4 亡骸を引いて
納屋の中から木製の二輪荷車を出してきて、離れの縁側につけた。これに亡骸を乗せて竜胆家まで運ぶしかない。
誠一郎の死去を伝えても、豊原家の使用人たちは動こうとはしなかった。
下手に首を突っ込めば、弥次郎に何をされるかわからないからだろう。同情の眼差しを向ける者はいても、手を合わせに来る者は一人もいない。
「父の亡骸を村外まで運びたいのです。どうか、手伝っていただけませんか?」
使用人たちに声をかけてまわったが、皆、渋い顔をするばかりだ。
「いやぁ、俺はちょっと用事があるから……」
「弥次郎さんがいいっていうなら、手伝うけども……」
「悪いねぇ。俺たち下っ端は余計な仕事なんかしたら、すぐ暇を出されちまうんでねぇ」
そんな返事ばかりだった。が、それでも手間賃を渡して縋りつき、どうにか遺体を荷車に乗せるところまでは、手伝ってもらえた。
けれど、行き先が竜胆家ということもあり、同行の協力までは得られなかった。
誠一郎の亡骸は筵に巻かれている。その上から、彼の一張羅だった鶯色の羽織をかけてあげた。志乃の母、千代が何度も繕ったという、父のお気に入り。
荷車の上に横たわる彼に、そっと触れながら声をかける。
「行きましょうか。大丈夫、わたしはこれでも百姓の娘ですもの。力はあるわ。きっと運んで差し上げますからね」
荷車の柄に手をかけて、グッと力を込めて引いていく。
離れから屋敷の裏門までの短い距離でも、なかなかに重労働だ。二つの村を越える頃には、もう日が落ちてしまっているかもしれない。
それでも、今日、今すぐに出発する必要があった。弥次郎が離れにドカドカと上がり込んできて、部屋を物色し始めたからだ。
「兄貴の奴、母屋から金目の物を持ち出してないだろうな?」なんて言いながら、遺体の前で不躾に部屋を漁る様は、見ていられなかった。闘病中は一度だって見舞いに来なかったくせに、死んだとわかった途端に上がり込むなんて……。
そのうち、誠一郎の身ぐるみをはがし始めるのではないかと気が気ではなくて、急いで家を出ざるを得なかった。
弥次郎の天下となった豊原家では、葬儀すら、執り行うことは難しいだろう。せめて竜胆家についたら、線香の一つでもあげたいところだが……どうなるかは想像もできない。鬼屋敷の噂が本当なら、線香なんて悠長なことは言っていられないかもしれない。
(……とにかく、今は竜胆家を目指すことだけ考えよう)
余計な考えを振り払って、志乃は荷車を引いて裏門を出ようとした。
その時、後ろから声がかかった。見ると、トキ子が立っていた。
「お父さんとお母さんは忙しそうだから、わたしが代わりに見送ってあげる」
意地の悪い笑みを浮かべながら、トキ子は持ち出してきた塩の小壺に手を入れた。そうして手のひら一杯に掴んだ塩を、志乃に向かって勢いよく投げてきた。
「……っ!」
咄嗟に顔を庇ったが、何度も何度も打ち付けられて、塩まみれになってしまった。目にしみて痛む……が、それよりも心が痛い。
誠一郎の亡骸に降り積もった塩を、慌てて払い除けた。鶯色の羽織に、少し塩のシミができてしまった。
その様を見ながら、トキ子が吐き捨てる。
「何よ、涙なんて浮かべちゃって。不幸ぶるのもいい加減にしてよね。家長の娘ってだけで今まで散々良い思いをしてきたんだから、これくらいの苦労、どうってことないでしょう?」
「……トキ子、それは本心で言っているの? 叔父さんに言わされてるんじゃなくて……?」
なんてことを言うのだ、と唖然として、聞き返してしまった。
問い返したことが癪に障ったのか、トキ子は堰を切ったように鬱憤をぶちまけた。
「鈍感な女。わたしね、志乃ちゃんと一緒にいるの、ずっと嫌だったのよ。小さい頃から志乃ちゃんばかり、いっつも贔屓にされてて、わたしはすごく惨めだったんだから。わたしがどれだけ傷ついてきたか、あんたにわかる? 考えたこともなかったでしょう? だってあんたは、跡取りを気取って調子に乗ってきた天狗だものね」
「そんなことは……」
「言い訳は聞きたくないわ。現に、志乃ちゃんだけ高等女学校を出て、わたしはその間、畑仕事をしてきたのよ。それに、志乃ちゃんは綺麗な着物を持ってるのに、わたしはお古ばかりだし、家の金庫の鍵だって、わたしは隠し場所を教えてもらってないのに、志乃ちゃんは自由にしてたじゃない!」
確かに、志乃は家長の一人娘という良い身分で、手厚い待遇を享受してきた。けれど、それはトキ子も一緒だったはずだ。誠一郎は娘も姪も、区別をしてこなかったのだから。
学歴に差がつかないようにと惜しみなく金を出し、小遣いだって一緒だった。
(雨の日に隣村まで通うのが大変だからと、高等女学校を拒んだのは、トキ子自身だったはず。それに、わたしは貯めたお小遣いで、上等な着物を一着買っただけ。リボンだハンカチーフだと流行りの雑貨に散財してきたのも、あなた自身よ。そんなあなたに、大事な金庫の鍵が託されるわけがないでしょうに……)
思ったことを、そのまま伝えようかと口を開きかけたが、やめておいた。今更何を言っても、何も変わらないだろうと諦めた。
ただただ、哀れだなと思う。トキ子の心根がねじ曲がってしまったのは、恐らく弥次郎のせいだ。弥次郎が誠一郎に対して抱えていた強烈な劣等感が、そのままトキ子にも伝染してしまったのだろう。トキ子、そしてシズも、皆、哀れな被害者だ。
でも、もう何もかも後の祭り。誠一郎も、遺言書の中で豊原家を見限っていた。志乃もそれに倣うことにする。
「そうね……。あなたがそう思うのならば、そうなのでしょうね。お見送りありがとう。では、行って参ります」
それだけ告げて話を切り上げると、トキ子は顔を歪めて塩を壺ごと投げてきた。背中に当たってよろめいたが、振り返ることなく歩き出す。
「あんたのその、余裕ぶっこいた態度がずっとずっと、子供の頃から気にくわなかったのよ! 何よ、大人ぶっちゃって! 男に抱かれたこともないくせに! 鬼に食われてしまえ! 負け犬め!!」
後ろの方から大声が飛んできたが、もう荷車を引くのに必死で、あまり聞き取れなかった。
遺体を乗せた荷車を引き、隣村への道を行く。
家々が連なっている区画を出ると、そこからは田畑の道だ。地面のでこぼこに車輪を取られながらも、力任せに歩んでいく。
(晴れててよかった)
雨が降っていたら、父の望みを叶えられなかったかもしれない。
道端の地蔵に会釈をして、心の中で天気の礼を伝えておいた。
地蔵の上には梅の木が葉を茂らせている。葉の先が少し紅葉し始めていて、秋の訪れを感じさせる。最近は風もすっかり乾いてきた。
空は青く澄み渡り、山間に千切れた雲が溜まっている。何度見ても見飽きない、美しい景色だ。
この景色の中を何度、父と並んで歩いただろう。数えきれやしない。
一歩一歩、足を踏みしめる度に思い出がよみがえってくる。
「ねぇ、お父さん、覚えていますか」と、後ろの父に話しかけて歩を進める。
小さい頃、父に手を引かれてこの道を歩いたこと。畦道で追いかけっこをして、二人で転げ落ちて泥だらけで帰ったこと。
晴天続きの真夏には、暑い暑いと文句を垂れながら、二人で隣村に買い物に行った。志乃は日焼けをしなかったのに、誠一郎は真っ黒に焼けてしまって、大笑いしたっけ。
そして、山麓の墓地に眠る母の元へ、二人で花を抱えてお参りに行ったこと。
土砂に埋もれて行方がわからなくなった母は、家の墓に入ることが叶わなかったのだと聞いていた。けれど、それでも、父は花を絶やしたことがなかった。
隣を歩く父の横顔は、まだ母に惚れ込んでいるように見えて、なんだかこそばゆかった。
「お父さんは、今でもお母さんのことが好きだったりするの?」
父と母は見合いで出会った仲だが、父の様子を見る限り、確かな愛があったように思える。父は恥ずかしがって、あまり語ってはくれなかったけれど。
「わたしも二人みたいになれたらよかったのだけど……ごめんなさいね」
父からの返事はない。
何を話しても、返ってくるのは静寂だけだった。
しばらく歩くうちに、田畑の道の向こうに隣村の家々が見えてきた。
村の中を進んで行くと、そのうちに町屋が連なる区画へと至る。ここは田舎ながら栄えていて、商家で賑わっている。
活気があるのは良いことだが、今の志乃には居たたまれない雰囲気だ。多くの人が行き交う往来を、亡骸を引いて歩いていかなければならない。冷ややかな視線は避けられないだろう。
かといって裏道は幅が狭く、入り組んでいて荷車を引きにくい。少しでも体力を温存するため、歩きやすい大通りを通過するのが一番だ。
せめて端っこを、と荷車を寄せて歩いていたのだが、やはり人々の好奇の目を浴びることになってしまった。
「なんだいあれ? 娘っこが一人で荷車を引いて」
「隣の村の地主さんとこの子じゃないか?」
「何を載せてるんだ? 着物がかかっているけど、まさか……」
「嫌だねぇ、こんな真昼間に……。どこに持って行く気だか」
遠巻きにしている野次馬たちのざわめき声が耳に届く。聞かないように俯いて歩いていたが、ふいに知った声がして、顔を上げてしまった。
「志乃さん!? 一体何をして……」
声をかけてきたのは平馬だった。
山畠家は町場から少し奥にいったところにある。まさか会うことはないだろうと思っていたが、ちょうど彼が出歩いているところに通りがかってしまったみたいだ。
平馬は荷車に乗っているものに察しがついたようで、顔をしかめて後退った。
「まさか、その荷物……」
「お察しの通りです。道をあけていただけますか」
「そ、そんなものを人前に引いてくるなんて……何を考えているんだ。やっぱり君はトキ子ちゃんが言っていたように、無神経な人なんだな。婚約相手を変えてよかったよ……」
家族には反対されたけど……僕は間違っていないはずだ、と、平馬はぶつぶつと呟いていた。
亡骸を引いて人通りの多い道を歩むなど、不躾は百も承知だ。無神経だと言われても反論できない。しかも、仮にも地主家の娘が、使用人の手伝いもなく一人で引いているという異様な状況。
(どう考えてもおかしいことなのに、『どうしたの?』の一言もないのですね)
自分がもし、この状況の知人を前にしたら、まず何があったのか問いかけると思う。それが人情というものだろう。けれど、平馬にはそういう情は微塵もないようだった。
まだもごもごと何かを言っている平馬の横を通り抜けて、前へ進む。
(わたしも、あなたと結婚しなくてよかったかもしれない)
思わず、そんなことを思ってしまった。
すべてが後の祭りとなった今だからこそ、平馬との関係を冷静に振り返ることができた。彼と結婚できていたとしても、豊原家は安泰とはいかなかったかもしれない。いや、きっとそうに違いない。
少なくとも、志乃の両親のように、仲睦まじい夫婦にはなれなかっただろう。
「……失礼しますね」
「村を迂回してくれよ。まったく、嫌なものを見せられたな」
平馬の冷めた視線に見送られ、町場の通りを抜けていく。
刺さる視線の痛みをやり過ごすため、現実逃避に、両親との思い出へと思いを馳せた。
この町場通りには、母との思い出も残っている。
母、千代は志乃が五歳の頃に亡くなっていて、顔はもう鮮明には思い出せない。けれど、柔らかな雰囲気だけは心の中に残っている。
町場の祭りの帰り道、父の逞しい腕に抱かれながら、隣を歩く母の鼻歌を聴いていた思い出。
何の心配も不安もない、幸せだった頃を思いながら、亡骸を引いていく。
汗なのか涙なのかわからないけれど、頬が濡れている感じがした。




