前編
上司の娘だからと自分を娶ることを決めた男を、アントニアは可哀想だと思っている。
アントニアは男勝りで、大柄で、馬にも乗るような女だ。高名な将軍である父親仕込みの剣の腕は並の男を圧倒してしまうほどで、女であるのが惜しいと何度父に言われ、何度自分でも悔やんだか分からない。
男だったら、父とともに戦えた。
男だったら、侯爵家を継げた。
男だったら、――――――――。
だが、どんなに考えたところで、アントニアが女であることは変えられない。そして女としてのアントニアは、嫁ぎ先に困るくらいとことん魅力のない姫君だった。
ちなみに、宮廷でついたあだ名は獅子姫である。獅子のようにおっかないというわけだ。
大きくため息をついたアントニアは、背後からの気配に気づくのが遅れた。
「ここにいらしたんですか、姫!」
鋭く振り返ると、緋色の軍服を身にまとった青年が走り寄ってくるところだった。つい先日アントニアと婚約した父の部下、イロンデル少佐だ。
少年の頃から変わらない満開の笑顔は、太陽を連想させられる。若くして少佐の位を拝命する実力と精悍な顔立ち、女子供老人に優しい態度から、彼は貴族の姫君の憧れだった。
父が目をかけていたため幼い頃からよく知る相手だが、本当に自分には勿体ない人だとアントニアは思っている。
女にしては大柄なアントニアでも首をあげなければ視線が合わないほどの長身が、すぐ隣まで近づく。厩舎の裏の人気のない川辺に並んだ影は、ちょうどいい身長差に見えなくもなかった。
「…なにか御用か、イロンデル卿」
「何度も申し上げましたが、どうぞルキノと呼んでください。結婚すれば、あなたもイロンデル夫人と呼ばれる身です」
「それなら、私のこともどうぞアントニアと。どうも姫とは呼ばれなれない…と、私も何度か申したはず」
「ええ、ですがずっと憧れていた方の名を呼ぶというのはどうも…その、恥ずかしいというか…テレくさいというか…」
顔を赤くして告げられて、アントニアはああ、と思う。そういえば、この男は父の熱烈なファンだったーーーだからこそ、アントニアのような娘が相手でも結婚を打診されて否といえなかったのだろう。
憧れの将軍(の娘)の名前を気安く呼ぶことをためらう気持ちは確かに分かる。アントニアの顔立ちはどちらかと言えば父に似ているから尚更だろう。
しかし、いい年した大男が頬を染めてもじもじするのは何とも微妙な光景だ。顔立ちが精悍なだけに尚更。正直に言えばちょっとキモい。
「ルキノ殿…」
「ア、アントニア!」
キモいからもじもじするのはやめて欲しい、と正直かつ遠回しに告げようとしたアントニアと、彼女の名前を呼んだルキノの声が重なった。
「あ…姫、どうぞお先に」
「ルキノ殿の方こそ、言いたいことがあるのなら」
「その、ひめ…ア、アンと……アー…あなたが、式で着るドレスを決めかねていると聞いて、俺…」
正確には、互いに乗り気でない結婚式が憂鬱なうえ、獅子姫と揶揄される自分に花嫁衣装が似合うとは到底思えないためにドレスを選ぶ気になれないのである。
しかし、どんどん赤くなっていく少佐の不気味さに圧倒されて訂正できなかった。
「お、俺の姉の友人の母君がたまたま、本っっ当にたまたま、腕のいい職人を知っていましたから、紹介していただいたんです。それで、姫さえよろしければ、その、い、一緒にドレスを選びませんか…っ!」
「あ、ああ…まあ、イロンデル卿がそうおっしゃってくださるなら…」
「ルキノです!」
アントニアのことは姫と呼ぶくせに、自分がイロンデル卿と呼ばれるのは嫌なのか?
ルキノの距離感がいまいち分からない。それとも、やはり父に遠慮しているのだろうか。
もしそうならつくづく可哀想だ、とアントニアはルキノを見上げた。
獅子姫とあだ名がつくほど可愛げない女を娶る羽目になっただけでなく、これから一生、その女に遠慮して暮らすのだ。女が上司の娘だから。
憐れだな…。
アントニアがじっと見つめる先で、可哀想な男は耳の先まで真っ赤になっていた。