9 輿入れと豊原家との決別
翌朝、朝食の後に弥次郎が離れまで押し掛けてきた。
「客の身分で勝手に女中を連れ込んで、炊事場で好き放題しやがって。さすがに我慢ならん!」と、文句を言いに来たようだ。
ちょうど帰り支度を済ませた紫紺が、羽織を着ながら廊下に出た。
「失礼いたしました。もう帰りますので、お許しを」
「フンッ、ただ飯を食らったくせに礼もなしかい。――おい、志乃。後で話がある。お前の客人の飯代は、お前のツケだからな」
弥次郎は志乃を睨みつけて、意地悪く口角を上げた。後で折檻するつもりか、それとも私物を強奪して金にでも換えるつもりか。何にせよ良くないことを考えているのは明白だ。
そんな彼の背後には、昨日見た藁人形の怪が未だに佇んでいる。ギョロギョロと動く血走った目玉は本当におぞましい。
志乃が体を縮こませると、紫紺が前に歩み出た。彼は懐から、何か金属でできた小物を取り出すと、弥次郎に渡した。
「お代としてこの懐中時計を差し上げます。売ればそれなりの金になる」
「なっ……カイチュウ、ドケイ?」
「外国の機械式時計です。それから志乃様のことですが、このような離れに住まわせて、豊原家は手に余しているようだから、竜胆家が今日このままもらい受けよう。よいか?」
「はぁ!?」
ついでみたいに言い渡された内容に、弥次郎は面食らって志乃を見た。「今日このままもらい受ける」とは、志乃も初耳だったので驚いた。
(でも、一人で豊原家にいるのは危ない。連れて行っていただけるなら――)
すぐに頭をまわして状況を吞み込んだ。もう豊原家に未練もないのだから、勢い任せに家を出てしまってもいいかもしれない、と。
「弥次郎叔父さん、わたしは昨夜、竜胆家ご当主、紫紺様と婚約を結びました。わたしの身はもうこの御方のもの。旦那様に従い、わたしは豊原家を出ます」
「っ……! 勝手にしろ、恩知らずが!」
志乃が頭を下げると、弥次郎はドカドカと足音を立てて母屋へ戻っていった。
もう志乃の身柄は竜胆家のもの。弥次郎が自由にすることはできないのだ。
ほっと胸をなでおろして振り返ると、座敷の中に式神の使用人たちが現れていた。「輿入れだ! 輿入れだ!」と皆、大騒ぎしている。
狐葉が意気揚々と使用人たちに命令した。
「では! そうと決まれば、荷物を運び出しましょう。志乃様も式神たちのことは自由にお使いください」
「は、はい! ありがとうございます、皆様」
急遽、嫁荷の仕分け作業が始まった。
女中たちは着物を整理して、男たちは箪笥などの家財を運び出す。竜胆家に使役されている妖狐狸や化け猫たちは荷車に変化し、車夫の天狗が荷車の舵を握る。
母屋の方にも出入りして荷分けをしたので、トキ子とシズも「こんな朝から何事か!」と目をむいていた。
「ちょっと何なの!? 朝からバタバタと!」
「あなた、何が起きてるの!?」
「志乃の奴が急に嫁入りを決めやがったんだ。ったく、何で竜胆家なんかと……」
竜胆家に嫁入りが決まったのだと聞いて、トキ子は内心、「馬鹿じゃないの!?」と毒づいて嗤った。
(志乃お姉ちゃんったら、結婚を焦り過ぎて、変な家に嫁入りを決めちゃったんだわ。あぁ、可哀想に)
そう思って、揶揄うために見送りに出てきたのだが――。
門前に整列する使用人の数に驚き、顔を引きつらせてしまった。志乃はどこぞの城のお姫様みたいに、大勢の使用人を顎で使っているではないか。
唖然とするトキ子の後ろの方では、弥次郎とシズも気まずそうに立ち尽くしている。トキ子と同じく、最後に一言言ってやろうと思って出てきたのだが、相手方の数に負けて、どうしようかと尻込みしていた。
そうして三人で逡巡していると、裏手の方から声がかかった。平馬が来訪したようだ。
「おーい! 表が混み合ってたから、裏からお邪魔したのですが、これは一体何の騒ぎですか!?」
「平馬さん。実は……」
トキ子が事情を説明すると、平馬も志乃の嫁入りに驚いた。「えぇ!? 竜胆家と!?」と、同じ反応を返した。
ちょうどその時、作業に区切りがつき、志乃は使用人たちに礼を言った。
「ありがとうございました。わたしの荷物はこれで全部です」
紫紺と狐葉には離れの座敷で待っていてもらったのだが、使用人が呼びに行くとすぐに来てくれた。
紫紺が大判の掛物を広げて、志乃の肩にかけた。
「では、行きましょうか」
「はい」
この掛物はショールと呼ばれる輸入品だと、狐葉が教えてくれた。ブランケットのように少し毛羽立っていて暖かい。布端は房状になっていてお洒落だ。
ショールには魑魅魍魎除けの術を施してくれたそう。慣れるまでは身につけておいた方が良いとのことで、ありがたく拝借させてもらう。
紫紺と並んで門の方へ歩き出したが、ふと振り返ると、玄関の方で弥次郎とシズ、トキ子、それに平馬までもがそろって、こちらを見ていた。平馬はトキ子との縁組について、話を詰めるために豊原家を訪れたのだろう。
自分に関係のある人たちがそろっているので、最後の挨拶をするのに都合が良い。志乃は彼らの前に歩み出ると、深々とお辞儀をした。
「朝からお騒がせして申し訳ございません。豊原家の皆様、今まで長い間、大変お世話になりました。感謝申し上げます。どうか、つつがなくお元気で」
何か小言を言われるかと思ったが、誰も口を開かなかった。
志乃はもう一度会釈をしてから、門の方へと歩き出す。
門の外には、いつの間にか二台の人力車が停められていて、紫紺と志乃が一緒に乗り、後ろの車に狐葉が乗り込んだ。
動き出した人力車の席から豊原家を眺めて、心の中で別れを告げた。
生まれ育った、たくさんの思い出が残る家。大好きな人がいた家。かつては、大好きだった家。できることなら、この先もずっと離れたくはなかった。けれど――……。
(わたしは前へ進みます。今までありがとうございました。さようなら……)
過去としがらみにお別れをして、志乃は新しい道を歩み出した。
志乃が去っていった方を見つめたまま、トキ子は身じろぎもせずにいた。
いつまでも動かないトキ子に、平馬が声をかけた。
「トキ子ちゃん? そろそろ中に入ろう」
「あ……うん」
「しかし竜胆家に嫁入りとは驚いたな。相手の男を見たかい? 表情が抜け落ちてて、気味が悪かったな」
「そ、そうよね……。あんな変な家の男なんて……」
そう、相手は得体の知れない鬼屋敷の当主。きっとこれから志乃は、幸せとはほど遠い暮らしが始まるに違いない。
(うん、きっとそうよ。志乃ちゃんはとびきり苦労をして、不幸になるに決まってる。本当に可哀想だわ。わたしは平馬さんと婚約できてよかった)
よかった。平馬でよかった。自分は幸せ者だ。――と、トキ子は心の中で繰り返した。そうやって自分を納得させないと、なんだか胸の奥がもやもやして心地が悪かったからだ。なんだろう、この変な気分は……。
平馬と話しているのに、脳裏には竜胆紫紺の姿がちらついてしまう。
驚くほど整った顔立ちに、神秘的な雰囲気。ハイカラな柄の羽織は、背丈の高い彼が身にまとうことで、より美しく際立っていた。
彼はまるで別世界の人だった。
(それに比べると、平馬さんは、なんだか……)
平馬もハイカラなコートと帽子を身に着けているが、なんだか田舎者が背伸びをしているようにしか見えなくなってきた。
(それに、わたしも……)
気になりだしたら止まらず、自分までもが野暮ったく思えてきた。
今までリボンだの、ハンカチーフだのと、最先端の品々を取り入れてきたつもりだったが……所詮は田舎に流れてきた品々だ。
そういう物を必死にかき集めている自分と比べて、志乃はどうだ。雑誌でしか見たことがない掛物を身にまとって、我が物顔で都の乗り物に乗り込んで――……。
去り際の光景が頭から離れず、ぼうっと廊下を歩いていると、平馬に肩を抱かれた。
「大丈夫かい? ぼうっとして。あ、もしかして祝言のことを考えてた? その相談も今日、弥次郎さんにしてみるから」
「うん……ありがとう。楽しみね。早くあなたと一緒になりたいわ」
反射的に前向きな言葉を返したけれど、なんだか心の中と言葉がちぐはぐになっている、変な心地がした。
心の奥、どこかの歯車が嚙み合わなくなったような、この感覚は、その後もトキ子の中に残って解消されることはなかった。




