3 誠一郎の遺言書
父、誠一郎が世を去った。
亡骸の傍らでぼうっと放心しているうちに、朝日が室内を照らしていた。
志乃はおもむろに立ち上がり、隣の部屋からさらし木綿を持ってきて、誠一郎の顔にかけた。
「……遺言書と、手紙と、お金……」
――遺言書を弥次郎に渡し、手紙は知人に届けるように。そして金は、志乃の懐へ――。
父の最後の言葉通り、志乃は金の入った巾着を着物の合わせの奥に押し込んだ。手紙も帯に挟んでしまっておく。
二、三度、深く呼吸をして、もう一度、父の亡骸に目を落とす。肩をそっと撫でてから立ち上がった。
遺言書を両手で強く握りしめ、部屋を後にした。
(あの人たちの前では泣かないようにしよう)
母屋へと向かいながら、志乃は密かに誓いを立てた。涙を見せたら、きっと弥次郎たちは勝った気になって、図に乗るに違いない。父の死を待ちわびていたあの人たちを、決して喜ばせるものか。
そう心に決めたものの、座敷に繋がる襖を開けようとした手は震えていた。
「おはようございます。お食事中に失礼します」
座敷では弥次郎とシズとトキ子が朝食をとっていた。一家団欒といった様子で、傍から見たら微笑ましい光景だ。けれど、志乃が入ってきた途端に、空気は冷えたものへと変わった。
入り口で膝をつき、志乃は淡々とした声音で伝えた。
「父が亡くなりました」
そう告げた瞬間、弥次郎は隠しもせずに弾んだ声を上げた。
「ようやく逝ったか! まったく、往生際の悪い男め」
「ご愁傷のほど、お察しいたします」
シズは澄ました顔で決まり文句を口にしたが、袖で隠している口元はニヤついている。
トキ子はツンと唇を尖らせて不貞腐れていた。
「わざわざご飯の最中に言うことないでしょうに。食欲がなくなっちゃったわ」
「ごめんなさい。でも、大切なことだから、皆さんが集まっている今、報告するのが一番だと思ったの。遺言書の内容は皆で聞くべきだと思って」
遺言書、という単語を出すと、弥次郎が身を乗り出してきた。彼に封書を手渡す。
「弥次郎叔父さん、これを。父からです」
「兄貴の奴、死にかけだったくせに、しっかりこんな物を用意してたのか」
どれどれ、と封書を破り、彼は内容を読み上げ始めた。
「一つ、豊原誠一郎亡き後は、家督を弥次郎に譲ること。だとよ! なんだ兄貴の奴、わかってるじゃないか」
「二つ、志乃は豊原家に居残ることを禁ずる。本家の長子としての身分はトキ子へ譲ること。ははっ、聞いたか志乃。実の父親から梯子を外されたな。トキ子は胸を張っていいぞ! 豊原家の未来を担うのはお前だ!」
名前が出てきたのに、トキ子は姿勢を正すこともなく、米を頬張っている。「まぁ、当然でしょう」とでも言いたげな流し目を寄越したが、志乃は視線を合わせなかった。
背筋を伸ばして聞いているのは志乃だけで、シズもトキ子も食事を続けていた。父の遺言が取るに足らないものだと態度で示されているようで、悔しさと悲しみが胸を重くする。
「いずれも、誠一郎の死後、一ヶ月後より効力を持つものとする。それから、ええと、他には……細かいことばかり書いてやがるな。最後まで面倒臭い性格をしおって」
ぶつぶつと文句を言いながら、弥次郎は文面を追っている。
その間、志乃は目を閉じて、遺言の内容を噛み締めていた。
(お父さんの本当の想いとは真逆の遺言……。こんなことを書かせてしまってごめんなさい……)
弥次郎に家督を譲ること。志乃は豊原家に残らずに出ていくこと。――こんなこと、本当は書き残したくなかったに違いない。
父は生前、理想の未来を語っていた。
「志乃にはとびきり良い婿を見繕ってやるんだ」と。
「お前が旦那と仲睦まじく、豊原家を切り盛りしていくのを見守りながら、年老いていきたい」と。
日差しのような屈託のない笑顔を浮かべて、父は明るい未来像を口にしていた。
だというのに、何一つ、叶えてあげられなかった……。
その上、最後まで、志乃は父に守られる形になった。最後の最後まで、労をかけてしまった。
誠一郎は、弥次郎を刺激せず、穏便に志乃を家から逃がすための遺言を書いたのだ。豊原家の未来を見限って、志乃を守ることに重きを置いた。それが、この遺言書の真意だろう。
(猶予は一ヶ月……。その間に、身の振り方を考えなければ)
遺言の効力は一ヶ月後から発生するとのこと。せっかちな弥次郎の我慢が効く限界の期間であり、家を離れる志乃への猶予でもある。
父が密かに分けてくれた遺産を上手く使って、どうにか新たな居場所を見つけ出さないといけない。
けれど、「できるだろうか……」という不安が胸に募る。将来はこの家を継いで、ここで老いて死んでいくのだと信じて疑わずに生きてきたのに。今更、他所へ行くことになるなんて……。
頭が真っ白だ。が、遺言書の続きに、さらなる追い打ちをかけられることになった。
「誠一郎の亡骸は竜胆家に預け入れること。と、最後に書いてある」
「竜胆家……!?」
突然出てきた家の名前に驚愕した。志乃だけでなく、これには弥次郎とシズ、トキ子まで目を丸くしていた。
「竜胆家って……あの、人食い鬼屋敷の竜胆家? ですか?」
志乃は思わず身を乗り出して、弥次郎の手元を覗き込んでしまった。悪い冗談かと思って確認したのだ。
竜胆家とは、二つ隣の村端にある大屋敷に住まう一族だ。
以前、父から聞いた話だが――ちょうど志乃が生まれた頃に、西の旧都から移り住んできた一族だそう。この大屋敷の他に、都にも邸宅を構えていると噂されている。とにかく、大変な資産家であるようだ。
そして、酷く悪名高い家でもある。
それというのも、この家は近隣の村々から、時折遺体を運び込んでいるそうなのだ。葬儀を生業にしている風でもないのに、一体なぜ……と、人々は常々、訝しんでいる。
「もしかして、屍を食らっているのではないか」「鬼が住んでいるに違いない」などという話が、まことしやかに囁かれるほど、この家は謎めいている。
そんな噂に焚きつけられて、好奇心に駆られた男が屋敷に忍び込んだことがあったそうだ。その男曰く「本当に鬼がいた。見てはいけないモノを見てしまった」とのこと。
男はその後、物陰を見ては悲鳴を上げ、何かに怯えるようになったとか。そうしてついには心を病んで、身投げした、と伝え聞く。
その後も血気盛んな若者たちが、鬼を確かめようと何人か忍び込んだらしいが、戻ってきた者は揃って、「何があったか覚えていない」と呆けていたとか。
皆、一言一句同じように「覚えていない」とだけ口にするものだから、人々はますます気味悪がって、もはや近づく者はいない。
「竜胆家とは関わらない」というのが、この辺りの村々での暗黙の了解となっている。
遺体を預けると、いくらか謝礼をもらえるという話もあり、貧しい家や図太い小銭稼ぎやらは出入りがあるとも聞くが……そんな連中も含めて、忌み避けられているのが竜胆家だ。
(そんな家に、亡骸を預けると……?)
にわかには信じられなくて、志乃は弥次郎の手から遺言書を取り、凝視した。字は震えて歪んでいたが、確かに父の筆跡でそう書かれていた。
『叶うのならば、どうか、頼む』と、切々と綴られていて、ただならぬ想いが感じ取れた。
「お父さん、どうして……?」
「兄貴の奴、病が頭にまでまわっていたみたいだな」
弥次郎は馬鹿にして笑っていたが、志乃は父の意図をくみ取ろうと、何度も文面に目を走らせた。
(葬儀代を浮かそうという計らいかしら。でも、だからといって、こんなおぞましい家の世話になろうなんて……)
そう考えたところで、はたと気が付いた。そういえば、知人宛ての手紙とやらの宛名も、確か――。
帯に挟んでおいた封書を確認しようとしたが、取り出す前に、弥次郎に思い切り肩を叩かれた。
「いかれた親父を持って、お前も不幸だなぁ。まぁ、それでも遺言は遺言だ。どんな妄言でも、故人の意図した通りにするべきだろう。志乃、お前が竜胆家に行ってこい。最後の親孝行の機会だ。よかったな!」
弥次郎がわざとらしくおどけて言うと、シズとトキ子も堪えきれずに吹き出した。
「ふふっ、志乃さんたら、まさか父親の亡骸を鬼の餌にしに行くの?」
「鶏にミミズをあげるんじゃないんだから、ねぇ?」
「こらっ、二人とも、そんな軽い調子で言うんじゃない。不謹慎だぞ。ふはははっ」
三人は顔を見合わせて笑い合い、肩を震わせている。彼らを横目に、志乃は立ち上がって襖に手をかけた。
「行って参ります」
どういう理由があるのかはわからない。でも、父が最後にそう願ったのならば、その通りにしたいと思った。望む未来を、理想を、想いを、何も叶えてあげられなかったのだから、せめてこの一つだけは、彼が望む通りにしてあげたいと思った。
「父を竜胆家へ連れていきます。荷車をお借りしますね」
小さく頭を下げて座敷を出た。
廊下の端で帯に挟んでいた封書を取り出し、宛名を確認する。
遺言書もそうだったが、字は酷く歪んでいて、読み解くのが難しい部分がある。自由の効かなくなった体で、必死に書き上げたのだろう。
「やっぱり『竜胆』って書かれているわ。竜胆……紫紺、様?」
名前が二つ連ねられていたが、一つは読めない。読み解けた方の名は、紫紺と書かれていた。
竜胆紫紺、これは人食い鬼の名前なのだろうか。
首元に冷や汗が流れたが、志乃は覚悟を決めて動き出した。




