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32 記憶に眠る顔 

イリスが望むままに道を進み、四日ほど経った。

 和平の薬のおかげで痒がらなくなったイリスは、ある朝突然この辺りは飽きたから、ヤタカの好きな方に進んでいいといった。

 山に散らばった、寺の叡智の全てを体内に取り込んだという意味なのか、他に意味があるのかとヤタカは訝しんだが、素知らぬふりで行く先を決めることにした。

 行き先の決め手はゲン太のひとこと。


――いっぱい いっぱい


 ゲップをもらすように鼻緒がぶはっと伸びて、しゅくしゅくと縮まった。

 和平と分かれた後、ゲン太は相当量の異種を体内の取り込んでいるようだった。

 イリスが水浴びする泉や川の周りに異種が集まっているのか、ついて行けないヤタカに知ることはできない。


「一度寺へ戻ろう。紅に渡す異種が溜まったなら、戻る意味もあるだろう? それに俺もおばばに尋ねたいことができた」


 紙にあった名のことをおばばに訊くつもりだった。イリスのことも伝えなくてはならないだろう。おばばの記憶も、あの時よりは戻っている可能性だってある。


「ゲン太、紅に会えるよ? 良かったね」


 イリスの笑顔に、ゲン太がぷいと鼻緒を背ける。


――なかよし ちがう


 和平にからかわれたことをまだ根に持っているのかと、ヤタカはくすりと笑った。

 

「よし、そうと決まったら出発だ」


「地下道を通る?」


 少し考えて、ヤタカは首を横に振る。


「今回は安全を考えて外を歩こう。遠回りになるが、あの狭い道で何かあったら逃げようがない。寺でおばばと話して、道の安全が確認できたら帰りは地下道を通るよ」


 ヤタカが知る名のことも、わたるの動向も幼なじみが離れていったことも知らされていないイリスは不思議そうに小首を傾げたが、いつものようににこりと頷いた。

 イリスが草にかぶれないよう、ヤタカ先を歩いて山道を切り開く。

 人の通る道を半分でも利用した方が歩くのは楽だが、それでは日数がかかりすぎる。

 ヤタカが全力で駆け抜ければ二日とかからない道程も、イリスの体力を考えれば倍以上の時間を要した。


「イリス、大丈夫か?」


「うん」


 息が上がって鼻を膨らませ顔を真っ赤にしながらも、イリスは黙々と足を進めていく。

 背後を守るように、ことりことりと下駄が行く。森のあちらこちらに獣の気配が感じられたが、海の波が避けて道を空けるように、行く手を遮る者はいなかった。

 異種宿りに獣は近寄らない。だが、とヤタカは思う。


――山中の獣に気づかれていながら、彼らに恐怖の念が感じられない。道を空けていると言うより、造りだした道筋を守っている気配にすら感じる。


 獣がそのようなことをするわけがない、とヤタカは首を振る。

 

「イリス、もう少しだ。日をまたぐ前には寺に着く」


「わかったゲン太? もう少しだから頑張るんだよ?」


 頑張れはイリスへの言葉だろうと呆れたのか、月明かりに照らされたゲン太の木肌に、もやもやと薄墨が雲のように浮かんでは消えた。




「ほらイリス、寺の後が見えたよ」


 山間にぽつりと開けた寺の跡に、真夜中の月明かりを浴びておばばの泉がちらちらと輝いている。味気ない弔いの場を覆うのは、薄衣を広げたようにおばばが咲かす大輪の花。


「綺麗」


 あれが『おばば』だと、イリスは感覚で知ったのか、それを問うことはなかった。

 斜面を下り平地に足を踏み出すと、通り過ぎてきたばかりの山の奥から、まるで何かを伝え合うかのように獣の遠吠えが響いた。

 振り返っても闇に覆われて彼らの姿は見えなかったが、ヤタカの肌に当たる空気が森の奥へと戻っていく獣達の気配を伝える。

 森の奥から呼ぶ鳴き声にに応える声が山々に反響して、広がる余韻を残しながら月が先導する星空に吸い込まれていった。


「おんやまぁ、やっと戻ってきたんかい?」


 振り返ると美しい大輪の花は姿を消し、人の形をとったおばばが泉の脇にちんまりと座っていた。おばばの笑顔を照らすように、辺りを埋め尽くす白い小花が淡く光って小刻みに頭を揺らす。

 

「ただいま、おしゃべりさん」


 ぺたりと座り込んで微笑んだイリスだが、疲れて眠いのだろう。細めた目をしきりに指で擦っている。


「イリス、明日もここに泊まるから今夜は眠りなよ。おばばとのおしゃべりは明日でもいいだろう?」


 首を横に振ってがんばるイリスだったが、様子を見るように皆の会話が止まると、こくりこくりと頭がすぐにぐらつきはじめた。


「おばば、イリスを小屋に連れて行くから、少し待っていて」


「あいよ」


 目を閉じてくたりと首を折るイリスを背負い、ヤタカは小屋へと歩いた。

 小屋に置かれたままの誇りっぽい毛布にイリスを包み、帰り道は幼い頃に親しんだ水場で腹一杯に水を飲んだ。視界の隅にちらりと映った岩牢へは目を向けずにおばばの元へ戻ると、どこに隠れていたのか紅がゆったりと尾を揺らして泉の中を泳いでいる。


「紅、元気だったか? 大親友のゲン太ちゃんを連れてきたぞ。ここにいる間、この馬鹿下駄をよろしくな」


 心得たと言わんばかりに、水面をぴしゃりと尾が打った。憤慨したゲン太が泉に尻を向け、後ろ歯でぺっぺっと土を飛ばす。


「これこれ、坊主どもはさっさと仕事をすませてから遊ばんかいな」


 おばばのひと言で、ゲン太はむくれながらも泉へ飛び込んだ。水の中で尻を振るゲン太から、集めた異種の種が撒き散らされる。ゆったりと泳ぐ紅が、異種を呑み込みくるくると回る。


「おばば。色んなことが一度に起きた。順を追って説明するが、イリスはまだ知らないことも多く含まれている。ゲン太は、ほとんどのことを知っているけれどね」


 黙って頷くおばばの姿は、あの日と同じく朧だ。月明かりに浮かぶ姿は、まるで地上に降りた朧月のように儚い。

 最初にここへ戻った時に感じた吐き気もなく、ヤタカは記憶を辿りながら伊吹山、わたる、和平、袂を分かった友人のことを語った。思い返しながらひとつひとつ話すヤタカの言葉に、おばばは口を挟もうとはしなかった。

 小さくなった月が傾いていく。

 目を閉じて表情を変えなかったおばばが、シワの奥で細く目を開けたのは、イリスが体内に受け入れた金色の文字列の話。


「おばばは知っていたのかい? イリスが負う役目のことを」


 おばばはゆっくりと首を横に振る。


「いんや、今は覚えておらんよ。じゃが、知っておったのかものう。くく、異種が騒いでおる。山を渡ったそれぞれの先で、騒いでおる」


 おばばが仰ぐ山の向こうには何も見えない。黒い山の影にあの日山を渡っていった異種達の光の川が重なってヤタカの中で蘇る。

 異種が一塊ではないなら、あの日幾筋にも分かれて渡っていった異種達の、どれにおばばは属すのだろう。味方に情報を与えたのか、あるいは敵なのか。おばばを信じるイリスをヤタカは信じたに過ぎない。だが今は、結果を恐れていては何も得られない。


「答えに繋がる記憶が戻るとは限らんのじゃが、明日の夜まで待ってくれんかのう? イリスがいない方がいいじゃろて」


「あぁ、そうして欲しい」


 ヤタカはほっと息を吐く。


「ヤタカも小屋に戻って眠るとええで。この子らは、一晩中ここで遊んでおるじゃろ?」


 言い残しておばばはすっと姿を消した。泉の底が淡く光を放ち、水の中でじゃれ合う紅とゲン太の影を浮かばせた。


「ゲン太、水遊びが過ぎて風邪をひくなよ? 俺は小屋で眠る。紅、おやすみ」


 水面がぴしゃりと跳ねた。仲良しじゃないとむくれたくせに、紅を追いかけるのに夢中になっているゲン太は、ヤタカの声など聞いていそうにない。


「アホ下駄め、明日には水でふやけてデブ下駄になっても知らんぞ?」

 

 小屋へ続く坂道の途中で、ヤタカは岩に腰掛け目を閉じた。一度座ると湧き水のごとく疲れが溢れ出た。


「水浴びしないと怒られるかな……まあいいいや、イリスだって浴びていないし」


 岩牢はすぐそこ。ここから眺める夜の景色は、幼い日に痛みに耐えながら岩牢の中で眺めていたものと変わらない。ヤタカはそっと右目に手の平を当てる。


「なぁ水の器、俺の役目は何だ?」


 水の器は眠ったように動かない。


「たとえこの世がひっくり返ろうとイリスを助けられないなら俺は、どれほど重要な役目だとしても、果たす気なんかないんだぜ?」


 不思議なものでゲン太がいない夜を、イリスと二人きり小屋で過ごすのは気が引けた。

 以前は当たり前のことだったのに、どことなく気まずさを感じてヤタカは道の途中で座ったまま目を閉じた。


 山の遠くで一斉に、咆哮にも似た遠吠えが響く。無数に重なり合い木霊する獣の声に怯えたように、周囲の草がさわさわと揺れた。

 はっとして目を開けたヤタカは、道の反対側の急な坂から迫り上がる影に目を見張る。

 影の形が、ヤタカの記憶の深いところをじくじくと刺した。

 水の器が迫り出したように、目の奥が激しく痛む。


「誰だ!」


 素早く立ち上がり腰を沈め、ヤタカは全神経を影に集中させた。


「くくくっ」


 くぐもった笑い声がして、影の右手が頭上に高く掲げられた。


「いったい何を!」


 伸びた右手首の辺りから、しゅるしゅると細い影が伸びる。無数の突起をつけたそれは三本に枝分かれし、蛇のようにくねくねと得物を探して宙で踊る。


「貴様は、あの時の!」


 危険を感じて身を翻したヤタカの肩が、鈍い音を立てて背後の岩に叩き付けられた。

 焼けるような痛みに、食いしばった歯の隙間から呻きが漏れる。

 肩を貫いた物が月明かりに照らされた。無数のトゲを生やした蔦が三本絡まって、ヤタカの左肩を貫いていた。

 尖端が岩の隙間に突き刺さっているのだろう。痛みに耐えて引き抜こうとしても、左肩は岩に張り付けられたままビクともしない。

 黒い影がゆっくりとヤタカに一歩近付くたびに、刺さった蔦のトゲがでろりと肉を抉り、ヤタカは溜まらず悲鳴を上げた。

 怯えたように水の器がヤタカの奥へと引いて行く。それと同時に目の痛みも失せた。

 ヤタカは影をじっと睨み付ける。

 

「まったく、どこまでも邪魔な男だよ」


 うっすらと月にかかっていた雲が流され、目の前まできた男の姿が照らし出された。

 黒い布で顔を隠し、口元も何かで覆っているのか声はくぐもっている。


「誰だ……顔を見せろ」


 くくくっ、男の嗤いに被せるように、森の獣が吠える。


「楽にしてやろう。水の器は、いただくよ」


 前に突きだした男の右手首からは意思を持って蠢く蔦が生え、残る左手がゆっくりとヤタカの右目に伸ばされる。

 ざっと強風が通り抜け、男は足元をふらつかせ空を見上げた。

 上空はどれほどの風が吹いているのか、西の空から天馬が駆ける勢いで厚い雲が押し寄せ星空を覆い隠していく。

 右目に伸ばされた男の手が、何かの気配を察したのかだらりと下がった。

 気を失いそうな痛みに頬を振るわせるヤタカの耳に、森の葉を打つ雨の音が響く。

 雨音はやがて滝のように激しく森の葉を揺らす。

 異常な光景だった。周囲の山々に轟く雨音に反して、ヤタカ達の周囲は雨粒ひとつ落ちていない。


――いったい何が集まって来ていやがる。


 食いしばった歯ががくがくと震えるなか、小屋に眠るイリスにだけは気づいてくれるなと、激しく響き渡る森を打つ雨がイリスの眠りを揺り覚まさないようにと、祈ることしかできなかった。


「邪魔が入ったか」


 男の舌打ちと同時に、薄ら青い光に夜の闇が払われた。

 ヤタカに突き刺した蔦をそのままに、男の足が一歩二歩と後退る。地鳴り似たゴォォーという低い轟音が空気を揺らす。


――これは水……なのか?


 青白い光を放ちながら渦巻く水流が、山の三方向から水柱となってこちらに向かっていた。ヤタカと男の間に凶器と化してなだれ込んだ水柱が、青白く二人を照らし出す。

 照らし出された男の袖が、水柱が生みだす風にぶわりと捲れ上がったのを見たのも束の間、触れれば鼻が引きちぎられそうな勢いで過ぎていく水柱に、ヤタカは顔を背け目を瞑った。

 どん、と地面を揺らして通り過ぎた水柱が地面に落ちた。湖の浅瀬に座ったように、水がさらさらと流れていく。 

 右肩を押さえて呻く男の手首に、しゅるしゅると蔦が吸い込まれていく。ヤタカに刺さった蔦はそのままに、蔦を途中で寸断したのは凶器と化した水柱。


「おまえは……」


「これはこれは、わたしの大切な者に無礼を働くのはどんな輩かと思い出てきてみれば。その蔦、狼煙塚の者だね?」


 口を開いたヤタカの声に被せるように、女の声がした。

 ヤタカの横に立つ女の細い指先がヤタカの肩に触れ、地面を流れる水が放つ光に照らされた横顔が、ヤタカを見て薄らと笑う。


「水気の主……どうしてここに」


 ヤタカの問いには答えず、水気の主は男に真すぐ向き直り、胸の前まで上げた手でしっしと払うような仕草をした。

 水の器が身を震わせる。水気の主を求めて、姿なき身を震わせる。痛みと緊張に固まる体に、ヤタカの感情ではない恋慕が混じる。同時に湧き起こった異質な感情がぶつかり合い、胸の奥で心がひび割れる感覚にヤタカは嫌そうに眉根を寄せた。


「馬鹿が、今更もう遅い。その男が死ねば水の器は宿り続けることはできまい? 今おまえが持ち帰ったところで、何の役にも立たぬ。水の器の目的は果たせぬ」


「このくらいの傷で、死なせるものか」


 抑揚のない水気の主の声だったが、ヤタカの肩に置かれた指先に僅かに力が込められた。


「もうすぐ毒が回る。刺さったままの蔦からは、今も毒が送り続けられている。この男の命が絶える前に、毒を抜ける者がいるといいがな」


「外道が!」


 声を荒げた水気の主が、堪りかねて一歩前に踏み出した。


「止めておけ。わたしを追う間に水の器を見失うぞ? くくっ、まあどうでも良いことだが」


 嗤いながら男がゆっくりと後退る。後ろ向きのまま飛び降りて、その影は崖の向こうへと消えた。


「しっかりおし! おまえなんざどうでもいいが、今死なれちゃ困るんだよ!」


 手に厚く布を巻いて、水気の主が肩に刺さった蔦を引き抜く。刺さった時とは別の肉がトゲに裂かれる激痛に、ヤタカは天を仰ぎ声を上げた。

 抜いた蔦を放りだし、閉じかけたヤタカの目を細い指が押し開ける。


「眠るんじゃないよ! もう少し、もう少しだけあの方を宿らせておくれ!」


「生き残るのは、厳しいかもしれないな。俺はいい、小屋にイリスが……」


 力ない言葉と共に、口の端から一筋の血が垂れた。


「あんたはイリスを守るんだろ? 府抜けたこといってんじゃないよ!」


 頬を張られてヤタカの頭ががくりと傾いだ。


「三度目なんだ……この毒を受けるのは……三度目」


 咳と共にげぼりと血が吐き出され、肩を支える水気の主の袖を赤く染めた。体内を廻る毒に視界が霞み、代わりに誰かの記憶を過去から辿る、ぶつ切れの映像がぼんやりと浮かぶ。ヤタカにも見覚えのある景色ばかりが続く。毒の持ち主とヤタカの血が混ざり合い、互いを結びつける記憶が蘇る。


「あたしにこの毒は抜けない! しっかりしておくれ! 後生だから!」


 遠い所で水気の主が泣いている、ヤタカはぼんやりとそう思った。

 痛みが退いていく。

 体の感覚がまるでない。

 死ぬのだな……そう思った。


 岩牢の中、幼いヤタカが赤く顔を腫らして笑っている。

 悪戯をして慈庭に襟首を掴まれ引き摺られるヤタカが、舌をだして小さく手を振る。

 

 自分を見ているという奇妙な現象を、不思議だと思う気力も残っていなかった。流れる映像を、ただぼんやりと眺めていた。


 饅頭を取り合って、ヤタカが誰かに爪を立てた。

 岩牢に張りついている慈庭の後ろ姿。


 懐かしいな……だが、死に支配されて虚ろだったヤタカの心が、次の場面で跳ねて脈打ち狼狽した。


 慈庭の背に伸びた蔦が突き刺さっている。慈庭がこっちへと地を引き摺られ、崖の向こうへ落ちていった。

 数年前のヤタカが叫んでいる。誰かの記憶を辿るヤタカの意識が、記憶の持ち主の体の移動と共に、ヤタカがいる岩牢へと近付いていく。

 ヤタカが必死に訴えている。

 視界がぐらりと動き、周りを蔦に囲まれた。

 転がっていく、崖の下へと転がっていく。

 遠くからヤタカの叫び声が響いている。

 周りを囲んでいた蔦が、するすると引いた。

 下を向いたヤタカの目に、骨張った男の右腕が見えた。

 

――そんな


 蔦の先を呑み込んだ手首の少し上には、爪に肌を裂かれた二本のミミズ腫れ。

 バネを弾かれたように、ヤタカの意識が今という時へ引き戻される。

 ついさっき見たばかりの光景が、鮮やかに蘇る。  

ぶわりと捲れ上がるった男の袖。

 そこから覗いたのは、赤い二本の傷跡。


「円大!」


 叫んだ名は、飛沫となって口から撒き散らされた血に掻き消された。

 

――イリス、ごめん


 

 浅くなった呼吸に、ヤタカは完全に意識を手放した。




 険しい表情でヤタカを揺さぶる水気の主が、ぴしゃり、と小さな音に濡れた大地に目を向けた。


「おまえは?」


 濡れた大地を伝って泳いできたのは紅。その後を駆け上がってきたゲン太が、鼻緒を上下させながら水気の主を見上げた。


――やたか たすける


「そうかい、手伝ってくれるかい? あたしには、手の施しようがないんだ。せめて、楽にしてやりたい。そうでもしないと……」


 イリスに顔向けできないよ、水気の主はそういって閉じられたヤタカの右目にそっとく口づけた。


「もう少し、耐えて下さいな。あなた様のために、わたしは存在しているのですから」


 寂しそうに微笑んだ水気の主は、立ち上がると高々と片手を上げ、その動きに感応して大地に散った水が細い川となって集まった。


「あの泉まで、この男を運んでおくれ」


 水がヤタカの体を掬い上げ坂を流れ落ちていく。紅が水の流れに飛び込み、あっという間に見えなくなった。イリスが眠る小屋へ駆け出そうとしたゲン太はふっと足を止め、紅の後を追って川の流れに身を投じた。イリスの無事を確かめようと駆け出した水気の主の足が止まる。

 イリスの小屋の戸が開いて、中から出てくる影があった。音もなく闇に溶け込み、気配はあっという間に消えてしまう。


「先客がいたようだねぇ」


 イリスの様子を確かめることなく、水気の主は地を濡らす水に身を溶かす。

 ヤタカの体は既に泉の脇に運ばれた。後を追う水はさらさらと、水気の主を含んで泉へと向かっていった。  




読んでくれてありがとうです。

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