(2)波紋
「というわけで、俺は今とても機嫌が悪い」
「いや、何が『というわけ』なんですか。話の流れが全く読めませんよ少佐」
執務室で顔を合わせるなり宣言したルキノに、ジャンが突っ込んだ。本能による反射行動だったのか、突っ込んだ後は不機嫌な上司には取り合わず、暢気な様子でお茶を淹れだす。
その、全く罪のないそばかす面を張り倒したいと思うくらいルキノの心は荒れていた。
堆く(うずたかく)積まれた書類をせっせと仕分けはじめたジャンが、一向に仕事に手をつけないルキノをチラと見やり、ため息をつく。
「…それで、何があったんです?」
「姫が王女殿下の侍女になった」
しょうがないから聞いてあげますよ感丸出しのジャンに、ルキノも不機嫌全開で返した。
考えれば考えるだけ不愉快になる。「お誕生日まで、腕の立つ侍女が欲しいの!」などと言い出した王女殿下に殺意を抱いてしまいそうだ。
王女の侍女には宮廷に部屋が与えられるから、アントニアは三日間宮廷から帰ってこない。結婚して、ルキノは愛しいアントニアと毎日くっついている権利を手にしたはずが、この三日間は「ルキノ殿」と呼んでもらうことも、抱き寄せてキスすることもできないのだ。
女子供老人には甘いルキノだが、あの小さくぽっちゃりした王女にだけは、もう優しくできそうになかった。
「三日も姫にお会いできない…」
「あーはいはい、そーですねー辛いですよねー。三日したら獅子姫に会えるとか、なんですかそれ自慢ですかこんちくしょう」
「自慢なもんか。新婚二カ月で姫を取られちまったんだ、俺はいま最高にイライラしてるぞ」
苛立ちの原因はそれだけではない。王室近辺の物騒な雰囲気が引っかかるのだ。王室はいま、異教徒区の過激派と緊張状態にあった。
王女のそばにいることで、アントニアにもしものことがあったらと思うと、目の前が真っ赤になるほどの怒りを覚える。追いかけて追いかけて手に入れた愛しい女が、自分の手の届かない場所で傷つくなど考えたくもない。
「悪夢だ…」
「悪夢はいいですからちゃっちゃと仕事してください。明後日の生誕祝いのことで、確認事項が大量に届いてるんですから。あんたね、俺たちが今むちゃくちゃ忙しいって分かってます?」
「ジャン、過激派はどうなってる?」
「無視ですか、そうですか。よく分かりましたよ。仕事熱心な上司を持って、俺って本当に幸せだなあ!」
「まじめに聞いてるんだよ。“どうなってるんだ?”」
「……過激派って、異教徒区のアレですよね。どうって言われても、俺たちの管轄じゃありませんからねえ。まあ、連中も最近は大人しいみたいですし、武器を集めてるって噂も聞きませんから、あそこを担当してる奴らもそこまで気にしてないと思いますけど」
何ですかいきなり、本当にまじめなんでしょうね、とこちらを見上げつつ答えたジャンの言葉に、嫌な予感が膨らんだ。
獅子姫と結婚したことをやっかまれ、ひと月ほど前まで管轄外の仕事を大量に押しつけられていたルキノは、異教徒区の監視を強化するために視察に赴いたこともある。異教徒たちの破壊行動で、町は戦禍に遭ったかと思うほど悲惨な有様だった。
その彼らが、このひと月でいきなり大人しくなったことには、どんな意味があるだろう…?
異教徒区の人間が信仰を求めて過激な行動を取りはじめたのは、ルキノが結婚する前の秋だ。区内での暴動や教会への放火が急増し、ルキノたち軍人も、一時期はその取り締まりに追われた。
彼らは『信仰の解放』とやらを要求しているが、王がその要望に応えることは絶対に出来ない。王権は神の名のもとに成り立つからだ。『信仰の解放』が、王権を揺るがすものであるが故、異教徒たちと王室とは絶対に分かりあえなかった。
分かりあえない以上、異教徒たちが次に考えるのは、おそらくは王室の排除だ。
王権の打倒、つまりはクーデター。
彼らにそこまでの力があるとは思えないが、それでも実行しかねない熱が確かにあったとルキノは思う。だからこそ、近衛兵が増員され、王室の警護体制が一層強まったのだ。
「……」
「考え込んでないで仕事してくださいって…ちょっと聞いてますかー?おおーい、イロンデル少佐ー?」
「過激派の連中が急に静かになった理由はなんだと思う?」
「はあ?」
「諦めたからか?資金が底をついたからか?…大きなチャンスを目の前にして、俺たちの警戒を弛めたいと思ったからか?」
王女の生誕祭で、異教徒区の過激派たちが何かしらの行動を起こすのでは、という可能性が頭から離れない。
『信仰の解放』のために王権打倒を謀る者たちが、王女の命を狙うかもしれないのだ。その時、隣にいるアントニアはどうなるのか。
もし危険に巻き込まれたら、と思うと足元が崩れるような恐怖を感じた。
「ジャン、俺は今から生誕祝いの警護を見直すぞ」
「今からって…あんた、獅子姫が関わるとほんとやる気が違いますね。王女殿下おひとりのことだったら絶対そこまで頭回してないでしょう」
「ああ、当然だ」
「即答ですか…」
さすが犬騎士、とジャンは呆れたように呟く。
「でも、考えすぎじゃありませんか?異教徒区の連中は確かに物騒ですけど、教会を襲うぐらいがせいぜいですって。王族を傷つけようとまではさすがに考えませんよ」
「生誕祝いの警備の見直しを申し立ててくる」
「いやちょっと、やめてくださいって。ただでさえめちゃくちゃ忙しいんですよ?今から警備いじったらどれだけ悲惨なことになるか分かってます?」
「お前な、仕事と姫の命、どっちが大切だと思う?」
「……そこは、“王女の命”って言うところでしょうが。ほんとあんた重症ですね」
獅子姫のためならどんな労力も惜しまないルキノに、ジャンは呆れを通り越して感心する目を向けた。
誰に何を思われたって構わない、上官たちを脅して叩き伏してでも警備を強化する、とルキノはすでに心を決めている。
五歳のころから遠巻きに追い続けた姫君だけが、ルキノにとっての絶対なのだ。