中編
自分ほど幸せな男はいない、とルキノは確信していた。
幼いころから憧れつづけた姫君と、とうとう婚約までこぎつけたのだ。
姫君は、文武に長け、勇敢で、すらりと伸びた背に気品と艶のある方だ。剣を振るい馬を駆る姿は凛として美しいうえに、並の男を寄せ付けない実力をも備えている。
ついたあだ名は獅子姫―――獅子のように気高く美しいという意味だ。
「俺より弱い男に娘はやらん」と豪語する将軍に何度挑み、何度負かされたか分からない。
将軍の言葉を『将軍に勝ったら獅子姫を娶れる』と解釈した軍人たちは、ルキノを筆頭に、しつこく将軍に挑戦した。
ルキノが死に物狂いで剣の腕を研磨し、歴代最年少で少佐位を拝命できたのも、姫君を抱き寄せ、キスしたいという下心のためである。
そしてとうとう将軍から一本取ったのが先月。ルキノは同僚たちの大ブーイングのなかで感涙した。
ああ、なんて幸せな…。
深いため息をついたルキノは、横から顔をのぞきこまれた気配で我に返った。
「ルキノ殿?」
わずかに眉根を寄せた獅子姫が、まっすぐな視線をルキノに向ける。
地上で最も誇り高い獣に例えられるだけあって、アントニアの瞳には凛とした強さがあった。
彼女の視界に映るというだけで、いつだってルキノは舞い上がる。
初めて将軍の屋敷に連れられ、姫君と手合わせした瞬間からずっと、ルキノはアントニアに見つめて欲しくて必死だった。
「どうされました、姫?」
「どうされましたって…その、大丈夫か?ぼーっとしたり赤くなったり。どこか具合が悪いとか…」
「健康そのものです。姫が望むなら、宮廷を逆立ちで一周してみせます」
「望まないから絶対にやめてくれ」
大丈夫ならいいんだ、とアントニアはちょっとひきつった笑みで言う。そんな表情ですら美しい、とルキノはうっとりした。
「ルキノ殿…もし、私に思うことがあるならはっきり言ってくれ。こうして顔を見せてくださるのは有り難いが…何というか、毎日毎日うちに通う必要はないのだ。上官の娘だからと気を遣っていただかなくても、私は大丈夫だから」
「俺は大丈夫じゃありません!」
本当なら一分一秒でも離れていたくないのを我慢しているのだ。せめて毎日顔を見に来るくらい許して欲しい、という思いを込めて、ルキノはアントニアを見下ろした。
いつだって苛烈なはずの瞳が少し戸惑うみたいに揺れる。
「そこまで父に遠慮しなくても…。どうせ夫婦になれば毎日イヤというほど顔を合わせるのだ。結婚前まで無理にそうする必要はない。うちまでいらっしゃるのは負担だろう?さっきも、ため息をついていらした」
ああ、なんて優しい方なんだ。
アントニアに気遣われる至福にルキノは酔った。
同僚に自慢して回りたい。将軍が怖くてアントニアを遠巻きにするしかない男たちに、自分の幸福を曝してやりたい。
ど突かれても、風当たりがきつくなってもかまわない、明日兵舎に行って自慢する、とルキノは心に決めた。
アントニアを見下ろす一対の金の目は蜂蜜のように甘く溶けながらも、何処か虚ろだ。ルキノの恍惚の表情を、アントニアが内心不気味がっていることを、彼は知らない。
黙って立っていればかっこいいと同僚がしぶしぶ認める美貌と、獅子姫を得たいがために研いた剣の腕に、当の獅子姫が負い目を感じていることも、幸せの絶頂にあるルキノは分かっていなかった。
どこまでもすれ違うふたりである。