バグ・スピン
「おーい、ホームラン王!今日も場外かよ!」
フェンス越しに消えていく黄色いボールを見て、コートの反対側から下品な笑い声が響く。
俺――獅子堂猛は、俯いたままラケットのガットを見つめていた。手が、まだジンジンと痺れている。
「獅子堂、お前ホントにテニス向いてねぇな。ボール拾いだけは一人前なんだから、コートの隅で大人しくしゃがんでろよ」
ネット越しに見下ろしてくるのは、部内トップの実力を持つ2年のエース、桐原だ。取り巻きの部員たちも、桐原に同調してニヤニヤと俺を嘲笑っている。
俺は、テニスが絶望的に下手だった。
足は遅く、相手のフェイントには簡単に引っかかり、何よりコントロールが全くない。俺が力を込めて打ったボールは、必ずベースラインを大きく越えてアウトになる。
だから付けられたあだ名が「ホームラン王」。
テニスが好きで、毎日誰よりも素振りをして、手にはマメが幾重にも潰れた跡がある。それでも、俺の不器用な身体はコートの中で全く機能しなかった。
「ほら、さっさと拾ってこいよ。俺たちの練習の邪魔なんだよ」
桐原が足元のボールを俺の顔面めがけて軽く打ち込む。俺はそれを避けることもできず、ただ唇を噛み締め、フェンスの外へボールを拾いに走った。
悔しかった。惨めだった。
でも、何も言い返せない。テニスコートでは、強い奴がすべてだ。
夕暮れ。誰もいなくなった壁打ちコートで、俺は一人、壁に向かってボールを打ち続けていた。
バンッ!バンッ!と、ひたすらに力任せのボールを叩きつける。ボールは壁の上部にあたり、遥か後方へと飛んでいく。
「……クソがっ!」
何度やっても、ボールはコートに収まらない。俺のテニスは、ただの暴力だ。
「手首の関節、どうなってんの、お前」
不意に背後から声がした。振り返ると、薄暗がりの中に一人の小柄な男が立っていた。色素の薄い髪と、感情の読めない三白眼。同じ1年の凪宗谷だ。
入部当初はその圧倒的な戦術眼で注目されたが、体力が異常なまでに無く、桐原たちレギュラー陣から「理屈だけの口先野郎」と疎まれ、実質的に部から干されている男。
「……見世物じゃねえぞ」
「見世物だよ。お前のその『無駄な力』は」
凪はゆっくりと近づき、俺が打ち損ねて転がっているボールを拾い上げた。
「お前、なんで自分の球が全部アウトになるか知ってるか?」
「……コントロールがないからだろ。力の加減ができないんだ」
「違う」
凪はボールを俺の胸に押し付けた。
「お前のスイングスピードと、狂ったような手首の強さ。それがボールに異常な『超回転』を与えてる。回転数が多すぎて、空中の空気抵抗とケンカしてるんだよ。……お前の打つ球は、バグってるんだ」
凪の冷たい目が、俺を射抜いた。
「来週の部内ダブルス戦。俺と組め」
「は……?」
「桐原の野郎、俺の戦術を『机上の空論』って笑いやがった。だから、あのクソ野郎のプライドを、お前のそのバグった暴力でへし折りたい」
俺は鼻で笑った。
「馬鹿か。俺の球はコートに入らない。足を引っ張るだけだ」
「俺がお前の足になる。お前はただ、俺の指定した場所に立って、一番の力でラケットを振り抜けばいい」
凪は俺にラケットを向けた。
「お前のその才能、俺が全部『コートの中』に収めてやる」
その言葉が、凍りついていた俺の心に、小さな火を点けた。
一週間後。部内ダブルス戦の準決勝。俺たちの対戦相手は、桐原とそのパートナーだった。
「お前ら、ウケ狙いで出てきたのか?」
ネットを挟んで、桐原が嘲笑う。
「体力ゼロの口先野郎と、ホームラン王のゴミ拾い。お似合いのペアじゃねぇか。5分で終わらせてやるよ」
試合開始。桐原の宣言通り、序盤は圧倒的な蹂躙だった。桐原たちは、足の遅い俺の弱点を徹底的に突き、左右にボールを散らしてきた。俺が追いつけずにミスをするたび、コートの周囲からクスクスと笑い声が漏れる。
「ゲーム、桐原!3-0!」
チェンジコートのベンチ。俺は息を上げ、膝に手をついていた。やっぱりダメだ。俺みたいな鈍臭い奴が、こんな綺麗なコートで勝てるわけがない。
「おい、下を向くな」
タオルで汗を拭いながら、凪が冷たく言った。
「ここまではデータ取りだ。あいつらの配球の癖、ボールの軌道、全部頭に入った。……次から、お前は動く必要はない」
「は……?」
「ベースラインの真ん中。そこから一歩も動くな。俺が、そこにボールを持ってくる」
第4ゲーム。相手のサーブ。
凪は前衛のポジションにつき、俺は言われた通りベースラインの中央に立った。
桐原のサーブが放たれる。凪はそれを絶妙なハーフボレーで返し、相手の足元にボールを沈めた。
相手は体勢を崩し、苦し紛れにボールを打ち上げる。
ロブ(高く上がったボール)だ。
「そこだ、猛!」
ボールの落下点は、俺が立っているベースラインの中央。一歩も動く必要のない、どんぴしゃりの位置。
「お前の全力を見せてやれ!!」
凪の叫びに呼応するように、俺は全身のバネを引き絞った。これまでの鬱憤、馬鹿にされてきた屈辱、コートの隅で拾い続けたボールの数。そのすべてを右腕に乗せる。
――インパクト。ボールがガットに食い込み、悲鳴を上げるような破裂音がコートに轟いた。
放たれたボールは、ありえない高さを飛んでいった。桐原が鼻で笑う。
「またホームランかよ!学習しねぇな!」
桐原はボールを見送り、背を向けようとした。
その瞬間。
遥か上空を飛んでいたボールが、まるで目に見えない壁に叩きつけられたかのように、ベースラインの数センチ手前で『急降下』した。
ドゴォン!!という重い音とともにコートに突き刺さったボールは、狂ったような回転で高く跳ね上がり、桐原の顔面の横を暴風のように通り抜けてフェンスに激突した。
ガチャンッ!!とフェンスが大きく揺れる。
静寂。
桐原は振り返ったまま、目を見開いて固まっていた。
「な……んだ、今の……」
俺自身も信じられなかった。俺の放ったホームランが、ベースラインの内側に突き刺さった。
「エッグボール」
凪がネット際から振り返り、ニヤリと笑った。
「強烈すぎるトップスピンは、打球を卵のような軌道で急降下させる。プロでも限られたパワーヒッターしか打てない劇薬だ。お前は今まで、打点が高すぎたからアウトになってただけだ」
凪の瞳が、狂気じみた光を放つ。
「俺が完璧な高さにボールを誘導してやる。お前はただ、その腕が千切れるまで打ち続けろ」
そこからの試合は、一方的な処刑だった。凪の変幻自在のボレーとネットプレー(センターセオリー)が、桐原たちを完璧にコントロールする。彼らがどう足掻いても、返球は必ず俺のストライクゾーンに集められた。
そして、俺はそのすべてを『エッグボール』として叩き込んだ。防ぐことなど不可能だった。桐原が意地でラケットを出しても、異常な超回転の重さにラケットごと弾き飛ばされた。
「クソッ……! ふざけんな、なんだあの重さは……!!」
桐原がコートに這いつくばりながら悪態をつく。その顔は恐怖と屈辱で歪んでいた。
周囲で嘲笑っていた部員たちの顔面は蒼白になり、声一つ発せない。
今まで俺をゴミのように扱ってきた奴らが、俺の一撃に怯え、後ずさっている。
全身の血が沸騰するような、圧倒的なカタルシス。
俺の中で、何かが完全に覚醒していた。
もっとだ。もっと強く、もっと重く。あいつらのプライドを粉々に砕くまで。
だが、県内トップクラスのエースのプライドは、まだ完全に折れてはいなかった。
「……なめるな……なめるなよ、底辺どもが……ッ!」
桐原が、震える足で立ち上がる。その目には、恐怖を塗りつぶすほどのど黒い執念が宿っていた。ギリッと歯ぎしりする音がコートに響く。
「くそがぁあああ、あいつらに出来て俺に出来ねぇわけねんだ!!」
血を吐くような咆哮とともに、桐原の雰囲気が変わった。次のポイント。凪が絶妙なコースに落とし、俺のストライクゾーンにボールを誘導する。
「沈めぇ!」
俺の放った凶悪なエッグボールが、ベースライン際で急降下し、爆発的に跳ね上がる。これまではラケットごと弾き飛ばされていた一撃。だが――。
「おおおおおッ!!」
桐原は、ボールが跳ね上がるより早く『前』に出た。バウンド直後の、最も回転の威力が乗る前の上がり鼻。そこを、体全体をぶつけるような強引なスイングで叩き潰しにきたのだ。ガァンッ! と、ひび割れたような音が響く。桐原の腕の筋肉が悲鳴を上げ、ラケットの面がブレる。それでも、奴は意地とエゴだけでボールを強引に相手コートへ押し返した。
「返した……!?」
「マジかよ、あのバケモノ軌道を……!」
外野の部員たちがざわめく。
浅く浮いた返球。だが、強烈なスピンの残骸が不規則な回転を生み、俺の体勢を崩しにかかる。
(クソ、打ちにくい……!)
俺がわずかに躊躇したその瞬間。
「止まるな! ブチ抜け!!」
ネット際から、凪の鋭い声が飛んだ。
ハッとして顔を上げると、凪がすでに次の展開を読み切り、桐原のパートナーのカバーコースを完全に塞いでいた。
(そうだ。俺が考える必要はねぇ。俺はただ、一番派手にぶっ壊すだけだ!)
そこからは、息をするのも忘れるほどの濃密な死闘だった。俺がエッグボールを叩き込み、桐原が執念で食らいつく。互いのエゴとエゴが正面から衝突し、重い破裂音がコートに連続して響き渡る。桐原の顔は汗と泥で汚れ、かつての余裕など微塵もない。ただ「負けたくない」という本能だけでラケットを振っている。だが、極限状態のラリーの中で、その抵抗もついに限界を迎えた。
「マッチポイント!!」
激しい打ち合いの末、桐原の足がもつれる。ヤケクソのように打ち上げられた、弱々しいロブ。甘く浮いたボール。ボールの落下点に入り、俺は大きく息を吸い込んで構えに入った。
桐原が、絶望と、それでもなお抗おうとする闘志の混じった表情でこちらを見ている。俺は、あいつのその意地を真正面から叩き潰すように、口角を吊り上げた。
「……拾えよ、エース」
全身の力を込めたフルスイング。これまでで最も重く、最も凶暴なバグ・スピンが放たれる。急降下したボールは、桐原の足元で爆発するように跳ね上がる。
「あああああッ!!」
桐原が両手でラケットを握りしめ、最後の意地で壁を作ろうとする。だが――インパクトの瞬間。
バギィッ!!
異様な破壊音とともに、桐原のラケットのガットが限界を超えて弾け飛んだ。異常な超回転の物理的な重さに耐えきれず、彼の手からラケットが強引に弾き飛ばされる。カラン、と乾いた音を立てて、ガットの破れたラケットがコートの隅へ転がっていく。
「ゲームセット! ウォンバイ……獅子堂・凪ペア!!」
圧倒的な静寂の後、どよめきが爆発した。
俺は荒い息を吐きながら、ネット際に立つ凪を見た。凪はラケットを肩に担ぎ、俺に向かって拳を突き出していた。
「最高だったぜ、ホームラン王」
「ああ……お前もな、口先野郎」
俺は歩み寄り、その拳に自分の拳を強く打ち付けた。
底辺から這い上がった、不格好で最強のモンスターペア。俺たちのテニスは、ここから始まるのだ。




