(11)逃走
「お待ちください、王女殿下!おひとりでは危険です」
「ついてこないで!」
突然機嫌を損ねて駆けだした王女は、広間から庭園へ、庭園から宮廷の廊下へと、どんどん人気のない場所へ入っていく。
ぽっちゃりしている割にすばしっこい王女を追ううち、密かについていた護衛を撒いてしまったようで、アントニアはひどく焦った。
近衛兵たちがあれだけ厳重にした警備から抜け出してしまうなんて、敵に「狙ってください」と言っているようなものだ。その敵も、正式に命を受けた軍人と違い、個人的に王女につけられたアントニアでは予測できない。
息が切れて立ち止まった王女の前に、アントニアはかがんだ。
「殿下、ここは危険です。広間に戻りましょう」
「は、離れなさいよ!イロンデル少佐にちょっと愛されてるからって、いい気にならないで。二年後には、あたくしがきっと…!」
「ルキノ殿?あ、愛してって誰が誰を、」
「とぼけないでちょうだい!イロンデル少佐はずっとあなたのことが好きで、だから結婚したんだって、侍女たちが言っていたんだから!」
「そ、れは、どういう…」
王女がなぜ怒りながらルキノの名前を出すのか、という疑問は、ルキノが自分を愛していると言われたことで吹き飛んでしまった。
―――愛してるって何だ。愛って…あの愛か?私がルキノ殿に惹かれるように、あの方も私を?いや、無理だ、恥ずかしくて考えられない…じゃなくて、いまはそう、王女をお守りすることを考えるべきで、
どんどん頬が熱くなる。きつくなった王女の瞳に、真っ赤な自分が映っていた。
なんて、情けない顔。
アントニアは顔を隠そうと頬に腕を当て――――
「殿下!」
視界に煌めくモノを見てとり、とっさに王女を突き飛ばした。
アントニアの目の前を―――つい一瞬前まで王女のいた場所を―――鋭く光る刃がかすめる。
「何をするのよ!」と叫んで起き上った王女は、剣を手に立つ男を見てヒッと悲鳴を飲み込んだ。
「避けられましたか。気配は殺したつもりでしたが…女にしては、いい勘をお持ちでいらっしゃる」
「…トレイユ卿」
「“ソ”レイユですよ、勇敢なお嬢さん。勘はよろしいがお耳の方は今一つですね」
「あ、あなた、まともにしゃべれたの?!」
「世間知らずなプリンセッサ、語学は辺境に領土を持つ者に必須の知識でございますよ。しゃべれなくては隣接する国と渡り合えません。最も、便利な事が多いのであまり大っぴらにしゃべれるとは申しませんがね。言葉が拙いふりをしておけば、相手は油断し、余計な詮索もされない」
ソレイユ辺境伯が小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
その手にあるのは近衛の剣だ。幼いころから兵舎に出入りし、剣を習ってきたアントニアにはそれが分かった。
「護衛の兵から剣を奪ったのですか」
「ほう、あなたは目もよろしいようだ…ご安心なさい、殺してはおりませんよ。それにしても、この国の軍は優秀ですな。剣一本奪うのにも随分苦労させられました。その上、せっかくの計画も潰されてしまった。まあ、手駒が間抜けすぎたというのもありますが」
「今日のこの過剰な警備体制はあなたのせいか?」
「そうとも言えますし、そうでないとも言えます。私は確かに王女暗殺の命を受けてこちらに参りましたが、自分の手を汚す気はなかったのでね」
「…つまり、近衛兵たちが警戒していたのはあなたの仕向けた誰かだった、と」
「察しもよろしい。最も、それも失敗したようですが。…仕方なく、私自ら始末をつけようという次第でございます」
ソレイユ辺境伯の視線がゆっくりと王女に向けられる。
ヒッとまた悲鳴を飲んで、王女がアントニアのドレスを掴んだ。獲物を追い詰める獣の目をした男から、アントニアは王女をかばうように立つ。
「退きなさい、お嬢さん。順番に殺してあげますから」
「なぜ、殿下の死を望むのです。あなた方の国と私たちとでは戦う理由もない」
「理由ならちゃんとございますとも。そうですな、あの世への土産にお教えしましょうか。―――我が国はあなた方と同じ神を信仰しておりますが、“異教徒”と呼ばれる我々は違う。そして『信仰の解放』のために、我々と同じく三十八神を信じる王を作ろうと考えましてね」
王子の婚約者に、異教信仰の娘を推薦した。身分的にも年齢的にも王子と釣り合う姫である。彼女に王となる子を産ませ、正しい信仰を教えれば、玉座に座った子供は必ず、同胞たちの積年の夢である『信仰の解放』を果たすだろう…。
ソレイユ辺境伯が滔々と語る内容は、アントニアにとって随分気の長い夢に聞こえた。しかし、長年『信仰の解放』を求め、やみくもに国や教会と対立してきた異教徒たちを思うと、ソレイユ辺境伯の描く計画は、夢物語よりもずっと現実に近いのかもしれない。
「王女殿下、あなた様へ我が国から参りました縁談が、私たちには邪魔なのですよ。姫君は申し分ない身の者ですが、一国の王女と並んで勝てるほどではない」
「だ、だからあたくしを殺すの?!そんなふざけた理由…」
「人々に真の信仰を教え、不遇な神々を御救い申し上げるためなら、喜んで道化になりましょう。―――さて、覚悟はお出来かな?」
「い、いやっ!離れないで、イロンデル夫人!」
一層強くしがみ付く王女にうなづいて、アントニアはソレイユ辺境伯から王女を隠すように立った。
「ご安心ください、殿下。最初に申し上げましたでしょう?近衛兵に劣らぬ働きをいたします、と」
「何とも勇ましい台詞だ。残念ですな。あなたのことは少し気に入っていたのに、私の手で殺すことになるとはね」
振り上げられた剣を、アントニアは左腕で受けた。




