5 鬼屋敷の竜胆家
隣村を出る頃には昼をまわっていた。
食欲はなかったが、体力を持たせるために無理やり握り飯を飲み下し、さらに足を進める。
次の村の集落区画を抜けて、外れにある大屋敷が見えてきた頃には、もう夕方を迎えていた。
「ここが竜胆家……」
鬱蒼とした林の中に佇む屋敷は、高い塀で囲まれていて中が見えない。入口と思しき大門も固く閉ざされている。
怯みそうになる心を叱咤して、脇にある小門を叩いた。
「ごめんください。竜胆様に用事があり参りました。どなたかいらっしゃいませんか」
声を張り上げると、ほどなくして小門が開かれた。ギギギ……と扉の軋む音がなんとも不気味で、鬼が出てくるかと身構えてしまった。
が、顔を出したのは、ごく普通の老女だった。
「おや、お客さんですかい? 我が家に用事ということは――」
「はい……ええと、」
なんとなく、「亡骸を預けに来ました」と単刀直入に用件を伝えるのは憚れて、口ごもってしまった。けれど、老女は荷車を見て察したようだった。
「あぁ、そのようなご用事でしたか。どれ、大門を開けますから、中へどうぞ」
「ありがとうございます」
どうやら受け入れてくれるらしい。ほっと胸をなでおろしたが、直後に老女が大声を上げたことで、またビクリと身構えることになった。
「あら!? お連れの方はいないのかい? まさかお嬢さん一人で運んできたの!?」
「は、はい……」
「おやまぁ! どちらから?」
「二つ隣の村から参りました。申し遅れましたが、わたしは豊原志乃と申します。父の遺言で、亡骸は竜胆様のお世話になるように、と。それから、竜胆様に宛てた手紙も、こちらに――」
「まぁ、そんなに遠くから! 事情は中で聞くから、おいでなさい」
話もそこそこに、老女は手を引っ張ってきた。
門をくぐり、敷地の中に足を踏み入れると、どこからかふわりと香の匂いが漂ってきた。嗅いだことのない、甘い香りだ。
ふと気が付くと、周囲には大勢の使用人たちが集まっていた。
(え……? 今まで物音一つしなかったのに、いつの間に?)
使用人たちはわいわい言いながら志乃を出迎え、誠一郎を乗せた荷車をあっという間に引き入れていく。
志乃は玄関に通されて、土間の上がり框に座るよう案内された。
老女は志乃の両手を取り、優しく包み込んで言う。
「お父さんを一人で運んでくるなんて、お辛かったでしょう。こんなに傷を作って……」
老女に言われて気が付いたが、志乃の手は豆だらけになっていた。水泡が破れて血がにじんでいる。道中はとにかく荷車を引くのに必死で、痛みすら感じる余裕がなかった。
女中たちが濡らした手ぬぐいで血を拭い、薬を塗って手当てをしてくれた。思いがけない優しさに触れて呆然としてしまい、志乃はひたすら「ありがとうございます。すみません」を繰り返すばかりだ。
不思議な香の匂いも相まって、どこか別世界に迷い込んだ心地になってしまった。
老女は屋敷の奥に向かって声を上げる。
「紫紺様ー! お客様です! ご遺体も一緒で、あとお手紙があるとか! 早くおいでになってくださいませー」
紫紺、という名を聞いて、志乃はハッと現実に引き戻された。
竜胆紫紺――。手紙の宛名の人物だ。きっとこの屋敷の主だろう。
緊張に体を固めながら立ち上がると、ほどなくして、廊下の向こうに人影が見えた。
「お待たせして申し訳ございません」
静かな低い声が、耳に届いた。
志乃は頭を下げて出迎えようとしたのだが――……現れた男の容姿に見入ってしまって、お辞儀をするのを忘れてしまった。
竜胆紫紺、その人は、まるで天人のような美しい人物だった。
整った顔立ちは高価な人形のようだ。切れ長の目元は、珍しい青い化粧で飾られている。しなやかな長い黒髪をゆるく結っていて、耳には飾り房の装飾品を着けていた。こういう意匠の飾りは、浮世絵でも雑誌でも見たことがない。
長身に濃紺の着物をまとい、羽織の柄はハイカラな異国風の唐草模様。輸入物の生地で仕立てたのだろうか。一目で上等なものだと察せられる。
(なんて綺麗な人……。でも……少し、怖い感じがする……)
彼は美しさと、底知れぬ恐ろしい雰囲気を兼ねそろえていた。対峙すると、自然と畏怖の念が湧き上がるような、清冽な空気を身にまとっている。
感情の読み取れない無表情な面持ちが、彼から人間味を奪っているのだろう。
この世の人とは思えない――……。
そんな神秘的な雰囲気の男が、目の前に立っている。
彼、竜胆紫紺は、抑揚のない淡々とした声で話しかけてきた。
「用件をお伺いします」
「と……突然お邪魔してしまい、申し訳ございません。わたしは豊原志乃と申します。二つ隣の村から参りました。父、豊原誠一郎の遺言に、遺体とこの手紙を竜胆様に預けるように、とあり」
志乃は慌ててお辞儀をし、手紙を渡した。
「豊原誠一郎様……? そうですか、亡くなられたのですね」
彼は封書の名前を見て、ただ静かに呟いた。
生前、父からは何も聞いたことがなかったが、何やら二人には面識があるみたいだ。
わずかな間の後、紫紺は改めて挨拶をしてきた。
「宛名にある通り、私が竜胆家が当主、紫紺と申します。この手紙は我ら一族へ宛てた手紙とお見受けしますので、この場で拝見してもよろしいですか?」
「はい」
答えると、紫紺は封書を開けて読み始めた。
伏せた目からは、やはり感情が読み取れない。静寂が緊張に拍車をかけて、志乃は身じろぎ一つ取れずにいた。ただただ、手紙を読む紫紺を凝視して過ごす。
これほど表情が動かない人を見たことがない。もし彼が「実は人ではなく鬼です」と明かしてきても、驚きもなく納得できそうだ。
あなたは一体何者なのか。父とはどういう関係なのか。その手紙には何が書かれているのか――。
聞きたいことは山ほどあるが、雰囲気に気圧された志乃は、何も問いただすことができなかった。
手紙を読み終えた紫紺は、ただ一言告げた。
「用件承りました」
「は、はい」
「狐葉、謝礼を」
狐葉なる人物の名を呼んだ途端に、志乃の真横から女の声がした。
「此度の謝礼でございます。お受け取り下さいませ、志乃様」
「えっ……!?」
今の今までまったく気配などなかったのに、彼女はいつ隣に現れたのか。驚いて返事ができなかった。
(この方もなんてお綺麗な……天女様みたいだわ!)
狐葉と呼ばれた女の容姿も、現世離れしていた。
髪色は真っ白だが、老人の白髪とはまた違う雰囲気だ。白い獣の毛皮を感じさせる、艶やかでふわりとした質感が美しい。
容貌も非常に整っていて、年齢の読めない妖艶さがある。彼女は巫女装束を身にまとい、頭には煌びやかな飾りを着けていた。
紫紺と同じように、どこか人ならざる雰囲気のある女性だが、彼女の方は表情豊かだ。柔らかい微笑みを浮かべている。
向けられた笑顔に少しほっとしたところで、志乃は勇気を出して一つだけ質問を返した。
「金品のお心遣いを頂く代わりに、亡骸をどうするのかだけ、お聞きしてもよろしいですか?」
「それは……」
狐葉は言いよどんで、紫紺の方を見た。紫紺は淡々と答えを返してきた。
「竜胆家が預かって処理します」
「埋葬してくださるのですか? もし葬儀を行うのでしたら、お線香をあげることはできないでしょうか? 家では何もしてあげられなかったので……」
「申し訳ないが、葬儀は行いません。世間のやり方とは異なる、我が家の方法で葬るので」
「それはどのような方法ですか? わたしが立ち会うことは叶いませんか? 父の最後を見届けたいのです」
喋り出したら勢いづいてしまって、つい食い下がってしまった。
亡骸を引き渡したら、本当にこれで最後の別れになるのだ。ならば、その最後の最後まで立ち合い、見送りたいと思うのが、子としての情であろう。
紫紺は口をつぐみ、読めない眼差しで志乃を見つめていた。が、しばらくして言葉を返した。
「どのようなことが起きても、受け入れるご覚悟がおありですか?」
「ちょっと紫紺様……! よした方が……」
狐葉が慌てたそぶりを見せたが、志乃は瞬時に覚悟を決めた。今ここで返事を迷ったら、きっともう父とはこれっきりになってしまう――そんな予感が、志乃を突き動かした。
「はい。何があろうと動じません。約束いたします」
声は少し震えてしまったが、力強い眼差しで紫紺を見上げて返事をした。
彼は静かにうなずいて、屋敷の奥へと体を向けた。
「こちらへ」
「感謝申し上げます。お邪魔いたします」
お辞儀をしてから、志乃は廊下に上がった。
緊張で体をこわばらせながら、恐る恐る紫紺の後をついて歩いていく。
入り組んだ廊下を右へ、左へと進んで行くが……廊下の突き当りの壁には不思議な紋様が描かれていた。さらには天井にも、そこかしこの柱にも、点々と奇妙なお札が貼られている……。
(神道のお家なのかしら? それとも、密教か何かの呪い……?)
近隣の村々の社では見たことがないお札だ。目や口を模した絵が描かれていて気味が悪い。
鳥肌が立ってしまった腕を撫でながら進んでいく。
そういえば、あんなにたくさんいた使用人たちはどこへ行ったのだろう。気付けば、人の気配が一切感じられなくなっていた。廊下にははらはらと、人型に切り抜かれた紙切れだけが大量に落ちている。
――この家は、やはり普通ではない。何かがおかしい――……。
志乃は直感的に、そう確信した。けれど、今更怯んで逃げ出すことなどできない……。
そのうちに、板張りの大広間についてしまった。
「支度をしますので、お待ちください。狐葉、頼む」
「はい。志乃様、こちらへどうぞ。お父様のお側へ」
「……! お父さん……」
広間の中は香の煙で真っ白になっていて、その中央に父、誠一郎が横たえられていた。
筵は取り払われて、鶯色の羽織と面布だけ被せられている。
誠一郎を囲むように、四本の長い枝が立てられていた。葉の形状から察するに、榊の木の枝だろうか。枝には紙垂付きの注連縄がかけられていて、縄が作った四角形の真ん中に、亡骸が安置されている、という状況だ。
頭の位置には祭壇があり、そこにも榊の葉が飾られていた。どことなく地鎮祭を思わせる光景だが、中心に遺体があるというのが異様だ。
志乃は注連縄の囲いの手前に座るよう指示された。
「それでは、お支度をいたしますね。ちょいとお顔を失礼します」
「え……目隠し? ですか?」
狐葉が紋様の描かれた面布を持ってきて、志乃の頭に括りつけた。布で顔面を隠される形になってしまった。
「あの、すみませんが……これでは何も見えません」
「見ては、いけないのです」
狐葉の語気が強まったことを感じ、背中にゾクリと寒気が走った。
何を見てはいけないのか。聞きたいけれど、恐ろしくて聞き返せない……。
ほどなくして、支度を済ませたらしい紫紺が広間に戻ってきた。
彼は小声で何か唱えながら、手にした榊の葉を塩湯につけて、誠一郎と志乃に向かってサッサッと振った。お祓いをしているのだろうか。顔にかかった布越しなのでよく見えない。
お祓いらしき動作を終えると、紫紺が志乃の前にきて膝をついた。温度の感じられない、冷ややかな低い声で、丁重に告げられた。
「これより先は固く目を閉じて、決して開きませんよう。何も見てはいけません。ただ頭を垂れてお過ごしください」
「……はい……」
布越しだったが、紫紺の鋭い視線を感じた。
きっと、今から執り行われるのは、重大な神事に関した何かなのだろう、ということは想像がつく。けれど、屋敷の内部の異様さから察するに、きっと志乃の知っている神事ではない。
(一体何が始まるの……? お父さんをどうするつもり……?)
怪訝な気持ちを抑えきれない。もし、もしもだが、父が冒涜されるようなことが起きてしまったらどうしよう……。
不安と疑念、そして『見届けたい』という強い覚悟が混ぜこぜになって、志乃を駆り立てた。
(何も見えぬまま、わからないまま……されるがままで終わってしまうのは嫌だ)
志乃は深く頭を垂れながら、面布を少しだけずらした。右目がわずかに覗くようにして、様子をうかがうことにした。紫紺と狐葉は儀式を始めているようで、こちらには気付いていない。
覚悟を決めたのだから。何があろうとも、見届ける――。
これから起こることを目に焼き付けようと、右目をぐっと凝らした。
「掛けまくも畏き大鬼神の前に恐み恐みも申す」
紫紺が誠一郎の足元に立ち、頭側の祭壇に向かって祝詞らしき言葉を奏上している。どこからか風がおきて、注連縄に掛けられている紙垂が揺れ始めた。
「御前に御食を置き奉る。竜胆に御力を貸し給へと、恐み恐みも申す」
奏上を終えると、紫紺が両手を打ち鳴らした。乾いた音が広間に響き渡る。
その瞬間――。
室内を満たしていた香の煙が生き物のようにうねって、巨大な塊を形作った。
塊は見る間に、赤黒い四つ目の獣の顔に変わっていく。頭部からは太く大きな角が生え、鋭い牙をむき出しにした、異形の化け物へと為り変わった。
(っ……!? ……嘘でしょう……)
現れ出たその姿は、まさしく『鬼』であった。
広間に収まりきらないほどの大きな鬼の顔を、志乃は確かに右目に焼き付けた。
けれど――。
瞬きをした次の瞬間には、もう跡形もなく消え去っていた。
あまりの事に息をするのも忘れてしまった。
床にへばりついた体勢のまま硬直していると、狐葉が声をかけてきた。
「終わりましたよ」
面布が外されてから、誠一郎の亡骸が消え去っていることに気が付いた。
「あ……お父さんが……」
まさに、神隠しとしか表現しようがない。あの巨大な鬼に持っていかれた? 食われたのか? まさか跡形もなく消えてしまうなんて……。
まとっていた着物と羽織、面布が板張りの床に残されている。肉体だけが綺麗に消失していた。
この事態をどう呑み込めばいいのかわからずに、呆然とするしかない。
でも、もうこれで本当に、父はこの世のどこにもいなくなってしまったのだということだけは、何となく理解できた。
「……」
何も言葉が出なかったが、震える体をどうにか動かして、お辞儀だけはしておいた。
そうして立ち上がろうとしたが、荷物をまとめる手がおぼつかなくて、風呂敷包みを取り落としてしまった。
床に散らばった荷物を慌てて拾おうとして、手が止まった。そういえば、父への贈り物だった手縫いの花細工も持ってきていたのだった。色々なことがありすぎて、今の今まで忘れていた。
花細工は紫紺の足元まで転がっていった。彼は拾い上げると、無表情に見つめていた。
「これは?」
「……父へ贈ろうと思って作った物です。副葬品にしようかと思って持ってきたのですが……不要でしたね」
この贈り物を持たせてあげようと思っていたのに。自分の代わりに、想いを込めた副葬品を父の側に、と。そうすれば、ずっと一緒にいられるような感じがしたから。
気休めとはわかっていても、それでも、そういう信仰に縋りたかったのだ。一人きりで生きていくのは、あまりに寂しいから……。
けれど、副葬品ですら父の側に寄り添うことは叶わなかった。
土葬でも火葬でもない、一瞬のお別れになってしまった。
花細工を拾い集めていると、無性に悲しくなってきて、目を潤ませてしまった。誤魔化すために無理やり笑顔を作って、紫紺と狐葉に礼を言う。
「すみません、我儘を言って儀式に立ち会わせていただいて……。ありがとうございました。まさか消えてしまうとは思わずに、驚きましたけど」
見ないように、という禁を破ってしまったので、鬼については触れないでおいた。
紫紺は少しの間、無表情に宙を見つめた後、淡々と話し始めた。
「竜胆家は、神々と現世とを繋ぐ仕事をする家です」
「え?」
「先ほどの儀式では、父君の亡骸と魂を鬼神の供物にしました」
「そう……なのですね」
突然、突拍子もないことを明かし始めた紫紺に、志乃は目をまるくしてしまった。
(秘密の儀式ではないのかしら?)
戸惑う志乃をよそに、紫紺は話を続ける。
「供物を糧にして、鬼神は現世に生きる者たちを守るのです。つまり、父君は神の力となり、現世に生きるあなたを守っていく、と。理解できましたか?」
「ええと……は、はい」
彼の説明は、信仰と哲学が合わさった難しい話のように思えた。――と、感じたけれど、ふと思い直す。
(もしかして、慰めてくれようとしている?)
表情が動かない上に声にも抑揚がないから、わかりにくいけれど。志乃の思い違いでなければ、彼の話は慰めのようにも聞こえた。
父は消えたのではない、神と一体になって守ってくれるのだ、と――。
そう、都合良くとらえてしまってもいいだろうか。
「……ありがとうございます。少し心が軽くなりました。儀式のことは口外しない方がいいですよね? 今日の事は心に秘めておくと誓います」
もう一度お辞儀をして、儀式を秘密にすることを約束した。
けれど、緊張した声音の志乃とは裏腹に、紫紺は何てことない風に言い放つ。
「お気になさらずに。誓いなど立てずとも、すぐに忘れますから」
「……? それは、どういう……」
色々と奇妙な体験が続いたのだから、さすがに忘れることなどできないだろう、と不思議に思ったが、紫紺は話を変えて歩き出してしまった。
「さて、もう日が落ちていますから、早くお帰りなさい。力車を出すので、楽に帰れるはずです」
「力車?」
「人が引く車です」
案内されて屋敷を出ると、門前に二輪車が用意されていた。
前に引き手の男――車夫が一人いて、彼の後ろに人が乗る駕籠が付いている。そういえば、前にトキ子が散らかしていた雑誌で見たことがある。これは都で流行していて、人力車とも呼ばれている乗り物だったか。
「これが力車ですか。初めて乗ります」
「志乃様、冷えますからひざ掛けをどうぞ。ご存じですか? これはブランケットと言って、輸入品でございますよ。あ、荷車は明日使用人が届けに参りますので、ご心配なく」
狐葉がふわふわの毛足が立った掛け物を持たせてくれた。
(ブランケット……)
意外なことに、竜胆家はずいぶんとハイカラな家のようだ。日頃、洒落者を気取っている平馬やトキ子も、この家には遠く及ばないのではなかろうか。
閉ざされた因習的な家だと思い込んでいたのに、こうも印象が変わるなんて、思いもよらなかった。
「何から何まで、本当に、本当にありがとうございました」
深く深く頭を下げて、別れの挨拶をする。
紫紺は相変わらず無表情を保っていたが、狐葉は名残惜しそうに眉を下げていた。彼女から、クゥーンと犬に似た声が聞こえてきたのは、気のせいだろうか。
人力車に乗り込んで、もう一度彼らに礼をした。
車夫が走り出し、竜胆家が遠のいていく。
朝までは地獄の底みたいな気分だったのに、今は不思議な充足感が胸を占めていた。
快く迎え入れてくれた老女。手のひらの手当てをしてくれた女中たち。亡骸を運び込んでくれた男衆。気さくに応じてくれた狐葉。
そして、謎めいているけれど、ほのかに優しさを見せてくれた紫紺。
できればもう少しゆっくりと、彼らと話してみたかった――と、思いがけず、未練がましい気持ちが込み上げたことは、心の中にしまっておこう。




