犬騎士 職場にて
白い首にかかる、キャラメル色の髪。
恥ずかしそうに伏せられたチョコレート色の目。
どこもかしこも甘そうで、かじってみたくて、服を脱がす手が逸った。
戸惑うように胸を押した手は、剣を握るからか、少しかたい。何度か経験した女たちとの違いを確かめるように肌をたどると、腕に丁度よくおさまった身体が大きくしなる。
「アントニア…」
心から愛しい女の名前を呼んで、ルキノは熟れた唇にかみついた。
「少佐、顔。顔が崩れてますよー」
人生最大に幸せだった瞬間を思い返していたルキノは、無粋な指摘で強制的に現実へ戻された。
至福の回想に割り込まれた反射でついきつく睨んだルキノに、そばかす面の年若い補佐官が雄弁な視線で対抗する。
婚礼から十日あけて出勤した上官に、直属の部下は冷たかった。
「幸せなのは結構ですから、とっとと仕事をしてくださいねー。あんたがいない間にほら、アレとコレとそこのソレ、目を通してほしい書類が溜まって山になってますからー」
「ああ、これ……って、これ、全部か?廃品回収のゴミじゃなくて?」
「選りすぐりの重要文書ですよー。ただでさえ忙しい春に大隊長が十日も職務放棄したんですから当然の結果ですねー」
「語尾を伸ばすなよ、ジャン。ただでさえない俺のやる気がさらにそげるぞ」
「少佐の鼻の下が伸びきってるんでー、俺も語尾を伸ばしてみましたー」
「…悪かったよ、新婚で。どうせ俺は幸せだ」
「うっわー、むかつきますねーあんた」
大量の書類にも冷たい部下にもめげないルキノに、ジャンが思いっきり顔を歪める。
ルキノとしては、その手が書類をさばくのを止めない限り、どう思われてもかまわなかった。
「大春祭の警護、王女殿下のご生誕祝い、異教徒区の監視、辺境警備兵の派遣…なんでこうデカい仕事ばっかりあるんだ?というか、異教徒区は大隊の管轄じゃないだろ。なんで俺に回ってきてるんだ」
「ロベナ中将からのご祝儀ですよ。“獅子姫を娶ったからには、ゆくゆくは携わる仕事だろう。チェックしてやるからやってみろ”とのことです。まあ、やっかみが半分と面倒なんで押しつけたのが半分って所でしょうね」
「……」
「ちなみにそっちの束はサルデーリャ大佐からで、手前の武器決算は経理長官から押しつけられました」
「今すぐ突き返してこい!」
「嫌ですよー。獅子姫さまをかっ攫われて、俺だってムカついてるんですから。少佐なんて、仕事にまみれて家に帰れなくなった挙句浮気を疑われて嫌われてしまえばいいんです」
随分具体的かつ恐ろしいことを言ってくれる。
アントニアに嫌われると想像しただけで、ルキノは腹の底が冷たくなった。
あの美しい瞳に軽蔑の視線を向けられたら。あの柔らか唇で嫌いだなんて言葉を告げられたら。
「…俺は帰る。絶対に定時で帰ってやる」
そして、姫と…アントニアといちゃいちゃするのだ。
結婚から十日経っても、姫君はどこかルキノに遠慮がちで、いつだって気遣うように見上げてくださる。その視線がたまらなく愛おしくて抱き寄せると、少し戸惑って赤くなる。
鬼の将軍の目を盗んで獅子姫にちょっかいを出せる命知らずはいなかっただろうから、そんなアントニアを知っているのはルキノだけだ。
あの美しく勇敢で心やさしい生き物がルキノだけのものだと思うと、幸福すぎて心臓がとまりそうだった。
「イロンデル少佐、顔。顔が崩れてますってあんた」
「…ジャン、俺は幸せなんだ。五歳の夏から十八年、粘りに粘って手に入れた幸せだ。他の何を手放すことになっても、これだけは失えない」
「なんですかいきなり。自慢ですか。ええ、ええ、うらやましいですよ。ちょっと殺意を覚えるぐらいうらやましいですとも!」
「幸せだから、早く帰りたい。姫に嫌われる可能性は塵でも残したくないんだ。というか、早く帰って姫にお帰りなさいあなたと言っていただきたい。…だから、全力で仕事に取り組む。お前も手伝え」
「…あんまり幸せを曝してたら、あんたのお茶に下剤を混ぜますよ」
「混ぜてみろ、次の訓練で俺の相手に指名してやる」
「馬鹿言わないでください。将軍から一本取ったあんたとまともに組めるわけないでしょう?」
「命が惜しいなら余計なことは考えずに仕事しろってことだ。そして俺を定時で帰せ」
横暴な上官に、部下が恨めしげなため息をつく。
その手が書類を裁いている限り、ルキノは何を思われてもかまわないったらかまわないのだ。
愛しい姫君のために将軍に食いつき続けた犬騎士は、やはり愛しい妻のために仕事に食いつくのだった。