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15 昇る雨


 珍しく手入れの行き届いていないボロ小屋で一夜を明かし、街道に出た頃には既に日が斜め上まで昇っていた。

 蹴っても叩いても起きなかったというヤタカを心配するイリスに、大丈夫だといって細い肩をとんとんと叩いてやる。


「本当に?」


「あぁ」


 唇をきゅっと結んだまま俯き加減にイリスが歩き出すのを見て、ヤタカは小さく息を吐く。

 今回ばかりは、ゴテと野グソの研ぎ澄まされた職人の感も、ヤタカの中に紛れ込んだ毒を掴みきれなかったらしい。頭痛はすっかり治まったが、幼なじみ達が摘み取ったのはそこまでだった。時間が経つごとに嫌な怠さを増していく体は、幼い頃に眠る事を許されずに一晩中山中を駆け回った時の、鉛を埋め込まれたような疲れに似ている。


――今日も早めに休めば、少しは楽になるだろうか。


 あの棘の毒に触れてしまったのは、偶然に過ぎないとヤタカは思っている。野グソの手の中で紫に変色した葉の葉脈を更に赤紫に変えていった毒を、一年の時を経てヤタカが再び触れるなど、誰に予測ができるだろう。

 少しでも気を抜くとぼやける視界を振り払うように大きく肩で息をして、ヤタカは杖を擦って器用に歩くイリスの後をついていった。

 昨夜は夜の闇に包まれ、捕らえられない薄紫の幻想的な光りの玉を浮かべていた森も、枝葉の隙間から日の光を吸い込み、そよそよと吹く風に大地の草を揺らしている。


「ねぇねぇ、ヤタカ!」


 急に立ち止まって向きを変えたイリスにさえ気づいていなかったヤタカは、はっと顔を上げぐっと瞑った目を何度も瞬いた。


「日持ちする食料を買っておこうよ。今日のごはんは……まぁ、あるけれど」


 ぷっくりと膨れた巾着を隠す様に、腰の後ろへ回しながらイリスがいう。


「この先の旅には必要でしょう? 無駄遣いじゃないよね? ね?」

 

 ね、ね、と繰り返すイリスがちらちらと送る視線の先には、荷車を引いてこじんまりと商う者達が集まって、商魂たくましく道行く客を呼び止めている。


「買いすぎるなよ」


 イリスに金を握らせてると、ぴょんと嬉しそうに跳ね上がって人に当たらぬよう慎重に杖で土の道を擦りながら、荷車に商品を山と乗せた店へと向かっていった。

 道の端で腰を下ろし息を整えるヤタカの耳に、商魂逞しい呼び込みの声が響く。


「さぁさぁ、今日は春の市だよ! 干し物に越冬野菜、腰痛に効く塗り薬に履き物までなんでも揃うは、街道名物春の市! これまた名物のくじ引きだが、まだ1等も2等も当たりが出ていないときた! くじに外れはないよ! 買わなきゃ損そん、買っていきな!」


 顰めていた顔を更に歪めてヤタカが笑う。

 街道名物春の市だって? 夏の市やら雨上がり市だの、年中なんやかんやと名前をつけて商売をしている呼び口上に、まんまとイリスが引っかかったわけだ。


「イリスの目的はくじだな……」


 何か欲しい景品でもあったのだろうか。そんなことをぼんやり考えていると、呼び子の大声が街道に響き渡り、けたたましく鈴なりの大鈴がしゃりしゃりと鳴らされた。


「お~当たりぃ~! お嬢さんついてるねぇ~。なんと1等が当たった! さぁ、まだ2等が残っているよ~買った買った!」


 1等の大当たりにつられたのか、街道を行く人々の足がわらわらと店へ向かっていく。


 暇だから腰を下ろしていたかのように、怠惰に尻の埃を払って立ち上がったヤタカは、見上げたイリスの表情に目を細める。


「どうした? 1等が当たったのに嬉しそうじゃないな?」


 ふぐ提灯並に頬を膨らませたイリスが、尖らせた口の下唇をぷりっと前に突きだし、ゴミでも渡すように封筒をヤタカへと差しだした。


「すごいじゃないか、宿の宿泊無料券だぞ。なのにどうして浮かない顔なのさ」


「欲しかったのはそれじゃないもん」


 拗ねた子供のように、イリスがぷいっと顔を背ける。


「甘味詰め合わせ袋が欲しかったのに」


「それって何等?」


「……九等」


 くすりと笑ってヤタカは荷物を背負い直す。体がいうことを聞かない日だって、イリスがいれば自分は笑っていられる。そう思ってヤタカは、落とすようにもう一度微笑んだ。


「お~当たりぃ~! 九等が出たよぉ~お子さんの手土産にちょうどいいやね!」


 呼び子の声にイリスが悔しそうに足を踏みならす。


「イリス、この宿屋は素泊まりじゃないから、きっと温かい食事も付いてくる。楽しみじゃないか」


 温かい食事という言葉に、イリスの表情が明るさを取り戻す。


「くじを当てたのはわたしだから、おかず一つちょうだいね」


「はいはい」


 なんだか理不尽だと思いながらも、ヤタカはイリスの嬉しそうな顔を見るとつい表情を緩めてしまう。

 日が真上に登る頃には、イリスの歩調に合わせて歩くことさえ辛くなっていた。

 良い天気だから散歩気分でたまにはゆっくり歩こうといったヤタカに、首を傾げながらもイリスは頷き、ひとり元気を持てあましているゲン太だけは、ゆっくり進む旅に暇を持てあましたらしく、少し先まで駆けては戻りを忙しなく繰り返していた。


「イリス、この辺りで昼飯にしよう」


 返事も待たずに道端に座り込んだヤタカに首を傾げ、しゃがみ込んだイリスは布で遮られる視力を補うかのようにヤタカの顔に指を這わせる。


「ヤタカ、具合悪いんでしょう? ほっぺたの筋肉が強ばっているもの」


 もう隠し切れない。観念してヤタカは頷いた。


「風邪だ。ゴテのアホが俺の背中で何度か鼻を啜っていたとき、嫌な予感はしたんだ。あいつの風邪が移ったんだろうな。バカは風邪引かないって、あれ嘘だな」


「そうだね、ヤタカが風邪引くなんて」


「ちげぇーよ! ゴテのことだろうが!」


 巫山戯た調子で張り上げた声にさえ力が入らない。このまま風邪なのだとイリスが思ってくれればそれでいい。

 土産の残り物をもくもくと頬ばるイリスを眺めるだけで、乾し肉を一欠片口に含んだきり、ヤタカの咀嚼は止まっていた。

 数え切れないほど多くの植物の毒を受けてきたが、そのどれとも違う倦怠感に戸惑い以上の焦りが襲う。


「もう少しで宿場に着くはずだから、そこまで行こう。今日は早めに宿に入って休むことにするよ」


 頷いて歩き出したイリスの後ろで立ち上がったヤタカの足首に、コツリと当たる者がいた。見下ろすと、鼻緒を下げたゲン太が前のゲタの歯をヤタカの踝に引っかけ、もじもじとゲタを揺らしていた。

 その木肌に、ゆらりと文字が浮かぶ。


――どく


 ヤタカが頷いてみせると、ゲン太の鼻緒が木肌に着きそうに萎れた。

 

「内緒だ」


 小声でいって唇に人差し指を当てると、ぴくりと鼻緒を跳ねさせて承諾の文字を浮かばせることなく、とぼとぼとイリスの足元へと寄っていく。


「ゲン太、当たったお宿に泊まれたら、温かいお風呂に入れるかもよ? ゲン太の鼻緒もそろそろ綺麗に洗わないとね」


 嬉しそうに左右のゲタを打ち鳴らし、ゲン太が跳ねて回る。

 目隠ししたイリスには見えないその木肌には、自信なさげに細く揺らぐ文字が浮かんでいた。


――ないしょ する


 明るく跳ね回るゲン太に、ヤタカは心の中で礼をいう。宿に泊まったら、ぬる燗をいっぱいくらい奢ってやろうと思った。

 


 日が傾いたとはいえ、夕暮れにはまだ早い。額にうっすらと汗を浮かべて歩くヤタカは、立ち止まると懐に入れていたくじの当たり券を取りだした。


「くじ引きで当てた宿ってここじゃないのか? 目印にって書いてある門の絵がそっくりだ。大きな柏の木が二本、まるで門みたいに立っているんだよ」


 見えないくせに顔だけ上げて、ふーんというイリスの背を押し、ヤタカは宿の戸を叩いた。


「ごめんください。今夜、部屋に空きはありませんか?」


 ほどなく出てきたのは小太りの中年女性で、白い前掛けで手を拭きながらどうぞどうぞと宿の中へ通してくれた。

 部屋に入るには早い時間だが、体調が悪いから休みたいというヤタカに快く部屋を一つ空けてくれた。宿場に属することなく街道にぽつりと立つ宿屋の周りは森に囲まれ、時間が早いせいもあってか、他に客はみあたらない。


「ごゆっくり、お休み下さいな」


 人の良い笑顔をくしゃりと浮かべ、店の女は障子を閉めて出ていった。窓の障子を少しだけ開け、街道を行く人々の姿をぼんやりと眺めていた。畳に腰を下ろしただけで、気怠さを越える睡魔に呑み込まれる。

 洗濯させてもらうといって出ていったままのイリスを心の隅で思い浮かべたものの、ヤタカの体はゆっくりと傾がり、漬け物石のようにどさりと横に転がったまま、ぶつ切れの悪夢を彷徨う浅い眠りへと落ちていった。


「ヤタカ、起きて。ご飯だよ」


 揺り起こされて目を開けたヤタカは、体の不調とは別の重さに眉を顰めると首を起こして体を見た。


「イリスか……ありがたいような、迷惑なような」


 部屋の隅に重ねてあった座布団を、ありったけヤタカの体にかけてくれたのだろう。押し入れの中にあるであろう掛け布団を掛ける選択肢はなかったのかと、苦笑しながら体を起こした。


「美味しそうな匂いだ」


 良い眠りとはいえなかったが、僅かな体力の回復にはなったらしい。食事の湯気が止まった胃を刺激する。


「失礼いたします」


 廊下から声がかけられ、すっと障子が開かれた。


「この店の若女将でございます。お泊まりいただけたお客様へ、ご挨拶させていただきたとうございます」


 手を着いて深々と頭を下げたのは、三十路を過ぎたくらいの楚々とした女性だった。薄い水色の着物が、彼女の黒髪を更に美しく見せている。

 若女将の挨拶に持ち上げた箸を止めていたイリスの首が、僅かに傾げられた。


「どうかしたのか?」


「ううん。きれいな若女将さんだな、って思って」


 あら、お上手ですこと。そういって着物の袖で口元を隠して若女将が微笑む。それでも傾いだままのイリスの頭を指で真っ直ぐに押し戻し、寄ってきた若女将が手にした銚子から酒を受ける。


「酒ですが、ぬる燗でもう一本つけてもらえますか?」


「かしこまりました。ではごゆっくり」


 若女将が出ていき、誰ともなしによそ行きだった空気が一気に緩む。


「ヤタカは風邪なんだから、あんまり飲んじゃ駄目だよ?」


「俺は少ししか飲まないよ。頼んだ一本はゲン太の分だ。こんな良い宿にただで泊まれたんだから、ゲン太だって少しくらい良い思いをさせてやらないとな」


 イリスの腰に纏わり付いて戯けて見せたゲン太が、とことことヤタカの背中側を回ってぴたりと膝の下に身を寄せた。木肌にはっきりと、黒い文字が浮かぶ。


――いらない


「ゲン太が素直に礼をいうとは珍しいな? 雨が降るぞ」


――むずむず


「俺の分も飲んで良いぞ。遠慮すんな」


――きらい


「俺を嫌いなのは知ってるよ。今更か?」


――ここ


 魚の煮付けを摘み上げた、ヤタカの手が一瞬止まった。

 この場所が嫌いだと、ゲン太はいいたいのだろうか。それに酒をいらないといった。

 ゲン太がイリスの方へ戻っていく。食いしん坊なイリスは、ご馳走に迷ってどれから手を付けようかと、うろうろ箸を泳がせている。


「行儀悪いぞ、イリス」


 口から漏れた溜息の代わりに放り込んだ煮魚を、一口噛んだヤタカの眉根が険しく寄る。


「やっぱり最初はお肉かな」


 大きく開けた口へ肉を運ぼうとする箸が、イリスの口へ届くことなく弾き飛ばされた。


「食べるなイリス!」


 口を開けたまま呆然と畳に手を着くイリスに、旅の荷物が投げられた。


「ゲン太を連れて直ぐにここを出ろ。絶対に戻って来るなよ。やることを終えたら、俺も直ぐ後を追う。できるだけ遠くに離れるんだ。いいな」


 小声で、けれども鋭いヤタカの声が飛ぶ。さっと頷いたイリスは、荷物を抱えるとゲン太を胸に抱いて窓の障子を開け放ち外へと飛び出す。イリスの背中が街道の向こうへと消えたのを確認して、ヤタカはそっと障子を閉めた。


「ゲン太の感も、馬鹿にならねぇな」


 口に含んだ魚は既に吐き出していた。その後に湧き上がった唾液を、ぺっと畳に吐き出しヤタカは廊下とを仕切る障子を表情なく見つめていた。


「失礼いたします。お銚子をお持ちいたしました」


 丸い盆に銚子をのせて歩く、薄い水色の着物の裾が床を擦る。


「あら、お連れ様はどちらへ?」


「さぁ、どちらだろうな」


 真っ直ぐに見据えるヤタカの視線を柔らかく受け止めていた、若女将の目元が細められ、赤く塗られた薄い唇がゆるりと笑みを浮かべる。


「気づいたのはいつぞえ?」


 声はそのままに、口調だけが変わっている。


「魚を口に入れたときだ」


 くくくっ、と女が小さく笑う。


「痺れ毒を仕込んだようだが、生憎と俺の体にあの毒は効かない。だが毒を受けないことと、毒を感じられることは別物でな」


「お見事だねえぇ。だがまだ甘い。おまえは味覚が一番ものをいう口の中で判断しただろう? 少量の蜜に大量の辛子を練り込んだとして、舌が感じるのはどっちの味だろうねぇ。本当に口に含んだのは、感じた痺れ毒だけかえ? 毒は体の表面からも吸収されるだろう? 例えば、舌とかねぇ」


 驚愕に目を見開いたまま、ヤタカの膝がくりと折れた。

 自然界に存在する毒も、人の手にかかれば混じり溶け合い、個別の反応を起こして時にまったく異質な毒をつくり出す。味覚が感じたのは元々の味であっても、そこに隠された混ざりモノは毒を造り替え、ヤタカの体にとって未知の毒素となり得ることは十分に考えられた。理論上は……である。

 それが卓上の理論ではないのだと、ヤタカの体が如実に示していた。

 目玉は動く。感覚と視覚、聴覚を残した木偶の坊となって、ヤタカは仰向けに畳に転がった。

 畳の柔らかさを背中に感じる。感じるだけで、指一本動かせなかった。

 見上げた先で、女が声なく笑っている。


「何にやられたかは知らないが、おまえの体が弱っていることを人づてに聞いてね。街道での噂は、突風より早く駆け抜ける」


 見張られていたのか、という疑念がヤタカの胸を過ぎった。


「おまえに恨みはないんだよ。だから先に謝っておく。すまないねぇ。あの娘にもこの謝罪が届くといいんだけれどねぇ」


 じわりじわりと畳から染み出る冷たさが、背中から脇腹へと這い上がる。


――水か?


 身動きが取れないまま水に浸かるのは、ヤタカにとって足場のない空中へ放り出されるのと変わらない。まるで湧き水のように水位を上げてくる水は、あっという間にヤタカの肩を浸そうとしていた。


「のんびりしたお前達のやり方は待っていられない。正直言って、この世の行く末なんてどうでもいいのさ。自然界が変わって右往左往するのは人だけだよ。他の者は、ただそこで生きていくだけさ。だからね、あたしはどうでもいい。返しておくれ……」


――なんのことだ? 俺はこの女から何も奪ってなどいない


「わたしに、あの人を返しておくれ」


 水を含んで重くなった着物の裾を引いて、女が部屋の中央へと歩いて行く。そして水の中にぺたりと座り込んだ。


「他の方法を探すより、おまえが死んでくれるのが一番確実で、一番早い」


――まさか、水の器のことをいっているのか?


 頬の横まで迫った水に、せめて顎を上げたくとも体が言うことを聞かない。

 死ぬ恐怖よりも、己が水に溶け出すような感覚が嫌だった。死を迎えるまでの苦しみよりも、イリスを一人きり旅路に放り出すことの方が苦しかった。


――イリス、逃げろ


 唯一自由のきく瞼を静かに閉じる。この女に、水の器を渡さずに済む方法はないかと必死で思考を巡らせる。


――おい、何とか言ってくれよ。おまえはあの女の元へ……行きたいのか?


 まるで出口を見つけたかのように、水の器が震えている。だがヤタカの死を待っているようにも感じられなかった。

 行きたくても、行ってはならない場所を見つけてしまったような相対する感情がせめぎ合っている。体のほとんどを覆った水が、ヤタカと水の器の境界線を曖昧にしていた。

 端から溶けた体がぼとりと水中に落ちていくような不快感が薄れ、口の端に届くほどかさを増して体を包み込む、水と自分の境目が曖昧になっていく。

不意に、水中を伝って障子が開けられたような音がくぐもって響く。


――障子が開いたのか? 誰が


 障子が開け放たれても水位が減らないのは、これがこの世の水ではないからだろうか。ヤタカはぼんやりとそんなことを思った。


「水の器はいずれあなた様の元へ帰る。でも、それは今ではないはずです。今は、わたくしに返してくださいませ」


 丁寧に語られる若い女の声だった。


「はて、何と?」


「ヤタカを、わたくしに返していただきとう存じます」


 ぼやけていた意識に稲妻に似た衝撃が走る。くぐもっていて、声質ははっきりわからない。遠くの声に耳を澄ますようにすると、丁寧な落ち着いた口調が部屋に渡って水に染みてくる。


――どうして逃げなかった! イリス!


 声のトーンも口調も、イリスとは似ても似つかない。けれどヤタカはイリスだと確信した。

 舞い戻ったイリスの存在が、冷え切って鼓動を止めることを厭わなかった血流に熱を持たせる。


――動かない……動け!


 自由にならない体を切り落としたい気分で、ヤタカは眼球だけを廊下の方へと向ける。

 逃がした時と同じ恰好のままのイリスが立っていた。冷めたような、哀れむような視線で真っ直ぐに女を見ている。


「やっと気付いたかえ? あまりにも不作法な振る舞いゆえ、イリスとはこちらも気付けなかった。おあいこじゃの?」


 ヤタカを狙った女が、隣にいる者をイリスと思わないわけがない。女は知っていた。イリスを、かなり前から知っている。ヤタカは心の中で歯軋りした。


「悪いがこの男……ここで死んで貰う。この場でこの男が死ねば、自然の摂理に従ってあの人はわたしの中に流れ込んで形を成すであろう?」


 楽しむような女の声に、イリスはゆっくりと首を横に振った。


「あなた様に、それはできませぬよ」


「なぜできぬと?」


「それは、わたくしがこうするからでございます」


 浴衣の袖に隠れていたイリスの右手がすっと前に挙げられる。

 ひぃ、と女が喉を鳴らして息を呑んだ。


「お止め! ならぬ!」


 女へ向けられるとばかり思った、イリスの手の中の小刀の切っ先が、さっとイリス本人の顔面へと向けられる。鈍く光る切っ先は、真っ直ぐにイリスの眼球へ向けられていた。


「止めておくれ!」


 立ち上たばかりの膝の力が抜けて、女は再び水の中にぼちゃりと座り込んだ。


「ヤタカに手は出せても、あなた様はわたくしに手を出すことはできますまい? それはこの世の理ゆえ。わたくしに宿る異種の種をここで抉り出したなら、水に落ちて腐りましょう。異種の種は、水だけでは育ちませぬゆえ……どうなさいます?」


 わなわなと女の肩が震えている。


「正直、わたくしもこの世の末などどうでも良いのでございます。ヤタカをここで葬るなら、わたくしも己に宿る異種と共に自らを葬りましょう」


 イリスの口から発せられているとは思えない、感情も抑揚もない言葉が続く。


「時を待たれますか? それとも今ここで、探し求めたあの方の……水の器の怒りをかうことを望まれますか?」


 女が嫌々と、幼子のように首を振る。

 憑きものが落ちたように、細い女の肩がすとりと落ちる。


「血迷っておったのう……わたしは塵じゃ。水の一部でありながら、水その物ではない。この世の水に紛れ流れる、川面に浮かぶ塵と同じよ……のう」


 天上を仰ぎ見て、女が濡れた細い手を翳す。

 バキバキと音を立て、壁と天上の際から無数の枝が室内へと伸び入ってきた。


――いったい何が起きている!


 動かない顔の上に、ぱらぱらと土壁の欠片が降っては落ちる。

 身動きが取れないヤタカの目前で、砕かれた屋根がゆっくりと侵入した枝に乗って外へと運ばれた。

 夜空に向けて、天上が開けた。


――月か


 場違いな事を思った。森の夜は暗い。その空に、黄色い満月がまるでこの部屋だけを照らすかのように光り輝いている。


「寺が崩壊して一年も、身を潜めておられたというのに、今になってなぜ、このような事をなさるのです?」


 小刀を持った手はそのままに、けれど少しだけ和らいだイリスの声が流れる。

 項垂れたまま、女はすっと濡れた右手を頭上に翳す。


「流れるままに身を任せ、景色を眺めるだけの日々に飽いたのだよ。泉に戻っても、あの方は居られぬ。この世に在り続ける、理由を見失ってしもうた」


「あなた様ほどの御方が、なぜに?」


 女はゆっくりと首を横に振る。濡れた髪の先から、雫がぽとりと落ちた。


「干渉してみたくなったのだよ。この世の動向に、己の行く先に。操る気など毛頭ない。ただ……人が伺い知ることも叶わぬ、己の知恵と知識を含んだ言葉が、どのような波紋を広げるのか見てみたくなっただけのこと。その波紋が、あの方をわたしの元に返してはくれぬかと……な」


 女がくいと顔を上げ、天上が抜けて覗いた月へと向けられた。


「満月か。あの泉へ戻るには、少々時間がかかりそうじゃ」


 ヤタカの鼻下ぎりぎりまで届いていた水位が引いていく。部屋に満ちていたいた水の表面に、引いた水の分だけ白い靄が溜まる。

 ぼちゃりと音がして、ゲン太が水に飛び込んだのが視界の隅に見て取れた。


――イリスと一緒にいてくれたんだな


 少しだけゲン太に感謝しかけたその時だった。動けぬヤタカの視界にはっきり入るほど近くで、ゲン太が水面から跳ね上がりヤタカの左顎を蹴り上げた。そのままの勢いでゲン太はぼちゃりと水に落ち、自らの力では微動だにできないヤタカは水位を下げつつあった水面の下に鼻も口も完全に水没させた。


――馬鹿下駄、いったい何を!


 最後に息を吸い込む間さえなかった。早々に苦しくなった息は、逃がした筈のイリスを目にしまったヤタカに、生きなければという熱をもたらしていた。

 目の前で、ゲン太が器用に尻を振る。


――まるでおばばの泉と同じだ


 ゲン太が振った尻から、ぽとりと黒く大きな粒が三つ落ちた。


――植物の種か?


 水分を含む種は、水の底へと沈むのが道理。

 沈んでいく種を器用にゲタの表面ですくい上げ、ゲン太はヤタカの口先へと戻り半開きのヤタカの口へ、鼻緒を使って器用に種を押し込んだ。

 そしてヤタカの視界からゲン太の姿が消えたかと思うと、腹部に強い衝撃が走りヤタカは息を詰まらせ同時に口の中の種を飲み込んだ。

 腹部への衝撃は反射的にヤタカに大きく息を吸い込ませる。

 

――水を吸い込む


 そう思った寸でに、すっと引いた水はヤタカの口元より下がり、ヤタカの視界は白い靄に覆われた。


「わたしの願いが叶わぬかもしれぬように、イリス。おまえの願いも叶わぬよ」


 棘が抜けたように、やさしい女の声だった。


「承知しております。例え叶わぬ夢であっても、守りたいのでございます。届かぬ夢ではあっても、この手を伸ばすくらいは自由でございましょう?」


 おぬしは強いな、女はぼそりと呟いた。

 体を浸していた水の感覚が消えると同時に、視界を塞いでいた靄も晴れた。

 目の前の光景に、ヤタカは息を呑む。


「雨が、空へと昇っている」


 満月に照らし出されるだけの暗い夜空へ、白い靄が姿を変え雨粒となって昇って行く。


「そうか、雨音ってのは、降った雨粒が地にあたる音なんだな」


 言葉もないまま、静々と雨粒が昇っていく。折り重なる雨粒に、黄色い月が霞む。


「許せよ」


 はっとして振り向くと、そこに女の姿はなかった。


「このままでは、あの方に嫌われてしまうのう。詫びに不文律を破ってみるのもよかろう。のう、ヤタカ、イリスよ。ゴテ師と野草師の存在理由はなんじゃ? 異種宿りと異物憑きを救うこと。それは裏の生業といえど表向きの話よ」


 ヤタカの心臓が、勝手に鼓動を早めていく。聞きたくない。だが、耳を塞ぐ手は己の意志を離れている。


「これを知る者はおそらく、血で繋がれた継承者と一握りの者のみであろう」


 畳が乾いていく。昇る最後の雨粒と一緒に、女に声が遠ざかる。


「必要な者を生かし、用済みな者は切り捨てる。それがゴテ師と野草師、本来の生業よ。知る者達は彼らの事を古からこう呼んでいる……姿なき殺し屋。本来の生業など受け継がれずに、忘れ去られた家系も多かろう。だからこそ誰が、とは言わぬよ」


 声はそこで途切れた。

 乾いた畳と、夜空へ抜けた天上だけが残された。


「ヤタカ、大丈夫?」


 ぱたぱたと走り寄ってきたイリスが、ぺたりと膝を着いてヤタカの頬を両手で挟む。


「体は大丈夫だよ。ゲン太が、怪しい種を飲ませてくれた。毒が中和されたんだろう」


 ほっとした様子でイリスが胸に両手を当てる。

 疼くのは心だ。

 何とか動かせるようになった上半身を起こし、ヤタカは目頭を揉んで息を吐く。


「さっきのは、俺の知っているイリスじゃなかった」


 微笑みを浮かべていた、」イリスの表情が色を失う。


「あんな言葉遣い、どこで習った? いつものイリスは本物か? それとも利口で冷静なイリスが……本来の姿なのか?」


 イリスと目を合わせることができなかった。下を向いたまま尋ねたヤタカの目に、ゲン太の木肌が映る。


――せめる だめ


 解っているさ。けれど、このままじゃ居られない。このままじゃイリス守り切れない。


「本当のわたしなんてないよ」


 視線を合わすことなくイリスがいう。女に言葉を放っていた時に似た、抑揚のない声だった。


「産まれたまんまのわたしは、ずっと昔あの泉に……置いて来ちゃったから」



間が空いてしまって申し訳ありません。

体調不良も解決し、元気ッ子が戻ってまりました。

今年はがんばれますですよ!

長い間空いたにも関わらず、のんびり待ってくださってありがとうございました。

読んで下さったことに、ありがとうを。

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