ。イリスだって良く笑ってただろ?」


――わかった


 大股で跳ねるようにゲン太がいく。

 木肌に、わはは、と文字が浮かんだ。


「単純だな、アホ下駄」


 本物の笑みがヤタカの口元をかたどる。

 ゲン太がいるならイリスは笑って生きていける、そう思うと心が凪いだ。



 日が暮れると水の玉は不思議な光を放ち出した。足元が見て取れる灯りは青白く、転がった後に残る湿った筋も同じ色にうっすらと光を放っている。

 青白い光の川を泳ぐ紅は、ヤタカでさえ見とれるほど美しかった。

 月が高く昇るころ、紅が動きを止め水の玉もぴたりと止まった。薄い灯りに照らされた周囲を見渡すと、木々に囲まれ大輪の花がちらほら咲く僅かな平地。


――ここで ねる


「先を急がなくていいのか? 俺ならまだ歩ける」


――だめ

 

 ゲン太はぴしりと鼻緒を振る。


――やすむ だいじ


「わかったよ。ここで野宿しよう」


 荷をおろして木の根元に腰をおろした。


――思ったより体力を削がれているのかもしれないな。


 腰を落ち着けた途端、傷口から這い出たように重だるい疲れが全身に溢れた。

 乾し肉を口に入れ竹筒の水を流し込む。

 胃が満たされると、一気に眠気が押し寄せた。眠気ついでに、和平に持たされた薬も水で流し込む。

 

――眠気を誘う薬は、避けてくれっていったのに。


 和平の薬が眠気の原因ではないとわかっていても、つい愚痴がでる。傷を癒すことに多く奪われた体力が、久しぶりの山道に対応できるほど残っていなかっただけだ。

 落ちる瞼の隙間から、じゃれ合うゲン太と紅を眺めた。

 水の玉の上でぴしゃりと紅が尾を跳ねると、青白い光を放つ水がゲン太の木肌をしっとりと濡らした。

 ゲン太が身を寄せると、紅が嬉しそうに泳いで木肌に身を移す。

 

――わはは


 ヤタカの言葉を信じたのか、ゲン太が同じ文字を浮かばせるのが見えた。

 墨でなぞられた文字の輪をくぐるように、紅が器用に木肌を泳ぐ。

 

――わはは


 違う場所に文字を浮かばせ、紅が大きく尾を揺らして文字の輪をくぐり抜ける。

 楽しそうにゲン太が跳ねる。

 光を弱めた水の玉が、一匹とひと下駄を見守るように円を描いて光の筋をつくる。

 その輪の中で楽しそうにじゃれ合うゲン太と紅を、ヤタカはぼんやりと眺めていた。

 

――イリスがいたら、一緒になってふざけて、遊んで……


 夢の入口でイリスが手招きする。

 瞼が閉じたことにさえ気づかず、ヤタカは音のない夢に落ちていった。



 イリスが笑っている。

 

「やめろ、イリス! 駄目だ!」


 音のない夢に声は響かない。

 手で顔を覆ったイリスが、握りしめた手を差しだしてにこりと笑う。

 霧に包まれたように、イリスの口元しか見えなかった。


「だめだよイリス……止めてくれ」


 音のない夢は続く。

 ヤタカの目の前で、細く白い指が開かれた。白い花びらが花咲くようにゆっくりと。

 イリスの口元は、悪戯っぽく微笑んだまま、ヤタカの思いを取り残す。


「イリス……どうして」


 イリスの手の平に乗るのは目玉。

 異種を宿すとされるイリスの目。


 イ キ テ


 ゆっくりと言葉をかたどったイリスの口元に再び笑みが浮かぶ。


――やめてくれ、お願いだ。


 音のない夢の中、ヤタカは泣いていた。

 流れるはずのない涙が、ヤタカの頬を伝う。

 伝った涙は筋となり、得体の知れない力に持ち上げられた腕を伝ってイリスの手へと向かっていく。

 音のない夢の中、ヤタカの意識はぷつりと途切れた。

 最後に残ったのは、頬を伝う涙の生温い感触だけだった。

 


  

 


読んでくれた皆さん、ありがとうです。

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