迷い子
山々が藍く、深く、神森の郷を飲み込んだ。
今年も、夏がやってきた。
住吉が郷を出て、二年の歳月が過ぎた。偶に寄越してくる文には、住吉の爺様が役目を終えたこと、北の海の様子、楽しいこと悲しいことが事細かに記されていた。玉依姫様は一度目を通してから、必ず私に文をくれた。郷の入り口にある大きな桜の木の上でそれを読むことが、私の楽しみになっていた。
今日も、桜の木の上で文を読んだ。青々とした葉の中に、身体を滑り込ませると波に飲まれたような錯覚に陥る。少しでも、住吉のいる北の荒々しい海が思い浮かべられればなんて、童のようなことをする自分に苦笑してしまう。
一陣の夏風が髪を揺らす。文を読んだら、このまま眠ってしまうのも、悪くない。懐から文を取り出そうとしたときだ。
「・・・人の、匂い。」
目線を下ろすと郷のある森のすぐ下の谷に、緋色の何かがちらりと見えた。
「・・・・」
文をしまいなおし谷を下りる。少し下りただけで緋色の正体が分かった。髪結い紐だ。木の枝に絡み付き、風になびいている。指に引っ掛け、弄んでみる。なかなかの上物なのだろう。紐とはいえ、手触りが良い。だが、これはこの郷のものではない。
何故、此処に人のものが・・・。このような人里とは遠く離れた山中、それも人には踏み込めない程の深い山に。辺りを見渡すと、木々の間を歩く人の姿が見えた。
十くらい、だろうか。足元を見ながらふらふらと歩く姿は、あまりにも危なっかしかった。
恐らくは、この紐を捜しているのだろう。
「・・・見えなければ、良いか」
私たちの姿は人には見えない。そっと落とせば良かろうか。娘の歩く先の枝に腰かけ、ぽとりと紐落とした。さて、これで良いだろう。枝からふわりと飛ぶ。
「あなた・・・だれ?」
最初、それは私にかけられた言葉ではないと思っていた。
「だれ・・・?」
しかし、再度聴こえた声に振り向くと、娘は真っ直ぐに私を見つめていた。私を通して山を見ているわけでもなく、私の姿を、その大きな胡桃色の瞳に映していた。この娘・・・私のことが見えているのか。
「包帯・・・怪我、しているの?」
娘は拾った紐を固く握り締め、私を見る。私の全身に巻かれた包帯を見て、怯えているのだろうか。それとも、その包帯の隙間から垣間見える金色の瞳と白緑色の髪に異端の念を抱いているのだろうか。・・・いや、その両方か。
何はともあれ、此処に人がいることはまずい。妖どもが騒ぎ始める前に帰さねば・・・。
「ねぇ、けが・・・「去れ」
娘の言葉を遮るように、一言だけ。多くを説明してやれる義理も、時間もない。しかし娘は言葉の意味を図りかねているのか、ただ、首を傾げるばかりだ。・・・やれやれ、仕方あるまい。
「・・・去れ、人の子。妖が騒ぐ前に、山を下りろ。」
「あやかし・・?でも、帰り道、分からない」
「・・・・・・・・」
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何故、私はこの人の子を放ってはおかなかったのだろう。
あの場に残して妖に食われようとも、私には何の害もなかった筈。しかし今、こうして娘と共に歩いている。娘は先程から、私の着物の袖を掴んで離さぬ。山の動物から畏れられている私が、まさか人の子に懐かれてしまうとは・・・。何ともこの世は奇怪である。
「・・・人の子、名は」
「茜だよ、あなたは?」
「・・・闇於だ」
何故、名など気にするのだろう。もう会うことなど、ある筈ないのに。この娘、茜を山から下ろせば、それっきりだというのに。
「・・・暗くなってきた。急ぐぞ」
夏とはいえ、もう辺りは薄暗くなってきている。童の足に合わせれば当然のことだったか。声をかけるが返答はない。振り向けば、着物をつかんだまま首を上下に揺らしている。・・・まったく、人というのがこんなにも弱いとは。大きく嘆息し、茜をおぶさる。いつか、玉依姫様が私たちにしてくれたように。
「・・・・あたた、かい・・」
微かに聞こえた声。背に預けられた、重み。少しでも手荒く扱えば崩れてしまいそうなそれに、私は・・・少なからず、心が揺れた。
それから、私は茜を麓の里の入り口に置いて帰った。
もう、会うことはないだろう。そう思うと少しだけ、寂しくなった。